まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

タイル旅金門島 水頭再訪

2020-07-10 16:10:03 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾金門島の続き。



電動自行車を借りたら、日暮れまで水頭のタイル民居めぐりへGO!前回、カメラの設定を失敗したので・・・撮り直しに(苦笑)


・・・と言ってももう薄暮でちょっと暗い(汗)


水頭集落は普通に住民が住んでいるが、日本で言う伝建地区のような感じで、金門島観光のメインスポットのひとつで
洋楼やタイルのある民居はマップに載っていて、民宿になっているところも多い。
こちらは、黄廷参大厝。


とてもゴージャスで状態も素晴らしい。


こちらはマップに載っていないが、タイルが貼られた四合院民居。


美しく跳ね上がった燕尾と、窓上のタイル。いろんなデザインを取り混ぜて賑やかに。
縞模様の入ったレンガと磚(レンガ色の薄板)のパターンも美しい。


ピンク色を基調にまとまっているな!


入口まわりは絵付けタイルと彩絵などで飾られている。見るからにめでたい絵だな!左右に吊るされた提灯も定番。


絵付けタイルも古いものは、ベースの白無地タイルは日本製で、台湾で絵付けされている。



こちらの黄朝賓宅は以前から変わらず空き家のようだが、外からでもよく見える。




ここで特徴的なのはピンク~パープルのグラデーションがラブリーなこのタイル。他ではあまり見かけない。
これに濃いグリーンを合わせることでピンクが際立っているな!




台湾で使われているマジョリカタイルはほとんどが日本製である。
とても多くの色、柄があるが、多種のタイルを組み合わせても統一感が出てすんなりおさまるのが不思議。
いや、これは台湾人のコーディネイトのセンスによるのかも。日本人なら無地を挟みたくなるところだろう(笑)


適切に管理され、美しいまま保たれることを願う。


前に見せてもらった家にもう一度見に行く。こちらは一般のお宅なので非公開。
現在は家の内部だがもとは外に面していたはずで、入口のドアまわりにものすごく豪華にタイルを貼りめぐらせている。


果物柄は一枚貼られていても「おおっ♪」と目を惹く特別感がある。その果物柄が、惜しみなくびっしりと貼られている!!
その周囲には盛りカゴ柄のタイルも。何て太っ腹・・・
柄によるタイルの値段の違いがあったのかどうかは分からないが。。。


頭上の梁に横一列にタイルが貼られている。


ヨット柄のタイルはまたレアだな!他であまり見かけないということは、施主の要望があって探してきたものと想像する。
5枚だけだが中央に貼られていることから、こちらの家は海運など船に関わる仕事をされていたのかも・・・?
やはりオリジナリティを出したいという思いはあっただろう。


前回泊まった宿「鳳毛麟趾」をもう一度見に行こう。ここは蔡開盛宅という大きな邸宅を民宿にしたところで、
民宿の中でも高級な部類。


前回は2連泊してお世話になったが、今回はフットワーク重視で金城のまちなかに泊まっているので、
ここのオーナーのおっちゃんに会ったらちょっと申し訳ないな・・・と思っていたら、おっちゃんが出てきたので
「去年泊まったんだけどまたタイルを見に来た」と言うと、覚えていてくれたようだ。


中も見て行け、とドアを開けてくれ、素晴らしい建物やタイルをゆっくり見せてもらいながら、今の宿との違いに苦笑。。。
いや、もちろん料金によるわけで。今の宿はリーズナブルな割に便利な立地だし、十分快適ですよ(笑)


古い民居を民宿にすることは、政府が推進していると思われる。民宿として登録することで何らかの補助や減税などがあるのだろう。
空き家になると一気に建物は朽ちて行く。保全しながらこうやって使っていくのはとてもいいことだな。
しかしそれもお客さんがコンスタントに来てくれればの話である。。。


おっちゃんのgoogle翻訳でいろいろ会話、最近人気のインスタ映えスポットに連れて行ってくれるという(笑)


ライトアップされた得月楼へやってきた。前の広場にある石のテーブルの上にカメラを置いて撮ったら、
ほんとに幻想的な写真が撮れた!(笑)
龍眼の実がたわわについた枝を折ってもらって、ごきげんで宿へ戻る。


前回の金門島の旅の記事

続く
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タイル旅金門島 金城の夕散歩 続き

2020-07-07 23:53:14 | 建物・まちなみ
2019年9月の台湾金門島の続き。



陳詩吟洋楼の裏側を見ようとしてたまたま覗き込んだ裏路地に、マジョリカタイル発見!!うひょ~~~
幅2間半ほどのレンガ造りのごく小さな町家。入口の両脇の壁と袖壁の内側に、タイルが貼られていた。
レンガとタイル。台湾独特のコンビネーション。


どう見ても空き家ですっかり荒れており、タイルは埃をかぶっていたが、ティッシュで表面の埃を拭き取ると・・・
タイルが貼られた100年前から全く変わらない色、艶!これが焼き物であるタイルの素晴らしさ。


2階の左右の窓の上にも3枚ずつ貼られていた。
初日の散歩で無名のタイル物件を発見できて、幸先がいいな!


金城のまちの網目のような路地を歩く。閩南式民居はどんどん数が減っているが、まだ人が住み美しく保たれているところもある。
手入れの行き届いた民居を発見すると心が躍り、ついつい何枚も写真を撮ってしまう。




レンガと石が混在して積まれた塀。


莒光路の老街の辻に建つ霊済古寺。ここを中心に小さな食べ物屋さんがたくさん集まっていて、朝はとても賑やかな場所だ。


県定古蹟の總兵署へ行ってみたら閉まっていた。まぁ、もう夕方だからな。。路地歩きを続けよう。


模範街は、1923(大正13=民國13)年に作られたバロック風の商店街で、両側合計32軒が連なる。
連続する扁平アーチがリズミカル。車は入ってこないヒューマンスケールの道幅が心地よい。


金門島のガイドには必ず載っている観光スポットだが、もともとは生活のための商店街としてつくられたのであり、
日本の高度成長期と同じ頃、1961(民國50)年頃が最盛期だったらしい。役所も近いため相当賑わったようだ。
その後観光化してきたのだろう、老舗あり、しもたやあり、新しいおしゃれなお店もあり。バランスよく混在している。


そして、その中のお店のひとつ「老街茶舗」のカウンター下に、マジョリカタイル発見!うぉ~~っ!


