日本史解説
水戸黄門の世界
水戸光圀の実像
元禄年間以降あらゆる出版物の統制をした徳川家のために、日本の歴史は、寄らしむべし知らしむべからずといった具合になったから、庶民には芝居とか講釈、そして、でろりん祭文の世界だけが覗き穴的に許されたに過ぎない。
それゆえ、まるでそうしたものが、つまり過去の時代を扱ったものすべてが、さながら歴史のごとくにも誤られたので、「稗史、小説」といったいい方もされ、そして、それが、
やがて活字によって表現される講談という形になったとき、今でいうサービス精神が庶民に迎えられるような語り口となった。
このため、大衆の代弁者としての一心太助を作り、体制のパイプ役に大久保彦左が担ぎあげられたのであろう。つまり、
『水戸黄門漫遊記』といったものも、歴史なら事実ありの儘で良くても、銭をとって読ませる為には面白可笑しくといった要素がいるので、痛快がるようにと加味されたものなのである。
だから、かいつまんで紹介してみると‥‥
助さん格さんを伴にして田舎親爺然の、梅里先生が諸国を廻って歩き、権力を笠にきて弱い者苛めしている連中を見つけると、「ああ、これ、これ」すぐに声をかけ、
「助けてやりなされ」と腕っ節の強い二人をさしむけ、相手をこらしめる。もし向こうが代官とか領主の時には、体制には一応は逆らわずに、「さあ縛りなされ、手向かいは致しませんぞ」
と連れられて行き、さて向こうの親玉が出てきた処で、「やあやあ、ここに控えておられるを、誰方(どなた)かと心得おるか‥‥恐れ多くも天下の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」となって平身低頭。
助さん格さんが、びしっと一発かませる。すると向こうはびっくり仰天。真っ青になって、「知らぬ事とはいいながら、平に、平に御容赦の程を‥‥」泡をくって周章狼狽するまこと痛快な場面となるのである。
----しかし、この黄門漫遊記は全くの講談で、本当のところは侍臣を使いには出したが、ご老公は茨城の太田から何処へも行かなかったといわれる。
では、何故、そうした物語が、元禄時代を背景に生まれ出たのか。以前、昭和元禄などと使われているように、元禄時代というのは泰平ムード溢れたのんびりした世の中で、なにも御老公が嘘にしろ、
てくてく諸国を見て廻る必要も、なかったろうにと想われる。
が、こうしたいわゆる常識的な見方と、その時代の本当の社会状況のところがまだ伝わっていた頃の実際の見聞とでは、どれ位までくい違うものだろうかと気になる。
また元禄時代というのが表面は天下泰平であっても、一皮むけば、それは大変な世だったこともまず判って頂きたいものである。
それは、昭和元禄とまでよばれた平和そのもののようにみえた時でさえ、故三島由紀夫氏らが、「他からは狂気の沙汰にみられようとも、これぞ憂国の至情の致すところ」と割腹し介錯をうけ胴と首を別個にして、自決している反面すらもあるのである。
さて、ターララ、タララララで始まる元禄花見踊という和洋大合奏が賑やかなので、そんな世の中だったのかとも誤られやすいが、あれとても実際は元禄時代に出来たものではない。
「元禄小袖」とよばれる派手な衣裳も、勿論あの時代に関係はなく後世の産である。では、どんな時代だったかというと、徳川時代をそのまま鵜呑みにしている歴史家が説く元禄時代とその実際は、改めて考究してゆくとまるっきり違う。
「雪と炭」といった古い形容詞が当てはまる位に相違するのではなかろうか。というのは徳川家というのは、もともと前述した平凡社『百科事典』の新田系図にあるごとく、世良田系であり修験者畑である。
だから家康、秀忠の代には、「柴衣事件」で知られるように、仏門への風当たりが極めて強く、坊主に対しては、おもねってくるのには寛大でも、威張っている坊主には、くそみその扱いで遠島処分にさえした。
しかしそれも、家光の代からおかしくなった。
