新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

短歌から分る明智光秀の実像 明智光秀は理想主義者

2019-08-29 18:35:02 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
「見花」と題されて、「咲きつづく花の梢をながむれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」という短歌がある。
これは、旧候爵蜂須賀家に伝わっているもので、明智光秀の署名があり、明智光秀の真筆として名高いものである。
が、これと同じものが明智光秀が迷って出て祟りをせぬようにと、祀られている福知山の御霊社にも余り保存はよくないがある。
つまり光秀には、この他にも、「われならで誰かはうえむひとつ松、こころしてふけ志賀の浦かぜ」
といったあまりうまくない歌が、『常山紀談』の中に、光秀が唐畸の松を植えたときのものとして書かれているが、真偽不明なのは、
そっくり同じ他人の作があるからである。だからして明智光秀の作と認められるのは前掲のものしかないことになる。
そしてこの歌は巧拙は別にして、光秀にはきわめて感銘深いものだったといえる。
では何故そうなのであろうか? といった疑問が、どうしても浮かんでくる。
雪の山風が吹くのは当時の美濃、それも東の飛騨に近いあたりである。今では石畳しか残っていないが可児郡の明智城の遺跡へゆくと、
何百年と星霜はたっているが、そこには樹齢もわからぬような、山桜の古木がずらりと並んでいる。
だから光秀がまだ十兵衛とも名のらず、奇白丸とよばれていた幼時に、山頂の明智城から何かを見下ろし感銘をうけたことが有ると考えられる。
 が、五歳や六歳の少年にとって、終生ずっと忘れられぬような記憶とは何だろうとなる。
 そこで光秀が生まれたと推定される一五二八年から起算してゆくと、享禄五年七月が天文元年に改元されるから人文二年二月二十日、
太陽暦では三月十一日に当る日に、明智光継の三女の小見の万が斎藤道三の許へ、輿しにのせられて山を下っていった事実をつきとめることができた。
当時は、十五歳位で嫁にゆくのが当り前な時代なのに、行かず後家みたいに何故か二十一歳になるなるまで嫁に行っていなかった。
この謎は推理するしかないのだが、小見の方は明智城内に居た若い武士と肉体関係を持ち、未婚の母として光秀を産んでしまった。
相手は何かの戦の際戦死し、光秀は母と祖父明智光継に育てられたとしか考えられない。
だから光秀の出自を名門土岐氏の出だとする歴史家の説は信じられないのである。
そして、嫁いだ後、天文二十年三月に、小見の方が急死すると、斎藤十兵衛を名のっていた光秀は、明智姓に名乗りを変えて、
突然出奔してしまっている。なのに五年後の弘治二年に道三が旧土岐勢力によって殺された時、すでに小見の方は死んでいて、無縁のはずなのに、
明智城は包囲されて、一人も脱出できないように、この山城は周囲から火をかけられて、皆殺しにされている。
どうも十兵衛が隠れていて仇討ちしまいか、と警戒されてとしか見る外はない。
さて信長の妻の奇蝶は美濃から嫁に行ったので美濃御前ともいわれていたが、小見の方の産んだ娘である。
こうなると光秀は道三の子であるばかりでなく、信長には義兄にも当たるのてある。
こうして一つの短歌でも、手探っていくと、隠された歴史が何かと浮かび出るものである。
明智光秀は生母を愛していたとは思われるが、、義父の斎藤道三を慕つていたかどうか判らない。
 しかし、三つ子の魂百までもというけれど、やはり同じような理想主義者だったのは、確かなことのようである。
京で、日蓮宗の僧として修業したことのある道三は、応仁の乱で荒れ果てた京を見、酷税に疲れ果てた庶民の窮状を見かねて、
現生の幸福を説くのが日蓮宗の教義だから、流れてきた美濃でその理想を実現しようとした。
光秀も諸国を回ってみて「この乱世ををひとまず旧へ戻すために」というので、越前一条谷に身を潜めていた十五代将軍足利義昭を、坦ぎ出すことに全力を投入した。
あまり良質ではないが、旧細川侯爵家に伝わる『家記』では、
「永禄十一年七月十日、光秀はその家臣溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余名にて、阿波囗で義昭を迎えさせ、穴問の谷をへた仏が原のところに、光秀自身が五百余の兵をひいて待ち
うけ、そこから義昭の護衛をした」とでている。
しかし足利将軍を復活させたところで、世の中が良くなるわけはない。やがて絶望した彼は、織田信長をもって、
「彼こそ自分の理想を実現できる男ならん」といった見方をしたらしい。なにしろ信長は斎藤道三の女婿であるから、道三の理想主義を受けついでいるものと考えたのだろう。
 というのは、その頃の信長は、まだ「天下布武」などとは号して居らず、
 『掛川史稿』といった古書には、すこし話は難かしくなるが、
 「遠州駿河の院内に限定居住の者らは、これまでと違って松永太夫の申し付けさえ守るならば、商売を営んでもよろしい。
しかし他の部族は年末といえど難渋して居っても一切勝手は許さないものである。永禄六癸亥年十月十九日、上総介(判)」が収録されている。
 従来これを、静岡県掛川は当時まだ今川領だったゆえ、氏真が書いたものとみて今川家裁許状としているが、今川義元の伜が、こんな反体制な布告を領内にする訳はない。
 院内とは院地とか、別所の名称で今も地名は各地に残っているが、これは高松古墳が出来た頃、日本列島へ渡ってきていた弁髪の藤原氏にその祖国を占領され、
やむなく帰化を申しでてきたクダラやコウライ、シラギの者らで軍隊を編成し、これを日本原住民の討伐にさしむけてよこし、
捕えた者らを各地に分散収容したときの限定地域のことをさすのである。
 つまり、かつての天の朝の残党でヤソタケルとかヤマタオロチなどと、ヤを名のって日本中に散っていた部族のことである。
 いわゆる王朝時代と袮される藤原氏から足利氏にかけて、差別されてきたヤの部族に対し、その限定地域から出てもよく、太夫の命令さえ守るなら商売をしてよい、
といった布告は、まだ今川家の朝比奈三郎兵衛の領地だった掛川地域の、そうした被圧迫階級に対し解放を約束した信長が出したアジ文書と見るしかないであろう。
 日本歴史では、信長が各地の税金をとる関所を廃止したり、清州の城下を楽市として一切無税にしたことを、仁政のように特筆しているが、この上総介文書をみると、
「商売の許可は、後にヤン衆とかヤア衆、ヤアさんとよばれる人々だけに限られる、だから、それでこれまで差別圧迫されてきた怨念をはらせばよいであろう」
 といった具合だから、商人はこれ一人残らず日本原住民とそれからは定まっだのである。
こうなると、もう関所の必要もなく、清州の城下を彼らの解放区にしたのも当然の帰結といえよう。
つまり今でも商売をする店がヤの字を、「三河屋」「尾張屋」「越後屋」と付けるのも、信長の先発隊が堺の町などへ押しかけて、「矢銭」とか「屋銭」といった名目で、
賦課金を強制割り当てしていたのも、信長がヤの部族をおおいに利用したゆえんだろう。
小説や講談では個人のバイタリテー、つまり武勇伝で天下をとるようになっているが、今も昔も組織を握り、大衆動員しなければ、なんともなるものではなかっただろう。
さて、一般大衆の被圧迫ぶりを流浪しながら見てきた十兵衛の目には、これまでの被差別階級を自由にしてやり、商売という利潤追及の生計を許し勢力を伸ばしてゆく信長のやり口が、
彼が憬れていた新体制に思えたし、
 「信長こそ新しい世直しの旗手」とみえたのであろう。だから、せっかく一度は奉じたものの旧体制そのものの足利義昭から、光秀は鞍替えしてしまったのだろう。
もちろん若かった頃に奇蝶へ禍失をおかしてしまったので、その贖罪のため夫となった信長に尽したとする見方もできよう。
 しかし勢力を広げるまでは解放戦線の旗頭であった信長が、やがて独裁者になって、
「武力をもって天下平定」と、その方針を変えてくると、おおいに光秀は悩んだらしい。
 だからその頃の光秀は、信長に換るものとして時の正親町天皇に近づき、次に帝位につかれることになっていた皇太子誠仁親王とも仲良くした。
道三が日蓮宗を信仰し帰依したように、彼は天皇家を宗教的なものとし、
「天皇教」といった信心をもち、その力で革命を考え企てていた点がないでもない。
 だから、今と違って衰微していた皇室に対し、光秀の奉公は他に比のないものであった。
「その勤皇の志あつきを嘉し、馬、鎧、香袋を賞として授く」と、天正七年七月二十日、正親町帝はみずから光秀へ賜っているけれど、天皇みづからが勤皇であると認めた者は、
先に和気清麻呂、後に明智光秀しかない。
 秀吉は信長の死を知っていた
 
