まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

松山大学温山記念会館(旧新田邸)再訪 その2

2024-05-27 23:17:08 | 建物・まちなみ
松山大学温山記念会館の続き。

2階へ上がろう。こんな階段を上るのはとってもワクワクする~


段違いのアーチ窓が3つ、リズミカルに並ぶ。


階段ホールは狭いが見上げると天井がこんなドーム型になっていて、まるで繭の中にいるようにやわらかく包み込まれる。


こちらの部屋は娯楽室。ドン!と中央に鎮座しているビリヤード台はめちゃくちゃ重そうで、黒柿の突板貼り。
壁には古いキューラックやスコアボードも残っている。


床はコントラストの強い2色を組み合わせた三角形の寄木で派手でにぎやかな印象。


天井の照明のすりガラスにはアールデコ調の幾何学模様が。


窓辺にはソファが造りつけられている。モダンな明るい娯楽室でゲームに興じる人々、グラス片手に歓談する人々。
楽しげな声が聞こえてくるようだ。


階段ホールに面したドアは用途不明だが、開けるとちょうど正面にあの3連アーチが見える。


こちらは会議室になっているが元はサンルームだろうか。窓ぎわの床60cmかそこらだけトラバーチン敷きに
なっているのは、鉢植えなどを並べたのだろうか。
こことさっきの娯楽室には簡易パイプベッドがたくさん置いてあり、セミナーの学生が寝泊まりする部屋として
使っているのだという。えぇ~っ、贅沢な寝室・・・


2階のメインの部屋は会議室に。部屋ごとに趣向を凝らした照明器具が素敵だな。


この部屋とさっきのサンルームとの間の窓に嵌められたステンドグラスが美しい~
色数を抑えてあり、無色透明や乳白色の型板ガラスをメインで使用し色付きのものはごくわずか。
直線と円弧のみの点対称デザイン。


調度品などは松山大学の所有となってからあつらえたものだそうだが、雰囲気に合わせて吟味されていて
もとからあったもののようにはまっている。


2階のドアは突板を張り合わせたモダンなデザイン!
新田長次郎は新田ベニヤ製造所も興しており、このような突板貼りの建材の製作はお手の物だっただろう。


洋室から和室へつながるドアは裏と表でちゃんと仕上げを変えてある。
壁の厚み分の重厚な三方枠、いや、五方枠か?敷居もあるから6方枠と言うのか!?(笑)


和室のふすまの中にラジエーターが!大丈夫なのかな!?


床脇の障子を開けると丸窓が・・・


実はこの丸窓、蝶の羽のように開くのだ!今でもちゃんと開く。
この窓から望める東のお庭は和風の池泉庭園。一方、南側のお庭は芝生が広がり噴水もある洋風の庭園。
洋室からは洋風のお庭、和室からは和風のお庭が見えるように作られている。


別の階段から1Fへ降り、庭へ出る。


1Fの窓から見えていた八重桜の木は少し前に倒れたそうだが、そのおかげで1Fの窓の高さで咲くのを見られる。


壁泉のタイルと羊頭(山羊頭か?)の吐水口。この形、何か所かで見たことあるな。




とんがり屋根の煙突は、少し離れて眺めないと見えなかった!


この日案内してくださった今山さんはこの建物の管理人の仕事を始めてから近代建築にハマり、あちこち
見学しに行っているという。庭の花や鳥のことにとても詳しくて、解説を聞きながらのんびり散策。


和風庭園の片隅にあるこのドアは、絵本に出てくるおうちのドアみたいなかわいらしい木製のアーチ形。


この中にも入れて頂けたのだが、中には金庫のドアのような金属製のドアが・・・そしてさらに内側にも
また同じようなドアが・・・その奥にはなんとシェルターがあったのだ!大きさは8畳ぐらいか?


そこから奥へも通路が伸び、同様の金属製のドアを2枚ほど通り抜けたあと、道路へ出られるようになっていた。
庭園の築山の中にシェルターがあったとは!!戦時中に実際使われたのだろうか!?


勝手口は普通の家の玄関ほどある。人が住めそうな犬小屋もあったり(笑)


建物をぐるっとひと回りしてきたらもう見学時間の2時間になっていた。え~~っ、後でもう一度回って写真を
撮ろうと思ってたからあんまりちゃんと撮ってなかったよ(汗)
でも案内して頂いて豊かな気分でゆっくり見れたからいいか。また申し込んで来ようっと。
あぁ楽しい午後休だった~

おわり。
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松山大学温山記念会館(旧新田邸)再訪

2024-05-14 23:33:31 | 建物・まちなみ
松山大学温山記念会館を前回訪問したのは2009年、思い返せばもう15年も前になるのか。。
その頃参加していた洋風建築めぐりの講座で、当時はまだ一般公開されていなかった(と思う)この邸宅建築を
見学させて頂き、それはもう大感激したのだった。それ以来、時々ふと思い出してはもう一度ゆっくり見たいと
思って機会を窺っていたが、コロナ後見学の受け入れが再開されたので、休みを取って友人と一緒に行ってきた。
(15年前の訪問はまたまた書き損ねたままになっていた・・・汗)


この建物は、松山出身で現在のニッタ株式会社の創業者である新田長次郎(温山翁)の邸宅として、
1928(昭和3)年に娘婿である木子七郎の設計により建てられた。
翁は青少年の教育のため私立松山高等商業学校(現松山大学)を創設しており、新田邸は1989(平成元)年に
松山大学に寄贈された。現在は学生の春秋のセミナー等に使用されているが、それ以外の時期には見学が可能。

門の脇にある小さな木戸を入ると、外からも見えていた美しい建物が一段大きく目の前に迫り胸が高鳴る!
S字瓦が載った車寄せやぺたっとした壁に穿たれた連続アーチ窓などからスパニッシュな香りが漂ってくる。


車寄せの下に玄関があるのだがあまり目立たない。


しかし、この玄関回りの意匠は凝りに凝っているのだ!
ドアは外壁面から60cmほど引き込んであり、その回りの壁は額縁のように外に向かって広がっている。
その壁に貼られた装飾タイルは、他では見たことのない独特の色使いである。クリーム色の地に水色と淡い
グリーンで八芒星をかたどり、その内外には宝相華のような模様をあしらっている。一般的な和製マジョリカ
タイルと同じく模様の輪郭が凸状になったクエンカ技法(型押しのチューブライニング)だが、顔料絵具の
ようなマットな色合いと異国情緒漂う八芒星のデザインが、輸入品だろうかと思わせる。


しかしこのユニークな色柄のタイルは、多治見の山内逸三の手によるものということが、タイル研究家の
加藤郁美さんの調査により判明している。(※『にっぽんのかわいいタイル』参照)


モールディングのタイル(テラコッタ)もまた変わっていて、組み合わされた曲面の段の部分で違う色に
塗り分けられている。こういうパーツはだいたいテラコッタ釉とか地味な色の釉薬が全体にぼってりかけられて
いるが、こんな色付きで、しかも多色塗り分けのなんて他で見たことがない!


重厚な玄関ドアはタイルと同じ八芒星デザインで、星の部分に明るめの色の板が張られている。
ドアの外側に当時からの網戸も残っている。これは重宝だな!


そして脇の小窓もまた魅力的なのだ。


ブルズアイ(牛の目)と呼ばれる丸いガラスは瓶底メガネみたいでとても面白い。手吹きで作られるガラスは
不等な厚さで細かく波打ちほどよく視界を遮る。


玄関の内側の壁にもさっきのと同じ色合いのタイルが貼られている。こちらは八芒星ではなく全体が
植物模様の正方形のタイルと、縁取り用のタイルの2種類。壁のアールに合わせてタイルもゆるやかに湾曲
させてあり、この湾曲加減をコントロールするのは相当難しかったのではないかと・・・


玄関の床には白いボーダータイルが矢筈に貼られていて、これもまた美しい。。。


さて玄関ホールに目をやると、年代を経た絨毯に目を奪われる。この絨毯も当時のものだと言う。
こういう敷物やテキスタイルは、良いものと安物とでは建物自体の印象が全く違ってしまうので本当に重要。


そしてその絨毯をべろっとめくって見せて頂いた寄木の床もまた素晴らしい!
六角形をかたち作る3つのひし形パーツは色も木目も違う3種類の木材が使われており、コントラストの強い
3色のくっきりとした柄は存在感があり、隙間なくぴっちりと合った角が技術の確かさを見せつけている。
それにつやつやに磨き上げられ良い状態が保たれているのが感涙もの。


ディテールだけではない。ホールの空間の構成にもまた惚れ惚れする!大きな吹抜けが取れない階段も、
階段裏を曲線に仕上げて見せ場にしているのがさすがだな~


お庭に面したセミナールームは何とゴージャスなのだろうか!