秀忠は、「神君東照宮」として父家康を祀ったのに、「仏式にやりかえい」と家光は、神君を権現さまに変えてしまった。だから家光の子の家綱や、その弟の綱吉の時代になると、ますます仏教傾向がひどくなってきた。
そして綱吉は、「東光の者らをかたづけい」とまでいいだし始める。東光とよばれるのは、西方極楽浄土を唱える一般の仏教に対し、「東方瑠璃光如来」をもって、東方にこそ光ありとする宗派で、
これは「医王仏」とも、また、「薬師寺派」ともいうものである。
この信者は、かつて公家に対する地家、つまり原住系として捕虜収容所の、別所、、院地へ入れられていたり、または、北条氏におわれて逃げこんできた源氏の残党。つまり俘囚の裔なのである。
だから俗に武士は俘囚の末だからと、「地家侍」などといわれるのも、この為であるが、彼らは初めは、エビス、ダイコクの七福神や、白山神、土俗八幡の信仰だった。
しかし織田信長が天正十年六月に、本能寺で爆死をとげると世の中が一変し、今も残されている、『天正十一年裁可状』の文面にもある通り、各地の拝み堂から、修験や博士、太夫とよばれていたのがみな追われ、
僧籍をもった者が代わりに入ってそれが寺と変わったとき。
いきなり頭ごなしに、西方極楽浄土も受けつけまいと、それらが、いわゆるお薬師派になったので、それまでの原住系のあらかたは、東光の信者になったのである。
『天正日記』とよぶ徳川家康の臣が、刻明につけたものにも、小田原から江戸へ初めて入ってきた家康が、まず東光の御堂を拝み、寄進をした旨をかいているが、この派の信者は関東には多かった。
もちろん何時の時代、何処の場所でも、以前のオキナワにしてもアメリカ人より県民の方が遥かに多いのは常識だが、徳川時代でも、西方極楽浄土の門徒より、東光信者の方が数では圧倒的に多かった。
しかも彼らは、皮はぎという専売業をもっていた。
戦国時代は終り、冑鎧の需要はなくなったが、ビニールも合成レザーもない時代ゆえ、元禄期になっても皮革は高価に取引きされていた。
だから製皮業者を信者にもっている薬師寺派の方は、寄進喜捨が多く、掘立て小屋みたいな拝み堂だったのが、次々と山門つきの立派な普請に変わっていった。
令和の今日でも、「お寺言葉」で、裕福な檀家のことを、「肉の厚い」とか、「皮の良い」というのは、これから来ているのである。
さて、こうなると西方極楽浄土側の方では、「面白くないこと、おびただしいものがある。怪しからん」と将軍家の生母お玉の方をつつき、しきりと運動をした。
そして考え出された名案というのが、「皮をはいで儲けるな」とは法令が出せぬからして、「生きものを憐れめ」という、生類憐れみの令である。
日本では獣といっても虎やバファローはいない。比較的捕えやすく皮を剥がしやすいのは犬である。
そこで動物を愛護する為ではなく、製革業者を弾圧する必要上、各地に犬小屋を作って片っ端から収容した。しかし係りの役人の中には、その法令の真の目的までは判っておらぬ者もいたからして、
「雀をとってはいかぬ。鳥類も生きとるから、生類の内に入るのである」と、畑で野荒らしの雀をとった子供さえ牢に入れられた。
さて、これが地方へ行くと、ますます役人は融通がきかなくなるものだから、余計に厳しくなってしまい、
「なに鼠を、猫が捕えて食したと申すか‥‥それなる猫を召捕って牢へ入れい‥‥うん、猫も生類の内か。それでは捕えた身共の手落ちとなり、責任問題になるやも知れんな。では猫の飼主をつかまえい。
人間ならお叱りはあるまい」といった事態が各地におきた。こうなっては野良へ出ても、吸いつくひるさえむしり取れない。
そこで、誰か、役人や代官より豪い人が見廻りにきて、「助けてくれぬものか」といった願望が、『水戸黄門漫遊記』となって現れ、庶民の夢と憧れになったのだろう。
もちろん講釈になった時期はずれるが、この元禄時代が如何に大変であったかは、孫子の代まで語り伝えられていたので、「そうか、黄門さんが廻って皆を助けて下されていたのか」