緑色の雷文のボーダーにぐるりと四方を囲まれた中には、可憐なコマクサのタイル。あぁいいねぇ~~~
新しく貼られたものではなくずっと昔からのもののように見える。
模範街の他の店舗も注意深く見て歩いたが、タイルがあるのはここだけだった。。


手延べの麺専門店。こんな路地裏の小さな店でも、ちゃんと固定のお客がついているのだろうな。
原料を買い、作って、売る。商売の原点。


「将軍第」を見に行く。清朝の末に建てられた建物だけに、タイル以前の伝統的技法、彩絵や木彫や交趾焼、剪黏などで
賑やかに飾られている。日本統治時代に入り、これらに代わるお手軽な装飾としてタイルは大人気を博すのである。


将軍の家と言ってもそれほど華美でなく、普通の民居と大して変わらない。
もともと使われていたという2尺(約60cm)角の巨大な磚が展示されていた。


こちら国定古蹟に指定されている、浯江書院。清朝の1780年に建てられた古い朱子学の学校である。


きれいに改修済みだが、金門観光の定番なので一応見ておく。


あとはまた路地に入り込んでさまよい歩き、古い店を覗き込んだり、美しい民居を惚れ惚れと眺めたり、
道端のオブジェに目を留めたり。




あぁ、ふらふらと歩いているだけで楽しいな!金城(後浦)は金門島ではいちばん大きなまちだけに、雑多で混沌とした
部分もあり、他の小さな集落めぐりとは違った都市的なまち歩きの楽しみがある。


この教会は多分戦後建築だろうがなかなか素敵だな!

9月の金門島は暑いが大阪よりマシ(笑)。いったん宿へ戻り、近所のレンタルバイク屋で電動自行車を借りよう。
24時間単位なので、帰りの飛行機の時間に合わせて借りるのがいい。2回目になるとだいぶ勝手も分かってくる(笑)

続く
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旧平川病院に出会う。

2020-07-03 23:11:02 | 建物・まちなみ
2020年2月の平川家住宅からの続き。


田篭のくどづくり平川家住宅を見学したあと、またくねくね道を戻りながら走っていると、おや、あれは何だ!?


急いで車を停め戻ってみると、道から少し降りて行った川沿いに、下見板張りの洋館が建っていた。
うぉーーっ、こんなところに洋館!?
屋根まわりが何となく和風な印象もあるが、看板建築とか洋館付住宅とかではないという意味で本格的な洋風建築に見える。


ちょっとタダモノではないぞ。。。


入母屋屋根の総二階建ての背高な建物で、正面に出っ張った玄関がついた形だ。
大屋根の破風板の下にはルーバー付きの六角形の通風口がちらりと。鬼瓦にはマークが入っているな。家紋か屋号か?


道路からは約1階分低いところに建ち、反対方向からは裏側に続いている和館しか見えないので、行きしなは気づかなかったのだな。
洋館はペンキ塗りだが和館はナチュラルカラー。


所有者の方がおられたので聞いてみると、1922(大正11)年に建てられた、もと平川病院だという。
平川?平川ってくどづくりの?と思って尋ねたが、直接は関係ないそうだ。
しかしまだ自動車も普及していない大正時代に、山あいの暗い道を歩いてきて、こんな瀟洒な洋館が目の前に現れたら・・・
最先端の医療でどんな病気でも治してもらえると絶大な信頼を寄せるに違いない。医者は今よりずっと特別な存在だったのだろうな。


玄関先をちらっと見せて頂いたのだが、何と驚いたことに玄関は三和土の土間で、その奥は和室だった!
土間は奥行1間半ほど。上がり框などはなく、そこから50cmほど上がっていきなり和室が始まっている。
町家の土間から部屋へ上がるところのような感じかな?
い草の上敷きが敷かれていたのでその下が畳かどうかは不明だが、漆喰壁に長押が回っていて棹縁天井の、ごくごく普通の和室。
もしかすると途中で改修されているのかもしれないが、、、中にいるとここが洋館だとは信じられない。驚いたなぁ!


ただし両翼の部分は洋室のように思われる。左側が診療室だったのではないかな。ま、見ていないので外観からの想像だが。。。


田舎の山道にいきなり現れたザ・洋館。あぁ、見つけられてよかった!
チラッとだけでも中を見せてもらえてラッキーだった。ありがとうございました~~


そのあと日田へ戻りがてら、行徳家住宅も見ていこう。
大分県西部に見られる曲屋形式の民家で、平川家と同じくこちらも国の重要文化財。




行徳家は代々久留米藩主有馬氏に仕えた藩医であり、1939(昭和14)年までここで営業していたとか。
この建物は1842(天保13)年に建てられた。大屋根は茅葺きだが下屋は瓦葺になっている。美しい立ち姿。


式台付きの立派な玄関を持つのはさすが藩医の家だ。


日常の玄関はその隣の障子張りの戸で、中へ入ると踏み込み程度の狭い土間。頭上には籠が吊るされていた。往診用だろう。
そこから奥の台所へと続いている。


復原工事を済ませているので内部はきれい。しかし、やっぱり暗い。。。(苦笑)
医者をしていたときの道具類や行徳家の資料がいろいろ展示されていた。


かまどはここでも板の間にくっついていて、土間に立たずに作業できる。やはり寒いからだろう。


ここも近世の民家なので装飾的な部分といえば組子の欄間と釘隠しぐらいだったが、良材が使われており、
鴨居や柱は面取りされている。


さぁそろそろ車を返しに日田駅へ向かおう。


もともとは、山越えドライブして中津で車を返し、JRで小倉へ戻る計画をしていたのだが、少し前に冷え込んでいたので
山道の凍結が怖くて、山越えせず日田から日田彦山線で帰ることに、直前に変更したのだった。
日田彦山線は風景が好きで何度か乗っているが、2017(平成29)年7月の九州北部豪雨により被害を受け、
今も添田~日田間が運休しており、存続が危ぶまれている。。。
往路、小倉から日田彦山線と一部連絡バスで日田入りするつもりだったのが、新門司港からのフェリー連絡バスが
小倉駅に到着するのが遅れたために、予定の列車に乗れずやむなく博多まわりで来たのだった。
なので、帰りにこのルートを使えるのはリベンジできてむしろよかった。

日田市内の道が混んでいて結構ギリギリになってしまい焦った。。。最後は走ってバス停へ(苦笑)。
日田駅前から乗ったJRの代替バスは、添田駅までほぼ日田彦山線の線路に沿って走る。
魅力的な木造駅舎と炭鉱の香りが残るまちがたくさんある日田彦山線沿線。
石原町呼野、採銅所、香春・・・田川伊田、田川後藤寺・・・大行司、宝珠山、大鶴、夜明。。。
これまでに平成筑豊鉄道も併せて駅舎めぐりや乗り鉄、出張ついでに炭鉱の名残に浸ったりと、このあたり結構来ている。
(書いていない旅も多い・・・悔)
それだけに、鉄道のままの復活を願っているのだが・・・


バスは運休区間の彦山駅にも立ち寄った。線路も、朽ち果ててしまわないうちに、復活してほしいが。。。
鉄道は維持に莫大な費用がかかるだけに、一度廃止されたらもうほぼ永久に復活することはないのだ。


添田駅に到着。バスで通ってきたまちの中にいくつか気になる建物があった。また来ないと。


待機していた国鉄顔の気動車に乗りかえ、日田彦山線の車窓風景を楽しみながら小倉へ戻り、行きと同じ阪九フェリー
「2等指定A」の個室で船旅を満喫したのだった。

あぁ今回も、行く先々で親切で気さくな人たちに出会い、素晴らしいものをたくさん見ることができ、充実した旅だったなぁ!
本当に、日本は素晴らしい!!