元ダイニングルーム。






各部屋にあるセントラルヒーティングのグリルも古いもので、デザインは様々。


そしてこちらの壁の飾り。鹿のはく製の周囲を飾るのは、これまた風変りなタイルである。
凸らんだ輪郭線に囲まれた部分に顔料と思しき彩色が施されており、透明釉などはかかっていなさそう。
壁の額縁の寸法にぴったりあってはおらず、端の方のタイルはカットしてあると見えるが、20cm角と
いうのも変わったサイズだな。玄関の山内逸三のタイルとも少し似ているが・・・いったいどういう素性の
タイルなのか。。。


この日案内して頂いた今山さんが、このタイルがオスロ国立博物館にあるバルディショル・タペストリーを
モチーフとしていることを発見されたという。すごい!
1613年に建てられた木造のバルディショル教会が1879年に取り壊されたときに、古い資料などが
オークションに出され、ぼろ布と思われ放置されていたものが、実はノルウェーで現存する最古の、また
ヨーロッパでも最古級のタペストリーだったのだ!1040~1190年の間に制作されたものと考えられている。
はてさて、このタペストリーの画像を当時の日本人が入手して忠実に模写しタイルを作ったのか、
それとも外国で作られたタイルをたまたま購入したのか、、、謎である。


窓のではちょうど八重桜が満開!


こちらは勝手口。床は玄関と同じ白ボーダータイルのやはず貼りで、壁の立上り部分には、泰山タイルっぽい
ふくよかな青色のモザイクタイルが貼られていて、勝手口ながらなんとも素敵な小空間なのだ。




トイレは無釉モザイクタイル貼りの床だった!


1Fの奥は和室や台所などの生活空間。収納力抜群の戸棚が作りつけられ広々とした台所は近代的。
銅版張りの巨大レンジフードが気に入った。


続く。

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奄美大島の教会めぐり

2024-03-06 22:52:05 | 建物・まちなみ
今年のお正月休みの旅、続き

タイル墓めぐり
ははじめからそのつもりだったのではなく、最初はカトリック教会をめぐろうと走り出したのだった。


名瀬のまちなかにある名瀬聖心(みこころ)教会は6年前にも見たがやっぱりカッコイイなぁ。→過去記事
船で早朝に着いてうろうろしているときに、ここの入口のところに貼ってあったカトリック教会マップを見て
今日は教会めぐりをしよう!と思い立ったのだ。


奄美でのカトリックの宣教活動は1892(明治24)年からはじまり順調に信者が増えたが、昭和初期の戦時には
弾圧や迫害など苦難の時期を迎える。しかし戦後、アメリカ軍の統治下に置かれたことも要因のひとつだろうが
早い時期に教会は再建に向かい、救援物資の配布など社会福祉活動を通じ島の人々の暮らしにとってはますます
密接なものとなっていったのだろう。

現在島内に31の教会があるそうだが、北部に多く南部は少ない。あとで人に聞いたところによるとやはり
南部は山深く交通の便がよくなかったためだと言い、宣教活動がしにくかったり住人が少なかったせいだろう。


スクーターでとことこ走っていくと集落ごとに教会がある。
カトリック教会はたいがいどこでも扉は開いていて、ご自由にお入りくださいと書いてある。
そして概して内部は外から見るより古かったり雰囲気がよかったりする。
こちらの大熊教会はコンクリート造りのきれいでモダンな建物。幼稚園か公民館のようにも見える。


日当たりのよい高台にそびえ立つ鐘楼は、いかにも集落のシンボルという感じ。
毎週ミサが行われきれいに維持されているのを見ると、敬虔な信徒が今も多くしっかり生活に根付いていることが分かる。


お天気がよく海は青くとっても気持ちいいツーリング!・・・しかし寒い(苦笑)


こちらは芦花部(あしけぶ)教会。簡素な2階建ての建物で、化粧板で覆われた外観はあまり古く見えないし、
大して目を惹かれず立ち去りかけたのだが、壁の一部が少し気になったこともあり、せっかく来たから一応中を
覗いてみようと思い直してアルミサッシのドアを開けてみたのだった。


すると・・・うわっ、なんだこの天井は!!
ギザギザの凹凸があるように見えるのは、矢羽根状に貼られた天井板による目の錯覚だ。
白っぽい外観に惑わされたが、実はこの教会はとても古く、1929(昭和4)年の築。
「台風・火災・戦災・迫害等に耐えた奄美の教会の中で戦前の姿をほぼ原型のまま残している唯一の教会」と
紹介されてもいるらしい(受け売り情報→元ネタはこちら)。


蛍光灯の照明が天井に取り付けられているが、もとはペンダント型の照明がついていたのだろう、
菊型ローゼットが残っていた。
思い直して中を見てよかった~


山越え中にぱっと目の前に現れた濃いピンクの緋寒桜!うわ~~きれい~~!しばしお花見。


海沿いを走っていると古い石垣にも出くわす。加工していない自然石を乱雑に積み上げた石垣は幅が1m以上ある。
民家は石垣に埋もれるようにして建ち海風や波から守られている。


南国らしい水色の海!ひゅ~ひゅ~~!!テンション上がる~~


島南部の西古見で見たのと同じ古いサンゴの石垣もあった。




こちら龍郷にある西郷南洲流謫跡。
西郷隆盛が奄美に3年間流されていたが、その間に愛加那と結婚して住んだ家である。


愛加那は奄美の名家、田畑家の一族であり、田畑家は後に龍家となった。龍郷という地名は龍家の本拠地という
ことなのだろう。
その田畑家の墓地が西郷南洲流謫跡の近くにあり、のぞいてみると、また「絶滅する墓」の本に載っていた
肖像墓を見つけた。ここだったのか!女性と男性の姿を結構リアルに彫った石像が、墓石になっている。
しかしよく偶然に見つけたものだ。呼ばれたのかな(笑)


こちらは龍郷教会。かわいらしい教会だが無人でドアも閉まっていた。


今度は「仏像墓」を見に行く。こちらは町指定文化財になっていてちゃんと案内板も出ていた。
じゃりじゃりの坂道もスクーターですいすい上れるので楽ちん~~


仏像の形をしているが埋葬された人の名前や年齢が彫られた墓石である。凝った彫刻を施した破風型の墓石と共に
1725年代に造られたものという。300年前か。材質は鹿児島の加治木石だそうだ。一部は割れ落ちている。


そしてようやくたどり着いた瀬留カトリック教会。広い敷地に急勾配の三角破風が印象的な聖堂と司祭館が建っている。
1908(明治41)年築で、登録有形文化財になっている。




中へ入ってみると、ここもまた驚いた!三廊式で凸型の天井は格間の板の向きを交互に違えてあって
格天井というより籠目のような趣。祭壇や柱も木の色でとても落ち着いた雰囲気で、美しい!
信者の方が来られたので少しお話しして、奄美のカトリックの歴史などについてお聞きした。


スクーターでのツーリングはこの辺で折り返し。
来た道はくねくね山越えや海沿いの道で車は少なく、ぱっと広がる景色に心躍らせる楽しいツーリングだったが、
食べるところが全くなかった(汗)。たまにある店も臨時休業だったり、イートインはダメだったり、、、
もう2時も過ぎているし昼抜きだな・・・と諦めかけていた時に見つけた「営業中」ののぼり。
「ブラッセリ―テイラ」という店。半信半疑でドアを開けると、ランチできると。あーよかった!
しかもパスタランチは何でも作りますよというので、オイル系でお任せしたら、きのこと干しエビのペペロンチーノを
作ってくれて、ボリュームがあって小鉢もついて900円って、なんと良心的!
ご主人といろいろお話しして帰りにみかんももらって、素敵なランチだった!