と一般大衆は涙を流して喜んで聞いていたのだろう。だから『講談水戸黄門』の方も、そこは抜かりなく、「ご老公におかせられては、犬より人間の方が粗末に扱われるとは何事かと、くだんの死んだ犬の皮をはがさせ、
血まみれなものを役人に渡してやり、わしは光圀なるぞと仰せられて‥‥」と、そういう挿話までが書き込まれている。
さて、俘囚の裔の原住系の中には武士となっている者が多いから、「暴動、一揆、叛乱」という心配をしたのだろう。それまで知行所に住まうことも、その行ききは自由だったのが、この元禄年間から禁止されてしまったのである。
やがて、この結果名主とか庄屋が、自分の宰領で年貢を出すようになったからして、武士を軽視しだし、天誅組の吉村寅太郎のような庄屋の伜が、「天皇さまの下に大百姓が揃って政務をとり、武士階級をなしにする時代」を夢みて
旗あげするようにもなるのだが、これは後の物語である。
虚像大岡越前
たしか映画の『丹下左膳』にも、『大岡政談』というサブタイトルがついていた。そこで大岡越前というのは、自分から聞きこみに、こつこつ歩き廻ったり、危うい目に逢いながらも庶民のために正義の味方となってくれた名奉行、
というイメージを今も一般に与えている。
処が、故田村栄太郎の著では、「すべての出版物に弾圧を加えたのは、講談で馴染みの大岡越前であって、一般庶民の歴史常識、知識をまったくゼロにさせ、小説、演劇、講談といった出たらめな作りごとを、
さながら史実のようにも誤認させた張本人は彼であって、そうした徳川時代の愚民政策は、施政上都合がよいせいか今も続けられ、まったく噴飯ものである嘘八百の芝居や講談に、歴史の方が折り曲げられ合せられている。
バカバカしい話だが有知識人と自負する人でも日本では講談常識の範囲でしかなく、それで頭がこりかたまっている。これも大岡のせいだ」と前置きがされてから、
「どんな書物であっても作者版元の住所実名を、奥書につけ奉行所へ差し出すこと。これまで通りのことは良いが、新説異説を唱える者は厳罰に処せられること。権現さまや徳川家を扱った場合は、直ちに重き刑にあう。
やむをえぬ場合は前もって奉行所に伺い出てその差図を受くべく候」と、事前検閲制までとっていたと説明し、「大岡越前を名奉行扱いしたのは、その後の出版業者が奉行所の覚えをよくしようと、
中国ものの翻案で大岡政談を作ったせいだ」としているが、さて、本当はどちらなのかということになってくる。
大岡越前守に対照されるごとく、やはり劇映画やテレビに引張り出される形の、遠山桜の金四郎こと遠山左衛門尉景元とは、彼の有り方はまったく違うのである。
勘定方上りだった遠山は、経済取締りをかねたが、その方針は、やはり司法警察だったろうが、大岡の方は徹底した行政警察なのである。
つまり彼は今でいう警察国家をまだ江戸時代なのに、世界に魁けて創造した卓越した頭脳と技倆の持主ということになる。
「武士は主があるを知って、主に主あるを知らず」とする封建時代にあっては、大岡は徳川家の御為だけを考え治安維持に万全を尽せばそれで良かったのだろう。
彼の施政方針によって、日本の歴史が判らなくなったり、それが歪められてしまったとしても、それは関知せざる所であったに違いない。
とはいうものの、町奉行という文字面の観念で、そうした行政方面の辣腕より、もっと庶民的なものをと、今の人は感じたがるらしい。だからして、朱房の十手を腰にさして歩くような大岡の虚像を瞼に描きたいもののようだが、
町奉行という職は、町のため住む人の為にと作られたものではなく、江戸時代にあってもそれは取締まるために、おかみが作ったものである。
だから今日のように、「税金で人件費を払っているから公僕」といった考えで、「大岡さまは江戸の町の守り本尊」と、マンガ式にみてはならない。
彼が名奉行だった一つは、中国でも秦の始皇帝しかやれなかった焚書を、彼は日本でも堂々とやっていること。
