ときどき
まだ続く『ダークナイト』感想。
この作品については一度で語り尽くせるものではありません。何度でも観たいし、何度でも語りたい。そういう映画です。
さて、この作品の主要登場人物の人間関係が幾つかの三角関係(トライアングル)で構成されていることは、既に多くの評者が指摘するところです。
まずは言うまでもなく、ブルース(クリスチャン・ベイル)×レイチェル(マギー・ギレンホール)×ハーヴィー・デント(アーロン・エッカート)の関係。次に、バットマン×ジョーカー(ヒース・レジャー)×デント=トゥーフェイスの関係。そして、バットマン×ゴードン(ゲイリー・オールドマン)×デントの「正義」トリオの関係があります。
これらのトライアングルを結びつける要の位置にいるのは、もちろんバットマン=ブルースですが、それらの関係を切り離したり、また結び直したりするのが、「怪人」トライアングルの一角を担うジョーカーです。
彼の様々な悪行の中で、表に現れる行動の残酷さ以上におそろしいのが、人の心や人間関係を弄び、その根拠となる想いや信念を揺さぶり、突き崩して、その脆弱さを嘲笑うところでしょう。
そうしてジョーカーが得たかったものは──他の関係性から切り離されて、ただ一人、自分と対峙する「バットマン」そのものなのだと思います。
バットマンがいるからこそゴッサムから「悪」はなくならない、とはアルフレッドも指摘していたことですが、他でもないジョーカー自身がそう告白しているのです。
おまえがいなければ、俺の存在は無意味だ。だから俺はおまえを殺さない。おまえにも俺は殺せない──と。
取調室でバットマンにさんざん痛めつけられても、ジョーカーが笑い続けていたのは、自分の「仕掛け」に酔いしれていたからだけではなく、バットマンに構われること自体が嬉しかったからだという気さえします。
こういう関係性を、ティム・バートン監督の『バットマン』では、バットマン=ブルース自身が、
「I made you. But you made me first.」
と表現していました。
善悪とは単純な二項対立ではなく、表裏の関係にあり、互いを補完し合うものであることを端的に表した言葉であり、これによっても、バートンが『バットマン』の監督として相応しかったことが理解できます。
但しバートン版では、彼らの関係の根底に、若き日のジョーカーこそがブルースの両親の仇であり、また一介のギャングを「ジョーカー」へと変貌させたのはバットマンであるという、或る意味判り易い「過去の因縁」が設定されていました。
しかし、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』に於いては、ジョーカー側の「理由」は不明のままです。どことも知れぬ闇の中から現れた男は、バットマンをも同じ闇に繋ぎ留めておきたかった。ただそれだけのことなのかも知れません。デント=トゥーフェイスも、マフィアも、ゴッサムの市民たちも、彼にとっては駒でしかないのです。おまえも俺と同じバケモノ(フリーク)だ──と、ただそのことを証明するための。
互いを補完し合う関係であると言うより、それは、バットマンに対するジョーカーの、傍迷惑で誰にも理解されることのない壮大なる片想いだったのではないでしょうか。
さて、物語中盤の重要な分岐点となるのが、ブルース×レイチェル×デントの三角関係及びその悲劇的結末ですが、これも単に恋愛関係というだけでは捉えきれないものがあります。
そもそもブルースに対するレイチェルの想いは、幼なじみの「男の子」を案ずる気持ち、むしろ姉のような心情であって、恋愛感情ではなかったのではないかと思えてなりません。つまり、ブルースの想いも実際は片想いでしかないのですが、本人は最後までそのことに気づかないという、更に切ない展開が用意されています。
一方、ブルースがデントに興味を持ったのは、彼とレイチェルが恋仲だと知る前のことで、バットマンなくともゴッサムを変革してくれる人物と見込んだためでした。もちろんそれは、「バットマン」をやめることで彼女の心を取り戻したいという(見当違いの)願いもあってのことですが。
デントもバットマンの存在意義は認めてはいるものの、その正体も、また億万長者ブルース・ウェインの真意も知る由がありません。寧ろ恋人の元カレがパトロンに名乗りを上げることに忸怩たる思いを抱いてさえいる様子。彼に対してもブルースは「片想い」です。
そして、ブルースが「バットマン=暗黒の騎士」というペルソナに生きようと決意するに到った最大の理由が、レイチェルのためでも、またジョーカーのせいでさえもなく、デント=光の騎士にこそあった、ということも、『ダークナイト』のポイントの一つです。
彼の思いとその死を自らに取り込み、レイチェルごと背負って生きて行く。それによって、ブルース・ウェインは真に「バットマン」となった。
ラストシーン、バットマン=ブルースがバットポッドで疾走する一本道は、叶わなかった彼自身の願いを成就させるための唯一の道であるように思えます。
ところで、ティム・バートン監督によるシリーズ第二作『バットマン リターンズ』について書かれた文章では、『キネ旬ムック フィルムメーカーズ [10] ティム・バートン』(キネマ旬報社・2000年刊)掲載の中原昌也氏の評に勝るものはないと今も思っていますが、その中に下記のような一文があります。
『一体これは誰が主人公の映画なのか?何を描いた映画なのか、我々は呆然とし、永遠にすれ違い合う人間の絶望に苦しめられるだけだ。』(同書141ページ)
これが『ダークナイト』にもそのまま当てはまってしまうところがすごいと思います。
バットマンとは、つまりそういう物語なのでしょうか?
