

これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。
つまり光秀には、この他にも、「われならで誰かはうえむひとつ松、こころしてふけ志賀の浦かぜ」
といったあまりうまくない歌が、『常山紀談』の中に、光秀が唐畸の松を植えたときのものとして書かれているが、真偽不明なのは、
そっくり同じ他人の作があるからである。だからして明智光秀の作と認められるのは前掲のものしかないことになる。
では何故そうなのであろうか? といった疑問が、どうしても浮かんでくる。
何百年と星霜はたっているが、そこには樹齢もわからぬような、山桜の古木がずらりと並んでいる。
が、五歳や六歳の少年にとって、終生ずっと忘れられぬような記憶とは何だろうとなる。
そこで光秀が生まれたと推定される一五二八年から起算してゆくと、享禄五年七月が天文元年に改元されるから人文二年二月二十日、
当時は、十五歳位で嫁にゆくのが当り前な時代なのに、行かず後家みたいに何故か二十一歳になるなるまで嫁に行っていなかった。
この謎は推理するしかないのだが、小見の方は明智城内に居た若い武士と肉体関係を持ち、未婚の母として光秀を産んでしまった。
相手は何かの戦の際戦死し、光秀は母と祖父明智光継に育てられたとしか考えられない。
だから光秀の出自を名門土岐氏の出だとする歴史家の説は信じられないのである。
突然出奔してしまっている。なのに五年後の弘治二年に道三が旧土岐勢力によって殺された時、すでに小見の方は死んでいて、無縁のはずなのに、
明智城は包囲されて、一人も脱出できないように、この山城は周囲から火をかけられて、皆殺しにされている。
こうなると光秀は道三の子であるばかりでなく、信長には義兄にも当たるのてある。
こうして一つの短歌でも、手探っていくと、隠された歴史が何かと浮かび出るものである。
しかし、三つ子の魂百までもというけれど、やはり同じような理想主義者だったのは、確かなことのようである。
京で、日蓮宗の僧として修業したことのある道三は、応仁の乱で荒れ果てた京を見、酷税に疲れ果てた庶民の窮状を見かねて、
現生の幸福を説くのが日蓮宗の教義だから、流れてきた美濃でその理想を実現しようとした。
あまり良質ではないが、旧細川侯爵家に伝わる『家記』では、
「永禄十一年七月十日、光秀はその家臣溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余名にて、阿波囗で義昭を迎えさせ、穴問の谷をへた仏が原のところに、光秀自身が五百余の兵をひいて待ち
うけ、そこから義昭の護衛をした」とでている。
「彼こそ自分の理想を実現できる男ならん」といった見方をしたらしい。なにしろ信長は斎藤道三の女婿であるから、道三の理想主義を受けついでいるものと考えたのだろう。
『掛川史稿』といった古書には、すこし話は難かしくなるが、
しかし他の部族は年末といえど難渋して居っても一切勝手は許さないものである。永禄六癸亥年十月十九日、上総介(判)」が収録されている。
院内とは院地とか、別所の名称で今も地名は各地に残っているが、これは高松古墳が出来た頃、日本列島へ渡ってきていた弁髪の藤原氏にその祖国を占領され、
やむなく帰化を申しでてきたクダラやコウライ、シラギの者らで軍隊を編成し、これを日本原住民の討伐にさしむけてよこし、
捕えた者らを各地に分散収容したときの限定地域のことをさすのである。
つまり、かつての天の朝の残党でヤソタケルとかヤマタオロチなどと、ヤを名のって日本中に散っていた部族のことである。
いわゆる王朝時代と袮される藤原氏から足利氏にかけて、差別されてきたヤの部族に対し、その限定地域から出てもよく、太夫の命令さえ守るなら商売をしてよい、
といった布告は、まだ今川家の朝比奈三郎兵衛の領地だった掛川地域の、そうした被圧迫階級に対し解放を約束した信長が出したアジ文書と見るしかないであろう。
「商売の許可は、後にヤン衆とかヤア衆、ヤアさんとよばれる人々だけに限られる、だから、それでこれまで差別圧迫されてきた怨念をはらせばよいであろう」
といった具合だから、商人はこれ一人残らず日本原住民とそれからは定まっだのである。
つまり今でも商売をする店がヤの字を、「三河屋」「尾張屋」「越後屋」と付けるのも、信長の先発隊が堺の町などへ押しかけて、「矢銭」とか「屋銭」といった名目で、
賦課金を強制割り当てしていたのも、信長がヤの部族をおおいに利用したゆえんだろう。
さて、一般大衆の被圧迫ぶりを流浪しながら見てきた十兵衛の目には、これまでの被差別階級を自由にしてやり、商売という利潤追及の生計を許し勢力を伸ばしてゆく信長のやり口が、
彼が憬れていた新体制に思えたし、