そして、まだ十八世紀の初頭の1717年(享保二年)に登用されると、すぐ今日の警察国家の形態を考え出した点であろう。
次に二十世紀に入ってから、万国ジュネーブ協定によって、出版物は奥付に著者名発行者名刊行月日をつけることが、赤化宣伝物横行防止のため、自由諸国間に取り決められ、現に吾々のみる本はみな奥付がついているが、
驚くなかれ大岡越前守は既に1725年(享保十年)において、それを実施し法令化し、「前もって奉行所へ訴え出て、その差図こを受け申すべく候」事前検閲制度まで施行していたのだから、立派なものである。
「泥棒、人さらい、掻払い」といった町民のための司法警察は、「主権在民」などといわなかった江戸時代の事ゆえ、放っておかれたので、日本駄右衛門の白浪五人男の台辞のように、
「盗みはすれど、非道はせず」と、大岡越前は泥棒などは非道とはみず大目にみて、行政警察にのみ専心していたのが実態なのである。
家康二人説を暴露した徳川宗春
やがて彼は、
「前の奥州梁川三万石城主にして、その兄継友の死後、尾張へ戻って御三家六十二万石第七代目名古屋城主となり、それまでの通春」の名を「徳川宗春」とかえた文学青年を、
「不都合のかどこれあり候」と閉門にしてしまうと、すぐさま、室鳩巣序文、堀杏庵作となっている『石ガ瀬戦記』の二冊に、尾張宗春自身の名で出された、『温故知要』まで一括没取し、
これを江戸表へ送らせ、ことごとく焼いてしまう弾圧ぶりを見事やってのけた。
何故かというと、これは、徳川の世も七代吉宗と、ようやくおさまり大磐石の安きに落着いてきた処へもってきて、「三河松平元康が家康さまというが、そちらは長顔で、尾張徳川家始祖義直公のため名古屋城が築かれたとき、
実地検分にこられた権現さまは丸顔であらせられた」とか、「三河の家康さま(松平元康のこと)と浜松の家康さまが同一人のわけがない。何故かなれば石ガ瀬と和田山で二度まで対戦しておられる」
「三河の方はプロの兵だから強かったが、権現さまの方は伊勢の薬売り榊原小平太とか、遠州井伊谷の神官くずれや、渥美半島の木こりの大久保党、駿府の修験者酒井らの寄せ集めの者ゆえ、
二度ともあっさり権現さま方は負けてしまわれたのである」といった土地の故老たちの懐旧談を、いやしくも権現さまの玄孫にあたる御三家の当主、宗春の手で版木にされ、
「徳川家康は二人だった」では、どうも公安上差支えたからであろう。
国家警察を設置した大岡越前
そこで御家御安泰のために、その版木は没取され、木はみな灰とし、宗春処分後も、尾張へはそれから代々養子をもって継がせるという、抜本根源策を越前守はたてたのである。
ついで大岡越前守が名奉行ぶりを発揮したのは、アメリカでFBIが創設されるより、百年も前にそれを日本で始めたことによる。
大名領、天領と分かれていたその頃の日本は、法律も各国ごとに違っていた。
それを越前守は、街道という点と点をつなぐ線上において、全国を一つに結びつけ、これに公儀直轄の探索逮捕の網をはることにした。
享保二十年(1735)十一月十六日付で、大岡越前守は、街道筋を遊芸物売りで行商して歩く、昔の原住系で大道商いの、「道の者」とよばれていた連中の主だった者を集め、
彼らに、「道中で怪しい者を見つけたら捕え、取調べ方を命ずる」朱鞘の公刀に十手取縄を渡し、従来の地方警察制の上へ、新しく国家警察を設けたのである。しかし当人らは、十手を腰にさして、
「ええ飴だ、飴だよ、金太郎さんの飴だよ」と太鼓を叩いて廻っても売れはしない。
それに捕物をするのには人手がいるが、飴屋や薬売りでは、その人件費の捻出は不可能である。
だから街道のやし[香具師]はいつしか縄張りをきめ合って定着し、現在の地方都市が競輪競馬のギャンブルで資金を作り、それが地方警察の建物をたてたり給料を払ったりするみたいに、賭場をひらく事にした。
その方が儲かるし、子分を賭場では、「ええ寄ってらっしゃい、お手なぐさみに如何さまで‥‥」と客引きにつかい、御用の節には鉢巻をさせて、
