新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

天海僧正と徳川家光 家光は秀忠の子ではない ならば母は誰で父は誰なのか

2019-09-30 18:31:10 | 新日本意外史 古代から現代まで

   天海僧正と徳川家光
家光は秀忠の子ではない
ならば母は誰で父は誰なのか

現在、徳川史観では、三代将軍徳川家光は二代将軍秀忠の子だという事になっている。
しかし、家光は京伏見城で生まれたのが本当らしい。そして父も母も全く違い、そのため徳川家はこれから始祖家康の血脈が絶たれ、幻想の徳川史観が始まるのである。
 だからして、見つかった天海僧正から、家光は何かと聞かれたくはなかったから、自分の方も口をつぐんでしまい、話は避けてしまった。とは云うものの、それは、うすぼんやりとした勘ではあるが。
 (自分が伏見城で産まれ、京が故郷であるらしい)という事は、どうも脂気ながら判っていたらしい。もちろん土井利勝の他に、のち若州小浜の領主に昇進する酒井忠勝などを、そっと督励して、天海僧正の素性を洗わしていたので、その線からも、これは内密に割り出せだのかも知れないが、
家光はだから「懐郷」の念は強かったようである。だからして家光は、二十歳の時に上洛した後も、何度も京へ行っている。
もちろん自分の出生の謎を探り出そうという、そんな悲願もあっての事であろうが、京を生まれた土地として愛し、「誰か故郷をおもわざる」という心境もあったらしい。
江戸から夥しい金銀をもっていっては、京の庶民に、これをくまなく配布している。なにしろ寛永十一年七月十一日の上洛の時などは、
 「銀十二万枚を京の町々へ軒なみに、みな公平にと下しおかれ、これ一戸あたりにては、百三十四匁八分二匣なり」という位の豪華さである。
現在の換算でゆくと、一軒あたり三万円強にもあたる。
 国家主権者というのは、いつの時代どこの国でも、彼らは人民から重税をまきあげるもので、家光のように自分からもっていって、それを配給するというのは珍らしい。
おそらく彼の体内の血の流れが、そうさせたのではあるまいか。俗間でいう「故郷に錦をかざる」という類でもあろうか。
さて、東京の山手線の池袋から東上線にのると、四十分で川越駅につく。そこからバスにのると「喜多院」の門前へ出る。大宮や浦和からも直通バスがある。
 ここが天海僧正の復興した昔の「仙波北院」で、現在の「川越大師の喜多院」なのである。
 元和二年に徳川家康が亡くなって、翌年その遺骨を駿河の久能山から日光へ移すとき、天海僧正は、この自分の寺に四日閧もとどめて、大法要をいとなんだという。
 寛永十五年(一六三八)一月二十八日の川越大火のため、喜多院も厄にあって、山門、経蔵、鍠楼門、本堂(現在は上野寛永寺本堂)の他は灰塵にきした。
しかし春日局の命令によって、家光は、堀田加賀守正盛を工事奉行にして、新たに東照宮、多宝塔を新築させ、江戸城内の客殿や書院、庫裡なども、ここへ移した。
今日、徳川家康が江戸城を作った時の書院造りの建物で、現存している建築物はこれだけであるというので「国宝建造物」にこれらは指定されたこともある。
 前方後円式の古墳の上に、徳川家光の発願で建られたという開山堂は、別名を「慈眼堂」ともいい、家光が自分から天海僧正の像を刻ませ、それを、ここへ祀らせたものだという。
 そして家光の世子の四代将軍家綱は、寺領五百石のこの喜多院に、更に二百石の加増寄進までしている。
どうして天海僧正に、家光の子までが、そこまでの追慕の念を示さればならないのだろうか。
 なにしろ<徳川実紀><柳営婦女伝系><編年集成>など、あらゆる徳川資料では、
「寛永二十年九月十四日、春日局 歿
  同   十月一日  天海僧正 歿」
と半月はずらしてあるものの、まるで二人が手に手をとって死んでいったような記載をしている。
そして家光は、慶安元年四月には、天海僧正のために「慈眼大師」という謚号まで、朝廷に乞うている。
だから家光というのは、天海によって仏教に帰依していたのかというと、そうでもないらしいい。おかしなことになっている。
 仏徒と公家の連携を弾圧取締るため徳川家康が発布した「公家法度」にそむいて、当時の後水尾帝が、紫野の大徳寺や花園の妙心寺の僧侶に、
紫衣や上人号を勅許されたことを取調べる為に、元和九年に秀忠と共に上洛した時は、家光は三代将軍の宣下を受けただけで引きあげた。
だが三年後の寛永三年の六月二十日になると先に秀忠が上洛し、八月二日には家光も将軍職として京へゆき、それまで下賜されていた紫衣や上人号を一斉に取り上げ、無効であると厳しく弾圧している。そして、文句をいったり抗議をした大徳寺の沢庵和尚らは出羽の上山などに流されてしまっている。
 
こうした処置をみると、徳川家光というのは、天海僧正だけは大切にしているが、他の坊主には冷たい。
もし仏教に入信しているものなら「坊主憎けりや、けさまで憎い」の反対で、天海以外の僧侶に対しても、もっと温かくあるべきで、
これは、どうも信仰上というより、個人的なものとしか受けとれない。
寛永二十年(一六四三年)に春日局と天海僧正の二人は、半月遅れで互いに共に他界したようになっているから、時に天海は歿年百八歳という事になり、
春日局より四十三歳の年長ということにされている。
 しかし平均年齢の延びた現代でさえ、百歳以上の高齢者というのは僅かしかいない。
 百八歳などというのは、現在の七十億の世界人口の内でも、コーカサス地方に百五歳と百七歳の二人しかいないと報道されている。
そんな何十億分の一というような長寿者が、医学も進歩していなく、生活環境も恵まれていなかった十七世紀に、現実にいたとは想えない。
 つまり天海僧正の年齢というのは、これは「虚妄」以外の何ものでもない。後世、
 「山崎合戦のあと叡山にて匿れ、秀吉の死後に下山せし明智光秀は、神君家康公の御憐愍により保護され、その名を南光坊(天海)と改めてお側近うに仕え、
軍議その他のご相談ごとに預かり、世に黒衣の軍師ともいう。
三代将軍家光公におかせられても、春日局と南光坊を敬われ大切に遇せられるによって、
寛永丁丑(一六三七)に島原に一揆起こりたるや、大久保彦左衛門は直ちにと登城し、
『このたびの征伐の討手の大将と目代は、春日局と南光坊が仰せつけられるものと覚えたり』と殿中大広間にて睹大名にいう。
耳するもの驚きて『戦さをしてゆくのに、その大将と軍さ目付が、女人や僧侶にては叶うまじ』と申せば、彦左衛門はからからとうち笑い
『かかる大事の際には、平素より格別のお扱いを蒙って居らぬ者にては、とても物の用に立ちうべしとも思われじ、されば、今日、上さまより大切に遇されているは、
この両名以外に天下には有らざればなり』と答えぬ」
といったような〈大久保物語〉の中にある記述からして、
(光秀と天海は同一人物なり)という俗説が弘まった結果、明智光秀の年齢にも合致するように、天海僧正の歿年をつくったので、百八歳などという高年齢になったのであるまいか。
でなければ、「めでたやな、めでたやな、三浦の大介、百八つ」という、唱門師衆の「長寿延年隕」ぐらいにしか、日本では現れてこない百八歳という特定年齢が、とってつけたように天海につく筈もない。
 さて天海僧正によって再興され、慶長十六年十一月、徳川家康の命によって酒井備後守忠利が、四万八千坪の地に縄張して造営されたという、武州川越の仙波喜多院の客殿の奥まったところに、
 「無量寿殿」とよばれる「家光公生誕の間」が、今も現存している。
 天井や襖は一見しても判るように、京の二条城や昔の伏見城と同じように、枠型はりこみで彩色絵板である。
完全な京風建築のもので江戸前のものではない。喜多院の由来説明書では「江戸城紅葉山の別殿を移した」とあるが、これは京から運んできたものに間違いない。
 襖紙の絵は「狩野探幽」の筆とある。すると安土桃山時代のもので、やはり秀吉の頃の京のもので伏見城内からと見るべきであろう。
秀忠や家光が、古い絵をもって唐紙に仕立てたとは考えられぬし、それに襖には、襖寸法というのが決っている。掛軸の絵が気に入ったからといって、
その絵をもってきて引き伸ばして唐紙に仕立てようとしても、それはできない寸法なのである。
 さて、この「伝教」という額が違い棚においてある家光誕生の聞の無量寿殿に向って、その左側に、極彩色の花鳥風月の絵が残っている衫板戸がある。
そして、その廊下の突き当りに問題の厠(かわや)があるのである。
まこと可笑しな話だが、山岡荘八の「徳川家康」の本がブームになる以前は、「家康公の厠」と説明の木板がでていたが、現在は「家光公の厠」と変っている。
この奇怪な変化に気付いて首を傾げた人も多かろうと思う。
江戸期の〈川越風物誌〉にも、「武州喜多院は古刹にて、神君家康公のおん指料の橘友成作るところの糸巻太刀など宝物殿にあり、又神君御使用と伝わる杉本竹箕の下厠などもあり」というのがある。
だから、家光が生まれた産室の脇に、家康公の厠がついていたのは、徳川三百年を通し明治、大正、昭和とその儘だったらしい。
しかし山岡荘八の家康ブーム後は、「家光は秀忠の子」と思う人が多くなったから、「家光の産室の側に秀忠の厠なら判るが……当時は駿府にいて、江戸にはいない家康の厠があるのは妙だ」とも、
寺へ苦情をいいにいったのだろう。
寺でも「伏見城から移した」という事は判らず「家光ならば江戸生まれ」と思っているから、これを「江戸城紅葉山からのもの」と説明するたて前から、
「家康の厠」という長年の看板をおろして、当りさわりのないように、「家光公の厠」と書きかえしたものらしい。
しかし産室の隣りに本人のWCがあるというのは、どういうものであろうか。
     伏見城幻影
現今のように、頭のよい子に育てられる人工栄養ミルクをもって哺育した子供でも、オギャオギャア内は当人が立ってつかつかと便所へなどはゆかないものである。
おむつという軽便なもので前後の始末はしている。まして現在の「家光公の下厠」と明示されているのは床上四十センチだった痕跡がある。
すると家光は生まれながらにして五尺以上つまり一米五十五センチぐらいの身長もある健康優良兒だった事になる。
そんな馬鹿げた話はまずないから、家光が成人後に使用したものとみると、
「徳川三代将軍家光というひとは、長じた後も、尿意を催すたびに、こらえて溜めて放出は自分の誕生した産室までいって、そこの厠で用をたしていた」、
という世にも変てこな結果になってしまう。
さて左端に、その厠があって、中央奥に家光の産室がある右側は、寺の祀壇が飾ってあるが、この建物に木立がくれの軒廊があって、
それに続く二階建ての天井の低い堅牢な居室が、現在は喜多院の客室に用いられているが、「春日局の居間」と明示されている。
 これも家光が寄進して、春日局の死後に、「その冥福を祈ったものだ」とされている。
しかし春日局は、江戸は湯島の天祥院。京には麟祥寺という大きな伽藍を、自分でその生前に己の死後供養用にと造営させている。
だったらば、その両院のいずれかに、春日局の居間なるものは移して、冥福を祈ってやるべきが至当と思うのに、家光は、なぜか天海僧正の木像と一緒に、
ここへ春日局の居室を移している。つまり俗っぽい思考力を出せば、
「死んでからも来世も仲よう睦じゅう」といったようにも見うけられる。
 しかも、家光の産室をはさんで、天海と春日局となると、これは何を象徴しているのであろうか。
 しかし表向きには、産室についている厠が「家康公ご愛用」となれば、これは江戸期にあっては、
「三代将軍家光公のお腹さま(生母)の寝ていられた御産室に、家康公もねていられたからこそ、権現さま専用の厠もついていた」という説明にもなって、
「家光公は、権現さまのお種」というように思われていたらしい節がある。
 四代将軍家綱、五代将軍綱吉が、共に家光の子で異母兄弟であったから、二代将軍秀忠と三代将軍
家光が、共に家康の子で異母兄弟であったとしても、一向に差支えはなかったらしい。
 なにしろ「春日局」というのは個人名ではなく、これは、「征夷大将軍の側室にて、小御所へ伺候しうる者の官名をこれを、春日局とよぶ」と〈足利年代礼記〉にもあり、
足利将軍には代々の春日局が十五人もいて、最後の十五代将軍義昭の春日局のごときは、
〈土井兼覚日記〉の天正十二年二月十四日の条にも「昨年来、義昭将軍は、その春日局をもって上洛させ」と、〈毛利家史料〉の内の〈吉川家文書〉にも、
「(足利義昭)将軍その春日局をもって出洛させ、毛利家の待遇良しからざるを云いふらし迷惑至極」
 といった個所がある程だし、斎藤内蔵介の娘の春日局にしろ、徳川家康も征夷大将軍になっているから、その側室であったとしても、これは別に官名詐称にはならないものらしい。
しかし、徳川家光を神君家康の子ではなく、秀忠の子としない事にはまずかった理由は、家光及びその子の家綱、弟の綱吉の三代にわたって、
神徒系の徳川家がまったく仏教系に変ってしまい「神仏混淆」という時代に変遷してゆく為の糊塗策ともみられる。