おわり。
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くどづくり平川家住宅

2020-07-02 23:04:18 | 建物・まちなみ
2020年2月のうきはの続き。

平川家は、小さな集落に入る橋のそばにあった。
リーフレットの写真では葺き替えたばかりの茅葺き屋根が黄金色だったが、現在はすっかり落ち着いた色になって
風景の中に溶け込んでいた。
大きな3連の屋根は、わずかにふっくらとした丸みを帯び、軒先はシャープに切りそろえられている。


観光地のように開放的な雰囲気ではなく人の家の敷地に入っている感が強いが・・・
さっき河北さんが所有者の平川さんに連絡して下さり、じきじきにご承諾頂いていたので助かった。
そうでなければ、こんな田舎の集落で絶対怪しまれそうで敷地内に入る勇気がなかっただろう(苦笑)。


国指定重要文化財であるこの平川家住宅は18世紀後期に建てられたと考えられており、数度の増改築を経ている。
1981(昭和56)年と2007(平成19)年に修理事業が行われた。リーフレットの写真は2007年の修理の直後だろう。
さすがにここにはもう住まれておらず、奥にある家にお住まいのようだが、一部のスペースは使われているような気配があった。


くど造りとは、上から見ると屋根がかまど(おくどさん)のようにコの字型になっている、九州の筑後あたりに見られる茅葺民家。
コの字の開いた方が正面側になっているパターンと裏側になっているパターンがある。ここでは正面側に棟が並んでいる。
しかし、3連ということは、、、ヨの字型なのか??


実際は、一番左側の棟は、右側の2棟とは離れていて、間に通路が通り抜けていた。あぁ、3連棟のように見えたが
くど造りの隣に附属の別棟が並んで建っているということか。


左側の別棟は、正面がガレージのように開放されている。壁は黄色っぽい土壁で、腰から下が石積みになっているのが面白い。
しかし奥行きはガレージの半分ほどだろうか。家畜小屋?農機具置き場?リーフレットの平面図では「納屋」と書かれていた。


練塀のように自然石を土壁に埋めこんだ壁は、とても美しい。思い出したのは、佐田岬半島の「駄屋」と呼ばれる牛飼い部屋。
あれはここのようにオープンな空間ではなかったが。。。
しかし今リーフレットの文章をあらためて読むと、この別棟は「なや」「うまや」「ゆどの」「かわや」からなると書かれている。
このオープンスペースはうまやだったのかな。


大きな平たい石を礎石として据えてある。


地面と平行に刈り揃えられた軒先の断面。


納屋棟の裏側にはちょっと変わったスペースがあった。これは竹敷きの上で米ぬかを使って体を洗いかかり湯をする
「ゆどの」なのだとか。そして洗い水は下肥と混ざって畑の肥料となる、非常にエコなシステムである。へぇ~~!


納屋棟と主屋は屋根も独立しており、軒先が突き当たる部分は下を樋で受けている。
納屋棟の奥行が短い分、主屋の屋根が張り出してL字形の隙間が出来ているのも面白い。


そして居住棟である主屋の方はちゃんとコの字形をしたくどづくりである。
入口の脇の壁は腰に竹を開いた板が貼られていた。よく見るとベンガラで赤く着色されているな。


竹板貼りは防水のためと思われるが装飾的でもあり、やはり人の住まいという感じがする。


さて戸をあけて中へ入ってみると・・・真っ暗闇(汗)。真昼間なのに・・・電気をつけたらちょっとは見えるようになったが、、、
昔は行灯ぐらいだっただろうから本当に暗かったに違いない。


戸口を入ったところは土間で、その奥に続く広い台所には土塗りのかまどが、板の間に接するように据えられている。
端には五右衛門風呂みたいなかまどもあった。いやあれは本当に五右衛門風呂だったのかも!?


こんなおまんじゅうみたいなかまどもあった。何て面白いの!


台所の横の板の間に上がると、その奥には4部屋の畳敷きの部屋があった。意外と広くてここが茅葺民家の中とは思えない。


「ごぜん」と呼ばれる部屋の天井は、丸竹をびっしりと並べたもの。これは素敵だなぁ!!


奥の座敷には床の間もあったが、古い時代の建物なのであまり凝った意匠などはない。

・・・あぁ、寒い(震)

ところで、くどづくりは基本寄棟型の屋根で、棟がコの字型に曲がっているわけなので、中央部には三方からの下り勾配が集まる
深い谷ができることになる。雨が降ったらそこへ水が集中するのではないか・・・
さっき納屋棟と主屋の間の通路では、突き合わせになった軒先に雨水を受ける樋が取り付けられているのを見ていた。


こちらの主屋も、正面から見ると隙間はないが、内部は屋根と同調したコの字型の間取りになっていて、
中央の軒先部分は壁の外にあるのだろう、そして地面に排水溝が掘られているのだろう・・・と、何となく思っていた。


ところが、内部はコの字形の間取りではなかった。
そして・・・何とこんなところに、軒先があったのだ!


うわぁ、屋根からの雨水が屋内を通っている!?そんな雨仕舞いってあるのか!?
まぁ土間だから多少溢れたりしてもそれほど問題にはならないのだろうが・・・
いやぁ、地味に驚いた!ここだけでなくくどづくりの民家は皆こんな風なのだろうか。。。他も見てみたいなぁ。


あぁ、民家も面白くて奥深いな!


続く。
コメント (2)
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いそのさわと新川田篭の景観

2020-07-01 23:13:43 | 建物・まちなみ
2020年2月のうきはの続き。

楠森河北家住宅へ伺う前、まだちょっと時間があったのでうきは駅に寄り道した。古きよき小さな木造駅舎だ。


そして、日田から来るとき目に入って気になっていた、いそのさわという酒造工場の一角に建つお屋敷を偵察に行こう。


車通りの多い国道に面して鉱滓レンガの塀が続く。ちゃんと笠木もあって、ぎざぎざの装飾もつけられた装飾的な塀だ。
門の付近では少し高さが増していて、低い部分から滑らかにつながる曲線が美しい。


赤レンガと違って地味だが落ち着いた雰囲気で、洋館が建っていてもおかしくないような塀と門柱である。


しかし・・・塀越しに見える玄関は板が貼られ、明らかに締め切られているな。


う~~ん、よさげなのに。。。


通りに面した格子窓に近づいて覗いてみても、使っておらず放置されているような雰囲気。。。


工場の事務所へ回ってちょっと尋ねてみると、このお屋敷は昭和初期に建てられたもので、創業家の高木家の住まいだったという。
現在は蔵出しイベントなどで一部を使ったりしているが、公開できるような状態ではないとのことだった。
忙しそうだったので大人しく引き下がる。


帰ってから検索してみると、いそのさわは1893(明治26)年創業。高木酒造、磯乃澤酒造、株式会社いそのさわ、と
名称は変遷しているが、うきは市に現存する唯一の酒蔵なのだとか。
建物は数年前から、屋根の葺き替えワークショップや練塀造りなどセルフリノベーションをされているようだ。
活用の動きがあるのはうれしいことだな!