「やいやい神妙にしろ」と、くり出すことができ、一石二鳥にうまくゆくからである。つまり映画や三文小説では、
「二足草鞋の親分」という悪い奴の代名詞みたいにするが、あれは間違いで御用の十手を握るやくざの親分の方こそ、大岡越前守から命ぜられた国家公務員のFBIの子孫なので、いわば正統派なのである。
天保から幕末にかけて物価高と飢饉で浮浪人がふえ、もぐりのやくざが旅から旅へと渡り歩いたが、あれは半可打ちといわれた者で、「仁義」をきらせ、その生国や親分の名を、まっ先にいわせるのも、
筋目正しい大岡越前守さま御免許の渡世人の流れか、もぐりかの鑑別をする必要上、うまれたものなのである。
さて、幕末文久二年(1862)になって、それまで朱鞘をさし、御上御用をやりながら賭場をしていたやしの親分が、抜刀が横行しだしたのに手をやき、昔ながらの、「神農さま」をまつる高市(たかまち)稼業一筋に戻ってしまうと、
もう半可打ちも本可打ちもなくなり、博徒らは血みどろになって縄張りを守り拡張しようと斬り合いにあけくれするようになった。天保あたりまでまあ波静かにおさまっていたのは、大岡越前守のFBI制で、
博徒が御用聞を兼務していた賜物であったから、明治新政府も、「清水の次郎長に十手取縄」といったように初めはその真似をしたものである。
つまり俗に名奉行といわれる遠山桜の金四郎のごとき、町民に媚をうるようなげすとは違い、なんでもかでも権力で押しきってしまい、後年の模範ともなっている彼こそ、
「能吏」中の能吏、徳川家にとっては他に比肩をみない名奉行であったといえよう。
うばは乳母でない話
春日局の実像
箱根に姥子(うばご)の湯というのがある。
伝承では坂田山の金時が、眼の悪い姥を背負ってゆき、眼病にきくとされる明ばん泉で治すため通ったとされている。また、「姥すて山」が信州の川中島の近くにある。
これは貧しい農民が食べさせてゆけなくなった姥を背負ってゆき、堪えてくれとやむなく置いてくる山だったそうである。
だが、どちらも「ウバ」とあっても、もし乳を呑ませるだけの乳母であるなら、乳離れした時に暇を出されてしまっている。
それでは年寄りになるまで同居して、眼が病むからと冷泉の出る所まで運んでゆく事もなかろうと想われるのである。
しかし姥の字は女扁に老とかくから、老女と解釈したいらしく、翁と姥といった組合わせもするが、女の古いのといってもやはり母親には違いなかろう。つまり「うんだばば」がうばと想えるが、
それでも現在では、「ウバ」といえば、乳母が常識である。
漢音にしろ呉音にしろ、乳をウ、母をバとよぶ発音はないが、これが罷り通っている。
もちろん戦国ものの確定史料には、そうした言葉はなく、乳人というのしかない。
だから乳母も「ちちぼ」でなくては変だが、これの語源とされているものは、橘成季(なりすえ)の『古今著聞集・十五』にあるところの、「幼き日に浅間しく歎きて、うばにうれえ、たいじようしけれども」の一節からだという。
が、(うれえ=訴え)(たいじょう=両手をつき詫びる有様)だからして、うばが奉公人の身分であるならば娘がそこまですることはなかろう。これは著聞集を解釈した人の誤りではなかろうか。
なにしろ「うば」を乳母にしてしまったが為に可笑しくなってしまったのは、なんといっても春日局の存在である。
「竹千代御腹春日局、のち三代将軍家光 国松 御腹御台所 のち駿河大納言忠直」と明記されているものが残っている。
これは幕末まで江戸城の紅葉山文庫に、極秘保管されていた『神君御遺文』の末尾につけられていたもので、明治四十四年に非売品として千部だけ活字本になったものである。
原文は内閣総理府図書館に、今も歴然として残されている。
「御腹」とはいうまでもなく、生母のことである。つまり徳川家では、春日局は徳川家光の母であったことが明白なのに、どうしてこれを匿していたのだろうか?
