磊落マンの歩み!

「年弥々(としいよいよ)高くして徳弥々たかし」(前漢末の思想家・揚雄)の教えを心情とし「いま」を生きるようにしています!

雪解け菜園からの緊急レポート…!

2025-03-01 15:52:13 | 日記

ダイコンの絵手紙が千葉の姉から届きました…「おでんに煮物にサラダに葉っぱは佃煮で頂きます」…

菜園のダイコンは、寒波の影響で相変らず成長が遅れています。恥ずかしがって、白い首は葉っぱで隠してしまい、中々、見せてもらえませんでした。

農作物被害が発生中…「空からやって来る」ヒヨドリ200羽超が怒涛を組んで、葉野菜ブロッコリーを食い荒らし、菜園全体の葉野菜が全滅状態となりました。急遽、ヒヨドリの天敵タカとハヤブサにも駆除要請しましたが、それらの飛行出張費用の高騰で不発となりました。

同時に、最近の野菜高騰の状況下、精魂込めて大事に育てた野菜が盗まれる事件も発生しています。菜園においても社会的不安が起きつつあります。高電圧の電気柵を設置しなくてはなりません。

玉ねぎは順調に育っており、近日中に「石灰」を撒く予定です。

春菊とワケギ…春菊はそろそろ終了予定です。

キャベツは成長に時間を要しています。

チューリップとヒアシンスは発芽中…綺麗な花が咲くのが楽しみです。

ジャガイモは、マルチを被せており、発芽を待っています。

最後まで、ご覧いただきありがとうございます。


威風堂々たる白亜の要塞(№3)…!

2025-02-24 15:05:25 | 日記

世界文化遺産・国宝「姫路城」…(つづき)

大名行列の道具…

鞍覆(くらおおい)…参勤交代では、藩主が乗る馬や将軍から下賜された馬を牽いていきます。鞍にかける覆いの素材として虎皮が使用できる大名家は古い由緒があったり、格式の高い家に限られました。酒井家(江戸時代の最後の姫路藩主)は参勤交代では虎皮を使いませんが、将軍名代で上洛した時には使用しました。

 

西の丸 百軒廊下…千姫ゆかりの西の丸 櫓群(やぐらぐん)

ワの櫓から化粧櫓まで240m。とても長い廊下が続いているこの長屋群を「百間廊下」と呼んでいます。2階建ての櫓と櫓の間は、渡櫓(わたりやぐら)と呼ばれる長屋で結ばれており、別名 多門櫓(たもんやぐら)とも呼ばれています。❝天守の無い城はあっても、多門櫓の無い城は無い❞といえるほど、江戸時代の城郭に不可欠な建物です。倉庫にも住居にも、さらに防御施設として機能する上、構造も単純で解体して移築することも容易でした。「百間廊下」も場所によって構造に違いがあります。西の丸に本多忠刻(ほんだ ただとき)の御殿があった時期、局(つぼね)として使用されたのはヨの渡櫓から北側の長屋と考えられます。

 

『千姫物語』

徳川家康の孫娘千姫は、7歳で大阪城の豊臣秀頼のもとへ輿入れしました。しかし、秀吉死去の後、大阪夏の陣で夫・秀頼は自害し、豊臣家は滅亡。千姫は燃えさかる炎の中から助け出されました。江戸城へ帰る道中、警護にあたっていた本多忠政の息子・忠刻と再婚。千姫20歳、忠刻21歳。千姫の化粧料(持参金)10万石で、姫路城三の丸には武蔵野御殿と呼ばれる千姫の屋敷が建てられたといわれ、城内の池泉回遊式庭園や高砂沖に船を浮かべ、仲良く連歌を楽しんだとの話も。勝姫と幸千代の一男一女にも恵まれ「千姫は、夫・忠刻と暮らした姫路城での生活(10年間)が生涯で一番幸せだった」と今でも語られています。しかし、長男・幸千代が3歳のとき病で亡くなり、5年後には、夫・忠刻も31歳の若さで病に倒れます。江戸へ帰った千姫は、髪をおろして「天樹院(てんじゅいん)」と号し、夫や息子を想いながら竹橋御殿で余生を送り、70年の生涯を閉じました。