この映画について、「これ『バットマン』でやる意味ないじゃん」などという評が存在することが、自分には信じられません。
まだ続く『ダークナイト』感想。
この作品については一度で語り尽くせるものではありません。何度でも観たいし、何度でも語りたい。そういう映画です。
さて、この作品の主要登場人物の人間関係が幾つかの三角関係(トライアングル)で構成されていることは、既に多くの評者が指摘するところです。
まずは言うまでもなく、ブルース(クリスチャン・ベイル)×レイチェル(マギー・ギレンホール)×ハーヴィー・デント(アーロン・エッカート)の関係。次に、バットマン×ジョーカー(ヒース・レジャー)×デント=トゥーフェイスの関係。そして、バットマン×ゴードン(ゲイリー・オールドマン)×デントの「正義」トリオの関係があります。
これらのトライアングルを結びつける要の位置にいるのは、もちろんバットマン=ブルースですが、それらの関係を切り離したり、また結び直したりするのが、「怪人」トライアングルの一角を担うジョーカーです。
彼の様々な悪行の中で、表に現れる行動の残酷さ以上におそろしいのが、人の心や人間関係を弄び、その根拠となる想いや信念を揺さぶり、突き崩して、その脆弱さを嘲笑うところでしょう。
そうしてジョーカーが得たかったものは──他の関係性から切り離されて、ただ一人、自分と対峙する「バットマン」そのものなのだと思います。
バットマンがいるからこそゴッサムから「悪」はなくならない、とはアルフレッドも指摘していたことですが、他でもないジョーカー自身がそう告白しているのです。
おまえがいなければ、俺の存在は無意味だ。だから俺はおまえを殺さない。おまえにも俺は殺せない──と。
取調室でバットマンにさんざん痛めつけられても、ジョーカーが笑い続けていたのは、自分の「仕掛け」に酔いしれていたからだけではなく、バットマンに構われること自体が嬉しかったからだという気さえします。
こういう関係性を、ティム・バートン監督の『バットマン』では、バットマン=ブルース自身が、
「I made you. But you made me first.」
と表現していました。
善悪とは単純な二項対立ではなく、表裏の関係にあり、互いを補完し合うものであることを端的に表した言葉であり、これによっても、バートンが『バットマン』の監督として相応しかったことが理解できます。
但しバートン版では、彼らの関係の根底に、若き日のジョーカーこそがブルースの両親の仇であり、また一介のギャングを「ジョーカー」へと変貌させたのはバットマンであるという、或る意味判り易い「過去の因縁」が設定されていました。
しかし、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』に於いては、ジョーカー側の「理由」は不明のままです。どことも知れぬ闇の中から現れた男は、バットマンをも同じ闇に繋ぎ留めておきたかった。ただそれだけのことなのかも知れません。デント=トゥーフェイスも、マフィアも、ゴッサムの市民たちも、彼にとっては駒でしかないのです。おまえも俺と同じバケモノ(フリーク)だ──と、ただそのことを証明するための。
互いを補完し合う関係であると言うより、それは、バットマンに対するジョーカーの、傍迷惑で誰にも理解されることのない壮大なる片想いだったのではないでしょうか。
さて、物語中盤の重要な分岐点となるのが、ブルース×レイチェル×デントの三角関係及びその悲劇的結末ですが、これも単に恋愛関係というだけでは捉えきれないものがあります。
そもそもブルースに対するレイチェルの想いは、幼なじみの「男の子」を案ずる気持ち、むしろ姉のような心情であって、恋愛感情ではなかったのではないかと思えてなりません。つまり、ブルースの想いも実際は片想いでしかないのですが、本人は最後までそのことに気づかないという、更に切ない展開が用意されています。
一方、ブルースがデントに興味を持ったのは、彼とレイチェルが恋仲だと知る前のことで、バットマンなくともゴッサムを変革してくれる人物と見込んだためでした。もちろんそれは、「バットマン」をやめることで彼女の心を取り戻したいという(見当違いの)願いもあってのことですが。
デントもバットマンの存在意義は認めてはいるものの、その正体も、また億万長者ブルース・ウェインの真意も知る由がありません。寧ろ恋人の元カレがパトロンに名乗りを上げることに忸怩たる思いを抱いてさえいる様子。彼に対してもブルースは「片想い」です。
そして、ブルースが「バットマン=暗黒の騎士」というペルソナに生きようと決意するに到った最大の理由が、レイチェルのためでも、またジョーカーのせいでさえもなく、デント=光の騎士にこそあった、ということも、『ダークナイト』のポイントの一つです。
彼の思いとその死を自らに取り込み、レイチェルごと背負って生きて行く。それによって、ブルース・ウェインは真に「バットマン」となった。
ラストシーン、バットマン=ブルースがバットポッドで疾走する一本道は、叶わなかった彼自身の願いを成就させるための唯一の道であるように思えます。
ところで、ティム・バートン監督によるシリーズ第二作『バットマン リターンズ』について書かれた文章では、『キネ旬ムック フィルムメーカーズ [10] ティム・バートン』(キネマ旬報社・2000年刊)掲載の中原昌也氏の評に勝るものはないと今も思っていますが、その中に下記のような一文があります。
『一体これは誰が主人公の映画なのか?何を描いた映画なのか、我々は呆然とし、永遠にすれ違い合う人間の絶望に苦しめられるだけだ。』(同書141ページ)
これが『ダークナイト』にもそのまま当てはまってしまうところがすごいと思います。
バットマンとは、つまりそういう物語なのでしょうか?
この映画について、「これ『バットマン』でやる意味ないじゃん」などという評が存在することが、自分には信じられません。