この話題は久々(ここでは初めて)。DVD特典の話等も含めてネタバレ有りなのでご注意下さい。
わりとうちに近いシネコンで、三部作のSEEを週替わりで上映してくれていました。
『旅の仲間』も『二つの塔』も劇場でSEEは観ていないのですが(DVDでさんざん観ているし)、『王の帰還』だけは劇場で観てみたかったのです。
また、昨日は誕生日でもあったし(笑)、まあ自分自身へのささやかなバースデイプレゼントということで。
実はレディースデイでもあったので、平日朝早くからという上映スケジュールにも関わらず、座席は7~8割埋まっていました。
大部分はコアなファンとお見受けしましたが、そこはそれレディースデイなので、今回初めてという人たちもいたようです。
それはともかく、インターミッション有りとは言っても4時間半の長丁場、ちゃんと観ていられるかどうか自信がなかったのですが、見始めてしまえばあの映画はやはり一気呵成ですね。睡魔に襲われたのは一カ所だけでした。どことは申しませんよ。別にそこが特別退屈だった訳ではなく、単にこちらの限界だったというだけのことですから。
でも、戦いのシーンは劇場版より細切れ度が増して、緊迫感が削がれた気がします。
改めて劇場で観て思ったのが、「情報」がやたらと豊富なのも良し悪しだなということ。
海賊さんたちを見ては「あ、PJ」とか「あ、リチャード・テイラー」だとか思ってしまったり、ファラミアの悲壮なオスギリアス特攻シーンで、DVD特典の「馬の話」を思い出してしまったり……
そうじゃなくても、ヴィゴやオーリを見ると、その後の仕事も知っているし、その他のことに関する情報もあちこちで目にして来たしで、以前みたいに虚心に「アラゴルン」や「レゴラス」としては見られなくなっていることに気がつきました。これもまた、自分が悪いんですけどね。
しかしそんな中で、『帰還』通常版公開後、他のどの俳優さんよりも関連情報を集め、追い続け、他の出演作品も観て来たデイヴィッド・ウェナム氏については、改めて見ても「デイヴィッド」を意識することは全くありませんでした。
そこにいたのは、やはり「ファラミア」だったのです。原作からかなり改変されているという問題は措いて、とにかくあの映画の中で、彼は紛れもない「ファラミア」としてそこに存在していました。
彼のフィルモグラフィーの中では実は異色な役ですが、本当に彼がファラミアで良かったと思います。
SEEで復活した父君との会話では、ファラミアが指輪の恐ろしさを十分認識していることも、父や兄を愛しながらも冷徹に見られる人だということも、明らかになっていました。
ピピンとの会話も、後になってピピンが命がけでファラミアを救けようとする件りの伏線となるし、見て心温まる可愛いシーンでしたしね。
そして今回注目したのが、ローハンとゴンドールに別れてしまったメリーとピピンのコンビ。
エドラスで二人が別れるシーンは、いつ見てもほろりとさせられるのですが、SEEで増えていたその後のメリーとアラゴルンの会話が実に良かったです。
エオウィンとの件りと言い、とにかくSEEではメリーの男前度がアップしていました。
元々原作からして、エオウィンとファラミア、更に「セオデン-メリー」「デネソール-ピピン」、そして「エオウィン-メリー」「ファラミア-ピピン」は対をなすものとして描かれていた訳ですが、SEEではそれがいっそう明瞭になっていました。
もう一度会いたい人がいて、取り戻したいものがある。でもそれだけではなく、いったん分かれた自分たちの場所で、それぞれに護りたい人が新たに出来たりもして、つまり「自分以外の誰か」を大切に思い、護ろうとするからこそ、彼らは戦うのだという、この映画のテーマが端的に表れていました。
但し「原作の」テーマとは少し違う気がします。勿論、原作に於ても「自己犠牲」は重要なテーマの一つではありますが、彼らが戦う相手としての「悪」とは何かということについて、原作ではもっと深く捉えています。
あくまでも映画限定でそのテーマを言葉で表現すると、やはり
" For Frodo. "(アラゴルン)
であり
" I can not carry it for you. But I can carry you ! "(サム)
になるのだと思います。
そう、いろいろ書いて来ましたが、私にとって映画『王の帰還』は、やはり一にも二にも、フロドと指輪の物語でした。誰の出番が少ないとか改変されたとかは、正直言ってどうでもいいです。
PJやこの映画のスタッフは、最も大切な点についてだけは誤ることはなかったと、私は思います。
もちろん、最重要テーマの為にも、その他のディテールをないがしろにしてはいけないという意見もあるでしょう。私もトム・ボンバディルと「掃蕩」全カットにはかなり落胆したものです。これらのエピソードは、上述した「『悪』とは何か 」を語る上でも欠かせないものだったと思うからです。
但し忘れてはいけないのが、これがあくまでも「映画」であること。PJやWETAのスタッフたちは、「悪」については、種々の造形や俳優の演技で表現し得ると思っていたのだろうし、その部分を信頼してもいたのでしょう。
それを「悪趣味」「グロ」「浅い」等々感じるのは、造る側と観る側の感性が合わないというだけのことなのですが、実はそういう感覚的な部分での拒否感こそが最も根深かったりするからこそ、厄介なのかも知れません。
熱心な原作ファンとして知られる黒沢清監督のように、初めから「観ない」という選択もあり得るのに、と思いますが、映画→原作ルートの人の方が「改変」に厳しかったりするのも不思議な話です。