 『御湯殿上日記』なる当時の宮中の女官どもが書きつづった記録では、この事件は御所の飯米にあてられた領地を奪われ、収獲がなく困っていられるのを光秀が討伐して取り返し、
奪われた分は立て替え納入した為といわれている。が、光秀は、かつて足利義昭のために信長が造営した「武家御城」とよばれていた二条城を作り直して、誠仁親王に献納し、
「下の御所」といわれていたのをみても判るが、あまり皇城が敬われていなかった時代なのに、光秀だけはおおいにシンパとなって奉公をした。
 何故かというと光秀は、新しい明日を何んとかしようと思っていたからだろう。
 さて、備中高松はともすれば四国のようにも間違われるが、岡山の裹の山間である。
そこの竜が鼻の本陣に居た秀吉は顔をしかめていた。何故なら、
「四国の長曾我部守親に、四国は切り取り放題じゃと、彼へ嫁入った斎藤内蔵介の妹の産んだ子へ、信親と己の名を一字やられた癖して、
信長様は己が子の信孝どのが成人されると、四国探題にしようと、長曾我部征伐の軍勢をだされるそうではないか」と低くうそぶいた。すると
 
「信長さまは女ご嫌いゆえ、どうしてもせねばならぬ子作りには、前に男児を産んだ女人のみを召されてます。
よって信孝様より下に男の子が八人もおわします。ぢやによって今の儘でゆけば、これまでの功臣は次々に粛清されて、信長さまの御子さまが跡釜につくことになりまするな」
「そのことよ。わしにしろ柴田勝家、滝川一益と子のない者だけが、重く用いられているのは、どうもその含みがあっての事らしい」
謀臣黒田官兵衛へ秀吉は笑って見せた。しかし笑顔はすぐ引っこみ、
「散々っぱら働かされて、はいそれ迄よでは堪らぬわえ」と口を突がらせてから、
「だから馬鹿を見ぬよう手は打ってあるゆえ、まあ六月一日あたりを大願成就とみて和平交渉は早くに毛利と纏めよ。
ぐずついては元も子もなくなるぞ」と官兵衛に命じた。
 が、予定より一日遅れで秀吉ら働く者にとっては何よりな、独裁者信長爆死の報が京より届いた。
そこで秘密裡に進め、もはや調印待ちだけになっていた毛利方との和平交渉を、六月三日朝に済ませると、秀吉はむっとして、
 「次の血祭りは光秀だな」と唸った。黒田官兵衛が、
 「殿のライバルのせいですか」と、いった意味を聞くのに、
 「信長さまの独裁主義も古いが、亡き道三入道譲りの光秀めの理想主義も鼻もちならぬ。これから天下を制圧するのには、己れが御所の主になるしかないのだが、
光秀めは皇太子誠仁親王と仲良しゆえ、わしが帝位につこうとすれば光秀めは馬鹿ゆえ、すぐ刃向かってこよう。一日も早く叩くしかあるまい」と放言した。
が、秀吉のこの言葉は出まかせでもなかった。
 のち誠仁親王が怪死したとき、奈良興福寺の英俊はその天正十四年八月七日の日記に、
「誠仁親王さまの急死は、はしかだというが三十五歳の皇太子がかかられる病いでない。もうこうなったら次の帝位へつくのは、秀吉とはっきり定まったようなものである」
と明記しこれは、『多聞院目誌』の名称で活字本にもなっている。
さて秀吉は故信長の葬い合戦として山崎街道で光秀を討ったとし、
「山崎合戦」なるものが華々しくあったように、陸軍参謀本部編の<日本戦史>の一冊にもなっている。しかし、この戦史の原本というか土台になっているものは、
「豊臣秀吉より織田信孝の家老斎藤玄番允らへ、宛たる戦況報告の手紙」とされている。
 この玄番允は斎藤道三の忘れ形身で、奇蝶の異父弟だから、明智光方の義弟に当る。
 しかし<日本戦史>では、秀吉は織田信孝を名主に頂いて信長の葬い合戦をした事になっている。だったら後になって秀吉が、その戦に加わった信孝へ、自慢たらしく戦況の報告書を出すの
は、それが家老宛であっても可笑しすぎる。恐らく真相は囗のうまい秀古が、
「信長さまの急死を聞き取るものも収りあえず、かくは駈け戻ってきた……これから新しい世作りをするため談合しよう」と、黒田官兵衛あたりを使いに飛ばせたので、律義な光秀は己が持城
の山畸西ヶ岡の勝竜寺城へ秀吉を迎えにきたものらしい。
 が、この城は光秀を裏切って秀吉にに加坦していた細川幽斎の親代々の居城だったのである。
 それゆえこの辺の事情を推理すれば、まんまと光秀は偽られて、細川の策に落ち秀吉に殺されたのではあるまいか。
戦史では、六月十四日、十五日の両日の合戦となっているが、十四日は戦らしいこともなく光秀は城から出ず、
十五日になって火を発し城を出たところを殺されているのである。
 無実の罪で汚名をさせられ殺された者が迷って祟りをしないようにと、封じこめにまつるのが、「御霊社」だったと、現在では明確になっているけれど、
光秀の為に、江戸の元禄時代から京都福知山には大きな御霊神社があり今も多くの参拝人で賑わっている。
また、画像のように、坂本では未だに光秀を犯人とした説を信じて歌碑まで作っている。