帰り道は国道58号線でショートカット。車が多くてちょっと怖かったけどまぁ無事に名瀬のまちまで戻り、
古田町マリア教会を見に行く。


レンガ調の円形の建物はとてもおしゃれでスタイリッシュ!2002(平成14)年落成。



島の北東部の笠利町にはもっとたくさんの素敵な教会があるようなので、また次回は車でめぐってみよう。

少しまちなかをうろついてからレンタルバイクを返却。ガソリン満タン入れたら、なんと1.1リットルで
200円の請求!?えーーっ、一日中走り回ったのにたったそれだけ?スクーターってそんなに燃費がいいのか。
買おうかな(笑)

続く
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再訪 高牟礼会館

2023-12-19 23:50:03 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き

久留米で高牟礼会館に立ち寄る。私は以前たまたま見つけて見学したことがあるが、未見の友人のために再訪。
前回は細い道を自転車でうろついていていきなり現れたのだが、今回いざ行こうと思ってナビをセットしたのだが
なかなか近寄れず、ぐるりと一周まわりこんでようやく見覚えのある門にたどり着いた。。。
2015年に訪れたときの記事→久留米をうろつく ~高牟礼会館


和館と連続したハーフティンバーの洋館。落ち着いた佇まいは全然変わっていなくてほっとした。


印象的な外観をさらに強めているアーチ型の窓。


側面もカッコイイのだ。


受付で見学をお願いすると快く了承頂けた。前と同じおっちゃんだったかどうかは定かでないが(笑)
近年は時々建築関係の人が見学に来るらしく、A4いちまいものの資料が用意されていた。


それによると、当初旧有馬藩士の板垣別邸であったと言われており、洋館は明治44年に増築されたようだ。
1900(明治33)年頃~、国分村役場
1911(明治44)年頃、旧陸軍第18師団長官舎として洋館・管理棟を新築
1925(大正14)年~、第12師団長官舎
第2次大戦後、米軍進駐により接収
1948(昭和23)年頃~、久留米市長公舎
1957(昭和32)年~、助役公舎
1972(昭和47)年~、久留米市職員共済会館「高牟礼荘」
1996(平成8)年~、市民の文化施設
実にさまざまな用途の変遷があったが、現在はさまざまな教室や会合などの場所として市民に利用されている。
いすとテーブルの会議室もあって和室もあるから重宝されているようだ。


ロビーの大理石のマントルピース。板が張られているが、外から見ると煙突もあるので実際に火を入れることの
できる本物の暖炉だったようだな。


その真裏の第3会議室のマントルピース。


ゴージャスな木製天井が格調高い雰囲気。


通気口もしっかりデザインされている。


一方第2会議室の天井はティンパネル張り。中心飾りもなかなかこだわったデザイン。
何かの会で使用中だったが管理人さんが声をかけて下さったら快く覗かせて頂けた。皆さんにこやかで親切~~


この部屋のマントルピースの上には、手作りの編みぐるみが、、、ほっこり。
こんなカッコイイ建物だけど気取りもせず、地域の人たちが日々交流の場として親しんでいるのが分かるね!


段々の窓のところはやはりトイレ、手洗い場だった。


和館の方も見学させて頂く。特に豪華でもない実用的な和室が廊下に面して並んでいる。


廊下の大きなガラス越しにお庭の緑が美しい。欄干がめぐっており、もとは吹きさらしの外廊下だったのだろうか。


和館も洋館もかなり床を高く作ってあり、これにより湿気を抑えているのと、ずっと使い続けているからだろう、
一部改修されているもののとてもきれいな状態を保っているように見える。




大事に使われている建物は美しい。久留米の住宅地にひっそりと佇む高牟礼会館、これからも長く使ってほしいなぁ。


ちょっとゆっくりしすぎた・・・渋滞のリスクを考えて十分余裕をもって博多へ向かうはずだったのに、
余裕時間をついつい見学に使ってしまったのだ(汗)。信号に引っ掛かるたびにナビの到着予定時刻が延びて
ハラハラ、ガソリンを入れる時間も惜しくてあたふた、こういう時に限ってレンタカー屋への道路を入り間違えたり・・・
何とか友人の飛行機に間に合って、私は博多駅へ移動、バリ得こだまでちんたら帰る。
今回も楽しい旅だった!しかし、旅の最後に博多から新大阪までこだまはさすがにキツかったな・・・(爆)

おわり。
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草野の近代建築とつばきのお花見

2023-12-19 02:19:51 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き


巨峰ワイナリーをあとにして今度は草野に寄り道。ここにも近代建築が集まっているのだ。
草野は平安時代から425年にわたり草野氏の城下町であり、江戸時代中期には久留米から天領日田へ通ずる
日田街道の宿場として栄えた。街道沿いには今もこのような立派な建物が残る。


その並びには1911(明治44)年築の洋館、旧草野銀行がある。
ペパーミントグリーンに塗られた下見板張りの四角い平屋建てで、入母屋破風の玄関ポーチがついている。
木造でも窓にはすべて面格子がはまっているのはさすが銀行だな。


現在は草野歴史資料館となっており、公開施設なので入場しようと近寄っていくと、、、
げげっ、「展示替えのため休館中」だと。なぬーーー
非情にも閉ざされた鉄扉には「草埜」の文字が。ちょっと中国っぽい。


通りから少し道を入っていくと、同じような色の木造建築が見えた。マップには「草野発心堂」と書かれている。


アンティーク屋さんのようだが営業しているのかどうかよくわからない。
さっきの草野歴史資料館と揃えているのか、何か関係があるのか・・・しかし私有の建物であるのは間違いない。
入口付近のデザインは歴史資料館よりも純洋風で凝った造りになっている。少し時代が下るのだろう。
壁の一部はドイツ壁で白いタイルがポイントに貼られている。


向かい合って建っている和館の方もなかなか立派でこちらも古そう。


裏の方へ回ってみると、窓辺に置いてあったのは・・・


「ちくごせんぞく」駅の駅名標??検索してみると、現在の九大本線うきは駅は元は筑後千足という名前だったらしい。
1931年(昭和6)年に筑後千足駅として開業、国鉄民営化後の1990(平成2)年にうきは駅に改称した。
その時不用になったものを払い下げてもらったのか買い取ったのか。
駅名標はなんだかこの窓辺からもの憂げに外を眺めているようにも見えてくる(笑)。


福岡県の指定文化財になっている鹿毛家住宅。非公開なので外観のみ。


その向かいに建っていたのは、火の見櫓。ぱっと見では古いものなのか何なのかよく分からないし、
足下だけ見るとコンクリート電柱にしか見えないが、見上げるとハシゴ状になっている。


「昭和二年四月建設」の文字が彫り込まれていなければ素通りしてしまうだろうな(苦笑)。


山帰来も残念ながらお休み。。。


こちらもまたペパーミントグリーンシリーズ。旧草野貯蓄銀行。わざと色を揃えてあるとしか考えられないが、
もともとこういう色だったのだろうか?WEB上の過去の写真を見ると違う色だったこともあるようだし、
別に揃える必要もないと思うけど・・・(笑)


隣接する主屋の方が気になるな・・・なんかいいもの持ってそう。

雨は降り続いている。。。私は結構晴れ女だと思っていたけど、このときはパワー不足だったか。。

車で少し移動して山辺道文化館へやって来た。左右対称の堂々たる木造洋館は、旧中野病院。
久留米市花畑に建設中だった建物を、草野町で開院していた医師中野俊蔵氏が1914(大正3)年に当地へ
移築して完成されたのだそうな。こちらもまたペパーミントグリーン。


病院閉業後、建物は平成3年の台風で大きな被害を受けたが、補修されて美しい姿によみがえり、現在は
交流拠点として使用されている。ようやく雨をしのいで内部を見学することができてほっとひと息。。。
施設の方はとても親切に対応してくださった。


内部も美しい装飾が随所に施され、病院とは思えないような華やかさ。


特に2階の大きな広間は正面にバルコニーまでついていて、どこぞの邸宅のダイニングかと思うような
華麗な雰囲気が漂っている。どういう用途の部屋だったのだろうか。




昔の写真が飾ってあった。裏に病棟が建っていたらしいが今はない。


床下通気口は桜のマーク。


病棟が建っていたであろう場所は現在駐車場とちょっとしたつばき園になっている。ここには品種改良された
多くの種類のつばきが植えられていて、このときちょうど花盛り!