「信長こそ新しい世直しの旗手」とみえたのであろう。だから、せっかく一度は奉じたものの旧体制そのものの足利義昭から、光秀は鞍替えしてしまったのだろう。
もちろん若かった頃に奇蝶へ禍失をおかしてしまったので、その贖罪のため夫となった信長に尽したとする見方もできよう。
しかし勢力を広げるまでは解放戦線の旗頭であった信長が、やがて独裁者になって、
「武力をもって天下平定」と、その方針を変えてくると、おおいに光秀は悩んだらしい。
だからその頃の光秀は、信長に換るものとして時の正親町天皇に近づき、次に帝位につかれることになっていた皇太子誠仁親王とも仲良くした。
道三が日蓮宗を信仰し帰依したように、彼は天皇家を宗教的なものとし、
だから、今と違って衰微していた皇室に対し、光秀の奉公は他に比のないものであった。
「その勤皇の志あつきを嘉し、馬、鎧、香袋を賞として授く」と、天正七年七月二十日、正親町帝はみずから光秀へ賜っているけれど、天皇みづからが勤皇であると認めた者は、
先に和気清麻呂、後に明智光秀しかない。
奪われた分は立て替え納入した為といわれている。が、光秀は、かつて足利義昭のために信長が造営した「武家御城」とよばれていた二条城を作り直して、誠仁親王に献納し、
「下の御所」といわれていたのをみても判るが、あまり皇城が敬われていなかった時代なのに、光秀だけはおおいにシンパとなって奉公をした。
何故かというと光秀は、新しい明日を何んとかしようと思っていたからだろう。
さて、備中高松はともすれば四国のようにも間違われるが、岡山の裹の山間である。
そこの竜が鼻の本陣に居た秀吉は顔をしかめていた。何故なら、
「四国の長曾我部守親に、四国は切り取り放題じゃと、彼へ嫁入った斎藤内蔵介の妹の産んだ子へ、信親と己の名を一字やられた癖して、
信長様は己が子の信孝どのが成人されると、四国探題にしようと、長曾我部征伐の軍勢をだされるそうではないか」と低くうそぶいた。すると
よって信孝様より下に男の子が八人もおわします。ぢやによって今の儘でゆけば、これまでの功臣は次々に粛清されて、信長さまの御子さまが跡釜につくことになりまするな」
「そのことよ。わしにしろ柴田勝家、滝川一益と子のない者だけが、重く用いられているのは、どうもその含みがあっての事らしい」
謀臣黒田官兵衛へ秀吉は笑って見せた。しかし笑顔はすぐ引っこみ、
「だから馬鹿を見ぬよう手は打ってあるゆえ、まあ六月一日あたりを大願成就とみて和平交渉は早くに毛利と纏めよ。
ぐずついては元も子もなくなるぞ」と官兵衛に命じた。
そこで秘密裡に進め、もはや調印待ちだけになっていた毛利方との和平交渉を、六月三日朝に済ませると、秀吉はむっとして、
「次の血祭りは光秀だな」と唸った。黒田官兵衛が、
「殿のライバルのせいですか」と、いった意味を聞くのに、
「信長さまの独裁主義も古いが、亡き道三入道譲りの光秀めの理想主義も鼻もちならぬ。これから天下を制圧するのには、己れが御所の主になるしかないのだが、
のち誠仁親王が怪死したとき、奈良興福寺の英俊はその天正十四年八月七日の日記に、
「誠仁親王さまの急死は、はしかだというが三十五歳の皇太子がかかられる病いでない。もうこうなったら次の帝位へつくのは、秀吉とはっきり定まったようなものである」
と明記しこれは、『多聞院目誌』の名称で活字本にもなっている。
「山崎合戦」なるものが華々しくあったように、陸軍参謀本部編の<日本戦史>の一冊にもなっている。しかし、この戦史の原本というか土台になっているものは、
「豊臣秀吉より織田信孝の家老斎藤玄番允らへ、宛たる戦況報告の手紙」とされている。
しかし<日本戦史>では、秀吉は織田信孝を名主に頂いて信長の葬い合戦をした事になっている。だったら後になって秀吉が、その戦に加わった信孝へ、自慢たらしく戦況の報告書を出すの
は、それが家老宛であっても可笑しすぎる。恐らく真相は囗のうまい秀古が、
「信長さまの急死を聞き取るものも収りあえず、かくは駈け戻ってきた……これから新しい世作りをするため談合しよう」と、黒田官兵衛あたりを使いに飛ばせたので、律義な光秀は己が持城
の山畸西ヶ岡の勝竜寺城へ秀吉を迎えにきたものらしい。
が、この城は光秀を裏切って秀吉にに加坦していた細川幽斎の親代々の居城だったのである。
それゆえこの辺の事情を推理すれば、まんまと光秀は偽られて、細川の策に落ち秀吉に殺されたのではあるまいか。
十五日になって火を発し城を出たところを殺されているのである。
無実の罪で汚名をさせられ殺された者が迷って祟りをしないようにと、封じこめにまつるのが、「御霊社」だったと、現在では明確になっているけれど、
光秀の為に、江戸の元禄時代から京都福知山には大きな御霊神社があり今も多くの参拝人で賑わっている。
また、画像のように、坂本では未だに光秀を犯人とした説を信じて歌碑まで作っている。