その謎ときは後に廻し、まず従来の乳母説をもう一度考えてみたい。俗説では、京所司代板倉勝重が、徳川秀忠に長子が生まれたので、よき乳人をと公募して彼女を採用し江戸へ送った、----という事になっている。
が、公募というからには、何人もの候補者が選ばれ江戸城へ集ってコンテストを受けるべきである。なのに初めから彼女ひとりだけが東海道五十三次を遥々東下りして江戸へ赴いている。
これでは肝心な秀忠夫妻に面接せぬ先から、もう決まっていた事になって変ではなかろうか。
さて彼女はそのとき既に、正勝、正利の子があった。つまり乳母として採用されるからには、末子の正利はまだ授乳中でなくては話が合わぬ。処が正勝の子の稲葉正則が本郷湯島麟祥院へ、
貞享三年九月十四日に奉納した額によると、彼女が東下りした時、末子は既に三歳であったとある。すると彼女の乳は止っていた筈である。ではドライミルク罐でも持って行ったのだろうか?
家光の生母なら乳が出て呑ませられたろうが、でないと搾っても出ない事になる。
それに乳母なら、乳離れした時お暇が出るべきなのに、彼女はそのまま居座って家光七歳の時には、死にかけの家康を駿河から引っ張り出してきている。
あれは乳母では強引すぎて、まるで男の責任を問う女のような、そんなやり口である。
家康、秀忠、家光、春日局の関係
だから家光は秀忠の子ではなく家康が彼女に産ませ、母子こみで江戸へ送って置いたもの、とも疑えるのである。
もし竹千代も国松も共に孫なら、わざわざ死ぬ前年の七十四歳の老人が、江戸まで出てくる必要などなかったであろう。
また秀忠にしても吾子なら、家光が二十歳になったからといって、自分がぴんぴんしているのに将軍職を譲ることもなかったろう。どうも変である。ここに徳川家の謎がある。
春日局という名は彼女で打ち切りになってしまったが、それは、「征夷大将軍側室にて小御所へ参内、天覧をうける女の官名」と定まっていて、室町時代にも代々「春日局」は一人ずついて、『毛利家記』にも、
足利義昭の春日局の記事が書かれてある。だから彼女がその名を用いたことは、家康の側室だった事に間違いなかろうと推理される。
なにしろ彼女は前夫の子を十二万石の大名にして、自分も神奈川三千石の所領の他に、銀百貫匁ずつ毎年とっており、寛永二十年病気になると、代官町の屋敷へ家光は三度、
家綱も二度、御三家はもとより勅使までが詰めきる豪勢さで普通の女ではない。
なのに彼女が乳母だと世間を偽ったのは、五代綱吉から徳川家では、彼女の父斉藤内蔵介がなした信長殺しを、家康の使嗾とせず光秀にかぶせる為の工作で変えたものらしい。なのに初めは、
「三代将軍家光公卿御はら」とあるのが、いつの間にか、乳母となってしまたったから、戦前の修身の本などでは、
「春日局は幼い竹千代を大切にした。だから竹千代も成人してから、春日局を大事にして仕えた。乳母とはいえ忠義を尽せば必ず報いがある。隠匿あれば陽報ありなのである」と、
よく働け、主人を大切にしろ、といった教訓用にと教材用にされたものである。
しかし、いくら忠義を尽した処で、相州東郡内用吉岡で三千石の領地と、毎年白銀百貫匁ずつの手当となると、手取りだから一万石の大名なみで、他に春日局は江戸代官町に三町四方の敷地を貰って、
ここへ親類の蜷川喜左衛門の手で豪壮な邸を建てさせた。
そして寛永二十年九月に発病し、代官町の自邸へ下がると、千代田城から其処まで家光は三回も行列を仕立てて見舞い、家光の子の家綱も二度にわたってその枕許に付き添い、
千代姫を始め家光の他の子女が詰めかけ、御三家の尾張、水戸、紀伊も何度も伺っているが、恐れ多くも御所から勅使右衛門佐局までが下向している。これでは、いくら忠義への報酬でもオーバーすぎる。
これはれっきとした家光の生母だからであり、家綱らには祖母に当たるためだろう。といっても、
「春日局は家光の乳母」と思いこまされている人が多いからして、「そんな事はない」と否定したいだろうが、彼女を葬った前述の湯島天沢山麟祥院に、
追悼の額をあげた孫に当たる小田原城主稲葉美濃守正則や、江戸代官町の屋敷を建てた蜷川(この曾祖父蜷川道斎の妹が斉藤内蔵介の母で、春日局の祖母)の自筆書付によれば、
「春日御局が京より東下されしは末子内記が産まれてより三年後の慶長九年なり」とも明白にある。