(参考:世界文化遺産・国宝「姫路城」案内資料より)

姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」…世界文化遺産・国宝「姫路城」を借景に、姫路市制百周年を記念して造営され、平成4年に開園した池泉回遊式の日本庭園です。

昭和60年以来の発掘調査で確認された西御屋敷跡・武家屋敷跡・通路跡などの地割りを活かした九つの趣の異なった庭園群で構成され、その面積は約10,000坪(3.5ha)有ります。

「好古園」の愛称は、江戸時代の最後の姫路藩主酒井家によって、この庭園の入口付近に移設され、文武両道の振興を図った藩校「好古堂」に因んでいます。

(参考:姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」案内資料より)

好古園内の「レストラン 活水園」で庭園を眺めながら食事しました。

わんぱく坊や(神戸)へのお土産は二種類としました。

甘音屋 姫路駅北店(姫路市白銀町)…冷しみたらし「せせらぎ」お土産に選びました…又、お店には色とりどりの愛らしい球体の最中「球体最中笑美玉」などの和菓子もあります。

鶏卵饅頭 一色堂(姫路市南町・山陽百貨店B1F)…行列覚悟の順番待ちで「鶏卵饅頭」を何とか買い求めることができました。

今回は「姫路城」散策の日帰り予定のために、わんぱく坊や(神戸)へは、顔見せだけとし、お土産を渡して新神戸駅から新幹線で広島へ帰ってきました。

最後まで、ご覧いただきありがとうございました。


威風堂々たる白亜の要塞(№2)…!

2025-02-22 15:21:41 | 日記

世界文化遺産・国宝「姫路城」…(つづき)

大天守の鯱(しゃち)…瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、鬼瓦と同様に守り神とされました。姿は、魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模しています。

明治の鯱…5代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際に、大天守の東側に上がっていたものです。全国的な傾向として江戸中期以降の鯱は耐久性に乏しいため、新しい鯱と入れ替えました。銘文には1910(明治43)年製作と記されています。

昭和の鯱…6代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際に、大天守の二重の屋根に、1687(貞亨4)年の銘のある小型の鯱が発見されました。これは姫路城に現存する最も古い鯱と考えられたために、これにならい大天守五重の大型の鯱を含め11の鯱が復元されました。

平成の鯱…7代目の姫路城大天守の鯱です。平成の修理では大天守最上層の2尾の鯱が取り替えられましたが、これは山本瓦工業株式会社から寄贈された同型の鯱です。2011(平成23)年11月に造形に着手し、充分に乾燥させた後焼成し、翌年2月に完成しました。形は昭和の鯱を忠実に再現しています。(参考:「大天守の鯱」説明資料より)

石落し…大天守1階隅の3ヵ所に石落しがあります。大天守石垣に取り付く敵に石を落としたり、射撃のための設備です。

東大柱…昭和の大修理前、本来の東大柱の中心線から東南方向に約37cm傾いていました。江戸時代の初めは、大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位したようですが、次第に建物全体が傾いたため、多くの支柱を入れて補修してきました。

軸組構造模型…この模型は、昭和の大修理工事の際に大天守の解体修理のため実物の1/20で製作されました。昭和の大修理工事は史上初めての全解体修理だったので、歴史的建造物のもつ技術的特徴、あるいは構造上の欠陥や細部の処理、そして組み立ての方法をしっかりと把握した上で施工しなくてはなりませんでした。さらに、建物を末永く維持できるように、破損・腐朽部分の取り替えや各部材の補強方法の検討も不可欠でした。さまざまな問題を明らかにし、安全で効率的な工事を行うための検討用に製作された模型です。

姫路城下の模型

武具掛け(大天守内二階)…大天守には多くの武具掛けがありました。天守が武器倉庫としても使われていたことを示しています。

石打棚(大天守内四階)…東西に大千鳥があり、窓の位置が高くなっているため、窓が使えるように石打棚を設けています。

長壁(刑部)神社(大天守内六階)…姫山の地主神で、近代になって天守内で祀られるようになりました。江戸時代には、との二門との三門の間の小高い場所に鎮座していました。

(参考:世界文化遺産・国宝「姫路城」案内資料より)

最後まで、ご覧いただきありがとうございました。


威風堂々たる白亜の要塞…!