白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史

2019-08-28 11:43:25 | 新日本意外史 古代から現代まで
白村江で負けたのは百済 多武峰(とうのみね)の歴史
 
 平安京になってからも現在の京都は、表面では京は、大陸勢力の四十六坊の寺の多い仏教の都だった。 が、それなら藤原氏は何処に実力を蓄えて当時の日本を、武力で支配していたかという謎が今まで隠されているが、誰も解明していない。 だがそれは大和の多武峰と思われる。さて、その前に、「日本の歴史家と称する者で、これまでで誰一人として『歴史の解明』を志した者はいない」と、史学の泰斗の久米邦武がみずから〈日本歴史資史料集大成〉の〈日本幅員(列島)の沿革〉の初めに述べている。
 
 ですからでしょうか、その論文のしめくくりの終りの個所に○○をつけて、「義によって百済を助けんとして援兵をだしたものの、白村江の氏礼城の戦いに敗けて兵をひきあげ、百済の臣民をわが内地に移して扶助、 九州の筑紫の防禦に力を尽し、唐には使を遣り旧好を修められしに、唐もまたあえて犯さず、全く無事に結びたり」としているのが、それでもあります。
 
 その西暦六六三年は日本列島では、古代クダラ語で「国」を意味するナラ朝の時代。つまりクダラ人が日本列島のオーナーだった頃ゆえ、さながらチャンバラものみたいに、 「義によって助け太刀いたす」と日本国が出かけたようになっている。しかしこれは大きな間違いである。 先日もテレビの解説で、ジャーナリストの桜井よしこ氏が、同じことを言っていた。 私は日本の女性論客の中で、桜井氏と中林美恵子氏は大いに評価しているが、彼女ほどの才媛で碩学といえども「日本書紀」と「古事記」を信じ、その呪縛から脱し切れていないのである。
 
先ず、当時の日本列島に、大唐国を相手に、他国を軍事援助出来たような強国が成立していたという認識が間違いなのである。 白村江で敗戦したのは朝鮮半島の百済で、母国救援に奈良人は吾々庶民の先祖を防人に召集して出かけただけの話。 だから、前線指揮官は百済人だったろうが、強制徴兵された、二万七千人とも三万人とも謂われる日本原住民が、勇敢に戦うはずはない。
 
 また敗戦して、すぐ引きあげて来られる筈はありません。武装解除され抑留ということになる。当時のことゆえ奴隷に売られてしまっていて、まともには、出かけた壮丁のシコの民達は、 異国の朝鮮半島に拘束されてしまったのが真実。
 なのにクダラの臣民まで、どうして日本へ移送できるような、巨力な艦隊があったり、21世紀末の現代でさえ福祉のよろしくない日本が、そんな扶助行為などを、はたしてしたものでしょうか。
 
 実際はナラ王朝時代、つまりクダラの都だったのですから、男がいなくなった老幼婦女が、あるだけの物をやむなく牛車に積んで疎開して行っただけの話でして、扶助したのは当時の牛であります。つまり韓国より内地へ移したのではなく、内地の都から安全な土地へ疎開という事態になっただけです。それに九州の筑紫とありますが、最近重要文化財に指定された金田城を始め高安城その他数多くの築城にしても、それを築く命令を誰がしたと言うのでしょう。
 
 
  自村江で大勝をし、余威をかって九州へ進駐し、無人の王宮へ翌年五月十七日に姿を現わした唐の劉将軍や郭将軍は、対馬、壱岐に信号用のノロシ台を作らせ、 築紫には上陸用舟艇をつける水城を構築させて来ていたのですが、原住民のゲリラの蜂起を心配してか、翌六六五年八月には答体春初に長門の今の下関にも築城させ、 四比福夫らには築紫の大野城、椽城の二つを築城させるに際し、郭将軍は諸国といっても日本国内ですが、城の積石の供出搬出の命令をだしているのです。 まさか唐の将軍が、唐軍を防ぐ城などを己が部将に命じて築かせる訳はないでしょう。
「大唐郭務淙ラ、二千余人ヲ我ニ送ル」の意味
そのまた翌年二月二十五日に百済帰化人男女四百余人を近江神前郡へ移すとあります。こうなると帰化人とは郭将軍らへ帰順帰化の意味ということになる。  というのも同年九月二十三日には、司馬法聡、令上柱国、劉徳高といった施政官までが大挙してきて十一月十三日に戦勝大パーティーが催されているからである。 そして翌々年になりますと、劉将軍の金田城など大掛りなものが構築されたのであります。
 
 
さて西暦六六九年には、「是歳、大唐は郭務淙ラ二千余人ヲ我ニ送ル」と、日本書紀にはでています。 もし自村江の戦いに負けたにしても日本には強力な国があって、進駐してきた唐軍を降参させてしまい、彼らに築城工事を次々とさせて頑強に防備をかためてしまったので、 もはや大唐国も、よって諦めて匙をなげて、「郭将軍らみたいな連中は放ってしまえ」と、我に送ったというのが、今の日本の歴史の解釈であります。  
 
しかし贈ると送るとでは発音は日本では同じですが、まるで意味が違います。 これはどうみても、「送りこむ」とみねばなりません。百済人は向こうで捕虜にされている者らを戻して欲しいし、王宮も占領されているので皆が帰順帰化したようですが、 新羅系や高麗系はその当時はまだ抵抗をしたのでしょう。
 