サンカ生活体験記 第一章

2019-09-29 10:08:10 | 新日本意外史 古代から現代まで
サンカが日常生活に使う「ウメガイ」という刃物。
日本では珍しい全てが鋼で出来ている。
昔は敵と戦う際、このウメガイを溶かし、何本もの短刀や鋭い穂先にして使った。

       前もって書く
 自分の事を書くのは私小説では当り前のことだが、かつて「青春遺書」や五作ほどは書いた覚えもあり原著も残ってはいるが、若かった前の筆名での三十五年も前の事でしかない。歴史小説を書きだしてからは、信長の青少年時代とくに「英雄誕生」には、己が自殺未遂の数々や私の生母との繋がりを、その侭で投影しきった。だからなまなましいのだ。
 若い時はそうでもないが、私ぐらいの年齢になると、過去は他の人に話しても判りそうもない出鱈目きわまる圧迫も<塩尻百巻>の前の序説に書いた後も、日本セメントがエタパイを乗っ取る為に創立者を追い出した真相を法廷で明白にしようとして、相手方の顧問弁護士がヤメ検なので罠にかけられ、先輩の当時の小倉警視総監の許へ掛合いにも行った。
しかし、巧妙にまんまとはめられてしまった。そうした挫折が、この世には真実などというものがはたしてあるかと、自殺するみたいに没頭しすぎ、昭和四十七年からの流行作家時代の印税稿料もみな調査費につぎ込んでしまった。昔の耶止説夫の名で出したベストセラーの入金で購わされた渋谷神南や千葉君津の土地の五億円までつぎこみ、<野史辞典>と<庶民史辞典>をどうにか、この世に残し得た。前人未到の八切史観をどうにか送り出した。
私が二十歳ぐらいの時に、「文学建設」を主宰していた故海音寺潮五郎は、「史実」「史伝」といった冠詞を流行させたが、北畠親房の「神皇正統記」に桓武帝の一切の国史を焚書すと明記され、北条時宗の対外政策の為の国史禁焚も有名だが、もはや日本にては、本当の「史実」や「史伝」などというのは、後年に作られた当時の権威に迎合したものの他は何も残されていないのである。次々の時代に、時の権力者におもねったものが筆写され更に直されて、また都合よく次々書き変えられたものだけが、今度は活字本として出されている。

はっきり言って明治時代に、売りやすいように「実録」という冠句をつけた講談と同じものが、歴史では困る創作ばかりだが、それを独自な史観などともち上げる。
 なにしろ調べても調べなくとも稿料は同じゆえ、「駿府記」には明白に、高台院ことねねが約束の三万石を早くくれと何度も交渉に来るのを、うるさい婆めと家康がうるさがり、半額の一万五千石にしたのに千石だけイロをつけたような明白な事さえ誰も読まぬのか書いている者は一人もいぬ。
さて、参考資料も二十年前から集めはしたものの、書く私の側の頭の中に全部が揃っていて、順に出してゆくのでもなく、また読者の方でも順番にというようには入手はできぬから、順序がこんがらかってしまう。これは致し方とてないかもしれぬが、
なにしろ八切史観は順番に読んでいってもらわない事には混乱する。
はじめの「八切裏返し史セット」の五冊は、ただ判ってもらいたいため、進駐軍は墨染めの衣を着た宣教師の僧を送り込み、日本原住民を洗脳したので、それに対抗する地家としての中国語でいう「不信」つまりブシンとされる奴隷武士団が対抗するの
を白と黒の戦いに書いた。二者選一の書き方は説得力があるので今まで六十万の人に読んでいただけた。

だが、である。新羅系を白木作りの社とし隷属した高麗系をコマ犬として入口におく神社はカラ神様である。日本の庶民の殆どを占める平民つまり平氏は、スメラ山脈のあるアブダビ海より、首都スサよりヤサカ河の上のGIONを奉じて終結させられ、ヤバンことマレーシアのニコパルへ、MIKOTOと古代アラブ語でよぶ耕作奴隷に送られ途中で黒潮に逃げたのが、古平氏の夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条一族である。
大進駐して天皇から上皇まで隠岐や佐渡へ配流し土牢へ生涯入れ、藤原の公家は斬首したから、北条政子ことサンカ人の女上位での女神だったらしいが、今では不敬罪ゆえ決してサンカ人は、この話は絶対に秘密にして話などせぬ。

さて、神は明治以降は、アラヒトガミに天皇をしたので、神とは拝むものといった世に変った。しかし、神社と違って白木作りではなくて紅殻塗りの宮や堂が実に多い。
昔は夷也とか異也とか書かれていたのが、戦国時代以降は「稲荷」の当て字に変わって川柳の中にさえ、「江戸名物、三河屋イナリに犬の糞」と徳川時代には増えて各町にある。
稲の御守りなら田圃にあるべきなのに、私の仕事場の日本橋には今も銀杏稲荷、権太郎稲荷と町内にひしめきあっている。
そこで第三弾として、白と黒との争いの中に、平[家]の民族カラーの紅を加え、「しょうもん伝説」がテレビ放映されたのを汐に、日本海からどんどん入ってきたが、藤原氏の先祖である唐を滅ぼした契丹ゆえ、
公家は彼らを忌んで[同じ]大陸系なのに、として東北へ追ったのが契丹日本人だった。これが判らぬ林陸朗あたりの国学院歴史派は、将門を地区に結び付けるのは論外と目下裁判中。将門の実態が判らぬではつける薬もない。
「源平藤橘」という太田亮の姓氏辞典のもっともらしいインチキさは、源=元 平=ペイルシヤ 藤=唐 橘=契丹とは、各書に詳述して、<天の古代史研究>[八切氏の著書]までを完了した。なにしろ郭将軍こと日本名藤原鎌足が初め二千、後からも二千の鉄武器をもった進駐軍の権勢を率い、築城石の供出命令や漢字使用の命令から、すべて当て字だらけでよく判らなくなってしまっている。
ところが、これで庶民はいいつもりだったが、純血日本人の女達が進駐軍の弁髪人の混血児を次々と産まされる前に伴って逃げた純日本人のサンカ人も明白にせねばならない事になった。
「一犬嘘を吠え万犬それを伝う」というが、サンカつまり山海族ぐらい誤解されている例は滅多にない。何故かといえば、サンカ人は絶対に自分の事を用心して他人へは口外せぬから、謎に包まれた侭で秘密とされてきて、おかみは蔑視して弱小民族みたいにされる。
 自分こそ唯一の研究者であると言い残して他界した故三角寛先生は、「滅びゆくサンカ」と、その著書にもはっきりと書いている。

国家政策として、内務省警保局傘下の民族融和事業会によって実体を把握しようとして、各地に箕作組合を結成させ、セブリ数の申告をさせて統計をばとった。
もちろん、たてまえ申告ゆえ、実数の百分の一にも満たぬ数字だが、オカミは満足をした。つまり、明治大正から昭和初期にかけても何も判らず、アイヌや琉球よりも僅少にみたのだ。
ところがとんでもない話で、隠れ柳生の埋草はテレビだが、北条期から下克上の戦国時代へかけてのトケコミサンカの実態はこんなものではない。高成度[高度経済成長]と呼ばれる故池田のアメリカ公害産業の下請け時代から、河川や湖沼の水が呑めなく、したがってセブリが張れなくなった時から一斉に都市へトケコミした。

だから表面的にはサンカ人間は全滅したごとく見えるが、純血日本人どうしの子供は、成績さえよければ、オオモトさまは(サンカ統帥部の棟梁の事)原始無政府主義ゆえ、ホンゲとよばれる各戸よりの上納金を人頭税のごとくせず、代々にわたり公平に保管利殖し、分配金が育英用にと送られる。交通遺児になっても母子家庭になっても、ざっと五兆円を越すという金を溜めては利殖してきた資金がシノガラには給付されている。絶対権力反対体制で、弁髪人やオンモン人[朝鮮系]の子種は蔑み、自分らの純血種を減らさぬため、欲望のためでなく日夜これ女上位にて努力する。

現在は、結婚三組に離婚一組の割合だというが、シノガラの純日本人は絶対に離婚せず、死別するまでは連れ添い、子供を作るため死ねば探してきてツナガリが再婚させる。映画俳優で加山雄三の父でもある、上原謙さんは七十歳をこして子供を作ったが、九十歳で子供作りした者さえもいる。
 なんせ、絶対他人に何も口外はせず誰とも打ち解けようとせず、黙々と産めよ増やせよとの使命感をもって汗している彼らは、いつかは日本列島は従順きわまる奴隷的な一般日本人の群れを出産力で追い抜いていき、真の単一民族にする日がやってくると想われる。それゆえ、源平藤橘の四民族の他に、私の体験が入るので書き難く渋りはしたが、思い切って知られざる彼らの実態を説きたいが、私が祖母にきかされた晩年の話の中には、絶対に口外すべきではない事があるのかもしれぬと、それを気に病んで、この序説を書いている。觝触するような個所があったら謹んで御詫びする。
「見ぬもの清し」で、セブリが今では殆ど見られなくなったので、彼らは全滅したものと「オカミ」と自称する検事さえも豪語しているが、本当はシノガラの育英資金で東大を出ている人が多いのは間違いないらしい。最近は負けじと共産党も真似をしている話をきく。さて、月給袋の封を切らせずまるごと出させる女房がいるという。これがツナガリによる結婚なら間違いないが、うっかり結婚ならば相手はその血をひいているサンカ系女性だから大変である。