2025-02-20 17:43:45 | 日記

圧倒的な姿を誇る世界文化遺産・国宝「姫路城」(兵庫県姫路市本町)を訪れました……白い鷺が舞い立つように見えることから、別名「白鷺城」と呼ばれています。

「平成の修理」と呼ばれた大天守保存修理工事は、漆喰壁の塗り替えや屋根葺き直しを中心に約5年をかけておこなわれました。

漆喰壁は、姫路城の美しさの象徴です…外部に現れたすべての表面を漆喰で仕上げる白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)という工法が用いられています。

姫路城の瓦は、平瓦と丸瓦を交互に組み合わせた本瓦葺で、屋根瓦の継ぎ目には屋根目地と呼ばれる特殊な漆喰が一面に施され、甍(いらか)の美を表現しています。又、風や揺れに対する強度を高めています。

懸魚(げぎょ)は、屋根の妻の頂点に取り付ける棟木や桁の先を隠すための飾り板です。

姫路城には、菱の門、「いろは……る」の門、「水の一……六」の門、備前門が現存しており、その様式は実にさまざまです…防備面から頑丈さを重視した棟門、高麗門、櫓門、穴門、埋(うずみ)門など、安土桃山時代の様式を残す門など21門が残っています。

狭間(さま)は、天守や櫓、土塀の壁面に開けられた矢や鉄砲を放つための穴のことで、城を防御するための重要な仕掛け……丸形や三角形、正方形(鉄砲用)、縦長方形(弓・矢用)の四種類…現存する狭間の数は997ヵ所…開けられた位置によって立狭間、居狭間、寝狭間と呼ばれる……姫路城は片膝を突いて鉄砲を撃つ時に使われる居狭間が数多く見られます。

油壁…秀吉時代のものとされ、城内で1ヶ所だけに残る築地塀…

天守の窓は敵の侵入や矢玉を防ぐため、太い格子がはめられて幅半間の格子窓になっています。

姫路城には、重要文化財に指定された32の土塀が残っています…当時は、木造の骨組みを持つ土塀が主流でしたが、姫路城ではあらかじめ一定の大きさに作られた粘土の塊を粘土で接着しながら積み上げ、屋根部分のみ木造で組立てられています…外側は白漆喰で美しい仕上りになっています。

姫路城御城印……室町時代より結城氏に代々伝わり、その名跡を継いだ結城松平家が受け継いだ「天下三槍」と呼ばれた名槍の一つ「御手杵の槍」をデザインしています。この槍は姫路城から江戸城の参勤交代の際に大名行列の馬印として使われていたとも言われています。

(参考:世界文化遺産・国宝「姫路城」案内資料より)

最後まで、ご覧いただきありがとうございました。


ふるさとは遠きにありて思うもの…!

2025-02-20 12:32:32 | 日記

「水の都ひろしま」…透明感あふれる川の静かな流れは大変綺麗で心が洗われます…元安川の水辺にたたずむ広島市文化交流会館(広島市中区加古町)の姿も川の水面に写し出されています。

お正月に孫娘(小学生)が阪神地区(転勤先)から帰省…広島市内を流れている川をじっと見つめ、「広島の川は綺麗だなぁ…!」と、懐かしそうにつぶやいたのが印象的でした。

「井の中の蛙」…現役時代、上司からの言葉を思い出し、改めて「水の都ひろしま」故郷広島の素晴らしさを実感しました。

しばらくの間、川辺で宮島への河川遊覧船(客船)の登場姿を待ちましたが、残念ながらやって来ませんでした。

巨大な広島新サッカースタジアムも見えます。

いつまでも、清らかな川の流れと平和で幸せな世の中であるように願っています。

最後までご覧いただきありがとうございました。