赤と白が大胆に混じった大きな花はゴージャス!淡いピンクはほんわり優しい。花びらの先端だけ紅をさした
ようなのは色っぽい。小さくて可愛らしい花をたくさんつけるものもあり、本当にそれぞれの美しさを
競い合うように咲き誇っている。
傘を差しながらのお花見だったが、雨に濡れてつややかな姿は一段と美しかった。








そのあと近くにある「世界のつばき館」にも行ってみた。草野は昔から有数のつばきの産地であり、
品種改良もさかんに行われていた。豪華な「正義」が久留米つばきの看板品種のようだ。
ハウスの中に珍しいつばきの原種などがたくさん植えられていた。つばきはお茶の仲間で、中国やベトナムの原種は
黄色い花を咲かせる。金花茶(キンカチャ)という蝋梅に似た黄色い小さな花がぽとぽとと落ちているのも美しい。


他にも久留米つばき園というところもあり、ゆっくり時間があれば行ってみたかったが、今日は旅の最終日。
博多まで戻らなければいけないのであまりのんびりもしていられず、、、つばきのお花見もこのぐらいで。

続く
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田主丸の建築と巨峰ワイナリー

2023-12-06 23:38:23 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き

最終日はあいにくの雨。小倉から出発した旅だが、ゴールは博多の予定である。
泰泉閣を出て久留米方面へ走り、いくつか近代建築がある田主丸に寄り道しよう。筑後吉井のまちは今回は残念ながらパスした。

旧田主丸郵便局。「ライフショップのだ」の看板が出ているが、営業しているのかどうか不明。


正面だけの看板建築でなく奥行きのある木造ビルだ。側面には装飾がないものの正面と同じ仕上げ。


田主丸商店街を歩くと、洋風意匠の建物がいくつもあって楽しい!傘を差しながらはちょっと煩わしいが・・・
宮崎陶器店。ここは現役店舗。


綱を着けたえびす様?かわいい(笑)


通りに妻を見せた古い商家も2階に縦長窓を並べ、ペディメントに見立てた妻壁には洋風のレリーフがみっしりと!


窓の上には「K.KOGA」の文字が見られる。


いかにも銀行然とした建物。空き家っぽい感じだな。。。




先を急ごう。見学とお昼を兼ねてやってきたのは、耳納連山の中腹にある巨峰ワイナリー。
田主丸は巨峰開植の地だそうで、1939(昭和14)年に品種改良で誕生した巨峰を、このワイナリーの先代を
含む5人の農家が昭和32年に200本、世界で初めて開植したという。巨峰栽培は田主丸の農家に広がり、
豊かに実った果実で当代当主が巨峰ワインを誕生させた。
ここの販売所ではさまざまなフルーツワインを試飲して購入することができる。
もちろん私は運転するので試飲はできなかったが・・・あまりお酒飲めない私でもちょっと味見したかったな。


雨がうらめしい・・・今は真っ白だが晴れていたら筑後川もきれいに見晴らせるだろう。


敷地内にはワインと食事が楽しめるレストラン「ホイリゲ」があり、ここでのランチが目的だ。
ドイツでは、新酒を飲ませるパブをホイリゲと呼ぶのだそうだ。


田主丸のまちを見下ろすパノラマ席でいただくおしゃれなランチにウキウキ♪・・・しかし、ちょっと早めのランチ、
今朝泰泉閣の朝食ビュッフェで食べ過ぎていたので、途中でおなかが苦しくなってしまった(苦笑)。


食後に地下貯蔵庫を見学する。あっ、これはタイルだ(笑)




なんと地下にこんなアーチ梁に支えられたとても広い空間があるのだ!ここでたくさんのワインが眠っている。
世界最古の巨峰ワインも!?




ドアが・・・あれっ?地下に下りたはずなのに、ここは地上?


外へ出たら目の前にはぶどう畑が夢のように広がっていた!ここは日本?ヨーロッパの修道院の果樹園に
迷い込んだようだ。なんだか魔法にかけられたような感覚。。。


単に山の斜面に建つ施設の、一段下から出てきただけなのだが。


ここへは人の車に乗せてもらって来る方がいいね!(笑)


続く
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ギャラリー安政からの、泰泉閣

2023-11-19 22:30:38 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き

日田でタイルアパート(旧朝日湯)の健在をいちおう確認したあと、うきは方面へ車を走らせ鏝絵の家を見に行く。


新聞に載っていたのを友人が見つけてくれたもので、高い左官技術を持つ古後紀昌さんという方が30年かけて
オリジナリティあふれる鏝絵で装飾したという建物である。建物は公開されているわけではないが、外観だけで
十分見応えがある。建物の壁や窓回りやいたるところに左官の技を使いまくっているのだ!


うさぎと猿と河童が描かれた妻壁の鏝絵。


洋風とも和風ともつかないオリジナルの装飾。黄色っぽい土が使われている。


蔵の基壇部は、例の泥だんご積みじゃないの!日田のまちなかのお店でこれと同じ壁を見かけたほか、
別の場所でも見たことがある。古後さんかその仲間の方が関わったのだろうな。


友人のためにくどづくりの平川家住宅と旧平川医院へ向かう途中、ランチを探してたまたま入った古民家カフェ、
ギャラリー安政。ここがなかなかよかった!
これはもと江戸時代に有馬藩の山守りをしていた野上家の邸宅で、母屋は1856年に建てられた。


他にあまり店がない山あいの道で偶然見つけて飛び込みで入ったにもかかわらず、オーナー東野ふささんの手による
充実のフレンチコースランチを頂くことができて感激!
重厚な古民家の空間は美しく手入れされ、作家さんの作品も展示販売されているほか、グランドピアノが
おいてあり演奏もされるそう。


そして土間のこのドアは・・・何と洋室だった!外観からはまさか洋室があるなんて想像もしていなかった。


中を見せてもらうと、おぉ~~っ、素敵な天井!!
もちろんこれは近代に入ってからの改築だろうが、なんと意外でおしゃれな空間なのだろう。
事務所っぽく使っておられるようだったが、ショップか客席にすればよさそうだなぁ。


ゆったりしたひとときを過ごしたあと、旧平川医院くどづくりの平川家を再訪。




そして一路山を下り、今宵の宿原鶴温泉の泰泉閣へ。泰泉閣はそれまで数か月間、改修工事のため休業されていて、
リニューアルオープンが何とうまい具合に今回の旅の最終泊の日だったので即予約。
『日本全国タイル遊覧』の本でお世話になったのでご挨拶に再訪したいと思っていたのだが、はからずも再開初日に
駆け付ける形となった。


施設管理部長がことのほか喜んで下さって、メンテナンス時間帯にジャングル風呂を案内して下さった。


子供の頃ボイラー室の中で兄弟で遊んでいたなどの昔話をお聞きしたり、一緒に記念写真まで(笑)


ジャングル風呂のタイルが表紙を飾っているということで売店にも本を置いてくださっていて感謝!


こちらの壁面レリーフも高田一夫氏の作品なのか、又は他のアーティストによるものなのか?