 翌六七〇年に高安城に塩や食糧を積みこんだり、また今の下関や九州に二城を新しく構築し食糧や塩を積みこんだのも、唐本国は二千余の援軍を送ってよこしたきりで、 以降は自給自足せよとの通達だったから、被征服民がもし叛乱をどんどんしだしたら、籠城でもするしかないから、そのための用意だったとみるべき。つまり西暦六六九年の時点での「我ニ送ル」の我は、もう我は昔の我ならずであったのでしょう。
多武峰に居たのは唐の武装軍団
 それを学校歴史では、「高安城などを築いて防備したゆえ、唐軍は攻略不能とみて撤収した」としますが、防禦なら穀物や塩の他に武器を多量に積みこまねば、話の筋が通りませんし、 唐軍のことを「我」とする日本書紀もこうなれば、大陸系の人によって書かれた事が明白な証拠になるのです。
 
 「唐に使をやり旧好をあたたむ」とあるのも、やはりどうにも変てこです。日本へきている弁髪の人が、故国の友人へ使いをだしたのでなくては、まったく意味が通じません。 しかし、これが学校教育の盲点でありますからして、〈日本歴史資史料集大成〉の原文に頼るしか仕方かありません。
 
ですからして久米幹文が、やはり「藤原氏論」において「基経大臣が陽成帝は御失徳おわしますとて、御位をおろし奉り己が縁故する処の藤系の光孝帝に取り換えてより、 藤氏と王室の間ますます密となり、より盛んにして、天下になびかざるものなし」として、従来は親王とか諸王宮が大臣摂政となって王政をとっていたのが、 この時から藤原氏がすべて独占のようになった……といいます。
 しかし、もっと前から王政を独占していなくては、清和帝を早く退位させ、その御子の僅か十歳の陽成さまを人皇57代にたて、僅か17歳になられた時に、御失徳おわしますなどと勝手なことをいって、 さっさと廃立などできるものでしょうか。常識で考えてみても直ぐ判りうる事であります。
 
白村江の戦いの後は藤原氏がすべてを押さえていて、着せかえ人形の首でもすげ換えるよう、帝位をほしい儘にしていたのですから、宇多帝が菅原道真を登用されても何年も保だなかったのです。それゆえ〈日本歴史資史料集大成〉の535頁にある明治史学会雑誌第十号掲載の「多武峰告文使の事」に、 「昔は朝廷に何か変事があれば、藤原鎌足の木像が破裂する事ありて、勅使を派遣して祀られる慣習があったのは、初めは鎌足を摂津阿成山に葬ったのであるが、 定慧が唐よりきて大和多武峰に改葬。肖像をまつり後世になって国家にまさに変事あらんとすれば、その像が破壊すと言われ、時の朝廷はすぐさま勅使を急ぎ送って謝ったものである」となし、 これは〈談峯記〉にでています。
 
本来なら変事があったら、伊勢神宮へでもすぐに勅使をだして謝るべきなのに、何故に大和の多武峰へ御所から飛んで行ったのかといえば、大化改新のフィクサーで後の天武帝からの、 大陸王朝ともいえる処の基礎をひらいた豪い御先祖さまだからであると言ってしまえばそれまでですが、「坊」といっても今の意味で言えば「防」とよばれる武装隊がここに陣取っていて、 「坊主」とよぶ大将の率いる進駐軍がそこにいたから、それで朝廷では怖れておられたのではあるまいかと想えます。
 
 
 楠木正成の若い頃、ここへ攻めこんだら、青竜刀や戈をもち鉄具の道具をもった軍勢が居て、びっくりしたという話すら残っている程であります。 が、なにしろ後冷泉院の永承元年正月に、大内記で作らせた上告文をもって、祈謝の使者としてから、何か事あるたびに多武峰へは行っているのです。
 
ただ詫びに行っだのではなく変事がありそうな時には、多武峰の「匿し軍団」の来援を前もって京から迎えに行っていたのではないでしょうか。と中しますのも、その538頁の終りの方に、多武峰より、時の関白殿下への進物としての内訳が、 「布千疋」とあるからです。
 
なにしろ綿の木は中国大陸から藤原時代に仏教の宣教用にと輸入され、栽培も監理されていましたから、僧侶の他に武装兵らが勢揃いし、 相当の勢力が多武峰にはいて、日本原住民を捕えてきては使役に用い、たちに綿の実をつませ紡がせ織らせていた模様です。
 
ウイキペディアには次のように書かれている。 多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山、および、その一帯にあった寺院のこと。 飛鳥時代に道教を信奉していた斉明天皇が、『日本書紀』に、「多武峰の山頂付近に石塁や高殿を築いて両槻宮(ふたつきのみや)とした」とある。 『日本三代実録』に、858年(天安2年)「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」と記されている。平安時代中頃の成立と見られる『多武峯略記』に、 「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市大織冠神社、阿武山古墳か)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 日本史では隠しこまれているが、多武蜂は音読みでは「たぶほう」だが前記したように、ここには「唐からの人間が居た小山」であり、唐から来た武装勢力が多く居たという証拠でもある。
 
 

煽り運転犯、宮崎文夫の「ミ」姓の考察

2019-08-25 21:12:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

煽り運転犯、宮崎文夫の「ミ」姓の考察

先頃「あおり運転」の犯人男女、宮崎文夫と喜本奈津子が逮捕された。 連日のテレビ報道で、宮崎の凶暴性がお茶の間には強烈な印象だったろう。 姓の法則を研究している私にとっては、このミ姓の凶暴性は別に不思議ではない。 直情径行の性格だから、ある一定の条件下ではその「負」の性格が爆発するので、理屈っぽいが、本来は気の小さな男なのである。 それにしても、近頃は煽られたり、幅寄せされて、おまけにパンチまで食らって一体どうしたものか。

やられたら、こっちが追いかけて行き、相手の車を止め、逃げられぬようにドアを開けキーを抜いてエンジンを切り、 相手を引っ張り出して理詰めで唸ってやり、話を付けるのが順当だろう。 相手がパンチや蹴りを入れ攻撃してきたらシメたもの。此方が徹底的にぶちのめしてから警察を呼べばよい。これで正当防衛になる。 やられたらやり返すのが基本なのである。 こんな男たちをのさばらせておくことはない。彼らは相手が手出しをしないという前提で行動しているのである。 まあ、喧嘩に自信のない人は、リアウインドウはスモールフィルムを張り、山口組の金色代紋ステッカーでも張っておくことをお勧めする。

閑話休題。 この比較的温厚であるイキヒチニヒミの付く姓を、例によって日本史から考察してみましょう。

この第二横列(イ姓列)のイキシチニを編戸の民(稲束を渡され田夷となって穴居の入り口に目印に筵をはっていた民)とする根本資料は、 『延喜式』の授苗腸表及び、太田南畝編『杏花園随筆』及び『寛政家伝指出史料』を参考として、もっとも早く農耕部族となった「原住農耕系」とみなすものです。

