またまたお久しぶりになってしまった不定期なMy Dear Goo Blogです。
本日は関東大震災の日です。
東京の下町に生まれ育つ私には忘れてはいけない郷土史ですが、
ふと気がつくと震災の大悲劇を口頭伝承された地元の人たちは大半が亡くなり、
今では都心に近いため乱立する地元のマンション群にお住まいの人たちはまったくの余所から人たちばかりのようです。
明治大正昭和の初めは東京市にありがちな近郊工業時でしたが、震災と大空襲を経て現在は住宅地となり、病院やスーパーなど生活インフラは大変便利な地域です。
ただし、ゼロメートル地帯であり、密集地域ではあるので、それなりの大きな危険性と同居はしています。
今年、時間の余裕のある際に、郷土史に興味を持ってあれこれ調べると、どうしても震災と大空襲にぶつかってしまいます。
我が家の家業は木材問屋でした。
元来は日本橋伝馬町で金箔問屋を営んでいたそうですが、川向こう(隅田川)の本所深川の地で林業(秩父に山林あり)を営み、
曾祖父の明治の代に銀座線建設に資材を納入し、近隣の土地を次々に買い、「家作」業(現在の不動産賃貸)も営み、大変な財をなしたと聞いています。
貴族院議員でもあった曾祖父は 木材業の他にも銀行や映画館も持っていたという明治の頃の話も聞きました。
さて、ここからが本題で、この話は大昔に大伯母から聞いた話です。
9月1日の昼頃に井戸の近くでゆで卵を食べていたら、関東大震災が起こったというのです。
当時の本所深川の運輸は「船」が主流でしたので、一族郎党、船で成田に避難したと聞きました。
なぜ成田?
どうもそちらにもビジネスのつながりがあり、土地があったとの事を後天的に知りました。新勝寺の講元もやっていました。
それにしても、何カ所からも火が出て、あっという間に燃え広がり、1日で10万人も亡くなるような地域でしたのに、どのような迅速さで逃げたのでしょう?
私が思うに、当時のそれなりの商家では、それなりのリスク管理対策がなされていたのでは?と想像します。
関東大震災の頃にはまだ、江戸の安政の大地震を生き抜いた古老の話などが拾えます。
地震の前に相模湾で大量の魚が打ち上がったとか、井戸が涸れたとか。
ご先祖たちは それなりの初動避難をしたのだと思われます。
そんな関東大震災を船で逃げることが出来ず、地面で逃げた人たちはどうなったのでしょう?
今年読んだ書物によりますと作者が門前仲町の食堂で昼食を取っていると、まず「ドーン」という突き上げの直下型地震が来て、向かいの家屋が一斉に倒壊してぺしゃんこになったそうで
その後の多発火災の発生と、火災旋風、逃げ場の無い猛火地獄で人々は右往左往し、地面や河川で大変な九死に一生を得て生き残ったそうです。
震災も空襲も、人の生死を分けるものは何なのでしょうか?いろいろな本を読んでも、「運」としか言いようがありません。
さて「土地の運」というのがあるのでしょうか?それとも、その地形からその運を呼び込んでいるのでしょうか?
私の知る関東大震災で焼けなかった場所
①神田和泉町ー住民のリレー消火で奇跡的に?人力で?焼けなかった場所
私の好きな戦国大名の「藤堂高虎」和泉守のお屋敷のあった後裔の地域
ここの南に佐久間町を超して河川もありますが、完全に内陸?どのように消火したのでしょうか?但し、空襲時には被災
②浅草寺
こちらも大変な人口密集地にある歓楽街の場所ですが、寺の境内には10万人もの避難民が押し寄せて、寺の周囲全てに火が回り包囲される中
どこからともなく四方八方から浅草寺に突風が吹き付け、猛火を寄せ付けなかった。
それを避難民10万人が、固唾を飲んで見守り、観音様にひれ伏して拝んで乗り越えた。
但し、空襲時には被災。その折りは寺院の地下に観音様を避難させて埋めていたそう。
③清澄庭園
深川の人は「岩崎様で助かった」という。岩崎弥太郎の大きな庭園の真ん中に大きな池あり。
④本所横網町の安田庭園外の東側の一角
これは本当に不思議。震災でも空襲でも焼けなかった一角
確かに、西面に安田庭園の樹林があるものの、斜め前にこの時、(10万人中)3万8千人も避難民が無くなった本所被服廠がある
火災の飛び火が隅田川を渡るくらいなのに、まさに神がかりの一角
⑤牛嶋神社の東側の一角 向島1丁目5の一角
これまた不思議な④と同じ理由からか?震災でも空襲でも焼けなかった神がかりの一角
⑥新大橋(日本橋浜町←→本所千歳・深川に架橋)
その当時、隅田川にかかる5大橋の一つで、この橋だけ落ちず燃えず橋上の避難民が助かった
新大橋西詰めに競馬の有馬記念創始者の有馬伯爵が地元の人々と災害を忘れないように残された巨大な石碑あり
それによると震災の猛火に追われて西は浜町から東は深川から橋の上に逃げてきた避難民に両サイドから火災が迫る中
久松警察の警官が、嫌がって泣き叫ぶ避難民の火のつく恐れのある大八車や家財荷物を全て川に捨てさせたとのこと
橋上に、人々とともに避難してこられた水天宮様・小網神社・玄治店橘稲荷神社のご神体を、人々がひれ伏して拝んだとのこと
石碑には神様の加護と人智によるものと書いてあったと思います。
これらは100年前のことではありますが、やはり運の他に神仏のご加護もあるのでしょうか
震災とは関係ないのですが、昭和の時代に戦後28年も終戦を知らずにグアム島で生存された横井庄一さんについて思い出しました。
小野田寛郎さんと違い、かなり初期の頃から「たった一人」であったそうですが、帰国後なぜ一人で生き残れたか医療チームが調査した結果
①ある程度の大人であったこと ②素質的に要求水準が低く ③素朴な宗教心があったこと
危機的状況で生き残るには、何かが複合的にあるのだと感じます。
さて 防災のストック食料で困っていること
何日も野菜がとれない場合、以前は市販の防災野菜スープを備えていましたが
食べてみると、味は濃いやら、野菜と思い無いやらで なんだかNG
「乾燥野菜」ってどうなんでしょうね。。
と、迷っている内に、今年も9月1日が過ぎようとしています。
関東大震災で曾祖父の資産は、土地以外、家屋敷、木材資材、家作すべてが灰燼に帰しました。
それでも何とか曾祖父は20年掛けて再興させたそうですが、東京大空襲で、ふたたび全てが焼けた後、二度と立ち上がれなかったとのことでした
追記
たまたま訪れたオランダのアムステルダムの「ゴッホ美術館」で、ゴッホの描いた新大橋の絵と漢字を見たときには本当にびっくりしました!
※英語圏では、ゴッホの事を ヴァン・ゴーと言います。おまけ
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