泰泉閣はこの後7月の豪雨により、1Fの調理場や事務所、浴室、離れ客室なども全部浸水し、再び休業を
余儀なくされた。川沿いの広々したロケーションにある泰泉閣はたびたび水害に遭い、今回夏休み目前の被災は
本当にお気の毒であったが、なんとも逞しく1ヶ月で復旧、再オープンされた。あぁ、また泊まりに行こう。

続く。
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日本丸館を見学。

2023-11-11 23:00:21 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き

豆田町のシンボル的な建物のひとつ、日本丸館は、建ちの高い2階の上に展望楼が載った独特のフォルム。


日本丸とは、安政2年創業の老舗岩尾薬舗がかつて製造していた薬の名前。「にほんまる」でなく「にほんがん」と読む。
この建物の1階では今も薬屋を営業されているが、建物の大部分は資料館として一般公開されている。
日田に着いた日は時間がなかったので翌日の朝にゆっくり見学させてもらった。


店舗に併設する蔵の奥には昔の作業場が残されており、石畳の床や流し台なども見られる。道具類もたくさん
置かれていて、ここで生薬を煮たり砕いたりして薬を作っていた光景を彷彿とさせる。


この流し台が変わっているな!表面に墨流しのような模様が入っているのだ。「人造石仕上げ」と説明が書かれて
いたが、いったいどうやって作られたのだろう?色を付けたモルタルを交互に流し込んだとしてもこんな細かい
縞はできないだろう。


一部欠けた部分を見ると、表面だけでなく内部まで縞になっていた。
陶芸の練り込みのように粘土で作ったのだろうか?・・・ということは焼き物??不思議・・・




蔵の2階と3階には資料が満載!そこここに古いホーロー看板やらパッケージやら、ノベルティやらが所狭しと
飾られていて楽しい楽しい!


日本丸は、岩尾家に300年来伝わる家伝薬を明治20年に岩尾昭太郎が商品化したもので、昭和40年代まで
製造されていた。日の丸をイメージしたという赤い丸薬は、梅仁丹のようだ(笑)。


蔵から母屋3階の展望楼へ上ることができる。もとの展望楼は昭和初期に造られ、四方が杢枠付きの窓だったが、
1991(平成3)年の台風19号により損壊したため修復された。




現在はシンプルな部屋だが、そこからの眺めは素晴らしい。ほぼ同じ高さに、私たちの泊まっている若の屋の部屋が見えた。


母屋の2階の2間続きの座敷にはこの時おひな様が飾られていた。1階は明治初期、一部は江戸末期の築だが
2階は明治後期に増築されており、床の間や欄間、火灯窓など凝った意匠が見られる。


そして、なんと座敷の前には庭があるのだ。えっここは2階では・・・!?
なんと空中庭園である!かつては噴水もあったとか・・・すごいな!


空中庭園の横の通路から、離れの「隠宅」につながっている。


そしてこの通路の途中にタイル貼りのトイレがあるなんて、なんと面白い!無釉モザイクタイルの市松貼り。
モダンなこと!


階段の柵もこのような、洋風なのか中国風なのかわからないが面白いデザイン。


離れは江戸後期~明治時代の建物ということだが、2階の座敷は明るく洗練された近代和風らしい空間だ。


増改築が繰り返された日本丸館はいろんな時代の要素が入り混じり迷路のようで楽しかった!



前後するが前日の夕方、教えてもらった喫茶店で閉店ギリギリ駆け込みでマイセンのタイルを見せてもらった。
ドレスデンにある世界一美しい牛乳屋「プフント兄弟のドレスデンの牛乳屋」の壁にあるのと同じものとか。


青いタイルは「ブルーオニオン」シリーズ。50年以上前に製造終了となっており大変貴重で入手困難だそうで
ご主人の自慢の品だ。


続く
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伯亭若の屋に泊まる

2023-10-31 23:59:24 | 建物・まちなみ
2023年3月の九州北部の旅、続き

日田の宿は、友人が予約してくれた、150年の歴史を誇る老舗の木造旅館、伯亭若の屋。
伝建地区である豆田町のまちなかというこの上ない便利な立地で、車も無料で停められるなんてありがたすぎる!


玄関を入ると赤いじゅうたんが敷き詰められていて、紫の家紋入りの幕がいかにも老舗らしい。わくわく!


表は割と新しく見えるが奥に続く建物は昭和初期らしい意匠がそのまま残っている。




階段を上って3階へ・・・エレベーターはないが、階段の上り下りのしんどさも含めて木造旅館の楽しさである。


私たちが泊まった部屋は3階の角部屋。一歩入ると、廊下のガラス窓ごしにぱっと視界が広がった!
うぉ~~!これは特等の部屋じゃない!?


2方にガラス張りの廊下が回っており、豆田町の屋並みが一望できる。付近には高層ビルやマンションもなく
3階建てすらあまりないのだ。


「屋久杉のお部屋」と言われるだけに室内には上質な木材がふんだんに使われている。
しかしこの床柱は杉ではないだろう。ケヤキかな?




廊下の突き当りにあるトイレと、別の客室。3段ぐらいの変な階段があったりして、古い旅館のつくりは面白い。


2階の大広間の廊下。


食事は「蔵春閣」という名の1階奥の座敷にて。大倉喜八郎が建てた蔵春閣とは全く関係がないと思われる(笑)。
田舎に行くと外食できる店がなかったり、予約のみとか、早く閉まったり、たまに食いっぱぐれることがあるので
旅館で食べれば安心。旅館ではもっぱら2食付き。


この部屋も近代和風らしい細かい凝った意匠ががそこここに。




大きなきんちゃくに乗った布袋さん!?


このとき3月だったので食事もかわいいおひな様の設えで。人形の中に料理が入っていて驚いた!


実際は夕食の前に町へ繰り出し建物見学に。私は何度も来ているが友人は日田は初めてというので、ひと通り回る。
料理屋みたいな石張りの表構えの1階に、グレーのモルタル塗りの2階が、そして増築っぽい3階が載った、
ヘンテコだけどカッコイイ外観の船津歯科。


この船津歯科の玄関に敷き詰められたタイル、、、前回も見たけどかなり面白い。
腰に貼られたこの蛇紋岩風のマーブルタイルは中央がふくらんでいて、私が「ふっくらタイル」と呼んでいるもの。
お店のショーケースなどでちょくちょく見かけるが、壁だけでなく上がり框にまで貼られているのが変わっている。


・・・というか、このタイプのタイルが水平に貼られているなんて見たことがない!
だってさ、床にぽこぽこ凹凸ができるわけで、歩きにくいし滑りそうじゃない!?ものを置いても不安定になるし。
足つぼ刺激コースじゃあるまいに(笑)。どういう意図でここにこのタイルを貼ったのだろう。


こちらのイチョウ形無釉モザイクタイルもいいね!


こちらは広瀬資料館、咸宜園を開いた儒学者廣瀬淡窓の生家である。改修工事のため2018年から休館しており
再オープンをずっと待っていたのだが、オープンは何と4/1からなので2週間後。あぁなんと惜しいことか・・・
建物の前まで行ったら、おや?門が開いている。一部先行でオープンしているのか?


のぞきこんだら係の方がいて、尋ねるとやはりオープンは4/1ということだったが、事務所外壁のなまこ壁を
見せてもらうことができた。


なまこ壁の一部に8寸角の本業タイルがはめ込まれているのだ。こういうのはありそうでなかった!
他の貼り瓦と同じサイズなら全部を本業タイルに置き換えることも可能だが、釉薬がかかっているタイルには
目地の漆喰の付きが悪いからだろう、ポイント的に使われているのみ。本業タイルは4枚見られたが、
他のところにもあるのだろうか?