原住農耕系(仁徳王朝系)─イ姓列

 関東では「イカン」「イケマセン」というのを、関西では「アカン」「アキマヘン」といいます。本辞と修辞の差といいますが、これはやはり民族別の発音の違いなのです。  つまり、イが上についても、茨城県の水郷地帯のイタコから以東のイ姓はアと同じなのです。また、拝火教の末裔が多い関係でヒは炎のホと結びつきますので、 第五横列(オ姓列)に入ります。また北と白という文字の場合はキとシでもこの列から外します。(北は第五横列、白は第一横列に昔は入れていたからです)

 何故この姓列はそんなにややこしいのかといいますと、もともとは原住民なのですが彼らは西部劇にでてくる騎馬隊の軍属のインディアンのごとく、 早いとこ藤原氏に降伏してしまった要領のよい連中。それと、藤原基経に廃立させられ上州のハルナ系の山中へ連合赤軍のごとく逃げ込まれた陽成帝のお供をして山中アジトへ逃亡し、 あくまで公家に対してレジスタンスを続けたものとに分かれるからなのです。

 反抗派は、第一横列(ア姓列)や第五横列(オ姓列)とその血を混ぜて今日に至っていますから、それらと同じことですが、いち早く藤原側について、 種米のモミの束を与えられて、「田夷」と呼ばれ、編戸の民となった方の彼らは、江戸時代になっても寺百姓と呼ばれて、各壇那寺に人別帖なる戸口簿で総括取締りをうけていたので、 昔は軽くみられ、「奴百姓」とも呼ばれました。  しかし、唐から渡ってきた連中のだらっとした弁髪をみて、「長いものには捲かれろ」と、いち早く転向した目先のきく先祖の血をひいた彼らは、 「百姓は滑稽だ」といわれつつも明治まで逞しく生き抜き、今では土地成金になった人も多く、その要領のよさでは他に肩を並べる者はなく、現代のエリートがこの姓をもつ人々なのです。

イ姓列の場合、イキシチニ・・・・・の横列のリズムに動く例証。

 <小笠原流とは別派な古式作法の水島流の水島伝弥について、享保十一年に伊藤甚右衛門が書き残した伝書≪享保十一年伊藤甚右衛門指出書≫から例を引用してみましょう>    ◆大坂落城後・・・・城から逃げだし捕らえられたが、首代を払えば助命するといわれ、″イの池田武蔵守〟家来の″ミの水島助佐衛門〟が実兄だといった処、銀子一貫匁なら助けようとなって使をだした。 処が長く陣中に居て手許不如意ゆえ七百匁に負けろとの返事。

そこで三百匁は信用貸しにして後廻しになさんとの双方での話し合いになったが、どうあっても捕えた方は一貫匁というので、話はこじれて決裂。そこで首を落とされる羽目になったが、″二の西尾主水正〟陣屋に駆けこみ訴えした処、武者奉行 ″ミの水野但馬〟が、同姓なればと掛け合ってくれ、前銀三百匁、後百匁ずつ五回払いの八百匁で、   落とし前の話がつき、身柄は西尾陣屋へ移された。

 その後、八百匁のかたに奉公している内に、伝弥が産まれたのだが眉目麗しく、二百匁の仕度銀にて ″ミの三浦主膳〟の仲立ちで、″イの井伊掃部頭〟へ小姓奉公した。やがて小笠原右近太夫が井伊家出入りで、その作法をやがて伝弥は習得した。だが、右近太夫は「姓が異る」と小笠原流奥儀は許さなかった。そこで、″キの木股仁太夫〟、″シの清水次郎助〟、″チの千葉五郎太〟ら同姓の肝入りで殿に願い出て御暇を頂戴して、″ヒの日野右膳〟の娘を妻とし、 新しくミの水島流指南〟の一家を設立することがようやくできたのである。 といった経緯を門人の伊藤がしたためたものですが、イキシチニの発音をひっくるめ、″同姓〟と呼んでいる点に留意していただければ、すべて納得がいかれることでしょう。  首を落とされる前に金を払って話しをつけるのを「落とし前」というのも、この頃の名残りです。また、他の横列もそうですが、イキシチニの横のつながりが強固な例として、室町時代の守護職を、ついでにあげておきましょう。

イ 今川氏=駿河   伊勢氏=伊勢   一色氏=丹後    キ 吉良氏=三河 

木曾氏=信濃   菊地氏=肥前    シ 斯波氏=尾張   島津氏=薩摩 

チ 千葉氏=上総   長曽我部氏=土佐    二 仁科氏=信濃   蜷川氏=丹波  

ヒ 日野氏=摂津   土岐氏=美濃    ミ 三好氏=阿波   三浦氏=下総  といった具合に、この系列にのみ限定されていたのをみても判ることです。

関東の”イ”は関西の”ア”と同じゆえ、これと”ヒ”は別ですが、他は一応は、体制協力型で要領が良い。 またエリート型できわめて順応方ですので人付き合いも良い。男性は直情径行型で信念を持った者が多く、女性にも好かれる。

ミ姓―カラ神信徒の流れをくむ恐れ知らずの部族 

 この姓には、三、水、宮の三つを上につける姓が殆どを占め、後は、南、峰、湊、光、緑、瑞といったのに分かれています。  もともとは、騎馬民族で神さんを拝んでいたかカラ神信徒の流れだが、進取の気性にとんでいて、終戦時にアメリカ兵の側によって行き、すぐさま商売した人種のように、 恐れを知らず馴々しく近づいて、国際親善をした勇敢さが今も伝わっているのか、海外へ雄飛している邦人にもこのミの姓の人がかなり多い。   そしてミのつく姓の人も、やはりイ姓列やウ姓列の二つの姓列の人と結びついている限りは、事業の運営もうまくいくし、交友関係もそつがなく、安全第一ということがいえます。

 一般にあっても、この姓は比較的穏健そのものであって、警察協力会の会員になったり、防犯連絡所になっている家にこの姓が多いのも、法を守るという穏当な常識人が多い例証といえましょう。  ですから、企業側にあっては、こういう姓のつく部下かを管理職の要所要所に配置しておけば、社運が興隆することは間違いありません。  また、部下のほうも、この姓の持ち主が上司であった場合は、なるべく気に入られるようにしておけば、自分もしたがって栄進の道が辿れるというものです。