さて話は前後するが、楠森河北家訪問のあとに、山の方へ30分ほど走りくどづくり平川家住宅を見に行く。
途中の道すがら、谷あいに石積みの棚田が広がり、茅葺屋根の急勾配屋根が重なる集落など、通り過ぎるのがもったいないほどの
美しい風景が連続する。




目を惹くようなお屋敷もある。




すごいなと思ったら、この新川と田篭という場所は伝統的建造物群保存地区になっているらしい。平川家住宅だけではないんだな。


茅葺き民家を活用したカフェなどもあるらしく、昼ごはんもまだだったので、入ってみようかと思ったが、
駐車場がわからないまま通り過ぎてしまい、入る機会を逃してしまった。。。


道すがらでは鏝絵のある家もちらほら見かけたが、これは新しく作られたものだろうか?



快適で楽しいドライブ。

続く
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楠森河北家住宅 主屋など

2020-06-30 23:59:59 | 建物・まちなみ
2020年2月の楠森河北家住宅の続き。

新座敷から続く渡り廊下を通って主屋の部屋も見せて頂いた。


本当はこの部屋は見せる予定ではなかったのかもしれない。新座敷とは違い、若干人の気配のある空間だった。
普段使いの応接間といったところだろうか。




新座敷に比べるとシンプルで簡素に思われるのは明治前期の築だからだろうか。
しかしふた部屋の間の欄間は松竹梅の透かし彫りが見事。




隣の部屋が次の間だろうか。神棚があって天井がとても高い。5m近くあるかな!?


縦横に組まれた太い梁がむき出しになった豪快な天井。


飾られていたこちらの欄間もどこかに嵌っていたものだろう。繊細さと力強さを併せ持つ、素晴らしい作品だな。






いったん外へ出て玄関から主屋に入る。三和土のままの薄暗い土間が奥まで続いている。ここは台所だ。
・・・と、柱に何か異様なものがぶら下っているぞ。しめ縄か!?いや、ちょっとデカすぎるし形が変だ。。。


人が簀巻きにされているみたいに見えてギョッとする(爆)
これは藁で作られた大きな海老で、「わら海老」と呼ばれる。へぇ、珍しいなぁ!
説明によると、「昔、凶作でまったくわらが取れず、田植えのための"くびりわら"が無く困ったことから、
米がとれた時に出来たわらを海老の形にし、くどの上に揚げ、一年間わらを保存する」ためのものだったとか。
これはこのあたりの風習であったが現在ではわら海老を作れる人がほとんどいないらしい。


広大な敷地には石積みの水路が蛇行し、夏には蛍が乱舞するという。
このあたりで民家の庭に引き込まれている水路はせせらぎというより、石積み護岸のかなり深い溝である。
やはり水が豊富な地域だからだろう、水車を設けて臼で粉をひいたりする動力として使っていたようだ。


水場もあった。


庭に点在する用途ごとの蔵は、建てられた年代が江戸時代から大正時代までバラバラ。
こちらの小さな小屋は「味噌部屋」。明治前期の築。


肌色っぽい色の土の荒壁仕上げ。露出した木部まで塗りこめてある。


こちらが敷地内でいちばん古い建物で、1812(文化9)年に建てられた米蔵に1857(安政4)年に
器蔵が増床されている。

塀の外側には秤蔵、材木小屋もある。

住宅座敷をぐるっと回りこんで新座敷の方へ戻る。
住宅座敷の一番上の棟の側面と、下屋の根元に丸瓦がずらりと並べて埋め込んであった。
かわいいな!




古い瓦が縁の下に置いてあった。変わった柄は「鬼州浜紋」と言う河北家の家紋で、相撲取りの紋なのだそうだ。
祖先に相撲の神がいるとか・・・いやはや、800年も続く家の歴史はもうほとんど神話レベルだな!
ちなみに、美術評論家、故河北倫明氏はこの家の生まれ。(この人のことを知らなかったのだが・・・汗)


最後に、さっき淹れて頂いた特上煎茶を買ってみた。楠森堂では「在来種」のお茶を売りにされている。
覆いをして育てるとお茶は光合成できなくて甘み成分が増えるのだとか。→詳しくは楠森堂のサイト
八女の許斐本家で頂いた玉露のうまみにカルチャーショックを受けたのだったが、うきはのお茶もおいしい!

あとから教えて頂いたのだが、「食と建築土木」の本に4ページにもわたる河北さんのインタビューが載っている。
壁結のことも合わせると何と11ページも楠森河北家のことが載っていたのだ!その本ずっと前から持っていたのに(大汗)。
でも今回直接いろいろお話を聞くことができて本を読むだけよりも思いが強く感じられたのでよかった!
お忙しいところ、1時間半以上、つきっきりで案内して頂きありがとうございました!

※SNS掲載承諾済み。

続く
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楠森河北家住宅 新座敷

2020-06-29 23:31:53 | 建物・まちなみ
2020年2月の原鶴温泉からの続き。

最終日、原鶴温泉泰泉閣から、アポイントを取ってあった楠森河北家住宅へ向かう。
途中まで軽トラで迎えてにきて下さった河北さんについて細い道を車で進んで行くと、竹垣に囲まれた森のような一角に・・・
えっ、ここはいったい・・・?周囲には茅葺の家なども見える。ついさっきまでまちだったのに、急に別世界に来たみたいだ。
車を降りると、3階建かと思うほど背が高く大きな屋根の主屋が目の前に建っていた。主屋は1881(明治14)年築。
屋敷のほとんどは塀に囲まれているが、主屋の一部だけが外部に面し直接建物に入れるようになっている。
入口は農家らしい雰囲気である。

河北家は800年27代も続く旧家。源頼朝からこの地を賜ったのだとか!?
楠森堂」の屋号でお茶の製造販売をされており、製茶業は200年の歴史を持つ。


主屋の脇に庭へ入る木戸があり、どうぞ、と案内されるまま足を踏み入れると、、、うわぁ・・・幽玄。
足元にはビロードのような苔が光り、楠の巨木がはるかに頭上までそびえている。


屋号の「楠森」の文字通り、このあたりは楠がたくさん生えていたといい、古い木は樹齢500年ほどにもなるとか。
大きく盛り上がった根は、庭木として植えられたものではなく建物が建つより前から森に生えていたことを思わせる。


そしてこの樹海のようなお庭に張り出している部屋は、大正初期に接客用に増築された「新座敷」である。
接客用の座敷だというが、三方の建具が全て取り払われた部屋はまるで能舞台!