つまり他人の乳母では、最後の子をうんでから三年もたっていてはとても乳など出まい。
が、御腹ならば自分で家光を産んでいるのならば、これはいくらでも授乳できたというものだろう。
さて、死せる子は眉目よかりき、などというが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いをされてしまう。
しかし本当の美女はそうざらにはいなかったらしい。が、誰もが依存なく指を屈するのは、やはり於市の方であろう。父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、
「平手の庄の政秀には年頃の娘がいる」ときけば、その娘に後の三郎信長をうませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」がと耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったから、
その生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘にうませている。
そして、それらの親兄弟を味方にして、今でいえば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。
だから信長と於市は異母兄妹の間柄に当たる。
さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったようなホモ型である。もちろん戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄をうませたり、
神戸の板御前とよぶ未亡人に信孝らを作らせているが、それはやむを得ぬことで、きわめて女嫌いで女性にはむごかったと伝えられている。
それが於市御前だけは可愛がり、浅井長政へ嫁入りさせる時も、前にいた女はそっくり追放させ、信長は己れの長の名のりを与え、「長政」とした先方へ当人をとっくり確かめてから縁づけている。
信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろうといえよう。
この於市に三人の娘がうまれた。長女は、「やや」と初めよばれた茶々、後の淀君である。この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になったからの話しゆえ、
それ迄、放って置かれたという事実は、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。
『当代記』や、『大阪御陣記』によれば、「騎馬女三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をめされ七寸(ななき)の馬にめされ」と、出ているのをみると母親似ではなく、父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと、推理される。
次女の京極高次夫人になった常高院は、「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並みであったろう。処が三女の、「ごう」とよばれたのは、これは於市をさえ、しのぐ抜群の美人だったらしい。
「せんだんは双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の、佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ十六歳になった時、
秀吉がその秀勝を殺して、己れの甥の秀次の弟小吉に同名を継がせた際、彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻されて徳川秀忠の許へ、「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と嫁入りさせられる。
まあ、余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。