もうオープンしてるから、また今度日田に行ったら入場して探検してみよう~


草野本家もここ8年間もずっとやっていた大規模修復工事がやっと終わって、こちらはオープンしていたので入場。
・・・あれ?写真撮影禁止なんだっけ?写真が一枚もない。。。写真がないとどんなんだったか思い出せないな(汗)

続く
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中島家住宅と小石原焼の里

2023-10-28 23:20:57 | 建物・まちなみ
2023年3月の旅。

嘉麻の常盤館からの続き。



2泊目の日田へ向けて南下する途中、添田の中島家住宅へ立ち寄る。


中島家は、はぜろう、醤油、酒などの製造販売を営んだ家で屋号を「綿屋」といった。
旧日田街道に面した屋敷には江戸時代安政6年に建てられた主屋のほか、門や塀、蔵などの附属屋も残り、
重要文化財に指定されている。


近代の増改築、昭和中期の改築を経ているが、基本近世の建物なので結構地味だし調度品もないなかで
目を惹くのは仏間の大きな襖絵と座敷の地袋の襖絵である。


これらの襖は座敷の改修後1886(明治19)年に新調されたもの。
仏間の花卉図は、大宰府生まれの吉嗣梅仙の作。


こちらは息子の吉嗣拝山の作。


かわいい松の引き手。


以前日田から乗ったJR日田彦山線代替バスの車窓から見て気になっていた庄宮城医院も見に行く。
2020年の記事
当時は添田~日田間が豪雨被災後運休になっていたのだが、その後廃止されてしまった(涙)。


レンガ塀に囲まれた庄宮城医院は現役のようだがこの日は門が閉まっていて、広い前庭ごしに奥の建物はよく見えなかった。
美しいレンガ蔵がひとつ見えた。


そのあと『日本全国タイル遊覧』の本でお世話になった小石原のやままる窯を再訪して、外のデッキでお茶を頂きながら
成美さんとおしゃべりをして、お皿を購入。


タイルみたいな陶板も少しあって、試作品と言われていたが、ラスター釉や独特の色合いがとても素敵だった!


やままる窯で教えてもらったレストラン「ふぇありお」へランチに。
そこは旧小石原小学校をリノベーションした「アクアクレタ小石原」という複合施設の一角にあり、野菜を使った
ビュッフェが人気と聞いていた通りすでに満席で、結局名前を書いてから1時間近く待ってようやく入れたほど。
待つ間にうろうろしてみると、広い校庭は芝生の公園になっていて子供が走り回り、一隅にはテントが並んでいて
キャンプができるらしい。校舎内では陶芸ができたり、ワークショップやイベントも行われるようだ。
結構大きな校舎なのだが持て余すこともなく洗練された雰囲気で、かなりうまく使われているよう。へぇ~~!


過去の卒業記念につくられた、小石原焼の登り窯をモチーフにしたタイル壁画、
やきもののかけらで作ったモザイク壁画が残されていた。




このかけら、もちろん小石原焼であり、色合いや風合いがとても美しいなぁ!


飛びかんなの模様もさまざま。


ランチはメインの料理が来る前にビュッフェのお惣菜を山盛り食べてしまったうえにメインがすごいボリュームで
しかしどれもとてもおいしく、最後はかなり頑張って食べ切った(苦笑)。そりゃ大人気のはずだわ!


さらに下る。だいぶ時間が押してしまったので、日田彦山線の橋梁群は端折ることにして、
大行司付近でちょっと寄り道。これも元学校だろう。


旧小石原小学校がうまく活用されて大勢の人で賑わっていたのを見たあとだけに、こちらは放置された感じで寂しいなぁ。。。


古民家に住む知り合いのご夫婦を訪ね、手作りのシナモンロールをごちそうになり、建物を見せてもらったり
おしゃべりしたりして楽しい時間を過ごした。


続く。
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嘉麻の常盤館に泊まる。

2023-10-06 23:16:40 | 建物・まちなみ
伊田から少し南下し嘉麻市にある常盤館という旅館にやって来た。ここが今宵の宿。
鉄道網の空白地で休日はほとんどバスも走っていない不便な場所だが、やはりここも炭鉱で栄えたまちで、
かつては国鉄上山田線が通っていたが、石炭産業が斜陽となり1988(昭和63)年に廃止された。


こんなローカルなところにある旅館だが、これが実に最高だった!木造旅館好きの友人がチェックしておいて
くれたもので、ここに泊まるのをメインにプランを組み立てたのだった。


外観以上に内部がおもしろい。玄関を入ると、長い廊下が奥へと続いている。




玄関脇には洋室が設けられている。現在は待合室ぐらいにしか使っていないようで。ちょっともったいないな。。
大きな戦艦の模型が飾ってあった。


さて、長い廊下を奥へと案内され、お部屋へ。途中の廊下の床は古い旅館でよく見かける那智黒と丸太の
輪切りを埋め込んだ意匠。


輪切りの木は艶があって固そう。ケヤキだろうか。


丸太に開いた穴を松に見立ててあるのも楽しい。


こっちはカエルだ!?わざとあけてあるのかな?




私たちの部屋は二階の角部屋の「梅の間」。廊下が二方に回っており、窓はすりガラスの縁取り、型板ガラス、
木製の格子、などを組み合わせてとても凝っている。


お庭全体を見渡せる特等席、いや特等部屋。他にお客はいなかったからね。
つつじの季節にはいちめん真っ赤になるという。花を楽しむために訪れるリピーターもいるという。


泊まった部屋の天井は、端から端まで、2間の長さの一枚板だ!




食事をいただいた「つつじの間」。


書院には折り鶴の組子が。


そしてお料理が絶品!!どれもこれもが本当においしくて、高級料亭にも引けをとらないと思う。
明治36年創業で現在5代目という常盤館。温泉地でもないし付近には特筆するような観光地もなさそうなのに
今まで120年、炭鉱閉山後も続いてきたのは、お料理のおいしさによるところが大きいのだろう。
特に冬のふぐ料理が名物なのだとか。またいつか食べに来たいな~


夜にはライトアップされたお庭を見下ろし、内側から照らされた障子や型板ガラスを廊下側から愛でる。
昼に見るのと夜に見るのでは印象が全然違う。この楽しみは宿泊してこそだ。
ガラス張りの廊下は外から見ても行灯のように光輝いていたことだろう。




続く。
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伊田のまちをうろつく。

2023-10-04 23:29:02 | 建物・まちなみ
料亭あをぎりからの続き。

炭鉱全盛期にかなり栄えた伊田のまちは、エネルギー変革により昭和3~40年代に炭鉱が立て続けに閉山したため、
例にもれず昭和レトロなまちなみを残している。
以前もちょろっとだけ歩いた伊田商店街を今回も歩いてみた。


田川伊田駅はJR九州の日田彦山線と、平成筑豊鉄道伊田線・田川線が合流する駅。


商店街を歩くといろんなタイルも見られる。ここは元スナックかな?今は空き家のようだ。
枯れた観葉植物がちょっと物悲しいが・・・


かけらモザイクの落ち着いた色合いがいいね。


お店は昭和なファサードやレトロなフォントの看板など楽しい。天真爛漫な時代。


これもタイル。花柄のプリントタイル。




背の高い板壁の建物が現れた。古そうだぞ。鉱滓レンガの塀もあるな。これは何だ。




・・・と思ってぐるっと回ってみると、前にも見た洋館だ!RealWorksという看板が出ていて
13年前から変わっていないようだ。旧長野写真館。戦前か戦後か。




その向かいの建物も古そうだな。。
それにしても窓のバッテンテープ貼り、台風対策なのだと思うが、、、窓ガラスにテープを一度貼ってしまうと、
これがもう本当に取れないんだな。粘着力の弱い養生テープなら簡単にはがせるだろう・・・なんて思うなかれ。
ガラス面にはなぜかベッタリ張り付いて取れなくなるのだ。要注意!!


遊廓だったというエリアを少しうろついてみる。
名残というほどのものは大してなく、旅館だったらしい建物や飲み屋があるくらい。


変わったタイルだな!立体的なデザイン。角部分は役物で仕上げておらず突き合わせなのがちょっと惜しい。。。


松の形の風穴のある塀。


この二鶴食堂の外観に衝撃!これセットじゃないよ、現役の食堂!!入ってみたいなぁ~


付近をひと回りして戻ってきたら閉店していた。あぁ~


立派な田川伊田駅舎は以前からあったが、近年駅舎ホテルが開業したとか!?
時を止めたようにレトロな伊田のまちもまた新たなツーリズムの視点で注目されてきているのかな!


