5月21日はジェイムス・フランク James Franckが亡くなった日です。おそらく多くの方々はノーベル賞を受賞したこの物理学者の名を知らないと思いますが、彼の名を冠した「フランクレポート Franck Report」は原子力・放射線学界では知られています。
1945年6月に米国大統領諮問委員会に提出されたこのレポートは、核兵器の製造に関わった科学者を中心に、第二次世界大戦末期における日本への原爆の無勧告使用の見直しと、戦後の核兵器管理体制の構築の必要性を訴えたものです。結局、フランクレポートは日本への原爆投下と戦後の核兵器開発競争を防ぐことは出来ませんでしたが、その後、世界平和を希求する科学者たちが核兵器について警鐘を鳴らす(核戦争を防ぐ)活動に取り組む契機となりました。湯川秀樹が参加した「ラッセル=アインシュタイン宣言」もその影響を受けていると思われます。
ジェイムス・フランクは1925年にノーベル賞を受賞したドイツを代表する物理学者でしたが、ユダヤ系ドイツ人であったためナチスから逃れてアメリカへ渡りました。当時、核兵器の開発に着手していたナチスと対抗するため、連合国側は「マンハッタン計画」と呼ばれる核兵器の製造に取り組みましたが、彼は亡命物理学者の立場でその計画に協力したのです。
アインシュタインが当時の米国大統領ルーズベルトに「ドイツよりも先に核兵器を作らなければならない」という旨の手紙を書くほど、当時、アメリカの科学者たちはナチス・ドイツによる核兵器の開発と使用を恐れていました。結局、ナチスは核兵器を使用することなく1945年春に降伏し、核戦争の恐怖は遠のいたかに見えました。
しかし、米国政府はせっかく製造の目処が立った原爆を日本本土に使用することにしました。
とくに人口が多い都市部に落として、その生物学影響(どれくらい死ぬか)だけでなく、社会的、政治的な影響を確認しようとしたのです。日本が誇る古都・京都がそれまで爆撃されなかったのは、単にその候補地だった為でしょう(「ウォーナーリスト」のおかげではないと私は思います)。
総力戦だから仕方ないということを仰る人もいますが、当時の米国政府が、ナチスに代わって、「世界で最初にして唯一、核兵器を使用した」ことの歴史的意義は非常に複雑であり、容易に解釈できません。実際、広島と長崎では、多くの非戦闘員が無くなりました。原爆の日本本土での使用は「戦場で軍人(戦闘員)を倒す(殺す)のとは明らかに異なる思惑があった」ということに私たちは留意しておくべきだろうと思います。
ジェイムス・フランクらは広島に原爆が投下される前、核兵器という前代未聞の破壊兵器が生み出す社会的影響を検討し、その慎重な使用と管理をフランクレポートにまとめたのでした。フランクが本当のところ何を考えながらそのレポートを提出したのか、現在の私たちにはその正確な思惑までは判りませんが、少なくともレポートを作成した科学者たちが非常に大きな懸念を抱いていたことは伝わります。
私が広島平和記念資料館を初めて訪れたのは高校生の頃でしたが、『はだしのゲン』という漫画や『黒い雨』などの小説を通じて、小学生の頃から原爆などの核兵器については色々と考えさせられてきました。そして、「そんなモノを作った奴らは一体どんな気持ちで作ったのか」と思ったものです。とはいえ、後年になってから、当時の連合国側の研究者たちの葛藤や、苦悩、懸念についても、すこしは察することができるようになりました。
科学の発展は、多くの人達を助けることにも、そして多くの人達を殺すことにもつながります。科学者の端くれとしては、ジェイムス・フランクやフランクレポートについては、今でも、色々と考えさせられるのです。
1945年6月に米国大統領諮問委員会に提出されたこのレポートは、核兵器の製造に関わった科学者を中心に、第二次世界大戦末期における日本への原爆の無勧告使用の見直しと、戦後の核兵器管理体制の構築の必要性を訴えたものです。結局、フランクレポートは日本への原爆投下と戦後の核兵器開発競争を防ぐことは出来ませんでしたが、その後、世界平和を希求する科学者たちが核兵器について警鐘を鳴らす(核戦争を防ぐ)活動に取り組む契機となりました。湯川秀樹が参加した「ラッセル=アインシュタイン宣言」もその影響を受けていると思われます。
ジェイムス・フランクは1925年にノーベル賞を受賞したドイツを代表する物理学者でしたが、ユダヤ系ドイツ人であったためナチスから逃れてアメリカへ渡りました。当時、核兵器の開発に着手していたナチスと対抗するため、連合国側は「マンハッタン計画」と呼ばれる核兵器の製造に取り組みましたが、彼は亡命物理学者の立場でその計画に協力したのです。
アインシュタインが当時の米国大統領ルーズベルトに「ドイツよりも先に核兵器を作らなければならない」という旨の手紙を書くほど、当時、アメリカの科学者たちはナチス・ドイツによる核兵器の開発と使用を恐れていました。結局、ナチスは核兵器を使用することなく1945年春に降伏し、核戦争の恐怖は遠のいたかに見えました。
しかし、米国政府はせっかく製造の目処が立った原爆を日本本土に使用することにしました。
とくに人口が多い都市部に落として、その生物学影響(どれくらい死ぬか)だけでなく、社会的、政治的な影響を確認しようとしたのです。日本が誇る古都・京都がそれまで爆撃されなかったのは、単にその候補地だった為でしょう(「ウォーナーリスト」のおかげではないと私は思います)。
総力戦だから仕方ないということを仰る人もいますが、当時の米国政府が、ナチスに代わって、「世界で最初にして唯一、核兵器を使用した」ことの歴史的意義は非常に複雑であり、容易に解釈できません。実際、広島と長崎では、多くの非戦闘員が無くなりました。原爆の日本本土での使用は「戦場で軍人(戦闘員)を倒す(殺す)のとは明らかに異なる思惑があった」ということに私たちは留意しておくべきだろうと思います。
ジェイムス・フランクらは広島に原爆が投下される前、核兵器という前代未聞の破壊兵器が生み出す社会的影響を検討し、その慎重な使用と管理をフランクレポートにまとめたのでした。フランクが本当のところ何を考えながらそのレポートを提出したのか、現在の私たちにはその正確な思惑までは判りませんが、少なくともレポートを作成した科学者たちが非常に大きな懸念を抱いていたことは伝わります。
私が広島平和記念資料館を初めて訪れたのは高校生の頃でしたが、『はだしのゲン』という漫画や『黒い雨』などの小説を通じて、小学生の頃から原爆などの核兵器については色々と考えさせられてきました。そして、「そんなモノを作った奴らは一体どんな気持ちで作ったのか」と思ったものです。とはいえ、後年になってから、当時の連合国側の研究者たちの葛藤や、苦悩、懸念についても、すこしは察することができるようになりました。
科学の発展は、多くの人達を助けることにも、そして多くの人達を殺すことにもつながります。科学者の端くれとしては、ジェイムス・フランクやフランクレポートについては、今でも、色々と考えさせられるのです。
キノコ雲を背景にアインシュタインとオッペンハイマーがニッコリ笑って握手する、そういう構図だったと記憶。今にしてみれば「悪魔の笑い」とでもいうべきでしょうか。日本は唯一の被爆国として、世界に核兵器の廃絶を訴える義務があります。また、未来に負の遺産を残す原子力発電に反対しなければなりません。目先の利益につられて安易に使う選択を行わないよう個々人がしっかりと主張するべき問題です。