7月に、これまたモザイクタイルミュージアムの特別展「敷瓦の世界」の関連企画で瀬戸をめぐるツアーが
あったので、また瀬戸へ行ってきた。
朝からバスで行くと間に合わないので、金曜日に仕事を終えてからバスで名古屋へ向かい前泊。激安の宿に
泊まったら、まるで電話ボックスのような共同シャワーでさすがに不便・・・(苦笑)
朝から新幹線か近鉄特急で来るのと金額的に変わらないんじゃないの、とも思うが、朝が弱いもので・・・
ま、おかげで朝はゆっくり、8時すぎに名古屋駅前で車を借りて出発。

これはホテルの近くにあった喫茶店「モック」。あぁもう少し早く出てここでモーニングすればよかったな!



しかし、今年の7月は暑かった!!瀬戸市美術館の服部館長が案内してくれるというのでガンガン歩くつもりで
行ったのだけど、この日も猛暑で年配の方も多いことに配慮して予定のコースを大幅に縮小されてしまったのは
ちょっと残念、、、しかし解説を聞けたのはやっぱり面白かった。

焼き物の産地は数あれど、瀬戸・美濃のように陶器と磁器の両方作り、食器も花器もタイルも便器も飾り物も・・・
いろんなアイテムを何でも作ってきた総合的な産地は世界的に珍しいのだとか。
現在尾張瀬戸駅のあるあたりは近代以前、木曽の山から切り出してきた薪の集積場だったという。
江戸時代、初代尾張藩主の徳川義直が瀬戸の窯業を保護したことにより、活性化する。
「磁祖」と呼ばれる加藤民吉が九州から磁器の製法技術を持ち帰り、磁器も作られるようになって
生産量が伸びると、薪の消費も莫大となり、奥へ奥へと森林の木を切り出して行った。
明治30年には原料や製品の運搬のため、民間で鉄道を引いた。それが現在の名鉄瀬戸線の前身である。
薪の集積場だった場所は近代の再開発で問屋街となった。。
今も敷瓦を作られている丸岩製陶所へ。

幸運にも窯詰めを見せていただけることに。敷瓦は立てて焼く。

敷瓦と言っても建材でなく茶道具としてのものである。

お店の前には昔の銅板転写の敷瓦がたくさん埋め込まれている。
ここ湯の根地区は明治中期~大正期に本業敷瓦の生産の中心地であり、銅板転写の本業敷瓦の製造の本格的な
取り組みが始まった場所と考えられている。

瀬戸のまちなかを歩くといろんな製品の転用が見られて楽しい。陶枕は中国への輸出用に生産されたものだそう。
瀬戸・美濃では鉄分を含まない良質の粘土が採れたので、白い焼き物を作ることができ、絵付けが可能だった。

深川神社周辺は歓楽街で、外部から流入してきた労働者たちによって賑わった。
深川神社前の「宮前地下街」のことは前から不思議だったが、やはりあれは火除け地として盛り土された
ところにできたのだそうだ。

陶器製の狛犬。いや、獅子か?凛々しい姿。

ところで瀬戸には加藤さんという姓が多い。陶祖の家系しか焼き物を作れないという決まりがあったらしく
明治になって姓を持つことができるようになると皆「加藤」を名乗ったのだとか(笑)

緑色の屋根が美しい。葺き替え前の古い瓦が下に積まれていた。明るい草色に窯変が美しいなぁ~~


時代の要求に応じ柔軟にいろんなものを作り続けてきた瀬戸。これからどんな風に変わっていくだろうか。
ツアーが終わってから、同じく参加されていた小道さんと銀座通り商店街にできたカフェ&ゲストハウス
「もやいや」でランチ。この商店街にも若い人のセンスのお店ができてきたなぁ。それに、瀬戸の宿は
パークホテルしかなかったのでこういうゲストハウスなど選択肢が増えるのはいいことだな!
さて瀬戸まで車で来たのは、モザミューへ敷瓦展を見に行くため。瀬戸から多治見の笠原は、距離的には知れて
いるのに、県をまたぐせいか(ライバルだからか)直通のバスがなく、ハシゴするにはとても不便なのである。
車だとスイスイ~~おや、あれは何だ!?ストーップ!!