なにしろ私の祖母みたいに二世紀たってもホンゲをツナガリに納めていたくらいで、私はその孫にあたる。だから各自がよく調べていけば、サンカ人間つまり純日本種に繋がっているかもしれぬ。となると、何食わぬ顔で会社勤めしている人にもトケコミは多い。彼らが人口の半分を占めた時からは、本当に日本は世変りをするだろう事は判り得るといえる。マンションやアパート等でも、隣どうしでも全く口をきかぬ人が多くなったのは、トケコミが都市集中化の一つの現象とみられぬ事はない。なにしろ、日本歴史なるものは、「華族は皇室の藩屏にして」の明治設定で、徳川家達公爵家が華族会長となり、各大学の歴史教授の学士会がその傘下に入ってから、村岡素一郎の「史疑徳川家康」がサンカ出身を発表するや警保局に対して弾圧をさせ、青山堂より「松平記」を三百部刊行させて配布したのは、私の「徳川史料集成」[日本シェル出版)に入っているが、庇護をうけている史学会東大閥が、これを第一級史料に指定した。だから近世に近い徳川期の真実の解明はタブー化した。

元禄まで通用の含金量の多い大小判を使用禁止し、銀本意制の京へ送りし堺の中村内蔵介に銅を倍以上混入の元禄小判金造りを吉良上野介に采配させた柳沢吉保は、隠居すると申し出る彼が抜刀するよう徴発させ、失敗すると、浪士に「再就職」の甘言で以って討入りさせた事も匿されている。

         サンカは反体制集団
 「前人未踏のサンカについては、尋念すべき文献は全くなく、ただ現存するセブリ生活者を求めて、その実生活を探求し、その実態を知る以外に研究の方法がなかった。
しかも、それを探求するには危険の伴う事が多々であった。
 研究は、昭和三年から同三十六年まで、三十三年間に及んだが、まだ満足すべきものとはいえない。その間には、日支事変や大東亜戦争があったために、セブリの実態は急変して、神代からの生態を持続してきた珍重なセブリの実態は、日に日に行作遷流に押し流されて消滅しつつある現状である。
したがって、サンカの実態も、私の生涯と共に絶滅して、私の死後においては、まったく記録することが不可能となることで、ここに三十三年間に得た資料を記録して、後世の論及に供する事とした」
と、三角寛先生は昭和四十年十一月三十日刊行の朝日新聞社の「サンカの社会」の第一章の序論篇の冒頭に述べている。だが如何だろうかと、他社刊行の三冊をも共に読んでみて考える。

故人とは直接には二回だが、山水楼で菊池寛の給仕役みたいな恰好だが会食もし、たしか四回は話しているので批判したり論難する気はない。
しかし、人生座や文芸座を経営している遺族が、再版はおろか、他の何社よりの復刻についても、どの本についても謝絶。そのため定価千四百円の本が今では三万円を越え、近く五万円の呼び声さえ古本業界には出ているときく。
これは死後五十年たっても二等親か、その遺産相続したと称する者が、著作権法を楯にとって出版不能の額の要求をなし絶版にする怖れがある。著作権放棄の補遺のつもりで書くので三角寛の研究について、とやかく言う気は、まったくのところが、さらさらない点を前もってことわっておく。
私と彼との違いは、朝日新聞社のサツ廻りの新聞記者で、すべて研究の緒口から解明一切が「警視庁探索課大塚巡査部長からだった」と当人が書き残しているように、弾圧する側にあったので、古代史や民族学の素養もなく、警察情報から研究に着手し、のち内務省警保局傘下の「民族融和事業会」といった官制団体に関係してからも、そのオカミの肩書きで大威張りに調査した体制的研究であるのに反し、私の場合は、まったく立場を異にしているのである。
それに、三角寛は、神奈川県から関東地方だけを研究対象にしているのに対し、私のは、愛知県から三重県といった「八」の本場の東海地方なのである。だから三角の研究は東、私のは西と思って読んでいただければ、それでよいのではないかと思う。

それに、彼の方は昭和に入ってからであり、私のは大正時代。また、彼のは警官同行のオカミの側の徹底調査。私の場合は仲間の一員みたいな立場ゆえ、その点、事が食い違っている。
「天の古代史研究」で従順きわまる日本原住民の成立を書いたから、その反対の徹底的反体制の彼らを今度は書いてみたいと想ったからである。記憶が鮮明なうちに、サンカ説は三角の独壇場ではないという事を、バビロニア語とサンカ言葉との対象表をつけて後学の参考に資したいと思うので、書き下しをするのである。私は律義で愚かだが、記憶力だけは取り柄である。
 「天の古代史研究」の前著で、西暦663年の白村江の敗戦で九州へまず進駐してきた中国人の将軍郭務綜が、男っけなしの御所へ入り、各地に築城命令を出したり施政を代り執り行った。
 今の金大中の全羅南道の百済人が新興唐によって滅ぼされかけ、祖国救援に日本原住民を捕えられるだけ集めて二万七千。宮廷の百済系男子はみな将軍となり将校となって壱岐対馬から渡って逆攻したものの、それまで彼らは、今日でも用いられているような、「クダラぬやつ[クダラでない‥‥つまらぬ]」「クダラぬ事を言うな」と、日本原住民を扱いの奴隷として酷使していたので、いくら親方が金大中の御先祖で、将軍や将校だけは頑張っても、戦奴の原住民共はあまり戦意が高揚せず、あっさり負けてしまったのかもしれない。

 紙幣の想像画となっている藤原鎌足なる存在は、この時点の郭将軍ではないかと想われる。ことによったら人口僅かな時代に、男どもがみな向こうへ連れてゆかれて戻ってきていなくて、御所も女ばかりだったから居座ってロボットのような方を表面には立て、
自分は闇将軍となって国政一切を指揮していたか、事によると占領軍の第一人者というので日本の国首になっていた疑いすらも今となってみれば推定される。なにしろ武力で次々と命令を出しているからである。
 しかし、戦奴として徴兵され連れてゆかれた侭戻ってこないのは二万七千でも、山に隠れ海中の島に身を潜めて隠れていた日本原住民は、その当時の事ゆえ十倍か、もっと多くて二十倍の余ぐらいはいたとみられる。つまり散らばっていても五十万人ぐらいの人口である。

クダラ王国朝の時でも苛めぬかれてきていたが、今度は青竜刀を持った郭将軍の進駐である。「捕まったら殺される」と、隠れていた連中が今でいうレジスタンスで、青竹の先を焼いた竹槍や弓矢をもって奇襲を各地で弁髪進駐軍にしかけていたのが七世紀の実際の有様だったろう。 そこで郭将軍は全国に「進駐軍の命令により」と巨石の運搬を命じ、大野城、金田城、それに高安城まで、判っているだけで14ヵ所に築城。井戸を掘らせ食糧や塩類などをしまいこませた。

面白いのは日本歴史で郭将軍が築城用の積石の供出命を布令した項目は、三省堂歴史年表にも出ているが、これは日本軍が進駐軍撃退の為の本土防衛のものと頭から決めつけている。
(各地のレジスタンスから身を守る為の退避用の城とはせず、あくまで日本の抗戦の為だとしている)
として、よって郭将軍は二千名の追加を朝鮮半島から呼んで、アフガニスタンゲリラのような彼らと戦ったものの、あまりにも日本軍が勇ましくて戦に利あらずして九州より引上げた。
となっているからこそ、往年の本土防衛の功を認められ、最近の事だが、残っている金田城の遺跡などは国の重要文化財に指定されはしたが、当時の中国の華主席から礼などこなかった。
「一枚の紙にも表と裏がある」というが、歴史も同じ事だろう。朝鮮半島を悉く占領し、壱岐対馬から九州へ入り、御所に本陣を敷き、百済美人をずらりと周囲にはべらし、「テンホウ、テンホウ」と連発している郭将軍らが、いくら竹槍隊が蜂起してきたからといって、追加軍まで呼んで九州各地から京以西の治安維持を完全にしてのけた彼らが、縄文日本人に怖れをなして、すごすごと戻っていくような阿呆らしい事が現実にまさかあるだろうか。
 郭将軍は応援に呼んだ二千の合計四千の鉄戈や青竜刀をもった弁髪軍によって、くまなく各地の原住民討伐を敢行。八母音を使う海人族は魚もとるし塩も作る。雲南経由で漂着した連中は焼畑や水田もできるから、彼らにアワ・コウリャン・米まで耕作させて食糧確保の奴隷とした。これが「アマ」とか「アメ」の「天」のつく民族で、現代の庶民の先祖様だった。

 しかし彼らの中にも、いくら追討されても屈せずに頑張り抜き、降参しない連中もいた。が、郭将軍が一番てこずったのは、遊牧民族として裏日本へ、ベーリング寒流から押し渡ってきた騎馬民族の徒輩だった。彼らは桑を植えて蚕を飼う事もせず、土を耕して土毛と当時は呼ばれた農作物を作ろうともせず、放浪して廻っていて仕方がなく、彼らの降参後、女は開戸とか皆戸とよばれる進駐軍慰安所へ収容したが、男は役立たずゆえ捕らえて、初めは陸墓の副葬品として扱った。
 のち、外敵侵入の際に防人として血税を払わせるように利用の道がついたので、埴輪とよぶ素焼きを作らせ身代わりに土中に埋めさせた。そして、彼らは生かして使え国のためと九州とか東北へ防人として出発させはしたが戦奴である。外国のように将校や下士官との間に友情など生れよう筈とてはなく、人間の楯みたいに伴われているのを諦めてしまって、「今日よりかえりみなくて大君の御楯となりて、出でたつシコ(飼戸の子)の身、われは」
と、騎馬系の民族ゆえ馬を飼わされていた彼らは賎の身ゆえと、皆が皆揃って行ったわけではない。
今でいうなら、「徴兵反対」「戦争は厭だ」といったプラカードをもってデモをやることはできないから、海から山へと逃げ廻って拒んだものもいたし、武具を持たされたのを誘帯して集団で脱走した反体制の者らも意外に、その当時はきわめて多かっ
たらしい。所謂従順な奴隷になるのを拒否して、他の原住民の如く「長いものには捲かれろ」と弁髪人の毛髪の長い将校の命令に忠実に従おうとはせず、かえって渡された武器でもって逆襲をかけた連中である。
もちろん郭将軍の部下は戦奴を使って追いかけ廻し、捕らえると見せしめの為に吊るした。しかし、脱走した中には運よく木の上に登って身を匿したり、谷底でうまく追手をまいて逃げまくった者らもいた。
徹底的に反体制の人間が、こうして奴隷になるのを嫌って独立してしまった集団が、次々とサンカとなって山野を彷徨しだした。
 元来、彼らは沿海州や羅津方面からベーリング寒流で日本海を渡ってきた先祖を持っているから、パオと呼ぶ天幕生活をした。

さて、表日本へ怒涛の如く流れ込んできて、太平洋へ抜けていく黒潮暖流から日本列島に這い上がって住み着いた者等は、今の静岡・愛知・三重・滋賀あたりに、皆かたまって助け合っていたゆえ、貧弱な縄文器の石斧、石槍でも何十何万人と集団化していたゆえ討伐を防げ得たらしい。しかし、今の千葉県の仁右衛門島の蘇鉄や団扇椰子の茂っている対岸の安房の小湊あたりに這い上がった連中は難儀したものらしい。なにしろ近くに多賀城とよぶ(中華)城がある。単身で来ている弁髪兵の連中は、てんでに欲望のために女を捜しに手分けして、毎日の如く鉄剣を振り廻して巡回をしたのは、<続日本紀>の中にさえ堂々と記録されている。