うわぁ・・・部屋の向こうにはまた庭が広がっている。屋内と屋外がつながっている。まるで、透明な部屋のようだ。


部屋に上がらせて頂き床の間を背に座ると、視界の端から端までお庭の緑色に占められる。
時間によっては木漏れ日が室内に注ぎ、季節によって紅葉も楽しめ、四季折々の表情を見せるというお庭。
この素晴らしい座敷で、美味しいお茶を頂く贅沢・・・今日はあまり寒くなくてよかった。


大正時代の建物である新座敷はディテールも面白い。
緑色の塗り壁。1間半の大きな床の間の床框は、墨を流したような黒柿の材が使われている。


床脇の天袋には漆の細工が。


わざと凹凸をつけて漆を塗り重ね、研ぎ出してあるのだろうか。


四角を段違いに配置した形の欄間。


書院の欄間は帆船だ。港の風景だろうか、背景も緻密に描かれている。


かわいい釘隠し。


この部屋は舞台なのか!?尋ねてみたところ、ここはもとから畳敷きであり能のために作られたものではないそうだが、
このつくりを生かして能や雅楽を楽しむイベントをこれまでに何度も開かれているという。


28代目の河北幸高さんはここで生まれたのではないが、15年前にお父様のご実家であるこの家に戻ってこられ、
長い長い歴史を刻んだこの建物や伝統を守り続ける決心をされた。


旧家だからと閉鎖的にしているのでなく、この場所を核として、伝統行事にも新しいイベントにもどんどん外から
人を呼び込んで新たなつながりを作り、地域ごと活性化する中で建物も維持していけるような仕組みを作りたいと考え、
ブログなどでも精力的に情報発信されている。素晴らしいなぁ!


河北家の屋敷の周りには細い真竹の枝を太い孟宗竹で押さえた竹垣が150m続き、アプローチを印象的にしている。
この竹垣の修復作業、「壁結」は、300年以上続く重要な伝統行事である。
こういう竹垣が残る屋敷自体少ないうえに、「壁結」が今も続けられているのは九州北部で河北家のみだとか。


壁結では、4段の孟宗竹を1年ごとに1段ずつ取り替え、同時に細い真竹の枝も追加していく。
角の部分は組むのではなく曲げてあり、太い竹を荒縄で締め付けていくのは技術と力の要る作業だ。
これを4年で1サイクルとして、毎年旧正月二十日に行うのである。
壁結は家の人だけではできないので、外部からもボランティアの人たちを広く受け入れて、行っておられる。
立派な建物も垣も、人がいないとすぐ朽ちてしまう。現状維持するにも人のパワーが要るのだ。

今年は3月に予定されていた壁結が、新型コロナウィルスの影響で政府のイベント自粛要請により、中止されたらしい。。。
300年続いてきた行事を中止するのはさぞや無念だっただろうな。。。
来年は2年分の竹を取り替えるのかどうか分からないが・・・壁結のボランティア希望の方は、楠森堂のサイトへ。→こちら(壁結の記事)
私も時期がうまく合えば一度参加してみたいなぁ。

続く
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鏡田屋敷

2020-06-25 23:08:50 | 建物・まちなみ
2020年2月の筑後吉井の続き。

雨がぱらついてきたが、鏡田屋敷を見に行こう。
居蔵の館の前の通りは、向かい側に堀のような南新川が流れ、お寺や前庭のある現代住宅などがちょくちょくあり、
ぎっしり隙間なく町家が並ぶ白壁通りとは少し雰囲気を異にする。ここは伝建地区外なのだろうか。


鏡田屋敷は、吉井で現存する唯一の「屋敷型建造物」だとか。「屋敷型建造物」とは庭園、土蔵、塀で家屋の周囲を囲んだ
形式を言うようだ。居蔵の館も半分は屋敷の形をしていたが、ここは完全な屋敷型で、近世、近代の建築当初の姿を保っている。


正面部分は1863(文久3)年、背後の座敷や2階が1893(明治26)年に増築された。当初は郡役所の官舎として
建てられたと言われている。


門から玄関までのアプローチは両側を高い板塀で遮断されており、板塀の内側には井戸や土蔵へつながる中庭がある。


建物の玄関を入ると、奥方向へ伸びる通り土間でなく、玄関から間口 方向に土間が伸びている。


その突き当りが台所となっていた。


そこから井戸のある中庭へ出られ、また建物の西側を流れる水路に下りる石段も作られている。


部屋は土間に面して間口方向に並び、その背後へと広がっている。町家ではないのに逆にみせのような印象を受ける。


23畳敷きの大広間の広い床の間。3間の長さの床板は何と一枚板なのだそう。




この大広間から3部屋が縦に接続し、さらに横にも拡張するので合計50畳の大空間として使うことができる。
あぁ日本建築のフレキシビリティはすごいな!!




居蔵の館にあったのと似たこちらの箪笥、表面の漆はだいぶ剥げているが、一部の飾りがゴージャス!


トイレの方の窓の枠はこんなユラユラした形でカワイイ~~




2階へ。しっかり高さのある居室だ。スキップフロア


むしろ1階の座敷よりも居心地がよさそうだ


裏庭がよく見える。


ぐるっと回ったベランダ状の濡れ縁の外側には、ガラスのはまった垂れ壁が下がっていた。


あぁ気持ちいい~~


1991(平成3)年の台風により大きな損害を受けたため取り壊される予定だったが、当時の所有者であった籠田氏より
町に寄贈され、保存修理工事が行われた。壊すのは一瞬だが、心ある人々の英断により貴重な建物がまちの文化資産、観光資源として
これからもずっと存在し続けることになったのだ。とても喜ばしいことだな!

続く
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居蔵の館

2020-06-22 23:38:38 | 建物・まちなみ
2020年2月の筑後吉井の続き。

そして今回の旅のメインのひとつ、居蔵の館へ。ここは櫨ろうの生産で財を成した松田家の分家の家であった。
建物は明治末期に建てられ大正初期に改築されたもの。1914(大正3)年の棟札が見つかっている。
ちょうど白壁通りから90度折れるあたりに建っているこの家は、白壁通りに軒を連ねていた漆喰塗り籠めの町家と、
吉井小学校の前の通り沿いの前庭付き邸宅とを折衷したような建物だ。


町家風の建物の横に続く板塀には客用の門が造られ、現在は締め切られているが、式台を持つ玄関へのアプローチとなっている。




白壁の建物の引き戸の入口を入ると、通り土間が裏庭まで貫き、そこに面して奥行き方向に3部屋が並ぶ町家のつくり。
それらの部屋は通り土間に対してオープンである。
ここは日常的な出入りのための勝手口だったようだ。奥へ抜けるとかまどのある台所、お風呂場、土蔵と続く。


通り土間に置かれたショーケースには、製鑞業の資料や吉井のまちなみの資料も展示されていた。
吉井の木蝋はかつて産額、品質共に日本一だったという。商品取引によって蓄財された莫大な富「吉井銀」は
吉井銀行の設立へとつながる。日本銀行のわずか2年後の1882(明治15)年に地方で銀行が設立されていることから
筑後吉井の繁栄ぶりがうかがわれる。