あっ、これは時々見かけるレリーフのタイルだ。西脇の来住家の湯殿の床に敷かれていたのと同じ模様で
青磁色と深緑色。しかし青磁のは模様がちょっと「甘い」。つい先日飫肥の高橋家で見てきたものと同じ雰囲気だな。

ブロック塀にはめ込まれており、近年貼られたものには違いない。

柴田善右エ門という表札と、「陶器商店 山善」のるり色の扁額。この扁額はタイルと同じく磁器のレリーフだな。
問屋だったから、塀を作ったときにデッドストック品のタイルを放出して貼ったのだろう。あぁ贅沢。

続く。
あったので、また瀬戸へ行ってきた。
朝からバスで行くと間に合わないので、金曜日に仕事を終えてからバスで名古屋へ向かい前泊。激安の宿に
泊まったら、まるで電話ボックスのような共同シャワーでさすがに不便・・・(苦笑)
朝から新幹線か近鉄特急で来るのと金額的に変わらないんじゃないの、とも思うが、朝が弱いもので・・・
ま、おかげで朝はゆっくり、8時すぎに名古屋駅前で車を借りて出発。

これはホテルの近くにあった喫茶店「モック」。あぁもう少し早く出てここでモーニングすればよかったな!



しかし、今年の7月は暑かった!!瀬戸市美術館の服部館長が案内してくれるというのでガンガン歩くつもりで
行ったのだけど、この日も猛暑で年配の方も多いことに配慮して予定のコースを大幅に縮小されてしまったのは
ちょっと残念、、、しかし解説を聞けたのはやっぱり面白かった。

焼き物の産地は数あれど、瀬戸・美濃のように陶器と磁器の両方作り、食器も花器もタイルも便器も飾り物も・・・
いろんなアイテムを何でも作ってきた総合的な産地は世界的に珍しいのだとか。
現在尾張瀬戸駅のあるあたりは近代以前、木曽の山から切り出してきた薪の集積場だったという。
江戸時代、初代尾張藩主の徳川義直が瀬戸の窯業を保護したことにより、活性化する。
「磁祖」と呼ばれる加藤民吉が九州から磁器の製法技術を持ち帰り、磁器も作られるようになって
生産量が伸びると、薪の消費も莫大となり、奥へ奥へと森林の木を切り出して行った。
明治30年には原料や製品の運搬のため、民間で鉄道を引いた。それが現在の名鉄瀬戸線の前身である。
薪の集積場だった場所は近代の再開発で問屋街となった。。
今も敷瓦を作られている丸岩製陶所へ。

幸運にも窯詰めを見せていただけることに。敷瓦は立てて焼く。

敷瓦と言っても建材でなく茶道具としてのものである。

お店の前には昔の銅板転写の敷瓦がたくさん埋め込まれている。
ここ湯の根地区は明治中期~大正期に本業敷瓦の生産の中心地であり、銅板転写の本業敷瓦の製造の本格的な
取り組みが始まった場所と考えられている。

瀬戸のまちなかを歩くといろんな製品の転用が見られて楽しい。陶枕は中国への輸出用に生産されたものだそう。
瀬戸・美濃では鉄分を含まない良質の粘土が採れたので、白い焼き物を作ることができ、絵付けが可能だった。

深川神社周辺は歓楽街で、外部から流入してきた労働者たちによって賑わった。
深川神社前の「宮前地下街」のことは前から不思議だったが、やはりあれは火除け地として盛り土された
ところにできたのだそうだ。

陶器製の狛犬。いや、獅子か?凛々しい姿。

ところで瀬戸には加藤さんという姓が多い。陶祖の家系しか焼き物を作れないという決まりがあったらしく
明治になって姓を持つことができるようになると皆「加藤」を名乗ったのだとか(笑)

緑色の屋根が美しい。葺き替え前の古い瓦が下に積まれていた。明るい草色に窯変が美しいなぁ~~


時代の要求に応じ柔軟にいろんなものを作り続けてきた瀬戸。これからどんな風に変わっていくだろうか。
ツアーが終わってから、同じく参加されていた小道さんと銀座通り商店街にできたカフェ&ゲストハウス
「もやいや」でランチ。この商店街にも若い人のセンスのお店ができてきたなぁ。それに、瀬戸の宿は
パークホテルしかなかったのでこういうゲストハウスなど選択肢が増えるのはいいことだな!
さて瀬戸まで車で来たのは、モザミューへ敷瓦展を見に行くため。瀬戸から多治見の笠原は、距離的には知れて
いるのに、県をまたぐせいか(ライバルだからか)直通のバスがなく、ハシゴするにはとても不便なのである。
車だとスイスイ~~おや、あれは何だ!?ストーップ!!

あっ、これは時々見かけるレリーフのタイルだ。西脇の来住家の湯殿の床に敷かれていたのと同じ模様で
青磁色と深緑色。しかし青磁のは模様がちょっと「甘い」。つい先日飫肥の高橋家で見てきたものと同じ雰囲気だな。

ブロック塀にはめ込まれており、近年貼られたものには違いない。

柴田善右エ門という表札と、「陶器商店 山善」のるり色の扁額。この扁額はタイルと同じく磁器のレリーフだな。
問屋だったから、塀を作ったときにデッドストック品のタイルを放出して貼ったのだろう。あぁ贅沢。

続く。
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