新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

吉良上野介の妻物語

2019-05-07 09:34:43 | 古代から現代史まで

    吉良上野介の妻物語

 
忠臣蔵で人口に膾炙されている、江戸城松の廊下刃傷事件の発端が吉良が赤穂の塩作りの秘伝を奪おうとしたとするようなのは、現代の産業スパイ小説ものであって、あり得ない。三州吉良では忠臣蔵の芝居を興行させぬのは「抹消」の抹をつけた「抹茶」、つまり摘めば黒くなってしまう植物の茶を緑色にして保たせるのは、銅鍋にわく緑青を混ぜるからで、これを考案したのが吉良上野介の一歳年上の妻であった上杉の三姫。よって添加物の事を昔は「転茶」とよび、今は「天茶」といい、茶業者は西尾町となっている吉良から仕入れて混入させねばならぬ義務がある。
 
 つまり吉良上野介のおかげで今も町の産業が成り立っているからである。呉服橋に上杉家より出させた一万両で建てた吉良邸が豪壮厳重で、討入りなどできるような建物ではないから、柳沢吉保大老は、私邸なのにお召し上げとし、代りに本所の旧近藤登之助の古屋敷を与えた。官舎だから絵図面は今でも残っているが、いくら修理をしても辺鄙な場所で不便ゆえ、三姫は狸穴の上杉中屋敷に上野介を住まわせていたが、米沢へ戻るのに上杉邸では出来ぬからと別れの会に本所へ行った。
それを大高源吾に知らせた四片庵山田宗偏は、柳沢が元禄前の古い小判大判の流通禁止をし、カネとして通用せぬ京で堺の中村内蔵介に銅を半分も混入の、今いう贋金作りした際の京所司代。その功で加増されて、当時は老中職の代々の臣だった。   京の真似をして町木戸を、加賀爪甚十郎が町奉行の時に設けたが、本所から品川の泉岳寺までは四十三ヵ所あると元禄江戸切絵図にもある。春闘とかゼネストのなかった時代に、当夜に限って番太郎がみな錠をかけ忘れて、彼らを堂々と通した事は当時としても考えられなかった。そこで、同時代の安藤広重の討入りの続きもの絵では、往復ともに小舟に分乗している。
 
 
が、実際は町木戸を監督する大番屋は十二月は南町奉行松前伊豆守の指揮下。松前は牧野備後守が京所司代だった時の京町奉行から、勘定吟味役から勘定奉行に栄転した萩原重秀と共に江戸の奉行に昇進していた男。元禄版日本マフィアといってもよい仕組みで、討入りの晩に本所二ツ目の紀伊国屋の小屋へ出かけてゆき、「殿よりの賜物」と生卵を配ったのは、柳沢の三百石の家来の細野広沢であるし、また松前伊豆守抱えの棒術指南の堀内源太左エ門も助太刀に赴いている。そのくせ討入りしたのは武林唯七みたいな軽輩三名が五組ずつで、七十八歳の堀部弥兵衛や、その他は吉良上野介が炭焼き小屋より邸前に曳き出され斬首される迄は、外にいて、「寒うござる。火に温まらして下され」とか、  「白湯を一杯所望」と、近くの旗本邸の番人にねだって邸外にいたにすぎないから、見張りをしていただけの話。
 
そこで、処分問題ではもめたが、萩生徂来として今も知られている儒臣が、柳沢の命令どおりに公儀に対して進言している。  「みな賜死にすべきである」と主張した彼は、細野広沢より上の五百石どりの柳沢吉安の臣。この時、女鎧を着て夫の仇討だと討って出ようとしたのが上杉の三姫。これから、「一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せ」と云われたが、芝居から「(塩谷)判官びいき」となって、三姫の名は消えてしまったという。
 
この上杉家はもともと長尾家で、長女は阿亀、次女は阿虎と名が決まっているのに、三番目にできた故に、この三姫の名があるのである。焼石を厚手の布袋に入れ、「温石(おんじゃく)」とよんで吉良に持たせた記録もあるが、小林計一郎著には、上杉於虎の姉阿亀が長尾政景との婚礼の絵馬が新人物往来社から出ているが、夫は正座し阿亀は立て膝姿である。明らかにサンカの女房風俗である。 となると、その間に生れた喜平次が後の上杉景勝となり、その曾孫が三姫ゆえ、吉良上野介は連夜下敷きになって夫婦和合を強いられていた事になる。  関ケ原合戦では、赤系の平氏の豊臣方と、白系の源氏系徳川の関ヶ原合戦に上杉が西軍に組しなかったのは、サンケ系のため。
 
 
  播州赤穂森城主が、今いう体育に木刀稽古の相手を召し抱えたのが治安維持法に引っ掛って、妻の里方に閉門になった後へ、浅野内匠頭の祖父が関東から転封になった。   この際に伴してきた播磨多次郎とは呼ばれる者が、海水を塩田にまかず何百本もの竹筒に汲みこみ、真夏に底に塩の凝り固まりを拵えて水晶みたいな氷砂糖のようなものを赤穂の木津屋を通して各地の国一の許へ油桐紙包みにして送っていた。「ミチノ カミ」というのが、実はこの精製塩なのである。   当時、上杉家は景勝の百万石が関ヶ原戦後三十万石、次いで二十五万石、三姫の産んだ三之助が養子に入って十五万石にはなっていたが、良塩が欲しいのなら米沢の国一に命ずればそれでよいのである。多次郎塩つまり最高のサンカの「ミチノカミ」が、 いくらでも上杉から吉良は入手でき得たのである。だから吉良が赤穂より製塩技術を盗もうなどという大河ドラマのごときは、吉良上野介の一歳年上の妻である上杉三姫がサンカの出であると判れば噴飯ものである。
 


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