車でちょっと走って九州マクセルの工場を見に行く。敷地内には旧三菱方城炭礦の旧本部事務所、坑務工作室、
機械工作室、圧気室、土蔵などの赤レンガの建物群が残る。赤煉瓦記念館は公開されているが平日のみ、かつ予約制らしく、
この時は閉まっていて道路から高い塀越しに眺めるのみ。。。


続く。
コメント (2)
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伊田竪坑と料亭あをぎり

2023-09-26 23:24:48 | 建物・まちなみ
今年の3月に友人と九州へ行ってきたときのことを。

私はフェリーで新門司へ入り、小倉で前泊の友人とレンタカー屋で合流。
今回も料亭・木造旅館とタイルスポット、近代建築、土木遺産などをめぐる計画。

まずやってきたのは田川伊田。ランチの時間までまだしばらくあるので、伊田の石炭記念公園を見に行く。
日田彦山線は大好きだったし平成筑豊鉄道の駅めぐりをしたこともあるので、このあたりは何度も来ていて
高い2本の煙突はいつも遠目に見ていたが、間近で見上げるのは初めて。

「平成筑豊」で検索した過去記事→こちら

石炭記念公園は三井田川鉱業所伊田坑跡を公園として整備したところで、高さ約45.45m、
根元の外径5.8mもあるレンガの煙突と、高さ23mの竪坑櫓が、炭鉱のシンボルとして残されている。
ドアもあって人が住めそうだな!(笑)


1909(明治42)年に完成した巨大な竪坑櫓。この真下に直径5.5m、深さ約314m(!!?)の
竪坑があって、そこから横へ坑道が伸びていたとか。ひえぇぇ~~~(恐)


そしてこの竪坑櫓は、その深い深い穴を上り下りするためのエレベーターである。


この2段式のケージを穴の中に吊るしてワイヤーを巻き上げる。掘った石炭を運び出し、人もこれで上り下りしたのだ。
あぁ、300mも地の底へ降りて行くのはいったいどんな気分だったのだろう。。。

以前見た大牟田の宮原坑のも同じようなタイプでもう少し小さい竪坑櫓で、志免の竪坑櫓は1943(昭和18)年
完成のかなり新しいタイプ。

資料館の屋外スペースにはかわいい凸型の電気機関車や炭鉱で使用されていた機械類が展示されている。


ジオラマを見ると、今は広い芝生になっているところはかつてたくさんの建物が建っていたことがわかる。


石炭は燃やしてエネルギーを得るだけではなく、さまざまな素材の原料となり、製品となる。
黒い塊からどうやったら繊維や甘味料ができるのか・・・化学は全然分からないが、、、このような大変有用な
鉱物が地下を掘れば掘るだけザクザク出てくるのだから、そりゃ掘るわな。


しかし現場は実に過酷だ。狭くて暗くて空気の淀んだ坑内での重労働。閉所恐怖症の私は模型を見るだけでぞっとする。。。
藏内邸や、伊藤伝右衛門邸、高取邸など、豪華な邸宅を持つ炭鉱王の富は、このような粉塵にまみれた労働者の
血と汗によって蓄積されたものであり、日本の近代化も彼らの日々の労働なくしては実現しなかったのだ、と
いうことをあらためて教えてくれる。


さて、そろそろ予約しておいた料亭あをぎりへランチに。


料亭あをぎりは旧林田春次郎邸。林田春次郎は伊田村長から初代田川市長も務めた人で、炭鉱閉山後をも視野に
入れた将来の理想を掲げ、政治家として地域の発展に尽くした。


1914(大正3)年築の本館と、1934(昭和9)年築の新館からなる。
玄関があるのが本館。着物姿の女性に案内され、新館1階の個室へ。おや、洋風の階段が。2階もあるのだな。
新館は銅板葺きだったことから「銅御殿」と呼ばれ、炭都の繁栄の象徴であった。




上質で落ち着いた書院造のお部屋。


少し高みに建っているので視界が開けている。


筬欄間と透かし彫りを組み合わせた欄間が美しいな!




炭鉱のまちで迎賓館の役割を担ってきた料亭。気取らず、それでいて晴れやかな場だ。
お料理はリーズナブルでおいしかった!


食事のあと2階の見学もお願いしたら快く案内してくださった。


折り上げ格天井2間続きの大広間。1階よりもゴージャスな仕様だ。


格板は屋久杉だろうか。


広間の外側に幅1間の畳廊下がついているが、いちばん奥が仕切られて小さな部屋になっている。
丸窓を覗くと・・・


この小部屋もまた折り上げ格天井。床の間もあり窓の障子には蓮の花の透かし彫りまでついていて凝っている!
優雅な隠れ部屋だろうか。なお、大広間の床の間の横からつながっている。

お店の隣には、林田春次郎の顕彰碑が建っている。

続く。
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連続沖縄 福州園と那覇市歴史博物館

2023-08-23 23:23:13 | 建物・まちなみ
7月の沖縄の続き。


今回は出張のついでだったので、とりあえず延泊したものの遊ぶ内容はあまり考えていなかった。
レンタカーも借りず、那覇のまちをうろついたり、徒歩やバスで手軽に行けるミュージアムなどを見て楽しんだ。
そして地図を眺めていて見つけたこの福州園は、住宅街なので旅行客はあまり行かないであろう「久米」という
エリアにある。しかし「久米村(クニンダ)」と呼ばれたこのまちはかつて中国福建省から渡ってきた人々の
子孫が代々住んだところで、琉球の歴史の中で中国との関わりを今に伝える重要な地域なのだった。


那覇と福州(福建省の省都)は友好都市。沖縄の人々と福州の人々は長い歴史の中で密接な関係を築いてきた。
この福州園は那覇市政70周年記念及び友好都市締結10周年記念事業として1992(平成4)年に建設された。
福州市が基本設計、木造・石造物の加工及び技術指導を行い、福州産の資材を使用。総面積8500㎡もある
本格的な中国式庭園である。テーマパーク的なちゃちい施設と思うなかれ、一歩踏み入れるとここが沖縄か台湾か
中国かわからなくなるほど、お庭の造りも点在する建築物も造り込まれた、落ち着いた庭園なのだ。


園内外の壁にはいろんな形をした「漏窓」があって楽しい。



園内には大きな池があり、いろいろな塔や亭が点在している。一筆書きですべての園路を歩きたい。
中国の伝統に忠実に造られており、足下には小さな丸石を敷き詰めた「鋪地」と呼ばれる芸術的な敷石もある。
石も木も、南国で完成後30年も経てば自然としっくりなじんでくる。




この小石も中国産なのだろうか。


国際通りにはインバウンドをはじめたくさんの観光客が闊歩していたが、ここは数組の客しかおらず静か。
「桃花渓」に張り出した展望台「凌波楼」に腰かけると、鯉がうじゃうじゃと寄ってきた。


ふと見ると鯉のえさが売っていたので一袋買い、ほれほれと水面に投げると、集まった鯉たちは他の鯉より
前へ前へ我先にと、空中へ飛び上がらんばかり。大きな口をパクパクしながら水面に折り重なる鯉たちを見ていると
何かほっこりするのはなぜだろう。「我が我が」と本能むき出しの人間は醜いが、なぜ鯉だとかわいいのだろう(爆)


知春亭と名付けられた小亭は円錐形の瓦屋根が美しい。「すべて円満に」という思いが込められているとか。


天井を見上げると何とまぁ美しい!吸い込まれるようなこの装飾も木製に着色したもの。


手すりには蛾の装飾が!?鶴岡の新茶屋大広間の装飾を思い出した。




「垂花門」をくぐりメインの欧冶池の方へ。大きな池の周りには人口の山や滝も造られており、池ごしに
対岸の建物を眺めては、一足ごとに変化してゆく風景を楽しむ。




・・・と、突然雨が降り出した。スコールだ!慌てて「冶山」に登山(笑)。山頂にある「冶亭」で
福州園全体を見下ろしながらしばし雨宿り。幸い5分ほどでぴたっと止んでくれた。
この冶山の中腹に滝があり滝裏へ回り込む小径もあるがスコールの後に岩の上を歩くのは危険なのでパス。。