そこで命懸けで、かつての日本赤軍の永田房子らみたいに、榛名山系を越えて逃げ込んだのが、裏日本から追われて隠れていた連中と、逃げる者どうしで共に一緒になるようになった。
サンカというと三角が山の字に蜂の巣の窩をあててしまったのを、当人も後になって悔いているが、決して山者つまり騎馬民族の血を引くだけの存在ではなく、逃亡者達の反体制集団なのである。
 といって、何十何百と固まってしまっては、いくら隠れて逃げまわっても中華兵に見咎められる惧れがある。それゆえ、せいぜい二十人あまりの一団となって行動し、移動する時には連絡のため「界石」とよぶ、次の落着く先を人目につかぬよう埋めて
残し、何日かで立ち去って行くのである。行動範囲というか縄張りが二ヶ国から三ヶ国に限られていたので、東北サンカが箱根を越したのはアテルイの原住民大進駐軍の時ぐらいで、せいぜい来たのは茨城あた
りまでなので「イタコの伊太郎ちょっとみなれば」の潮来と、下北半島の恐山のイタコが同じサンカだったぐらいは地名で判る。
なにしろ三角寛説では、日本人化の民族のような考察がされているが、とんでもない話で、彼らこそ日本人中の純粋血族で、完全に今もその血を伝えているのである。
というのは、従順に仕方なく奴(ぬ)とされ、奈良時代には百済人に七世紀後半からは奴隷とされていた庶民の女は、すべて進駐軍の慰安婦とされ、共に黄色人種ゆえ一見しては判らぬが、混血児を産まされてきている。
 これは「野史辞典」の庭子の項目に詳細に出ているように、女を全て召し上げられて、男共は生涯単身で、「先住民」つまり「賎」から言源をとったセンズリでザーメンを垂れ流していたにすぎない。つまり、そうして原住民の男達の血は残らぬように
混血児だけにして単一民族化しようとしたのは明治まで一般では慣行されていた。
 だから松前藩もコシヤマイン蜂起後はアイヌの血を絶やす為に、女は人妻であれ少女でも和人用にと徴用し、男だけは離島へ隔離して強制労働させて、血を伝えぬように別れさせ粛清を謀ったのである。

「白山神信仰」のオシラ様の御神体が男女一対となっているのも、なんとかして原住民どうしの男と女が一緒に暮せる世の中が来るようにというので、その悲願を込めて祀ったもの。
 ところが、「白山島」と幕末まで呼ばれた今の新潟では「白」を上につける神社や御堂はみな古いものは毘を旗にしたイワカメシイ女武者。江戸期のものは黄と黒の楯縞を着た女人が馬の背に跨るもので、明治からの義務教育で「韓信の股くぐり」が修身の教科書で教えこまれたので、上杉於虎が父の名を継ぎ景虎、将軍家の名を貰って輝虎と名乗った。その死後には、姉阿亀の子の喜平次景勝が跡目を継ぎ、男系相続の徳川期では「兼信」と、男女兼用の戒名をつけ、それを甲陽軍鑑の今の講談師のはしりが、武田信虎をやはり戒名の信玄で、張扇を叩いたから、それへの対抗上か、語り口を合わせるために、もっともらしく「謙信」にしてしまったのが本当のところ。
 が、学校で「韓信」を教えこまれ、明治三十年代に頭山満指導の桃中軒雲右衛門の「銘々伝」に「神崎与五郎の馬方の股くぐり」が広まったので、謙信と韓信がごっちゃになってしまい、「股くぐり姫」などと新潟は御神体を呼ぶ。死せる子はみめよか
りきで、女は死ぬと美人にしたがるが、おそらく於虎はブスな大女でアバタだらけゆえ、いつも頭巾をしていたのだろうが、加賀の一向宗道場の坊主の率いる軍勢にいつも苛められていたから、女将として対抗したのは、現世では人外の者でも仏果によって来世は常人となると原住民を煽動して攻め込んで来る彼らに、女上位の体制を示して畏怖させねば、とても打ち払う事ができなかったからだろう。サンカ集団として春日山の鉢形城で天下に怖れられた上杉於虎は、上京のたびに時の将軍足利公方の奥方の許に滞在している。
 もし通俗歴史でいうごとく男だったら、足利将軍家が、女は他にいくらでもいるからと、御台所を滞在中は提供していた事になるが、まさか戦国時代の初めでも、室町御所の権威というか見得がある。将軍家が妻御台所を在京中は貸している筈はない。
ということは、紛れもなくケンシンと俗称される者は女体だったせいだろう。
 富士山頂に木花咲耶姫を祀ったり、裏日本ではきわめて女上位であったのは、今もモンゴルでは、長男が嫁取りすれば、弟共は我慢ならぬ時に御裾分けしてもらっていて、よって女に対しては頭の上がらなかった慣習が裏日本へ入ってきたモンゴール系の慣習であったからである。それゆえ表日本の静岡あたりには、「姫街道」といって娘達を集団で連続的に市場へ運ぶ名称が今も残っているが、裏日本には全くそうした地名は残っていない。男共がみな必死になって女人を守ってきたからである。
 さて、サンカが日本の純血民族であるというのは、その妻や娘を占領軍に渡して己が命乞いをなさず、日本原住民の中で彼らだけが女と逃げ、同じ先住日本人の子孫を育て、その血脈を今に伝えているからである。この大切な事を、警察情報をもとに先入観とした三角寛は、人類学、言語学の基礎教養がなかったので、オカミの指示通りに考究してゆき誤ったのである。

娼にされぬ純な女と伴っての逃避行ゆえ、さぞかし追われ追われて苦労したろうが、彼らの間の子は純日本[原住]系である。そして、その子らも純血を今日まで混血せぬように保ってきている。
「天の古代日本民族の研究」で太田竜も、やはり日本人は朝鮮や中国の男どもの落とし種の混血児によって成立しているから、統治者にしては何よりの優秀な奴隷と決めてかかっている。
それゆえ三角説のような人外サンカ説。つまり日本人とは全く種族の違う人種みたいな論説が、唯一のものとして後世に伝わってしまってはとんでもない誤解を招く事になりかねない。
それゆえ私は今まで書きたくなくて触れないようにしていた記憶を現世への名残りの著述の一つとして書き、ついでに古代バビロニア語とサンカ言葉との類似点をも、彼らが紀元前三世紀から先住日本人だった証明に付け加えて後学の為の参考にする。
もちろん三角寛先生は、天下の朝日新聞をバックに、官僚機構の警察権力や、後には民族事業協和会によって集められた資料をもとにして統計的にも完成されたようなものである。
それに対して私のサンカものは、なんらオカミの力を借りる事もなく、ただ一人で彼らと何ヶ月も同居して、足が遅いのでおぶわれて暮した。当時のサンカ生活の内側からのものゆえ比較にならぬくらい程度は落ちると思うが、反体制集団の彼らの実体はつかんでいる。
次号に続く


サンカ生活体験記 序章

2019-09-26 20:17:47 | 新日本意外史 古代から現代まで
サンカ生活体験記 
   序章

晩年の八切先生は情けないマスコミに黙殺され続け、完全に干されておりました。がしかし、市井に引きこもってからも自著の出版活動に専心し、八切史観にかける情熱は少しも衰えることなく、萎えた右手に鉛筆を縛って執筆でした。
「サンカの歴史」の”生きざま死にざま”にはこの間の苦労が書かれてますが、先生の人生は波乱万丈でした。日本開闢以来の「日本原住民史」の確立を成し遂げた先生でしたが、
その晩年は世に入れられず悲惨なもので、ある意味では破滅型の物書きと言えるでしょう。お亡くなりになる最後まで、先生の後に続く研究者の出現を切望しておりましたが、それもならず、志半ばで夭折されました。(合掌)
このブログは先生の無念の遺志を継いで、八切史観の紹介をする部屋です。
この『サンカ生活体験記』は故八切止夫先生の、日本純血民族であるサンカ集団と生活した、その体験記である。
先生は全著作三百余冊の著作権の放棄をしています。
そしてこの本の巻頭に「何処からでもお好きなように誤植を直し復刻版を刊行して下さっても生前なら一部寄贈くだされば印税や謝礼など不要。
但し初版刊行後四年以上のものに限る。」と仰っておられる。
 先生の没後三十二年になるが、ここに400ページの大冊になるこの本をUPするものである。尚、ブログの字数の関係で、一章から十章の分割掲載になる予定である。

散家がサンカか 

己が家系の事を書くと私小説になってしまう。だから山口氏でも血族を書くのに母方の脇屋を女郎屋だったとしか秘密めかして書いてもいない。やはり書きにくいのだろう。私でも、これを書くのには渋った。できうる事なら誤解されぬよう書きたくは
なかった。私の母はフサと万葉仮名で書く名を持った女性だった。昔の女学校を出た年に、今は亡き矢留節夫、それから何年かたって私を産み、その亡兄の名を冠せていたが、二人も子を産んだ女とは見えぬくらい若々しく、いつも着飾って外出ばかりしていた。
だから、私は祖母といつも一緒で、「バアサン子は三文安‥‥」などと、いつも近所の子供にからかわれていたものだ。
 祖母は世間並な桃太郎の話などはしてくれなかった。桃太郎の絵本を友達から借りてきて眺めていると祖母は怖い顔をして、「わしらの頭に角が生えているか‥‥」
と怒って取り上げてしまい、自分で借りた家へ返しに持っていき、「変なもん、子供に見せんでちょう」と大声で文句を言って帰ってきた事がある。
詳しくは教えてくれなかったが、善玉と悪玉が逆になっとるとだけはぶつぶつ言っていた。
「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していたと、<野史辞典>に書くまでは、桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子で、当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた原住民討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話だと納得できるようになったのは、私としては祖母の亡くなる後年の話だった。当時は、(まさか幼時から一般庶民の洗脳教育に、そんな童話の絵本が広まっている)
とは知る筈もないから、祖母は臍曲がりだと思っていた。
当時、祖父は名古屋市中区神楽坂町という目ぬき通りに、不動貯蓄銀行というのをやっていて、岐阜の芸妓上がりのおツルさんと、南呉服町で「ひさご」を経営していたオクニさんの外妾が二人いて滅多に夜は戻ってこなかった。
といって、祖母より彼女達の方が綺麗とか愛らしいという事はなかった。これが不思議で、
「おじいちゃんは、どうして帰ってこんのやろ」と、中働きの婆にきいた事がある。すると、「ここの大奥様は上に跨りゃあすから、重とうて身体の自由がきかんとぼやいとるぎゃあ」と教えてくれた。
つまり、顔はまずくても芸妓上がりの二人は、今いう正常位か下に横たわって相手の思うままなのに、祖母は反対に上から取っ組んでゆくので祖父は厭がって戻ってこない。

だから祖母は、一人寝でなかなか眠れぬせいか、私を側へ寝かせては色々と話をしてくれたのだ。言い伝えの伝承話だろうが、彼女の口にかかると豊臣秀吉もサンカの一人だった。
「秀吉の弟の弾正たらいうのが薮塚にいて、その伜の虎之助が安土城を拵えた岡部又左の許へ弟子入りしたというのは、居付き(今では五木)サンカとなって暮していた証拠。
また秀吉の妹の子の福島市松だって、後には正則とかいう大名になりゃあたが、親父様が桶のタガ作り、つまり今言やあす箕直しだで、やっぱし居付きサンカ。となると、秀吉のお婆様は気が強いも道理、サンカ女だぎゃあ‥‥近頃はオカミが変わってサーベルが追っかけやぁすが、秀吉かてサンカで、あん頃は大名というか殿様は、みんなそうだったんじゃがなも」
誇りをもってというか、自信慢々とした寝物語を欲望発散のためにくり返し聞かされたものである。私は幼くて判らなくなって途中でいつも寝ついていた。

