占星術への道-誕生史、星見の作法

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<15> 3章 新バビロニア時代(紀元前600-300年頃)/カルデアの占星術/カルデアの占星術師

2021-03-13 09:39:24 | 占星術への道-西洋占星術の誕生史

カルデア:メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称

カルデアの占星術 

 ナボポラザールNabopolassarの下で、新バビロニアすなわちカルデア人の時代が始まった。カルデアという言葉は、アッシリアのカルデゥ(Kaldu)から来たもので、南メソポタミアを意味しており、カルデア人という言葉は、文学や、天文学、占星術などを学んだバビロニアの学者や聖職者たちを指すためにギリシャ人が使ったものである。その後に登場したバビロニアの占星術師はマギと呼ばれており、一種の魔術師であった。

 歴史上のカルデア人(ペルシャ湾近くの南バビロニアに住んでいたメソポタミア人)と、動物の内臓や天体現象から得られたオーメンを基に予言をしていたベル・マルデュックの聖職者を区別しておくことが大事である。カルデアの聖職者たちの時代はおよそ紀元前6世紀から西暦2世紀までである。ホロスコープを最初に作成したのがカルデアの聖職者たちだった。

 ギリシャの地理学者ストラボン(紀元前63年~紀元19年)は自著「地理学」にカルデア人について次のように書いている。

 バビロンでは、その多くが天文学に関係しているカルデア人と呼ばれているその地域の哲学者がいて、彼らのために特別に居留地が定められている。しかし、中には、一般に承認されていないが、誕生日占いをする占星家であると公言している者もいる。アラビアやペルシア海の近隣にもカルデア人の部族がいるし、彼らが居住していた領地もある...たとえば、オルケノイOrchenoiとかボルシッペノイBorsippenoiとか呼ばれる者たち他にも別の名前の者たちもいて、派閥に分かれては、同じ課題についていろいろな教義を持ち出して議論している。そして、たとえばキデナスKidenasやナブラノスNaburanosやスディネスSudinesのような何人かのこうした人物について言及している数学者もいる。セレウキアのセレウコスもカルデア人である。

 

カルデアの占星術師

 キディヌKiddinu(時々キデナス、シデナスと言われることもある Kidinnu、Kidenas、Cidenasと綴られることもある。紀元前340年頃)は、バグダッド南西のユーフラテス川に沿ったシッパルで活動していたバビロニアの天文学者/占星術師であった。キディヌKiddinuは、正確な食の周期を示したり、一般にはヒッパルコスの功績とされる歳差運動の発見にための舞台を整えるなど、月やその他の天体の周期を系統的かつ正確に描き出した。

 キプロスからアテネへやって来たギリシャの哲学者であるキチオンCitiumのゼノン(前333-262頃)は、宿命論と予定説を教義の中心とするストア哲学と呼ばれる哲学の一派を打ち立てた。ストア哲学は、その後、ヘレニズム/ローマ時代になると占星術をさらに支援するようになった。

 ベル(あるいはマルデュック)のバビロニア人聖職者であるベロッソスBerossusは、紀元前275年頃、医学校で有名だったギリシャのコス島にやってきた。ベロッソスBerossusは有能な歴史家で、バビロニアの歴史および文化についてギリシャ語(the Babyloniaca, or Chaldaica) (バビロニア語、およびカルデア語)で3冊の本を書いた。さらに、彼は天文学/占星術の学校を設立した。キディヌKiddinuの資料を使って、ギリシャ人にバビロニアの天文学/占星術を伝える手助けをした。ベロッソスBerossusの2人の弟子であるアンティパトラスAntipatrusとアキノポラスAchinopoulus(およそ紀元前258年)が、ホロスコープに受胎日を使った。

 スディネスSudines(紀元前220年頃)は、カルデア人の占い師で、コス島からそう遠くないペルガムムのアッタロスI世Attalos 1の宮廷付き占星術師だった。彼はさらに宝石についての権威でもあった。

 アレクサンドロス大王の死後、バビロンや他のカルデア人の都市は宗教の中心地になった。オーメンの報告は、紀元1世紀のパルティア後期まで、数世紀にわたって続けられた。動物の肝臓や内臓を調べる占いは規則的に行なわれていた。

福島憲人・有吉かおり

 



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