そして、展示されていた昔の筑後吉井のまちなみの写真を見ると、何と、現在まちなみ商家などが建ち並ぶ
メインストリートに、かつて蒸気機関車が走っていたらしい。すごい光景にびっくり!!
路面電車の走っていたまちはよくあるが、それよりも早い時代である。1928(昭和3)年に国鉄久大本線の
久留米~筑後吉井間が開通したことに伴いこの路面汽車は廃止された。尚。JR筑後吉井駅は町からほど近いところにある。


さて、主屋は二階建てで、中央の部屋だけは高い吹き抜けになっている。その部屋には神棚が祀られており、
神様の上に人がいることのないように、なのだとか。


裏庭に近い部屋は豪快な根太天井。


箱階段があり2階への上り口となっている。


こちらの面は箱階段と普通の箪笥がトータルコーディネイトされていた。


1階を先に見よう。
仏間とそれに続く和室の欄間はまた面白いもので、扇型にくり抜かれた窓に障子がはまっているのだが、
扇が真ん中から割れるかのように、障子が開くのだ。


障子は真横にスライドしているだけなのだが、障子が開くと扇を開いたような錯覚をおこす。
閉めた状態も開けた状態もどちらも面白い。


板塀の門から式台玄関へのアプローチ。


庭に張り出した2間続きの角座敷は合わせて21畳の広さとなる。古そうな襖絵は、オリジナルのままなのだとか。
かなり傷んでいるので、ちょっと修復して直接触られないようにした方がいいんじゃないのかな・・・(汗)、心配になる。


今は保育園児の作品のお雛様がずらりと展示されていた(笑)


ここの欄間がまたすごい!!写実的な松竹梅の透かし彫り。一枚の板から彫り出した一刀彫だな。



置かれた箪笥の飾り金具も凝っている。


緻密な模様の飾り金具。ここに貴重品が入っていることがバレバレじゃないか(爆)


続く
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旧松源商店(町並み交流館)など

2020-06-21 23:34:23 | 建物・まちなみ
2020年2月の筑後吉井の続き。

民泊以久波をチェックアウトしたあと、縁あって非公開のお宅を訪問、めくるめく世界に興奮!お茶菓子を頂きながら
ご当主とお母様とお手伝いの方(?)といろいろとお話ししながら2時間もお邪魔してしまった。本当に感謝、感謝。

そのあと、お昼は日曜のみ営業の長尾製麺のうどん屋「井戸」で食べようと決めていたので行ってみると、すでに人がいっぱい!
出遅れた!名前を書いて待つが私の前に8組ぐらい待っていて、30分ほどうろうろしながら待っていたが
まだまだかかりそうなので、あきらめてお昼抜きで町歩きに戻る。

今ちょうどお雛様の時期で、あちらこちらでお雛様を飾ってあり、お雛様を見るついでに建物を見ることができる(笑)。
町並み交流館は、メインストリートに並ぶそうそうたる商家建築の1つで、無料で一般公開されている。

※これは昨日の夕方散歩で撮った写真。

松源商店は筑後一帯に知られた乾物魚類問屋であった。この建物は1928(昭和3)年に建てられた。
現在1階は食事処になっていてお客が大勢いたので見れなかったが、それ以外のところは自由に見ることができた。
これは裏側から見たところ。






2階へ。


2階の座敷は1室がとても広く、その前にお雛様が大陣営を張っていた。うひゃ~~~


4間の長さの鴨居がすごい!!そして松竹梅が彫られた欄間が目を引く!
一方、床の間は割とおとなしめ。


2階には各種資料も展示されていた。
もともとうきは地域は川より高い土地で、水が常々不足し作物を育てられなかった貧しい土地だったが、
どうにかしなければと死刑を覚悟で筑後川の上流から水路を引く難工事を計画した五人の庄屋に、老若男女こぞって協力し、
わずか2ヶ月半で人工の川を築いたという。おかげで豊かな土地に生まれ変わった。先祖の偉業は今も語り継がれている。




松源商店の脇に置いてあったタイル貼りの入れ物。「塩」という文字が書かれている。このタイプ、前にもどこかで
見たことがあったが、やっぱり塩入れだったんだな!


伝建地区なのでメインストリートも白壁通りもきれいに修景されている。元は商店だがしもたやになっているところが多い。

営業している店舗は、よくある観光地のように外部の土産物業者が入っているようなところはなく、昔からの商売を
続けている店や、地元の若者が起業してやっている店などで、とても健全で魅力的。地元の人も普通に利用しているようだ。

松田本家の風格ある佇まい。非公開。




3軒隣は林業の会社の事務所のようだが・・・


ファサードのなまこ壁の貼り瓦をよく見ると、レリーフ状のお花が!?


えーっ、こんななまこ壁見たことないなぁ!


あとから聞いたのだが、この矢野家は酒造もやっていて「梅此花」という銘柄のお酒をつくっていたという。
それで梅か・・・なるほど!!


林肥料店も昔ながらの商売をやっている店。ここもお雛様が飾られていたので、中へ入って(建物を、笑)見せていただこう。


あっ、これは!さっきの松源商店にあったのと同じ塩の入れ物だ。


レトロな三輪のトラックも飾られていた。


そして、ここのお雛様はちょっと変わっているな・・・布で作った平たい人形に串がついていて、台に刺さっている。


その表情は豊かで姿格好も生き生きとしていている。聞けばこの地方独特の人形で、「おきあげ」というのだとか。
県をまたいで日田にもあるようだ。


宙に浮いているように見えるのでとても躍動感にあふれている。すまして座っている雛人形よりも楽しいなぁ!


続く
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筑後吉井の朝散歩 有田焼タイル

2020-06-20 23:43:16 | 建物・まちなみ
2020年2月の筑後吉井の続き。


古いまちなみのエリアから少し外れているこちらの家は、マップには載っていないが、前庭があって邸宅の構え。




よく見ると、外壁の腰張りは黒のふっくらタイルじゃないの!もしやなまこ壁の貼り瓦の代わり!?


そして左側には妙なコンクリートの塊が・・・ドイツ壁の残骸っぽい。ここに洋館が付属していたんじゃないのかな!?
う〜む。気になる建物だ。


まちなみのエリアに戻りしらかべ通りを歩く。朝は店が開いておらず人もいないので純粋に建物を楽しめる。






鏝絵があちこちにあるし、細部の意匠も凝っていて面白い。




ぶらぶら歩いてきたら、宿のお姉さん一押しのパン屋さん「ぱんのもっか」の近くまで来ていた。ちょうど9時すぎ。
開店したばかりのお店の駐車場へ車が次々入って行く。ちょうどいい時間に来たものだ。入ろ!