サンカが屯しているところを「ヤワタの薮知らず」というくらいだから、薮塚の弾正の伜の加藤清正がその出身で、今も熊本に残っている清正堤などはサンカ工事で堅固なのは有名である。
福島正則がササラ衆の箕作りや竹のタガを編んでいたのは「宿六列伝」にも詳しく書いたが、清正も他の本に書いてある。彼が長い兜をかぶっていたのは、サンカは夫婦で一セブリとなって分離しているが、何か集会があって多く集まるようになった時には、全体の長にあたる者が、「八方めぐり」と呼ぶ、地面に突き刺す自在鉤を外側から竹で編んだ筒で包み、頭上に乗せ、遠くからでも識別するためで、五セブリを一天人とよぶ団体が、それを中心に拡がる風習がある。

 現在加藤清正公愛用の長兜といって、藤の編んだのに黒塗りしたのが遺品として残っているが、好事家の後年の作り物で、本物は弓なりに曲げた四本の青竹を籠のような物でかぶせ、軽くて長かったものであったらしい。と、それに九州へ行くと地帯で「豊臣松園」といったように、豊臣を上につけた地区が多いのも、九州ではサンカを特に嫌っていたせいであろう。
 また、これから「秀頼薩摩落ち」の講釈が大坂以西では大正から昭和初期まで流行した。<天の古代史研究>で「世良田事件」の項目に詳述しておいたが、上州世良田庄徳川が、幕末までは神君発祥の地というので畏敬され、近郷八十ヶ村より納米させ、
の頭目の岩佐満次郎がやがて新田男爵になったのに、徳川公爵家では華族会長様の出身が地区では困ると、明治三十年刊にして青山の青山堂より「家康は松平元康の改名が正しい」とする「松平記」を刊行配布。東大をはじめ各大学の教授で組織されていた学士院会は、直ちにこれを確定史料と認定した。

そこで近郷の村々では学士様や文学博士が[世良田と徳川家は無関係と]いうのに、これまでよくも村々より飯米をとりあげくさった、と世良田の庄を取り巻いた。新田男爵はロンドンへ留学という恰好で家族もろとも不在だったが、世良田に残っていた三十四名のところへ近村の三千人が石を投げつけ、鍬や鋤をもって押しかけた。そこで近在の鬼石などのへ応援を求め一致団結して戦った。
これが後の運動の始まりだが、村岡素一郎の「史疑徳川家康」によれば、秀吉がサンカなら、世良田二郎三郎、後の家康とても、出自はどっちもどっちでかわりはない事になる。
    (補記)『世良田事件とは』以下に記す。
 幕末徳川幕府瓦解後、初めての反徳川騒動だが、明治三十年に<松平記>なる創作を配布したり、<史疑徳川家康>を買い占め、発行停止にした徳川公爵家では知らぬ顔。よって故に今では匿され忘れ去られている。
群馬県つまり上州新田庄世良田郷というのは、今も『徳川』の地名が残っている特殊である。
権現様はここが出身地ゆえ、前名は世良田二郎三郎を名乗り、新田の岩佐家の系図をば、「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わりに岩佐をとして認められ、新田郷の人頭税をとらせた。
この土地は、農耕を世良田徳川ではしないから、裕福ではないが、近村から上納米を神君の御威力によって徴収。幕末まで徹底的に搾取してきた。
 さてである。特殊出身の成功者ほど、その出身を隠したがると言われる元祖は、徳川前公爵かもしれぬ。もちろん権現様の血統の尾張の継友、その弟宗春の子供も一人残らず始末、すっかり根絶やしにして、全羅南道系の徳川将軍の血脈になっていたせいもあるが、臆面もなく堂々と、『徳川家康は松平蔵人の改名姓名』とするような徳川神話を、皇室の藩屏たる華族会長の祖先が特殊出身をごまかすために発表した。
故山岡荘八が、その現代語訳のような大河小説『徳川家康』を、そっくりそのままで書いているが、さて明治時代まで近郊の者は遠慮し、
『世良田徳川は、権化様の由緒ある地』と、別扱いしていたのが、大正になると徳川公爵様が否定なさったのが一般にも広まった。
となると、これまで四百年の、つもりにつもっていた恨みが爆発して、
『二千の近在の者が、僅か二十四人しか住まっていない処へ乱暴して仕返しをした』のが、この世良田事件である。
つまり、楠木正成の銅像と一対に建てる筈の新田義貞の銅像が沙汰やみになったのも、徳川公爵家の圧力であって、世良田事件でも、見舞いどころか、まったく我関せずとして頬かむりした侭なのが、後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。
そこで、世良田徳川の者は鬼石その他近くのに応援を求めて竹槍隊を組織し、これが全国水平運動の始まりといわれている。
 ここで留意したい事は、特殊から出て世間で立身した者は前身を匿したがるのか、出身者を嫌うということである。世界的に有名な輸出陶器会社も、新入社員は興信所で身許調査を徹底的にさせてるが、他の同じ出身の社長のところも会社側が(出身者を)極度に嫌っている。
 徳川家も、家光以降はこの傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえに有名な『三河風土記』は、沢田源内の偽作だし、大久保彦左とて、(原住民系の多い)渥美半島出身だが、『三河物語』は家康神話に合わせる為に子孫が加筆した偽作。

なにしろ、『人の一生は重き荷を背負いて、‥‥』の遺訓が、明治になってから勝海舟ら旧幕臣グループによって偽造されたのを尾張徳川家がバラしているが、みな出身を匿したがるからの、徳川家の御為の最後の御奉公だったろう。
小田原合戦後に、それまでの三河・遠江・駿河を取り上げられた家康は、上州世良田徳川の出ゆえ、己れから原住系の彼らも討伐せず、みな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。尾張の三河は一向宗一揆の名目にはしたが、国中で家康を目の敵にしたから生涯半月も岡崎城には居らず、浜松城にいたほどの家康であるから、三河島衆を譜代として片っ端から召し使った。
『野史辞典』に、尾張三河出身の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎はみな三河島の地侍。が、現地採用の彼らに箔をつけるために尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか広められて、武鑑すらも間違えている。
 が、三河岡崎が家康の出身なら、徳川家とても家来の水野を五万石の城にずっとする筈はないのである。
 <天の古代民族の研究>に出てくるような、きわめて温順な奴隷にされてしまった一般庶民は、「親方日の丸」というか、自民党に投票をすればどうなるか判っていても、今のオカミが自民党なら揃って投票場へ行き勝たせてしまう。
サンカなれば秀吉は京を押さえ天下をとり、家康も徳川十五代の祖になれたのだろう。つまり純血の強みがこういうところに出てくるらしい。

 日本列島の原住民というのは、紀元前何世紀も前から漂着して住みつき、海流が日本を起点としてはどこへも流れていかないので、仕方なく暮していた人々のもとへ、今日いうところの「古代海人族」、天地水火を拝むアブダビ海方面よりの者が戦火に追われれ入ってきて飛鳥人。
その後に裏日本から、大きくても木曽駒くらいな馬を筏や小舟に乗せて入ってきた騎馬民族。彼らの中に後に白系ロシア人と呼ばれる沿海州からの白人も混じっていたので、今も秋田美人、新潟美人というように、肌の白い人も多く見かけられる。が、
どっちも集団で攻め込んできたわけではない。

共存共栄というか、牧草地の多いところを騎馬系は遊牧して廻り、マレーシアのヤバアンや、当時の雲南はベトナムまで延びていたが、そこからの古代海人族は漁や塩も作ったが、今日のベトナム方式の水田耕作もし、騎馬民族から鹿や兎の肉を貰えばお返しに穀物を出して、一緒に相互扶助しあい、それゆえ「豊芦原瑞穂の国」ということになる。
 騎馬系は主として新羅高麗[系]と沿海州の粛慎と呼ばれる後の白系ロシア人ゆえ、彼らが白頭山信仰を持ち込んできて加賀の白山を祖神とし、民族カラーを白とするのが源氏になるのだが、それに対して民族カラーを赤とする後の平氏になる飛鳥人は、生魚を手掴みで食べて日本へ来た海洋族。
さて、サンカの女は決まって赤ネルの腰巻姿である。という事は、三角寛先生の説く「単一民族の日本人とは全く民族を別にする種族」という解明にはならないのである。
壱岐対馬から大陸よりの、鉄製武器をもって集団進攻してきた全羅南道の百済人によって討伐された時に、捕虜になってゲットーへ入れられ、騎馬系は飼戸(しこ)として馬飼いの牧夫。海洋系は食物作りの課役奴隷にされた時に、あくまで縄文武器で
戦って逃亡した両方のレジスタンス連中が、やがて一つになって、夫婦単位のセブリを営んだものとみるのが至当ではなかろうか。
 サンカの発生について、三角寛先生は、その著の「サンカの定義」の名義考の中では、まず、
「サンカの表語は、過去三十三年間における私の随筆ならびに小説等三百余篇の発表で、山窩の概念が既定されている。しかし、これは活字面の構成上、「山の窩(あな)」という表示に美的な響きがあるので、ことさらにこれを使用してきた。山の窩の発音はサンクワである。ところが、当のサンカは穴居生活者ではない。また山中深く隠れ住む生活者でもないので、山を冠する事も窩を当て字する事も実のところは不適当なのである。
 それではサンカとはどういう意味か?
この言葉の追求には、私自身、三十三年間苦しんできた。それは、サンカは口が堅く、絶対にその実態について語ろうとしないからである。また、彼らの一味のうち、徒渉漂雨泊のセブリ生活者は、自分達の事を、殊更にサンカとは絶対に口外せず、何も言わないからである。しかしながら、彼らの事をサンカまたはサンクワと客観的にこの名称をつけられている事には、何かの理由がある筈である」
と序文で述べてから、三角寛先生説では、
「彼らにその理由を訊ねると、まことに不機嫌で、『それは何の事だ?』と横を向いて答えようともしない。そもそも山の窩とは、彼らの真の生態を知らず、想像で深山の山窟にでも棲んでいる生活者であろうと断定して呼称したものだからであろう」
とする。また、明治八年二月の島根県令井関盛良時代の羅卒文書に、「山家(さんか)の徒、山窩、浮浪の徒」などとあり、
「山窩(山家)は雲伯石三国辺偶の深山幽谷を占居する」とも記載されてある。おそらく、これが文字に書かれた山窩の、そもそも最初であると思われる。
この山窩が、明治から大正にかけて特殊な犯罪捜査家達によって研究され、雄弁会発行の「明治大正犯罪実話」上下二巻となり、彼らはこれを特殊犯罪者の流浪群と誤断した。しかも、彼らはこの研究を絶対秘密にして、直属の上司にすら報告せず、隠密や、一般犯罪捜査の手先に「諜者(てふじゃ)」として山に入り込んだのを利用し、彼らの仲間を犯罪者として検挙していた。
 三角寛先生は、
「私がはじめてサンクワの言葉を耳にしたのは、昭和初年の例の『説教強盗』が、夜の帝都北郊の住宅街に出没して、東京市の内外が恐怖に襲われていた頃である。『あの説教強盗はサンカじゃあるまいか?』という風評が立った。『説教強盗』の命名者である私は、その風説を聞き捨てにはできなかった。私はその風評の火元を追求するのに十一日間を費やし、ようやくつきとめた火元は、下谷区萬年町に住んでいた警視廳捜査課勤務の巡査部長大塚大索氏であった。大塚氏は窃盗係の老刑事であったので、
直接、強力犯の説教強盗の捜査には当たっていなかったが、その出没自在な行動から推理して、『あるいはサンカじゃあるまいか』と口走ったのが事の起りだ」と、当時サツ廻りの新聞記者の三角先生には判明した。
 大塚巡査部長は、この萬年町がサンカの居附(ゐつき)地であったので、ここに居を定め、ここを探索の巣として、この特異な、社会に寄生する浮浪者群の中から多くの犯罪者を検挙していたが、この里で捕らえてしまうと来なくなるので、ここを立ち
去って次の場所に移ったところで捕らえる事にし、それらの犯罪者をサンカの諜者に密告させていたのである。