 しかし、この姓の弱さは、自分自身が一派をリードし、全体の統率者にはなったりできないということです。 どうしても、脇役とか番頭役であるにとどまることが多いようです。  しかし、何もリーダーになって苦労するだけがいいことではないですから、セカンドの位置にあって、己の能力を発揮していくとなれば、 それはそれなりに立派でこれはきわめて堅実な生き方といえます。  しかし、大きな会社の場合では、すべての幹部が皆、イとウの二つの姓だけでまとめていくということはまずできません。  ですから、ベンベルグの旭化成工業などでは、社長の宮崎輝は、専務にはクの久保田正雄、イの磯部一充を置き、副社長には他の姓

列のものを統率してゆくためア姓列のカがつく刈谷享を据えて、全部の人事を取しきって、波風を立てることなく、きわめてうまく事業を伸ばしています。  これはまた、丸善石油の宮森和夫社長にもいえることで、同姓列のイの石渡健二、シの清水菊一、ア姓列のマの松田重一、ワの脇坂泰彦を専務にし、 二つの姓の流れをスタッフに置いて、一時は潰れかけた会社なのに、それをなんとか努力して、もって現在のような隆盛さに持ち直してきています。

 ミの姓をもつ人は当たりがやわらかいというか、他とすぐ親しくなれる特性をもっているので、それをうまく活用すれば事業においても成功するということです。  これは女性にもいえることで、銀座のバーのマダムや一流の料亭の女将にもこの姓が意外と多い。

 つまりこうなりますと、われら日本人は決して単一の民族ではなく、四つの複合民族であるということを、はっきり把握して、 主脳部はうまが合うからと自分と同じ姓列だけで周囲をかためず、他姓列を押さえてゆくためには、どうしても、その姓の者をしかるべく序列におくことが、 なんといっても会社の運営をうまくやってゆく人事問題の要諦ともいえるようです。これはすぐにも実行すべきでありましょう。

こうしてみると、様々な問題はあるとはいえ、安倍内閣もア列が主導権を握り、オ姓列の大臣や副大臣、政務官を配し、原住民系で手堅く運営している。 内閣の女房役ともいえる官房長官に菅氏という、契丹系の頭の良いのを配し睨みを利かせている。人事としては大成功である。 そして、党の運営には、イキシチニヒミ横列のニの付く二階幹事長だから、安倍一強として長く続いているのである。 会社でも政府でも組織は全て人間が動かしているので、複雑多岐に渡り、果てしなき不毛な現代は円滑な人間関係がより一層大切になるのである。

 


滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察

2019-08-23 09:34:27 | 新日本意外史 古代から現代まで

  滝川クリステル嬢から見える「タ」姓の考察

前回は小泉進次郎からの「コ」の付く姓の考察をしました。 今回は彼の伴侶となった滝川嬢の姓を日本史から考察してみます。 先ず彼女はフランス人の父を持ち、母親は「滝川」姓の日本人である。

滝川の「タ」はアカサタナハマヤラワのア横姓に入っている。 このア横列は、原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系)になる。

 神話にでてくる天ノ何々のミコトというのが今日の天野さんと呼ばれる人の先祖です。  ですから現在でも天野さんという姓が学校の先生や宗教関係に多いのもこのためです。  紀元前九十七年頃に、現在の沿海州から満州を抜け、北鮮の羅津あたりから、裏日本へ入ってきた扶余族が、騎馬民族として入ってきたとき、「仲よくしよう」と結びついたのは、 崇神帝の御孫の景行帝の妃になられたのがこの系統の八坂姫だったことでも判ります。  今日でも生まれつき肉食できないという人がいますが、それがこの流れの末孫なのです。  そして毎年四月から五月に初鰹を祝う風習を、この人たちは「目に青葉山ほととぎす初鰹」と部族の祝いとして江戸時代まで伝えていた魚食人種だったのです。

 つまり、明治まで日本橋にあった魚河岸のことを「あま店」と呼んだり、≪万葉集≫などで漁師のことを「あま」と呼び、今も海女を、「アマ」というのもこのためです。  しかし六世紀の継体王朝成立の後からは、次第に彼らは唐ぶりの藤原氏から蕃人扱いをされ、捕えられた者は、防人にされたり守戸にされ差別されだしたのです。

 それゆえ、その時からの怨念が体内に脈うっているせいか、いくら日本史が、「天の朝→天孫民族」といった扱いをしても、北海道のユーカラにも似た親から子への口伝で、 天照大神の直系の彼らの末孫には体制に順応を示したくないという人が今でもいます。  特に、アカサタナハマヤラワの中で、カとヤとマの三つの姓を上につけた人には、「天の邪気」というか、その傾向が今でも強く伝わっています。 

 しかし、人口比率はそれでも多くて、現在でも三千万人以上の多数を占めていることからして、これを、「庶民」と呼ぶのです。が、一般庶民といっても、大衆といったような意味ではありません。  現行法で摘出子でない、つまり父親だけが認めた子を「庶民」と区別するのと、それは同じことで、つまり一般庶民とは被占領地の末裔の意味なのです。

 

 ① 姓は、横に結びつく。

  ◆例えば、アカサタナハマヤラワのア姓列にしても、ウクスツヌフムユルウのウ姓列にしても、姓は横に結びあって、一つの集団、関連部族を形成していたということです。  これは、江戸時代までは、姓氏の横のつながりが、「同姓」と呼称され、それが相互扶助や縁組や仕官の取り持ちをしていたという実例によって解明できます。

(1)ア姓列の場合、アカサタナ・・・・・の横列のリズムに動く例証。  <四代将軍家綱の生母於楽の弟に産まれ、のちに、三州西尾城主になった増山正利の≪増山家記≫という由緒書が伝わっているのを引用してみましょう>    ◆姉妹の母は仙光院といい下野在の女で、丹冶比姓といい父親はアの青木源兵衛といったとある。そこでまず、アカサタナハマの増山姓を新設し正利に名乗らせた。   そして、その弟の資利は″ナの那須〟へ養子にゆき、那須遠江守と号すとでている。   さて、このアカサタナのリズムで、この列のカ、サ、ハが空いているが、この新しく作られた増山の親類扱いにと台命で決められたのが、 ″カは加藤右衛門佐忠〟″サは酒井讃岐守忠勝〟″ハは林羅山〟と いう具合にして埋められています。   そして、増山が西尾城主になる迄の間これを幕命で面倒を見るよう指図された者も、ナのつく永井信濃 守尚政であって、まず初めに彼より五十人扶持を贈られ、 そしてナの成瀬隼人正正虎が、その江戸邸を贈っている。「正保四年十一月五日相州新戸の郷に新邑一万石を賜るまで愚す」とあるように、同姓列が面倒をみることに決まっていて、 その生母が青木と離別後再嫁したのも「ナの七沢清宗」という姓の家であった。が、そこで産んだ異父弟の清宗の四男だけは、リズムから外れた。そのため、

