退院して四日目です。元気です
採血結果に問題なく、予定通り10時に退院し、自宅に久々帰還
どんなに狭く、散らかっていても我が家が一番ですね
荷物の片付けと洗濯をしてゴソゴソしてたらもうお昼でした
じぃっとしてるのも勿体ないので、お昼を食べてから、資料館巡りに🚙
入院中は、ほぼ病室から出ることがなかったので下肢筋力が落ちたと思います。これから、徐々に回復です
参加者:私と夫の2人
「三木鉄道資料館」に行きました。
ここは旧三木鉄道三木線をジョギング散策したときもずっとコロナで閉館してたので入ったことがありません。
廃線となったJR厄神駅⇔旧三木駅間6.6kmのうち、約4.8kmの旧下石野駅⇔旧三木駅間は「別所ゆめ街道」という名で遊歩道が整備されています。
未整備の下石野駅から厄神駅までの間がどんなふうだったかに興味があり、ちょうどビデオが流れてるので座って見ました
下石野駅から、次の宗佐駅までは三木市と加古川市の境なので少しこんもりとした山があって、
登り坂で県道84号を潜って走ってました🚞
宗佐駅
国包駅
JR厄神駅
今も三木線が入っていたホームは残っています。が、もう車両が入ってくることはないのでビデオの画面を撮っておきました
JR厄神駅
今も三木線が入っていたホームは残っています。が、もう車両が入ってくることはないのでビデオの画面を撮っておきました
ここで、一枚のポスターに目が行き、「みき歴史資料館」へ🚙
「三木飛行場の記憶」展がこの土曜日に始まったところでした。前回ここに来たときはフロアの一角だけでしたがこの度は2階フロア全部に展示されていました。
当時の写真やゆかりの資料が多数あります。
当時の写真やゆかりの資料が多数あります。
すぐ近くには「鶉野飛行場跡」があります。遺構も多数あり、長さ1200m、幅60mの滑走路も残っています。
以前、新井用水散策したときに、車を停めた浜の宮公園近くにも「尾上飛行場」があったと知りました。
西日本には当時こんなにたくさんの飛行場があったようです
九州地方には集中してたくさんの飛行場があります。太平洋戦争の最前線である沖縄、本土の最南端九州、鹿児島。
この近くでは加西市、加古川市、三木市に3つあったようです。
今いる、三木市の「三木飛行場」跡の地図をマジマジ見てみると
「ハッ」として、思い出しました
「ハッ」として、思い出しました
私:「ここって、走ったことあるやんなぁ」
去年、稲美町をジョギング散策してるときに、山を超えたら三木市に入って…という…
↓一瞬、この日記に出てきます。
地図を見て、「絶対あそこ」と二人で確信して確認へ。
車に乗って現地へ🚙
もちろん滑走路はなく、遺構も陸軍の杭が多数ある以外、少し残る程度で現在は畑と工場になっているとあります
確かに、そうでした❗
確かに、そうでした❗
村の中にある坂を上ると突如、平坦な、だだっ広い土地が広がって、田畑と工場と真っ直ぐな道があるだけ
この地形は、南を流れている草谷川の河岸段丘と思われ、
「なんやここは」という違和感のある土地でしたが、飛行場跡と言われると納得できます。
河岸段丘を上がり切ると広大な土地が目の前に広がります
そこにどこまでも続く真っすぐな道が印象的で
やはりコレ↑↓が三木飛行場の2000mの滑走路跡ですこの真っ直ぐな道だけが唯一よく分かる飛行場の面影と言えます。(他にもこちょこちょと残っているようですが…)
当時の3本の滑走路は、未舗装で学徒動員で多くの人が建設に携わったそうです。
これと「南北滑走路」とが交差している部分は現在、「中央池」というため池になってて、上ってみます
これと「南北滑走路」とが交差している部分は現在、「中央池」というため池になってて、上ってみます
ソーラーパネルがたくさん浮いてました
南北滑走路のあった方向を見ましたが田んぼと工場の建物が建ってました🏭
終戦を迎え、ここは米軍に占拠され、その後、荒廃した土地を入植者たちで農耕地へと開拓されていったようです。
点と点がつながったような気分です。
昔のことを何も知らない私達にこういった企画展を開催してもらえることで身近に少し歴史に触れることができました。
退院後の体にはほぼ歩かない散策で勉強も出来たし、一石二鳥でした