 この特異な社会は内側と外側に分かれ、内側がサンカで、寄生浮浪者群はその外側であることを知っていた。(大塚氏は後に警部補になって退職した)
 では、その内側のサンカの実態は、はたしてどんなものであったか?(つまり内側が本物で、密告者や密偵は寄生虫のような贋者)という事になる。
 大塚老刑事の話によると、
「サンクワといっても、あれは当て推量の名稱で、深く研究して呼稱された訳でもない。また彼らを訊ねてみても満足な返事は誰もしないから知る由もない。彼らは岩洞や穴の中に住んではいないのだから、山窩でない事だけは事実である。あの連中は、
箕づくりが生業で、大体が村里や町はずれの林の中や、川べりにと住んでいる。だから、山河者(さんがもの)とでもいう方が適当かも知れない。どうしてあれをサンクワというのか自分でさえも納得していないから、報告書にサンクワという文字を使っ
た事は一度もない」
と、三角先生が、はじめて知ったサンクワという名称の知識はこの程度のものであったという。掴んだのは、「その正体が箕つくりである事の事実」だけであったのである。

 農村に生れた者なら、箕つくり、箕直しを知らない者は少ない筈である。三角の生れた大分県竹田地方では、これらの連中をと呼んでいる。彼の母などは非民(ひみん)と言っていた。なぜなら、昔から農耕の民を百姓(おおみたから)(世襲私有財産の大遺宝)といった歴史があるが、あの連中は耕作をしないから非民だというのだと聞かされて、なるほどと先生も思った事がある。
この箕つくりの非民あるいはのことを、地方によっては、川徒(かはと)、山徒、またはオゲとかポンズなど、さまざまの方言で呼称されている。地方々々での解釈があるのだが、いずれも、その正体を掴んではいない観念的、客観呼称にすぎない
のである。サンクワとは、ただ何となくそんな気がするので、あて推量で、山の穴居者と誤認しているのである。
 また、サンクワは、多くが川の畔(ほとり)の林の中に棲むので、サンカ(散家)と呼ぶのが正しいと思うのではあるが、これとて観察概念からする呼称にすぎない。
 「かのごとく、サンクワとかサンカについて、何かありそうだと考え、色々追求を重ねているうちに、昭和十九年になって、彼らの中に、『ミツのケチの掟』といった厳然たる差別のあることを発見した。これはこの研究の決定的な意義をもつ事になっ
た。この『ケチ』というコトバは、世間でよく云われている処の、『あいつにケチをつけられた』
などという、あのケチの事だ。
    ミツクリの一(かみ) フキタカの一 エラギの一
この三つの系統の差別(ケチ)がそれである。
 そのミツのケチとは、三つの差別、即ち三つの區分(ケチ)ということである。
(ミツクリの一とは、箕つくり系統の統領の事で、家元とか本家などの意味で総元ともいえる。つまり『夷元』なのに、金とり主義に代わったゆえ刃物をふるって花柳玄舟が抗議をしている。)
 フキタカの一とは、笛つくりの系統の統領のことだ。この一味は、太古には笛や琴を竹で作っていたのだが、今では竹製の楽器や茶筅などを作っている。また竹三味線も作った。(『四つ』のササラ衆も同じ事をしている)
 エラギの一とは、遊芸者系統の統領の事で、出雲阿国などがその出であった。今も川原芝居や門附けなどが残され、現存する『俵ころばし』『猿廻し』などが、この系統に属する。(弾左衛門支配の四ツの猿飼族も入る)
 このエラギの語は、嗤楽(わらいたのしみ)の事で、笛を吹竹(ふきたか)という古語と併せ考察すると妙味が深い。サンカの語源かもしれない。
以上の三區分は、その一(かみ)が世襲的に専承されてきたのであるが、大正以後は、その一(かみ)味の上達者が、次代の一を継承している。このミツのケチのカミを彼らはきわめて尊び、セブリのミケ、またはミカと呼んでいる。それが三差(さん
け)、三一(さんか)などと呼ばれ、また三家(みさん)、三家(けさんか)などとも呼ばれたりするが、理解し合う相手なら、どう呼ぼうと咎めだてはされないのである。
 
   さらに彼らの中には、その上に、
クズシリ一(かみ) クズコ一 ムレコ一
という三種のカミがいる。
 クズシリは国知り、クズコは国子(くにこ)、つまり都とか郷のこと。ムレコは群子(むれこ)で、村の事である。それぞれに一人ずつの長がいるので、それを第一人者の一をカミと呼ぶのである。この他に、さらに統率者として、
アヤタチの一(かみ) ミスカシの一 ツキサシの一の三つの段階の頭領の身分(ケチ)がある。これは、権力の最高者であると三角寛先生は、その著書で説明する。
 アヤタチのアヤとは亂、即ち秩序の亂(みだ)れのあやの事で、タチは断(たち)または裁(たち)を意味する。
 ミスカシは透視を意味し、亂を破る意味が含まれている。
また、ツキサシは突き破る事で、亂脈を引き裂き、突き破る行為を意味する。これが戦国時代に到って利用され、アヤタチを亂破、ミスカシを透破、ツキサシを突破などと漢譯され、忍びの者の組織に利用されているという説すらも伝わっている。
 現存の彼らが數を讀むのに、いち、にい、さん、しい、ごう、と我々と同じ數え方をするにはするが、他人のいない身内同士の時や、何かあらたまった時には、一(かみ)、ニ(つぎ)、三(さん)、四(しい)
と讀むのである。
 この一(かみ)という表意記號を、頭(かみ)と意味する彼らは、この数字に、物の肇(はじ)まりと統一を、また指示と統御を信念としていた。ここに特殊さがある。
ここから出發して、三つの差別(ケチ)、三つの一(かみ)を、サンケ、またはサンカと意発発音してきたのが、いつはなしに外部に漏れて、サンケまたはサンカが山河と解され、山窩と誤られたのである。音表と意表の合意を誤解された結果が山窩であ
り、山河であると理解されたい。

 結論としてサンカは三一(さんかみ)であり、三區別(さんケチ)であり、強いて漢字で書くとすれば、三家である。過去三十三年に亘って、三百餘篇の著述の中で山窩の熟語を故意に社会に押しつけてきた三角寛としては、ここに謹んで、その罪を詫
びて、その不正を正しくしておく次第である」と、昭和四十年十一月三十日朝日新聞社刊の「サンカの社会」の28-33頁では述べているのである。これは正しい訂正である。立派なことである。
 しかし、漢字というものは、西暦663年、白村江敗戦の時に進駐軍によって「則天(漢)唐字使用令」とよぶ強制使用が命令された時から、みな何でも当てはめるだけの文字ゆえ、「三」にこだわるのはおかしい。おそらく本当のところは足利中期過
ぎに明国から印度のカースト制度が入り[もっと前からという八切説もある]、日本列島でも制度を確立した際、「まず前体制の北条一族をゲットーに入れ、次いで足利創業の際に南朝方として邪魔をした新田、楠木、湯浅、菊池、足助といった連中の子孫が、東西に設けられた室町御所の新設した奉行の役人によって、山とか川の真ん中の州。つまり橋のない川の中へ、居つき限定収容させられた。これをとよぶ。地方によっては、別所、院(囲)地、界外と色々の名称があるけれど、これが全て語源である。
つまり、はゲットーでタウンになっているのに、セブリは一世帯ごとゆえ、これを「散家」というのが正しいとも考えられる。足利後期の公卿の「夷詠朗詠集」の
中にさえも、「奥山にかくれ住むちょう散家ども、人とはみえで隠鬼ならむ」とまで明白に出ている。この朗詠集は、毎年五月五日、奴隷百姓となっている連中が、
橋のない川の連中へ投石をしにゆき、州の中の鯉を分捕って竿にさしてきて勝ち誇って帰ってくる「院地打ち」の石合戦の歌が数多く詠みこまれていて、夷をもって夷を制する藤原体制の実体を明らかにするために、菊池山哉の「日本の特殊」にも引用されているものである。

ウメガイの実相
「サンカの生態には、陰陽ニ態がある」
と三角寛先生の説ではいう。そして、
「陽態がセブリ・サンカ」であり、「陰態は居附サンカである」とする。この居附は、我々の生活に極めて接近し、そ知らぬ顔で一般に中和している。中和とは、サンカが一般人の中に入り、正しく節度にかなった生活をしていることをいう。彼らは元来が
セブリモノであることを一般人に知られ嫌われるような事は絶対にしないのである、と説明をしてから、その形態を分けて分類し、中和しているトケコミサンカについて、
「陽態の、セブリ・サンカとはどんな生活者なのであろうか?」と先生の考えを発表する。
 彼らのコトツ(「言告(ことつけ)」の詰り語で、「つてごと」の意‥‥昭和十八年、丹波にて採集)によると、セブリとは、アナイヌケということである。太古の我々の祖先が穴居生活であった事は論争の余地もなく、明治大正になっても地方の農
家はまだ穴居生活が多かった。これには異論のないところだが、このセブリの始まりはほぼ、その穴居から地上に出た頃からと、彼らの間では傳承しているのである。
 それまで私は、コトツという言葉は、コットと聞いていた。「コットによりますと」とか、「コットでは」というふうに聞いていたのである。その意味も、「私どもの一族では」とか、「我々のセブリでは」という意味に解していた。
 ところが、昭和十八年の夏、戦争たけなわの頃、三角先生は郷里の大分に歸郷した折り、飯笊(めしざる)を売りに来たセブリの女の口から、「セブリのはじまりは、タニバのオヤマミという人に聞くと、よくわかります。その
人はコトツの一(かみ)だから」と、意外な事実を聞いたのである。それは先生にとっては、まことに思いがけない大収穫であった。
「あんた、いまコトツと云ったが、コットのことですか?」ときくと、
「他人様と話をする時には、はぐらかしを言うことになっているから、コトツのことをコットと言うのです」
と、これまた意外な発覚である。それゆえ言葉を次いで、「コトツとはどんな事でしょうか?」ときくと、
「セブリのできた、そもそもの始まりの事から何から、先祖からの言い伝えをコトツというんです」と、教えてくれた。
 タニバとは丹波の古名であるが、鞍馬の山裾にあるというオヤマミのセブリの場所をきいて、東京に戻る途中、京都から北に入ってタニバのセブリ場を先生は訪ねた。
 セブリは、桂川の水上の大堰川の川縁(かわべり)にあった。セブリの主は、大山見一(おおやまみはじめ)といって、その時五十九歳で、職業は箕作りであった。ここで、コトツの語意について確かめてみると、その意味は「言告(ことつげ)」の語
り語で、「つてごと」という事であるのが判った。これも貴重な一語である。今いう伝言だからである。更に、この大山見さんが、セブリの歴史を一切伝承していることを知って先生は狂喜した。



大奥一の井戸番と徳川綱吉、柳沢との関係

2019-09-26 09:46:48 | 新日本意外史 古代から現代まで
大奥一の井戸番と徳川綱吉、柳沢との関係

 江戸城本丸の大奥は、防火用の赤銅塀で囲まれた築山の御苑から上下の二本の御鈴廊下で表御座所へ通じる外は、伊賀部屋の者が詰めている御座敷御門しか、外部への出口はない。

徳川綱吉の時代、一之側長局から、四之側までの間に一万五千からの女中がぎっしり詰め込まれ住まわされていたのである。だからもし失火でもあったら逃げ場もない。それゆえ東長屋から裏部屋へかけて、十個の大井戸が火の用心に掘られている。
中でも御様座敷とよばれる将軍家休息の間に面した大廊下に囲まれた処にある一の井戸は、直径が三メートルもあって深さは底なしといわれるくらいに深い。なにしろ、この一の井戸はもし将軍家が大奥で泊まられた際に、出火でもあったら御様座敷を水浸しにしても救助しなければならぬから、
そこの井戸番は大役である。

