このブログでは、(自分が)楽しい話を中心に扱って行く方向で、時事ネタはなるべく取り上げたくないのですが、例の奈良県の医師一家放火事件については、どうしても一言述べておきたいと思います。
それに絡めて自分語りもしていますし、普段のお気楽話を期待されるかたにはショッキングな内容も含まれるかと思いますので、この先お読みになる場合は十分ご注意下さい。
ああ、可哀想にな。
というのが、医者の家庭の「医者になれ」プレッシャー、「なれない」人間には家庭内においてさえ価値はない、と言わんばかりの押しつけを知る者としての思いです。
それに「世間体」だの「親戚への顔向け」だのが絡むと、その重圧は更に二倍三倍…数十倍にまでなってのしかかって来るでしょう。
私の父などは未だに、もはや数十年も昔の私の小学校時代の塾の成績まで持ち出して、「いかにおまえに失望させられたか」を言い続けていますよ。
付きっきりで暴力も振われながら「勉強」を強要されていたという少年の状況は、他人事とは思えません。
容疑者とされる少年は、その上に文武両道をこなし、腹違いの弟妹たちの「良き兄」であることまで要求されていた訳で、「全部やり直したかった」という彼の言葉(とされるもの)に嘘はないと思います。
そうなる前に反抗しておけば、というおめでたいご意見には、被虐待児童や日常的に暴力(肉体的精神的問わず)にさらされて来た人間は、ほんのささいな一言でも身も心も硬直し、なまじな反抗なんてできなくなるものだと申し上げておきましょう。
私なら幼い弟や妹の生命まで奪おうとは思いませんが、それを含めて一切合財をリセットしてしまいたいと思うほど、彼がデスペレートな心境に追い込まれて行った過程は理解できます。
または、そこまでのことをしなくては、彼は家を出て行くこともできなかったのかも知れない、と。
もしかして彼は、ワールドカップの放送さえ、「そんなもの」を観ている暇があったら勉強しろ、と言われていたのかも知れない。
でも、束の間の自由を得た後で、彼は結局どこにも行けなくなってしまったんですよね…
マスコミ経由の多くの論評は、この少年の「心の闇」をあれこれ忖度するでしょうし、また「家族」や「家庭」が暴力装置として機能し得ることを幸運にも知らなかった人たちは、その幸運さが他人の痛みを裁く為の既得権でもあるかのように、「だから今どきの子供は」と威丈高に述べることでしょう。
しかし、私はただ「可哀想に」「可哀想に」と言い続け、少年の為に涙を流すだけです。
滅びてしまえ。消えてなくなれ。すべて。
私がすべてを終わらせてやろう。
それは私自身が今もなお思い続けていることでもあるのだから。
プレッシャーはすごかったと思います。
幸いうちはブルーカラーな家だったので、へらへら暮らしてましたが。
起きてしまったことに対してはなんとでもいえますが…。
世の中デキル子を救ってくれる安全装置はないのです。
その後、新聞や二、三の雑誌でこの事件を追究した記事をチラッと見たりしましたが、やはり変にスイッチがはいってしまって、ちゃんと読み通すことができません。
まあでも私などは、現在こうしてヘラヘラ生きている訳ですが、溜め込んだものを別のもっと恐ろしい形で爆発させてしまったのが、たとえばオ○ムの人たちだったのかな、などと考えます。