人間という動物には、どうも、信じたいことを信じるという特性があるらしい。真実かどうかはどうでも良く、自分に都合の良いことを信じる傾向が、確かに、ある。学問の進歩によって真実が多々明らかになってきているのに、占星術は立派に生き延びているのだから、C. B. クレイソンが指摘しているように、占星術は人間が盲信する存在であることを示す4000年来の記念碑と言えるようだ。
それに、人間の群れるという特性にも占星術は適っている。日本のように宗教色の薄いところでは、宗教で帰属本能を満たすことはできないから、代りに占星術、という要素もあるのではなかろうか。たとえば「あなたはおうし座です」と言われると、その本能が満たされる。しかし、贅沢な人間は、その一方で、自分らしさのようなものも求めるが、それには誕生時の時刻と場所という他人とは共有し得ない要素で占うことで回避してきたし、ふたごの問題にはきちんと答えが用意されているという次第である。
誕生日占星術には、また、現実を素直に受け入れるという要素もあるかも知れない。自分の力では何ともしようのない出自にこだわらず、現実を直視し、それに対峙していく手立てともなるのではなかろうか。
こうした点を見れば、人間が変らない以上、占星術はなくならないし、占星術が生まれたのは必然だったとも言えそうだ。
第一部は、遊牧民がメソポタミアの下流に定住し始めた頃から、ヘレニズム文化のエジプト・プトレマイオス王朝までをとりあげる。西洋占星術はほぼ全部、この時代の書物に基づいているのは驚きだ。プトレマイオス王朝までの3000年ほどの間に天界は悠久不変の姿を見せていた。惑星は5つのままだったし、日月は同じように食をくり返していたから、「新しく天王星が見つかった!ホロスコープの解釈はどうしよう」などと考える必要はなかった。つまり、盤石な基礎の上に占星術は立っていた。ここでは、古代の占星術の体系がどのように発展して行ったかを示しながら、古代からヘレニズム時代までの占星術の発展をたどる。
第二部では、占星術の枠組みに潜む欠陥により、間違いや食い違いがどのようにして現れ、問題になっているかを示すが、スチュアートの独善的な見方が強いので極く簡単に済まそうと思う。
メソポタミアの文献と言えば粘土板に線刻されたキュニフォームの楔形文字である。メソポタミアの歴史は古いから楔形文字にもいろいろな種類があるらしい。その一つでも、とは思うものの、この究極の外国語に立ち向かう元気も時間もない。でも、読めたら楽しいだろうなあとは思う。「本ページに触発されて楔形文字に挑戦しています」なんて人が出てくることを期待して本文に入っていこう。
福島 憲人 p.2
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