福州園を出てまたふらふら公設市場付近まで行ってお昼を食べたあと、空港へ向かう前に、パレットくもじ内に
ある那覇市歴史博物館へ。
ちょうど、「絵図で探検 なはのまち」という展示をやっていて、地図や絵図がたくさん展示されていた。


興味深かったのは、「昭和のなは」と題された、戦前のまちなみを一部を復元したジオラマ。
私はこれまで何度も沖縄に来て、首里城やグスクなど琉球王朝時代の遺跡、ひめゆりの塔など戦争の悲劇の地、
基地やアメリカの雰囲気をまとったまち、本土資本が席巻した近年のロードサイドなど、いろいろな風景を
見てきたが、そういえば、戦争直前の那覇のまち、庶民の暮らしがどんなんだったか、あんまり知らなかったかも。
ジオラマを見ると、那覇市公会堂、那覇郵便局や山形屋沖縄支店など、本土にあったのと全く変わらないような
近代の洋風建築が沖縄にもたくさん建っていたようだ。実際の建物の写真も展示されていた。


それらの位置を現在の地図と重ねてあるのも興味深い。今の那覇の街割は戦争で焼け野原になったあと
区画されたので、当然もとのまちの痕跡は残っていないし道路の形は全然違っている。
いくつかの商店についての説明もあり、奈良出身者による雑貨店、鹿児島出身者による書店など、
多くの人が本土から沖縄へやって来て事業をしていたことが分かる。都心だけ見るならもしかすると
戦後よりも「本土っぽい」まちだったのかもしれない。


戦前の那覇の中心地は、現在の「東町」「西町」あたりで、戦後は軍港に近いため米軍に強制的に土地を
取り上げられ立入ることができなかったという。
「那覇市軍用地解放図」には、細かく区分けされたエリアごとに、解放された日付が書き込まれており、
数日ごとに少しずつ開放されていった様子が分かる。
米軍向けの食器を製造させるために壺屋がいち早く開放されたことで、壺屋周辺、国際通り周辺が早くに復興した。


「琉球貿易図屏風」(19世紀)がまた見ごたえがある。地形がデフォルメされているのも興味深いし、
こまごました人物が服装や持ち物、しぐさまでもいきいきと描かれている。
(屏風全体を撮るの忘れた。WEB上に図版を見つけた→こちら)。
中にはこういう赤ずきんをかぶって踊る人が何人か描かれていて、ウォーリーを探せ!みたいに絵図の隅から隅まで
目を凝らして探すのも面白い。この人がいったいどういった人なのか、まだ謎らしい。


別室には、琉球国王の「玉冠(たまのおかんむり)」が展示されていたが、その美しいこと!
金、銀、桃色、赤、緑、黒、透明、の7種類の玉が取り付けられている。
これは忠実に再現した複製品であるので写真もOK。本物は国宝である。1996(平成8)年に、尚家第22代
当主から那覇市に寄贈されたとのこと。そんな話を聞くと琉球王朝の栄華がついこないだのように感じる。

那覇市歴史博物館はビルの中の3部屋のみのスペースで、さらっと見るだけなら15分ぐらいで見終わってしまう
だろうが、じっくり見ると面白く1時間半ほど滞在した。ここは県庁前駅からモノレールに乗る前に立ち寄れて、
時間ぎりぎりまで過ごせる恰好のスポット。とてもおすすめ!
今回はあまり動き回らずミュージアムをゆっくり見て回ることができて、沖縄をより深く知ることができたし
さらに興味がわいてきた。また沖縄に行こう。

おわり。
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連続沖縄 なはーとと自由民主会館

2023-08-15 01:54:16 | 建物・まちなみ
7月の沖縄の続き。


宿からふらふら歩いてまちなかの建物を見に行く。
「那覇文化芸術劇場なはーと」。数年前に来た時モノレールの車窓からちらっと見えて気になっていたのだ。


国際通りとゆいレールの高架にはさまれた久茂地のまちなか、住宅や小さな飲食店が建ち並ぶエリアに、
どーんと建っていた。手前の古いビルからすると要塞のようだが・・・


コンクリート打ち放しの壁は大ホールの部分なのだろう、ぐるっと回っていくと、表側はダブルスキンの
スクリーンに覆われたファサードである。フリーハンドのような柔らかい曲線が重なる。


なんとなくニュー新橋ビルを思い出させる、織物のようなメッシュは見た目に涼しげだ。


なはーとは2021(令和3)年10月にオープンしたところなので、前回見たのは竣工間近な状態だったの
かもしれないな。




1階の壁はいろいろな形の花ブロックが積み上げられていてかわいい。


こっちが正面のようだな。大きな建物だが「手の届くような」スケール感。圧迫感はあまりない。
数ブロックを併せた大きな区画は、もともと何があったのか?検索してみると、久茂地小学校の跡地らしい。
そして前回見に行った、那覇市民会館が老朽化したので代わりに計画された施設だったのだ。


内部は外観の印象よりも広くて高さがある。花ブロックは内部にまで続いていて、建物の中に建物があるような
ちょっと不思議な空間だ。




WEB上で見つけた建設記念誌によると、2015(平成27)年に行われたプロポーザルで、香山・久米・
根路銘設計共同体の基本設計案が最優秀となった。外観のメッシュは首里織をイメージした「皮膜」で、
建物はグスクや美ら海など沖縄の歴史や自然もモチーフとし、路地やアマハジなどの沖縄の伝統的な生活空間の
イメージも取り込んで作られている。
「美ら海に潜る」大劇場は写真で見ても幻想的な雰囲気で、機会があったら入ってみたいなぁ!

記念誌には、構想から建設、オープンまで、関わった人々の想いがぎゅーっと詰まっている。
こちら


同じく久茂地のまちなかで、目の端にちらっと見えてはっとして見に行ったら、、、なにこのファサード、
焼き物じゃないの!!


うぉ~~っ、なまこ釉薬のたっぷりかかった焼き物が、アシンメトリーなビルの右半分の壁の3階まで
みっしり積み上げられている!これは壺屋焼なのか?


「自由民主会館」。政党の事務所なのか。


おや、ひとつだけ、何か文字が書いてあるぞ。ペンキで塗りつぶされたようだが・・・「沖縄建設会館」?
これはこの建物のもとの名前だろう。建築時に建物の名前を刻印したタイル(テラコッタ?)をはめ込んだが、
移転した時に塗りつぶしたと見える。


それにしても、あぁなんと美しいのだろうか。。。惚れ惚れと眺めまわす。完全に怪しい(笑)


隙間を見ると、筒状か半円筒形断面で、互いに差し込めるような構造になっているようだ。
タイルというよりテラコッタかな?心棒に固定しているのだろうか。


屋根の形も面白い。X型の梁が4本突き出し、その上に屋根が載っている。倉の置き屋根のように浮いて見える。


こんな美しいビルがあったなんて知らなかったなぁ。・・・と、後で「沖縄島建築」という本を買って
見ていたら、載っていたじゃないの!それによると、国建の仲宗根宗誠という沖縄の建築家の設計で、
1967(昭和42)年竣工。やはり旧沖縄建設会館とあった。
しかしそれ以上詳しいことは書かれておらず、ファサードのテラコッタのことは分からないままだ。

政党のビルだと覗きこんだりしていたらテロリストと間違われて通報されそうだし気を付けないとな(苦笑)

またかっこいいビルがあるなと思ったら、國場組のビルか。角が透かしてあるのが良い。


検索してみると、國場ビルディングは1970(昭和45)年竣工、國場組本社と多数のテナント企業が
入っている。


四方の犬走はこんな小石の洗い出し仕上げで、柱の足元を見ると美しくすりつけてある。洗い出しの土間は
エントランスまで続いている。大きなビルだがこういう手作業の跡が見えるのがいいな!


県庁前の舗道はみんさー織の模様をそのまま写したこんなタイル敷き。うわぁ~かわいい。
うまいことやっているなぁ!考えてみればタイルと織物は相性がいいんだな。


続く。
コメント
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