    綱吉の側室 染子
 延宝七年十二月といえば、元禄元年になる八年前の事に当たるが、後の六代将軍になる家宣の許へ、京より近衛関白家の姫君が輿入れをしてきた。その時近衛家から供をしてきた中に、当時十三歳の染子が選ばれ混じって東下りしてきていた。
さて、大奥の一の井戸の御番というのは、将軍家がおなりになって泊まられる時、縁の下にずらりと水を汲んだ手桶を並べておき、庭石の所でまじろぎもせずに見張っておらねばならぬ役目である。
しかし、将軍が大奥へ渡ってきて泊まられるというのは、なにも一人で寝にくる訳ではない。必ず御添い寝する女人が寄り添うのだから、それからの事の成り行きを眼ばたきもせずに、始めから終わりまで見て居るのは、経験の有無を問わず、やはりとても目に毒である。
それゆえ一の井戸番は、大奥では極めて重要な役だが誰を付けても長続きしない。そこで京から来た近衛家の侍女の中で、色白な上に大柄な染子が老女達の目に止まり「まだ十三じゃそうだが、それくらいの方がまだ春情の何たるかを解せず、御用大切に勤めるだろう」と、一の井戸番を名指しで命じられた。

(万一の際には組下の女達を呼んで汲みおきの水を掛け、空になった桶に水を注ぐ)といった御役は出火の際だけゆえ、滅多にそうあるわけではなく、いつもはただ、「何処からか煙など出はせぬか?」と御様座敷の内部を、将軍家おなりの節は、眼を皿のようにして敷石の所へ手をつき、じっと食い入るように見守っていなければならない。
御寝の次の間には、ご老女詰め所から両名ずつが襖越しの御参の間にて、不寝番を勤めているので、一の井戸番は御寝所内よりも他からの延焼や類焼の方に留意し御用大切に勤めるのである。
 こうして染子は他の女ではあまり長続きしない一の井戸番を必死に続けた。
しかし、十三や十四の時はまあ辛抱でき、ただ好奇心だけぐらいの処で済んだが、十五歳になると、さすがに全身が火照って頭へ血が上ることが多くなった。
さて、綱吉も初めは気づかずだった。何しろ一の井戸番というのは、これまで目まぐるしく変わっているので、大奥へ通る度に庭先で見かけても、ろくに顔など覚えはしなかった。しかし染子になってからは、何年も続けているので、その内に綱吉も次第に「ほう、同じ顔が良く続いているな」と染子を意識するようになった。
そこで意地悪でもないが、それからというもの相手の女との痴態をわざと見せつけるようになった。勿論、覗き見している染子へよく眺めさせてやろうとの親切心からではない。
綱吉にして見れば、あれと指させばその女を老女達が入浴させ身を清めさせ、決まりきった恰好にし床へ送り込んでくるのに、倦が来ていたというか、味気ない想いをしていたのだ。つまり変わった刺激が欲しかったから、染子に見られているのを良い事にし、抱く女よりも庭先の方ばかり綱吉としては気にするようになった。
綱吉にしてみれば悪戯心も半分は有ったろう。しかし染子にしてみればそうした有様を露骨に見せつけられ、うめき声や妙な言葉を次々と聴かされては、いくら京女の意地を示す為とはいえ、ますます気が変になって来てしまい、
「死んだが増し」といった悲壮な想いにもさせられていた。さて、こんな時、
「あの色白な井戸番の娘は何歳になるか?」と綱吉が控えの老女に声をかけた時、
「はい十八歳になりますが」と答えが戻ってきた。そこで、
「そうであるか、一の井戸番を勤めてより何年になるか」と気になるゆえ尋ねた。
「はあ他の女どもとは違い、十三歳より五年の御奉公」との返事に、ほう真面目な ものであるなといわんばかりに綱吉は大きく頷いた。
こうした経緯があって染子はとうとう将軍家のお手がつくことになった。この後、綱吉は「染、染子」と一辺倒になった。何故かという理由については推測するしかないが、将軍とて男である。男女の間は今も昔も情愛と性愛の絡みあいでしかない。
しかしこの円満な関係も長くは続かない事になる。

 染子 柳沢へ下げ渡す
綱吉の生母である桂昌院が調べたところ、染子は近衛の姫の侍女とはなっているが、貞享二年二月に、風邪で京都御苑の北隅に捕りこめ小屋で崩じられた前帝後西さま、その母方櫛笥家の養女で、倒幕謀叛の容疑をもって幽閉中の前帝を救おうと、権中納言の家柄を隠し通して侍女となって東下りしてきた怪しき身分の者、と判明した。
そして綱吉を説得して無理に染子を引き離してしまった。綱吉にしても二年も寵愛していた染子をそう惨くは扱いかね、柳沢吉保に下げ渡す事にした。だがこの時染子は妊娠していたのである。勿論、綱吉の種である。
綱吉はこの時四十二歳になっていたが、染子懐妊と聴くと、「其の方の子として育てるように」と柳沢に命令した。やがて秋になるとまるまるとした男児を産み落とした。これがため元禄元年十一月には柳沢に一万石の加増が言い渡された。しめて一万二千三十石である。正式に「御側御用人・柳沢美濃守」の役目にもなった。
元禄三年四月二日に、将軍綱吉は千代田城大広間で、自ら仕舞いをして諸大名に参観させた。
それゆえ当日は舞の後でも機嫌が良く柳沢へも、「染子の児は如何であるか」と珍しく見せて尋ねたりした。
「はあ明けて数えのおん五歳、おん健やかにて」と答えたところ、「もう五つにあいなるか、では何かと物入りであろうな」と即座に、二万石の加増が言い渡され、しめて三万二千三十石である。
これはどう考えてみても、今度の加増とてこれまでの忠誠の報酬ではなく、染子の産んだ児を預かっていることへの里親扶持のようなものである。この後、綱吉は生涯五十五回も柳沢の屋敷に立ち寄る異例な行動をとるのだが、 わが子可愛さと、染子に逢うためかのどちらかだったろう。
この後七万石、十五万石、と次々に加増を重ね、二十二万石にまで出世し、大格老として幕閣を牛耳り、その子孫は幕末まで続いた。
 
 

太閤秀吉と女達の物語

2019-09-24 18:46:27 | 新日本意外史 古代から現代まで
太閤秀吉と女達の物語

「この世の中に女ごはごまんと居る。しかしわしには、なんしたのだけが女ごで、そうでないのは女ごでも何でもない無縁の衆生だ」
と、秀吉が口にしていたという話しが、江戸時代に刊行された『雨窓閑話』に出ている。
つまり一度でもセックスしたのは女と認めても、そうでないのは女扱いはしないというのだ。
成程言われてみれば男としては至極当選な話しだが、えてして一般の男はそこまで実存的というかこうも割り切れる者は少ないだろう。
世間では、まま、どうしても、女が川や海で溺れていると聞けば「若い娘か、婆さんか」と尋ねたり、若い娘が死んだと知ると惜しがったりしてしまう。
つまり道を尋ねられても若い娘なら、親切に教えてしまいたくなる心境をもっている。
つまり男は誰でも何かの係わり合いか、きっかけがありさえすれば、未知の女性とも親しくなりうると、その可能性の限界をはてしなく広げて考えたがるものである。
なのに秀吉は、はっきりとそこに一線を引いてしまい、
「何でもない女等は、自分としては女とは認めぬ」
きわめて明快に男として区別しているのである。
だから誠に毅然たる態度で(男の中の男)といった感じ方さえもされる。
しかし実際はそんな恰好の良さではなく、もっと現実的なことだったらしい。
つまり若い頃の秀吉は、稗が食えるようになると喜んで「ひえよし」と名乗り、織田信長に仕え小者の頃は藤蔓織りの御仕着せが嬉しくて「藤よし」を名乗っていた。
そして木下家に養子に入り寧々と結婚して士分となると「藤吉郎」を名乗るようにもなるのだが、貧乏で、全く女にはもてず、いくら他の男が若い女を見てやに下がっていても、
「無駄なことをしてもあかん」と、いつも虚しい結果に自分は終わるのだという苦い目にあい、そこで
諦めの境地になっていたのが、その原因でもあろうか。
なにしろその『雨窓閑話』では、秀吉が寧々と一緒になる前に肉体関係の有った阿伊、きく、まんの三人の女の話が出てくる。
     藤吉郎と三人の女達
どれも藤吉郎と呼ばれた頃の彼の風采の上がらなさや、先行き出世も見込めぬ心細さにか、見切りをつけて、さっさと去っていった女達でる。
だから普通ならば、太閤秀吉となり大出世したのだから、「ざまあみろ」と放って置くのが人情なのに、昔、何度かセックスをした女だということで、松下加兵衛の弟の源太郎に命じて探させている。
処がこの内、河野治右衛門の娘のきくは、
「今更なんで、お目もじ出来ましょうや」と、女の意地であくまで拒み通した。
まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっている。
しかし百姓娘の阿伊の方は、すっかり喜び勇んで、
「やっとかめだなも」と尾張弁で、又よりを戻しても良いような顔で、当時秀吉が住んでいた聚楽第へきている。
それに対して秀吉も懐かしそうに、「おみゃあさんも婆様になりやあたな」やはり尾張弁で労わりの言葉をかけ、彼女を母の大政所の許へ預けておおいに歓待している。
普通の男には出来ないような真似を、秀吉は平気で気さくにしている。
まんの場合は、祝言をあげたが、秀吉に抱かれるのが嫌で、そのまま蒸発して行方不明になっているから、これはさすがに放りっぱなしにしている。しかし
 その時の仲人の伊藤右近の老夫婦にだけ当時の礼をしている。
この子孫は、大阪落城後は本田美濃守忠政へ二百五十石で仕え、その家系は今も続き、
太閤より拝領の品を家宝となすと《雨窓閑話》にある。
さて、なにしろ
「・・・・・・女にもてるヤツは出世しない」というけれど、そのせいか秀吉は、小谷攻めの時はまだ
横山砦にいたが、やがて立身して近江長浜へ五万貫の城主として移ると、「わしは若い頃には女には散々ふられた。だから貸しがあるんだ」と、城内の腰元や領内の娘を、
「・・・・・わが女ごになれ」と相当派手に片っ端から乱行をしたらしい。しかし一世の色豪と謂われた故菊地寛が「男が女に報いてやれるのは金だけだ・・・・」
と名言を吐いたごとく、それぞれの女には過分な手当てや褒美を出している。だから女達は別に恨むどころか、結果的には大喜びをしたらしい。
藤吉郎の妻寧々の立場
 