 「他氏の女を娶る。よって尊重院に弟子入りす」ということも家記にでています。   つまり、アカサタナハマヤラワ以外の発音のつく姓の女を嫁にしたために、罰としてお寺へ入れられたと いうのです。昔は姓列から外れると厳しかったようです。

 ② ア姓列とオ姓列は緊密系列  

これは何故かといいますと、前にもふれましたが徳川家康が天下をとるため、原住日本系を大同団結させるために、仏法僧で名高い三河の 〝ホの鳳来寺〟に巣くっていた猿女部族の〝オの小野〟姓の女比丘たちを動員して、 「自分は薬師寺十二神将の一人の生れ変りであって、光は東にありという原住民達にとって素晴らしい政治を青空のもとに公約しよう」と触れまわさせたとき、 彼はかねて徳川姓の他松平姓ももっていましたから、このオ姓列の徳川のトと、松平姓のマ、つまりアカサタナハマのア姓列を同一系列とし強化をはかったからなのです。   したがって、ア姓列とオ姓列は、江戸期から明治期、そして今も結ばれあっています。  ですから、あなたの御両親が、自分らで勝手に結びつきあったものでないならば、もしあなたの父方がアカサタナハマヤの一つの姓なら、 母方の旧姓も同じか、必ずオコソトノホモヨの一つのどれかであるわけです。 ・・・・・どうです。ぴったり当っているでしょう。  これは徳川時代から、ア姓列に対しては、オ姓列は絶対緊密の掟があったからであり、その反対も、また同じだったからであります。  <たとえば〝忠臣蔵〟を例にとってみましょう>  

   ◆元禄十四年三月十四日に千代田城内松の廊下における浅野内匠頭の刃傷事件に関して、    「吉良上野の怪我軽微なるを以って、浅野の処分保留方を願わしゅう」と申しでたのは、同じア姓の老中職の阿部豊後守正成と、秋元但馬守喬朝でした。 そして、オ姓の小笠原佐渡守も、「てまえも同然、よしなに願いまする」と、ア姓の老中に従っていることが、≪徳川実紀≫にも詳しくでています。 つまり、オ姓はこの時代では同じ老中職として肩を並べていても、まだアの浅野を処罰するなどということは、姓の序列が厳しくて思いもよらなかったもののようです。      ところが、このとき朝鮮系の生母於玉の方をもつ五代将軍綱吉は、こうした因習を打破してア姓列を潰そうとする意思があったゆえ、閣議を無視し、即日浅野内匠頭を切腹にさせました。 この結果が翌年翌年十二月の本所松坂町への討入りですが、その、赤穂義士討入事件で切腹したものの中から、オのつく姓を拾いだしてみまと、     <細川越中邸にて屠腹の者>大石良雄、小野寺十内、奥田孫太夫、大石瀬左衛門。 <松平隠岐守邸にて屠腹の者>小野寺幸右衛門、岡島八十右衛門。 <水野監物邸にて屠腹の者>奥田貞右衛門。      この他に大石と江戸へきたが、病気や事故などで当日の討入に参加できなかった者。小山田庄左衛門、岡本次郎左衛門、奥野将監、小山弥六,奥野源五、小山源五右衛門、 これだけでもオのつく姓の者は十六名もいるのです。 僅か五万石の浅野家では、≪赤穂分限侍名帖≫によりますと、士分百二十八名、卒族二百四十三名と、書き出しがでていますが、そこから数えだしても、オのつく姓は百近くもいるのです。 だからこそ討入も決行できたのでしょう。 つまり、アのつく大名には、オのつく家臣がずらりと並んでいたという、これは切っても切れないアとオの緊密関係の姓の絆を示す一例だったともいえるでしょう。

 関東生まれの人のイ姓は、ア姓と同一にみる。  これは、本辞と修辞の関係で、関東では、「イケマセン」が関西になると「アキマヘン」、同じく「イカン」が「アカン」となるように変わるのは前述しましたが、 発音を基準とする昔にあっては、姓も同様に、関東のイ姓はア姓と同一に扱わなくてはならないのです。 つまり下北半島の恐山のイタコ信仰が西へゆけば、「愛宕信仰」となったのと同じなのです。

 

タ姓・・・藤原氏に追われて身を潜めた温厚な部族

(滝川、滝田、田中、田村、田島、丹野、田尾、龍田、丹下、田畑、館山、等日本には多い姓)  このタ姓は日本全国に散らばっています。それは、このタ姓をもつ人の先祖が原住系で、陽成帝が藤原氏に追われたとき各地に逃げ、身をひそめていたからなのです。   ですからこの血がそのまま現代にも受け継がれているためか、タのつく姓は、よくいえば人がいいというのか、事なかれ主義の人が多く、あまり社会的に活躍しているというか、 知名度の高い人は人口の占める比率としては少ないようです。またこのタ姓をもつ人々は今でも血の流れを尊重する傾向が強いところがありますので、 一面では真面目だが、その半面きわめて頑固にすぎるようです。ですから、この姓の上役をもつと部下は苦労することになるようです。   しかし、家へ戻っても、そうだろうと想像すると間違いで、この姓の人々は案外ぶすっとして,妻が自分にではなく子供にばかり話しかけるといったことを気にしたりします。   演出家の武智鉄二とか建築家の丹下健三といった鼻っ柱の強そうな人もいますが、一般に案外に真面目人間で小心なところもあるようです。 なにしろこの姓は非常に多い割りには、目立った存在がないというのは、この姓をよくいうならば従順、つまり順応性がありすぎるのです。 なんでもすぐ右へならえをしてしまい、間違っても特異な存在にならないからです。が、その反面、凶暴性をもった人もいるようですから用心すべきでしょう。

  また、この姓には講談本で有名な竹中半兵衛がいます。   木下藤吉郎時代の秀吉と知り合って、その軍師となって、おおいに蔭の人物となり後の太閤秀吉を作り上げたとする重要人物です。 ですから若い時に単身で、今は鵜飼で名高い金華山の上にあった井口の城を奪ったとか、いろいろ面白く話は作られています。   しかし、タのつく者がそんなに勇猛果敢だったりやり手であるのは可笑しいというのか、講談では、藤吉郎と知りあった頃は、もう呼吸器疾患で枕も上がらぬ病人ということにしてしまっています。 そして、単に唯のブレントラストの一人といった具合にしてしまっているのです。つまり滝口入道にしろ、現在の佐藤愛子さんの前夫で作家だった田畑麦彦にしろ、みな、きれるという型ではなくて、 温厚な善人型ということに、この姓をもつ男性は決まっているようなものですが、なにしろタのつく姓の人は多いので、これではいけないと発奮して田中角栄のように大をなす人も、その反面にはいるようです。

