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「年弥々(としいよいよ)高くして徳弥々たかし」(前漢末の思想家・揚雄)の教えを心情とし「いま」を生きるようにしています!

威風堂々たる白亜の要塞(№2)…!

2025-02-22 15:21:41 | 日記

世界文化遺産・国宝「姫路城」…(つづき)

大天守の鯱(しゃち)…瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、鬼瓦と同様に守り神とされました。姿は、魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物を模しています。

明治の鯱…5代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際に、大天守の東側に上がっていたものです。全国的な傾向として江戸中期以降の鯱は耐久性に乏しいため、新しい鯱と入れ替えました。銘文には1910(明治43)年製作と記されています。

昭和の鯱…6代目の姫路城大天守の鯱です。昭和の大修理の際に、大天守の二重の屋根に、1687(貞亨4)年の銘のある小型の鯱が発見されました。これは姫路城に現存する最も古い鯱と考えられたために、これにならい大天守五重の大型の鯱を含め11の鯱が復元されました。

平成の鯱…7代目の姫路城大天守の鯱です。平成の修理では大天守最上層の2尾の鯱が取り替えられましたが、これは山本瓦工業株式会社から寄贈された同型の鯱です。2011(平成23)年11月に造形に着手し、充分に乾燥させた後焼成し、翌年2月に完成しました。形は昭和の鯱を忠実に再現しています。(参考:「大天守の鯱」説明資料より)

石落し…大天守1階隅の3ヵ所に石落しがあります。大天守石垣に取り付く敵に石を落としたり、射撃のための設備です。

東大柱…昭和の大修理前、本来の東大柱の中心線から東南方向に約37cm傾いていました。江戸時代の初めは、大柱そのものが建物の重さなどで歪んで変位したようですが、次第に建物全体が傾いた、多くの支柱を入れて補修してきました。

軸組構造模型…この模型は、昭和の大修理工事の際に大天守の解体修理のため実物の1/20で製作されました。昭和の大修理工事は史上初めての全解体修理だったので、歴史的建造物のもつ技術的特徴、あるいは構造上の欠陥や細部の処理、そして組み立ての方法をしっかりと把握した上で施工しなくてはなりませんでした。さらに、建物を末永く維持できるように、破損・腐朽部分の取り替えや各部材の補強方法の検討も不可欠でした。さまざまな問題を明らかにし、安全で効率的な工事を行うための検討用に製作された模型です。

姫路城下の模型

武具掛け(大天守内二階)…大天守には多くの武具掛けがありました。天守が武器倉庫としても使われていたことを示しています。

石打棚(大天守内四階)…東西に大千鳥があり、窓の位置が高くなっているため、窓が使えるように石打棚を設けています。

長壁(刑部)神社(大天守内六階)…姫山の地主神で、近代になって天守内で祀られるようになりました。江戸時代には、との二門との三門の間の小高い場所に鎮座していました。

(参考:世界文化遺産・国宝「姫路城」案内資料より)

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