しかし、後に正妻になった寧々としては立場上これは面白くなく、
「拝啓信長様へ」と至急親展で、秀吉に説教してくれるように手紙を出して訴えている。
 それに対して信長からは折り返し、
「藤吉郎には、かねて其方ごときよき女はいぬと申し付けてあるのに、あの禿げ鼠めは其方をないがしろにして、他に勝手なことをしくさるとは、けしからんことである。よく当人にも言って聞かせるが
 其方も辛抱せよ」という信長の手紙が今も残っている。
 藤吉郎が出世して、近江長浜五万貫の城主になったら、浮気をしだしたというのである。
だが口頭ではなく、こういう手紙を出すということは明らかに長浜の寧々から、当時はまだ岐阜城に居た信長のもとへ訴えの手紙を出してからの、これは返事なのである。
しかし今日のようにポストへ投函したら、郵便局で配達してくれるような時代ではない。
寧々の方は文箱に入れたものを侍女に持たせて、恐れながら届け出たのだろう。
が、信長の返信は、いかめしい御用当番の武者が今の岐阜から滋賀県まで馬を走らせ、「ご上意でごさるぞ」と届けただろう。
さて、現代の解釈では、
「信長は藤吉郎に目をかけていたから、それを庇うため悋気する寧々に手紙まで送ってこれを慰撫したものである」と、藤吉郎の人間評価を信長が早くからしていた。
だからこそ、秀吉になっても藤吉郎はその恩を忘れず、信長が殺されるや電光石火にとって返して、
その仇討ちをしたのだという、報恩美談の資料にさえ、この手紙は利用されている。
しかし、一家臣の妻である寧々が、今で言えば社長に当たる信長に対して直接に、「うちの夫は浮気をして困ります」と手紙を出すということは、いくら家族主義を標榜する会社でもまあ無いことだろう。なのに、
「君は素晴らしい女性である、といって結婚させたのに、もう浮気とはまことにけしからん」と、
 それに返事をする社長がはたしているだろうか。 
もしそういうケースがあるならば、おねね婦人というのは、以前は社長秘書であって親しかったか、もっと信長社長とは密接で、肉体関係まで在ったと考えざるをえない。
 『高台院実録』によると、お寧々が藤吉郎と杯をあげたのは二十三歳である。
この時代の女性の結婚適齢期は現代と違って早く、十五、六歳である。
すると寧々は七、八年も何をしていたかということになるが、この当時の寧々の実家は、父は武者奉行で、兄の勘平は、鉄砲奉行で「青ひいらぎ五枚葉」の旗を許され、弟の小市は「放れ駒」、下の雅楽助も「天狗面」の旗を背にさせる程の者達であった。
俗説では、「御弓奉行浅野又右の養女として藤吉郎に縁づき、入れ代わりに、寧々の妹のいねが
又右の跡目の長吉(後の浅野弾正)の嫁にくる」とはなってはいるものの、「上の寧々が養女ならば、代わりに来た妹も、やはり養女であるのが妥当なのに、なんでそれは長吉の嫁なのか」と常識で考えるとおかしい。これは当時の足入れ婚なのである。長吉の嫁であった寧々が、子供が生まれぬからと離縁されて、妹が下取り交換で来たと見るのが確かなのである。
寧々は長吉の前には丹羽五郎左とも仲がよかったらしい。他にも多いようである。
そうでなければ藤吉郎も、そう早々と浮気はしなかったであろう。
なにしろ、処女尊重思想などは、元禄時代の儒教が入ってきてからのもので、今日の一夫一婦制度もきわめて最近のものなので、戦国時代の女達などは、一妻多夫も案外平気だったらしく、現代より遥かにのびのびしていたのらしい。
            英雄色を好む
  
こうして見ると秀吉は、一度でも関係した女に対しては、何でもない女に対するのと違い、親切に思いやりのある態度をとった男のことゆえ、
「そなたは良き身体をしている」とか、
「わしは生涯そもじのような佳き女の事は、忘れぬだろう」等と口にしていたらしい。
だが天正十年に信長が爆殺され、秀吉が天下を取ると今度は晴れて美女狩りを始めたようだが、実際には自分から目をつけて指名したのは、
蒲生氏郷の妹のきね十六歳。
京極高次の妹のまつ十七歳。の二人だけだったといわれる。といって蒲生の妹の方は美女というほどでもなかった。
布施藤九朗という名で、妹には許婚がまさに居て、非常に信長の気に入りで、小者時代の藤吉郎を見下し馬鹿にしていて、藤吉郎に対して不快を与えるような態度をよく取っていたので、これが癪に障っていた、秀吉は仕返しのようにきねを召し上げたのだという。
 初めは蒲生氏郷に対して、藤九郎を始末するように命じていたが、きねが閨中で、秀吉に懇願したので死一等を減じられ追放処分にしたという事が『信長公記』につぐ『当代記』にも詳しく出ている。
京極の妹のまつはそれに比べ、後には「松丸殿」と呼ばれていた美女だった。
というのは、たいていの女は一度だけで後は召しだされていないのに、彼女だけは相当長期間にわたって寵愛を受けている。美しいだけでなく何かがあったのだろう。
さて、だからといって秀吉が、稀代の色好みというのでもなかったう。
よく、「英雄色を好む」といった例に彼は直ぐ引き合いに出されるが、これは常人の一般的解釈ととは、全く実際は違うのではなかろうか。
 ナポレオンは一日に睡眠三時間で鞍の上で仮眠したというが、何しろ英雄なるものは秀吉もそうだが、きわめて多忙なのである。
 しかし凡人も偉人も一日二十四時間しかないのである。
八時間働いて八時間寝て八時間は自由に、といったことが彼らに出来よう筈がない。
 だから女と何する時間も、そんなに余裕があったとは考えられない。
おそらく睡眠でさえ普通の者に比べれば僅かだったろう人間が、その限られた貴重な横になれる時間を
割愛してまで、夢中になって色事に没頭できよう訳はなかろうと想う。
         秀吉に献上された女達
 さて初めは一本の煙草で目まいがする。が馴れて来ると日に十数本もふかすようになる。
これを効用逓減の法則というのだが、男女のこととて、やはりそうだろう。
といって初めは一人の女で満足できたのが、次第に何十人も欲しくなるというのではない。
女と違い男の性は反対で、詰まらなくとも短時間であればある程きわめて爽快なのである。
だが同じ相手と繰り返していては刺激がなくなるのか、所要時間がどうしても長くなる。
そこで多忙な男は、それにうつつを抜かして居る時間が惜しく、ただ済ませればそれでよいのだから、
ついことを早く処理する為に刺激のある違う相手をと、急がしいゆえに求めたのだろう。
これゆえ、英雄色を好むとまるで逆な見方をされるのだが、これは凡人の嫉みでしかなかろう。

 故信長の忘れ形見のおまる殿、信長の弟信包の娘の伊勢殿。前田犬千代と呼ばれた頃から知り合いの利家の娘のまつ殿から始まって、何十人もの若い娘が秀吉の許へ集まった。
 といって、秀吉がなにも命令して、「娘を献上せよ」と収集したのではない。それぞれ己が身可愛さの為、権力者に取り入って己の身を安泰に保つ為、即ち自己保身の為に娘へ因果を含め、「親の為である」とか「家の為」といって送りつけてきたにすぎない。
 以前作家の故吉行淳之介が、何かのエッセイで、バンコックの娼家の話を、「会話の通ぜぬ間の行為は、排泄でしかない」と書いていたが、五十余歳の秀吉と十四や十五歳の娘との間では、通じ合う会話などあろうはずはなく、唯そこに介在したのは、忙しい秀吉の排泄のみだったろう。しかし、本当のことを言ってしまえば、「身も蓋もない」という格言もある。
それに、十四や十五の小娘だけでは、秀吉の好色話にはならない。
そこで実際は、まだ夫の万代屋宗達が健在だったと『蓬源斎書上げ書』にも明記されている吟女をば後家にしてしまい、これに秀吉が懸想して振られたから、その怨恨で吟の父の千の宗易を殺してしまったのだと
作話する歴史屋も居る。
 だが親達の免罪符として、若い娘達が次々と届けられてきているのに、いくら話し相手になりそうだからとて、
三人もの子持ちの三十四歳のお吟などを追いかける暇が、多忙だった秀吉にあるはずはなかったろう。
         淀君の場合

 さて次に淀君だが、これまでの通説では
     「大阪落城の際、元和元年、三十九歳で死す」
とされ、それに合わせるため、十四歳で側室になり、翌十五歳にて秀頼を産んだとするが、その前に三歳で亡くなった鶴松を生んでいる故、これでは、
「淀君は八歳でまず第一子を受胎した」ことになるのてある。
 さて、彼女より四歳年下の末妹の嵩源院が「寛永三年九月、五十四歳」で死亡したのは、
『徳川台記』や『僧上寺記』に明白である。だからそれから逆算していけば、最初の出産は、
「二十一歳で、秀頼を産んだのは二十五歳」といった勘定が正しい。
 他の姫たちが十四や十五で御床御用を申しつかったのに、二十歳の時まで淀どのが放って置かれ、秀吉に相手にされなかったのは、これまた俗説と違って彼女が美人ではなかったからだろう。
 母の於市が美女だったのは有名な史実だから淀もそう見たがるが、遺伝学的に長女は父に似るといわれていて、大男だった父浅井長政に似て、彼女は骨太の大女だったらしい。
大阪御陣の際、緋縅の大鎧を着け、五十人の武装した女達を引き連れ、馬上から兵達を督戦していた事は、
『当代記』や『大阪御陣記』にも出ている。
細っそりした美人という感じではなく鎧姿の似合う女丈夫なのである。
また、「幼女や少女を相手にしたがるのは性器短小な男の特徴である」と今の医学書にはどれにもある。
すると秀吉はどうもその傾向だったらしいようにも想える。
なのに何処からも嫁の貰い手が無く、大阪城二の丸に居候していた大女の淀を、己の好みの型でもないのに呼んで、秀吉が忙しいのに無理をして抱いたのは誰かの策謀としか思えない。
これを当時の時代背景から推理すると、秀吉は己が日本国の原住民系の天皇になろうとして、
京の中心に、「古臭くむさ苦しい御所は好かん」と新御所として絢爛豪華な聚楽第を造った。
 この動きに危機感を持って、打倒秀吉を叫んだが、御所の穏健派に京を追われた、権中納言山科言経の仕業だと想われる。
彼は大阪の中ノ島に住み、薬草栽培や薬を作り、医者の真似事や観相や易までしていた。
のち、楠流軍学をひろめた楠長音は、言経の義弟の子供にあたり、その著の、『豊家滅亡由来之次第』には、秀頼は秀吉の種ではないということを高台院(寧々)へ訴え出たという事が出ている。
これは非常に興味深い重大な話だが、未だ歴史屋共はこれを解明していない。
それでは本当の父親は誰かとなるが、大野治長らしい。
日本歴史学会会長だった故高柳光寿博士の「戦国人名事典」によれば、
この大野修理太夫(治長)とは、秀吉の馬廻だった。天正十九年十一月秀吉の三河吉良へ狩猟の際警護として従う。文禄三年春伏見城の工事を分担する。当時一万石。
 慶長四年正月秀頼に伺候。同年十月徳川家康を殺そうとした容疑で、下野結城に追放されたが、
翌年関が原の役が起きる前に釈放され、家康の会津征伐に従軍してる。
 のち秀頼に仕え、大阪の諸事を奉行した。元和元年五月八日大阪城に自殺して秀頼に殉じた。
(関原覚書、関原軍記大成、続本朝通鑑、駿府記)
 これでも解る様に、大阪落城の猛火の中で淀と秀頼、治長の三人はまるで親子心中のように焼け死んでいったのも、血のつながりと見れば理解できる。
だから寧々は、淀君への嫉妬というより、「由なき血脈に夫の後を騙られんよりは」と、
関が原合戦からは家康に加担し、豊臣の血を絶やしている。
『梵瞬日記』や『東武実録』には、
 「寧々が故秀吉の未亡人でありながら裏切って、家康から改めて河内一万六千石を貰ったのは奇怪」と出ている謎もこれなら解ける。
 しかしケチな家康は約束を守らずほおって置いたので「早く約束を果たせ」と催促がうるさかったため、
「うるさきばばあめっ」と持て余したという逸話が残っている。
 つまり英雄秀吉も伝説とは違い女運は良くなかった。
しかし男として性器短小なのが秀吉のような英雄になれる条件だというのは判る気がする。