  例をあげますと、日本石油社長の滝口丈夫、朝日麦酒社長の高橋吉隆、クラリオン社長の滝沢左内、日本無線社長の竹内雄一、立石電機社長の立石一真、日本セメント社長の竹安千春、 王子製紙社長の田中文雄、武田薬品工業社長の武田長兵衛、石川島播磨工業社長の田口連三、ミノルタカメラ社長の田嶋一雄といったように華やかな社会のフットライトをあびている人も多いのですから、 タのつく人でも温厚善良型に納まっているのを潔しとしない人は、男は度胸と覚悟をして、「なにくそッ」とここ一番、胸をはって大成を期すべきでしょう。   また、姓列でみますと、三菱銀行の会長が田実渉、頭取が中村俊男、副頭取が加藤武彦とまさしくア姓列で首脳陣を固め、その結びつきで都銀のトップをいっています。

さらにこのタ姓は熱しやすく冷めやすい自己埋没人間でもあります。

 このタ姓のつく人は、不思議とアカサタナハマヤワか、オコソトノホモヨの発音姓の相手と恋愛したり同棲したり、結婚しています。   タのつく男性は、一般に真面目人間が多く、ただの真面目というのでもなく、その裏に頑なまでの頑固さを秘めています。 自己をまず一番に守るといった露骨なところを持っていますから打ち解けそうで馴染めません つまり、あまり出しゃばらない性質で、人目につかず、自分の生活に埋没する人が多いようです。おとなしいといえばおとなしいのですが、 自己埋没型といえるため結婚しても家へ帰って来た時など案外ブスッとしていたりします。また欠点として熱しやすく冷めやすい面を男女共にもっています。

したがって、タ姓を伴侶にもつ人は浮気に気をつける必要があるといえます。   女性の場合は、内面が悪く外面の良いいわゆる八方美人型のようです。今は松山姓になっている高峰秀子とか作家の竹西寛子、デザイナーの田中千代といったような並の男より遥かに頭が良く、 それで美人という才色兼備の人が多く、男性としてはこの手の女性の美貌にひかれて結婚すると、あとで後悔するような結果になりかねませんから注意を要します。 それは、前にも述べましたように内面があ まり良くない、つまり家にあっては鼻っ柱の強くなる女性が多いからです。そこで、男性の方が関白亭主になろうなどと思っていると、 まずうまくいかないといっていいでしょう。 タ姓をもつ女性と結婚しようとしている男性は、女性操縦法に自信があるかどうか、自問してからにした方がいいようです。

こうして見ると、滝川姓が上位で小泉姓は従属しなければならないことが理解できるでしょう。 進次郎氏は、独身時代の女関係は大いに結構だが、結婚後に浮気をしたら大変なことになる。 だから彼は、美人で容姿端麗、才女の嫁さんの云う事をよく聞き、尻に敷かれても「嫁さん一筋」を貫いて政治に邁進すれば、何れ総理の椅子も取れるだろう。

 

 


島原遊廓の謎 寛永御前試合の嘘 島原の乱

2019-08-20 10:53:27 | 新日本意外史 古代から現代まで

島原遊廓の謎 寛永御前試合の嘘

現代の解釈では、九州の島原城に似ていて、入り口が出口と呼ばれる、一か所しかなく、しかも島原城と同じく柳の樹まで植えられているから、 その名をとったのだと謂われている。当時西国一番だった、京の遊廓のこと。 しかし、当時この京にわざわざ大規模な遊廓を造ったのには、隠されているが深い訳があったのである。

まず、京所司代板倉宗重の命令で、六条新町より寛永十四年から、奈良や飾磨からの廓を京の六角へ次々と集め大規模な移転がなされている。 しかも何故に完成を三年後の寛永十七年七月二十一日と記録したのかということに疑問を抱かざるを得ない。 慶長七年十一月に、今の室町新町から五条橋にかけた二町四方三筋通りの廓に、寛永の始めには太夫町、揚屋町、中堂町まで加わり拡張されていたのを、 火事に逢ったわけでもないのに、わざわざ移しての新増築なのである。 そして徳川幕府は、この時に廓の一部は大阪へ移って新町に入り、他は駿府の府中へ移動させた等と、事実とは逆の発表をあえてしている。 この裏には何か隠さなければならない事情が在ったのではないかと、引っ掛かるものがありすぎる。 この遠因は島原の乱なのであるが、以下に順を追って解明してみる。
      寛永御前試合のの嘘
 現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。 そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。 徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。
逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。  武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。  従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。 一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。 この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。
 
 これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。 のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞人間が多くて困る。 警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。 それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。 しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。 それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。  明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。 そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。
    御殿女中(女)も男の裸は好きなのである
男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。 さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。 それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。
さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。
 
  相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる 御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。  だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、  「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。
    島原の乱は奴隷の反乱だった  
だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。 これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、  海路長崎へ送り込まれた。
 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。
この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。 追放とは聞こえはいいが、有体は奴隷として売り払ったのである。 土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ移し、そこで始末したほどの男である。
折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて長崎送りにしてのけたのである。
この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。
 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、 原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、  彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。  海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。    この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。 だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。
 
 
余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、  十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置したのが真相なのである。 この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのが真相である。 日本は昔から従軍慰安婦ともいうべき売春婦を戦地へ連れて行くのは、通例となっていた。 現在、これが韓国や中国が問題にして騒ぎ立てているが、白人国家は、侵略した土地で女たちを現地調達して、これは苛斂誅求で酷いものだった。 フランスの植民地だったアルジェリアなど、一般人の女さえフランス人に要求されれば、どんな場合でも応じなければならず、断れば殺されても文句が言えない状態だった。
日本は自国民をしかもお金を払って買っていたのだから、その残酷度はまるで比べ物にならない。 ちなみに、台湾も朝鮮も当時は日本国であって、植民地ではなかったことを理解しなければならない。
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。   ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、 もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。
 
   また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、 豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・   こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり  どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、  四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。   だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」  と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
結論として、島原遊廓の建設は、徳川幕府の巧妙な政治的発表で、切支丹一揆として極地限定化され、現在でも解明されずに来ているのである。 徳川家が京に、西国大名の軍勢を集めたのも後水尾天皇の御所を包囲威嚇するためだったのである。
なお、関連する島原半島に掲げられたカトリックの旗については、次回に解明する。