狭いお店にはすでに10人ぐらいお客がいた。うわ、ほんとにすごい人気。それもそのはず、パンはハード系、ソフト系、
惣菜系、スイーツ系・・・種類の多さが半端でなく、迷う迷う・・・どれもこれもめちゃくちゃおいしそう!


イートインもできるが、あまりゆっくりしてもいられないのでテイクアウトで。食べきれるよう小さめのものを3つだけに。。。


チェックアウト時間に間に合うように急いで戻ろう。







・・・しかしこういう時に限って、いろいろ見つけてしまうのだ(笑)

あっ、このプランターの下に挟まっているのは、本業タイルじゃないの。


よく見る柄の銅版転写タイプの本業タイルだ。地面が斜めになっているので
高さ調整のためにかませてあるのだな。


・・・おや、もう1つのプランターの下には、同じ青白だが見慣れない模様・・・あっこれは、有田タイルじゃないの!?
佐世保の黒島教会で有名な十字タイルを製造した有田の松尾徳助窯が
これと同じデザインのタイルも作っていたようだが、このタイプの施工例は見つかっていないという。


本業タイルは陶器だが、有田焼タイルは磁器タイル。これは確かに磁器っぽい。
サイズは隣の本業タイルよりひと回り小さく150角ぐらいだ。
うわぁ・・・何でこのタイルがここに?ここのお宅はごく普通の現代的な建物だった。
人が出ておられたらタイルの来し方について聞きたかったのだが、今は時間がない(汗)

あとからわかったことだが、ここのお宅の明治時代の建物のトイレに貼られていたのだそうだ。
もう80年ほども前だろうか、火事で焼けてしまい、タイルだけが残った。。。あぁ、よく残ってくれたものだ!

戻って宿のおねえさんとおしゃべりしながら買ってきたパンを食べた。
特にベーコンの塊を挟んだフランスパンが感動的に美味しかった!!そりゃすぐ売切れてしまうはずだわ!!

続く
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筑後吉井の朝散歩 長尾製麺

2020-06-19 23:41:19 | 建物・まちなみ
2020年2月の筑後吉井の続き。

翌日は、朝から散歩に繰り出す。・・・さむっ!!
いつものようにまちの大外から歩こう。古い町家や邸宅の門など、気になる建物がたくさん現れる。。。
筑後吉井は、城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄え、製蝋業や醸造業、金融業など
各種産業が発達して大いに繁栄したところ。


町家に挟まれた長いアプローチの先に大きな門が。お寺かと思ったが、邸宅のようだ。。。


奥まったところにあった茅葺きの薬医門。ちょっとタダモノではなさそうな物件が次々。。


こういう小さな石の祠がまちなかにたくさん見られ、心惹かれる。いずれもきれいに保たれている。


おや、水路沿いに建つこの下見板張りの建物は何だろう。古そうだな。


表側に回って驚いた!これは、すごい!!下見板貼りで縦長窓が並び、中央部に洋風のレリーフ装飾がついている。


窓の下に「長尾製麺」の文字が直接壁に書かれている。長尾製麺の工場だ!おしゃれな工場だなぁ~~~


カッコいい鉄の持ち送り。


これは元々国の建物で役所や農協本部や公民館などに使われて来たのを、払い下げられ購入したのだと、
後からお店の人に聞いた。二階には大ホールがあるそうだ。
1920年ごろの地図ではこの敷地は空き地になっているので、建物は大正後期以降のものと思われる。
長尾製麺自体は江戸時代創業で200年の老舗だという。


奥行も結構あり、裏側はさっきの水路までが敷地である。
昔からの巨大工場は、防犯上の理由と思うが堀で囲まれ外界から分断されていることが多い。
何だかそれに似て大工場の風格が漂っている(笑)。


入口の脇の壁に、ほうきが1本吊るされていた。天然素材の細いほうきだが、こんな目立つところが所定位置?
これはおそらく、看板の埃をはらうための専用ほうきと思われる。会社の顔である看板を、毎日これで優しく
撫で清めているのだろう。実直な会社だということが、このほうきから伝わってくる。


以久波のお姉さんが教えてくれた、おいしいうどん屋「井戸」はこの長尾製麺所のやっているお店。
但し、工場が休みの日曜しか営業していない。今は朝早いので開いていないけど、今日は日曜日。うまくタイミングが合うかな?


角地に建つこの米穀商も大きいなぁ。とにかくすべて商店の規模が大きい!それだけ消費する人口を有していたのであり
まちの繁栄ぶりが偲ばれる。


おや、あれは・・・タイルだ!


無釉のモザイクタイル。ひし形を3つ並べた六角形が立方体に見えるので俗に3Dタイルとも呼ばれる(笑)
無釉モザイクでもこれは戦前のものと見える。


町家の窓下に二丁掛のタイルが貼られているのはよくあるが、こんな出窓の格子の下に、しかも床ではよく見かける
無釉モザイクを垂直に貼っているのは変わっているなぁ!!面白い。


こちらもまた変わっているぞ!戸袋に乱貼り風タイルが。


まちなかにはところどころ干からびた水路が見られた。かつては生活用水として使われていたのが、上下水道が整備されて
不用になったのだろう。しかし景観のためにも水路は是非活かしてほしいなぁ。


こちらは改修済みの建物。


続く
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筑後吉井の夕散歩

2020-06-18 23:24:41 | 建物・まちなみ
2020年2月の日田からの続き。

日田駅で自転車を返し車に乗りかえて筑後吉井へ向かう。すぐ隣だが日田は大分県、筑後吉井は福岡県うきは市である。
日田は来たことがあるが、筑後吉井は伝統的建造物群保存地区のまちなみがあることは知っていたものの未踏だった。
今宵の宿は、筑後吉井の古民家をリノベーションした民泊、以久波。いくは、、、うきはと音が似てるけど?
今はうきは市だが、昔は以久波郡吉井町と言ったそうだ。


民泊と言っても個人宅に泊まるようなものではなく、セルフのゲストハウスだ。トイレ、洗面所は共用だけど
台所も自由に使えるし、雰囲気も良く居心地がいい。その上安いのもいいね!
お客がいる日は泊り込んでいるらしい管理人のお姉さんは、お客に干渉しないのが基本と言われていたが、
会話したらとってもフレンドリーで、おすすめのお店や温泉も教えてくれた。


日のあるうちにちょっと散策に出かけよう。


すごく大きな鏝絵!松竹梅と、これは何?人力車かな?


さっき車で通って来たが、通りには白壁の町家がぎっしり並んでいて、その風格もすごい!これほどとは驚いた。
伝建地区になると補助金もだいぶ出るらしくかなり修景もされている。


メインストリートで目立っていた建物。これもタイルか!?


腕時計のように見えるが・・・時計屋さんではなさそう(笑)


「一の瀬焼窯元 陶香苑」。焼き物やさんかぁ!このタイルもファサードの改修に当たって造ったオリジナルなのだろうな!




写真を撮っているとキリがないほど・・・


こちらの松源本店は公開されているので、また明日行ってみよう。


古いまちなみエリアをひと通りぐるっと歩き、偵察。






昭和のビルもリノベーションされておしゃれな店になっていた。このあたりまちなみの中心部だけど、観光客だけでなく
地元の若者も集まるスポットのようだ。地元の人にとっても魅力的なまち、それはとても大事だね!




暗くなって来たのでまち歩きは終了、以久波のお姉さんおすすめのスペイン料理屋、cafe&bar溜(たまり)でディナーを。


春菊のシーザーサラダとクリームコロッケに砂ズリのアヒージョ、ハーフのパエリアで3千円いかず・・・
おしゃれなお店なのにお手頃価格でとても美味しかった!!一人でも気兼ねなく楽しめるいいお店。気に入った~~



そのあと一旦宿へ戻り、車で10分ほどの「みのう山荘」へお風呂に。高台にある露天風呂で優雅なバスタイム。
あぁ今回はステキな女子旅じゃないの~~~(笑)

以久波は3部屋の客室があるが、この日の客は私ひとりだったので共有スペースのリビングや冷蔵庫なども
自由に使えて、民泊に泊まっているという感じが全然しなかった(笑)。






続く
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日田 旧朝日湯など

2020-06-17 22:47:49 | 建物・まちなみ
2020年2月の日田の続き。


ふじファッションの洋館を見て戻る途中に大きな古い屋根が見えた。うまい具合に(?)信号が赤。ちょっと見に行ってみよう。


これか。入口のひさしが出っ張った古い木造モルタル塗りの建物は、アパートだろうか?近づいてみると、、、
うわっ、これは!?入口の見付けの部分にふっくら飴色タイルが貼られ、それに続いて同系色の25mm角モザイクタイルが。
そして階段ホールの足もとにはパステルグリーンのふっくらタイルが貼られていた。


床や階段は踏むとギギッときしみそうな板張りで、建築当初のままに見える。戦後、昭和30年代ぐらいの建物だろうか。
階段を見上げたら、人が住んでる気配。。。


鉢植えがあるのも住民が暮らしている証拠。気になるけど階段は上らない。


古いアパートみたいだけど、よく見ると壁に文字が。「朝湯」、いや、真ん中にもう一文字あったようだ。おそらく「朝日湯」、だろう。


ははぁ、お風呂屋か!そう思って見れば確かにドアが2つ。浴室はどうなっているんだろう。まさか今はやってないよな。。。
もちろんドアは鍵がかかっていて開かず(笑)


なかなか豆田町に行けないなぁ(汗)


今日は夕方からレンタカーを借りて筑後吉井へ移動する予定。日が暮れる前に着きたいのであと1時間もない。
豆田町はさすがにお客が多かったが、草野本家の改修工事もまだ終わってないようだし(長いなぁ・・・)、
広瀬資料館も改修工事に入ったらしく見れないと言う(涙)。そうかと言って薫長酒造を見学する時間もない(汗)


まちなかの鏝絵を見ながらさらっと町を流す。




この二戸一洋館の健在も確認。


あっ、本業タイル発見!民家の玄関先にて。1軒ずつ見ていけば本業タイルが使われている家も続々とあるんだろうなぁ。


豆田町の散策は諦めて、前回時間がなくてゆっくり選べなかった小鹿田焼のお店でお買い物を。。。
このお店の建物も古く、お店のおばちゃんは明治と言ってたっけな、古民家に小鹿田焼が映える。
リーズナブルなお値段が嬉しい。庶民にも手に入る美しい生活の器。民藝を地で行ってるね!!
旅は始まったばかりだけど(笑)3点購入。特にお茶碗は気に入って最近毎日使っている。


さて日田駅へ戻ろう。・・・と、気になる建物が目の端に・・・


川沿いの細い路地に面して木々に覆われた民家が。鉄板に覆われた屋根はもと茅葺屋根だったのだろう。
近寄ってみると、門柱にアーチが。医院建築によくあるので、ここもお医者さんだったのだろうか。




おやっ、洋館付き?しっくい壁にこのたどたどしいアーチ型の窓は、擬洋風っぽいな!?


ひゃ~~っ、じゃあこれは擬洋館付き藁葺き民家?そんなの見たことなかったよ~~!いやぁ面白いなぁ!!


続く
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日田 隈のまちなみ 2

2020-06-16 23:58:54 | 建物・まちなみ
2020年2月の日田の続き。

日田の三隈川沿い、隈のまちをレンタサイクルでうろうろ。
水色のすだれのような、焼物屋さんのファサードのタイル。ショーケースの小鹿田焼の釉薬とリンクしていて美しいな!


このあたり、角丸物件がぞろぞろ。昭和初期ぐらいの建物だろうか。それとも戦後?


曲面のガラスを使ってある。




ガラスブロックを使った角丸ビルは戦後だろう。


カッコイイタクシー営業所。


こちらも角丸。「そば宿」って・・・そば屋が宿もやっているようだ。
二階はサイディング張りだが、角丸から続く玄関周りはちょっと古そうな雰囲気。。。気になるな。


なまこ壁が風格を醸している大きな町家。ここは前にもチェックしていた「和くら」というステーキ屋さんである。


蔵がお店になっているが、主屋は今もお住まいなのだろうか。


食事をすれば中に入れる。お昼はまだ食べてないんだけど・・・ランチも結構お高いので一人で入るには
ちょっともったいない。また友人を誘って来ようか。


さぁそろそろ豆田町へ向かおう、とレンタサイクルで走り出したら、、、あーっ、あれはなに?


うわ~~~、きれいな色だなぁ!!日田信用金庫本店。ニュアンスのあるブルーのタイルがビル全体に貼られている!


これはまぁ平成に入ってからの建物だろうな、ぐらいに思って、タイル以外はあまり注意深く見ていなかったのだが、
今写真を見ると定礎のプレートが写っていて、1979年4月!?それとも1999年4月か・・・よく見えない(汗)


一枚のタイルは台形のような断面をしていて3面からなる。釉薬のかかり具合がすべて違い、見る角度によって色が変わる。
深い藍色からパステルカラーっぽいセルリアンブルーの濃淡は、三隈川の流れをイメージしたのだろうか。
いいねぇ~!来しなは気づかず素通りしていた(汗)


さて、また走り出したが信号に引っかかる。。待っている間にキョロキョロしていたら、おやっ、あれは、、、
気になる妻壁がチラッと見えたので見に行ってみると、「ふじファッション」の看板の後ろに隠れているのは確かに洋館だな!


これも目ざとく見つけられてよかった!


鉱滓レンガの塀。


洋館付き住宅もあった。


こちらは医院っぽいな。


モールガラスの縦長窓。


これはラブホに見えるけど(笑)珈琲の館、ダイヤル。ベティちゃんフォントに萌えるね~~!
すごく入りたかったけど、すでにゆっくりしすぎてもう全く時間がない。。。そしてなかなか豆田町にたどり着かない(苦笑)


続く
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