新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

当世不倫と歴史の考現学 東出昌大と唐田えりか 泉洋人首相補佐官と大坪寛子内閣官房審議官

2020-02-25 09:21:41 | 新日本意外史 古代から現代まで

当世不倫と歴史の考現学
 
マスコミ、テレビでは不倫騒動といっても過言でない程、連日の報道でダルくなる。
テレビ局に対して「お前たち、それしか能がないのか」と言ってやりたい。
東出昌大と唐田えりか。泉洋人首相補佐官と大坪寛子内閣官房審議官。
東出は妻杏の妊娠中からの不倫で大パッシングにあっている。
傲慢で悪相、子役崩れの坂上忍が仕切るテレビの「バイキング」では、イエスマンの漫才屋や賞味期限の切れた俳優やタレントを雛壇に並べて壮大な茶番劇。
これはまさしく報道番組でも情報番組でもバラエティー番組でもない「下劣な茶化し漫談ショー」と言っていい。
己らが庶民の代弁者の如く正義の刃(やいば)を振りかざしている。そして軽薄で愚劣な正論?らしき批判と擁護を上手く取り入れ、大向こうからの批判を避けている。
誠に上手でお利口な番組である。この手の番組のMCと言われる、三白眼で下卑た宮根誠司、漫才屋の片割れ恵俊彰らは尊大な態度が目に余るし番組内容は同工異曲。
さて、生きのいい若い男と女が出会い、双方に好ましい感情が醸成されればSEXするのは当たり前。妻が妊娠中でSEX出来なければ、他に求めるのも当然。
とっくに崩壊している一夫一婦制や道徳で縛ってもやる奴はやるしやらない奴はやらない、ただそれだけの事。これらの現象は動物生態学ではとっくに証明済み。
タレントや役者がやれば大騒ぎするが、市井では日常茶飯事で、三角関係の陰惨な事件は多い。国民の金で運用されている電波を使って、下らぬ他人の秘め事を暴くのは辞めろと言いたい。
「臍から下に人格はない」という通り、勝手にやらせておけばいい。
ただ、泉洋人や大坪寛子の場合は「公務員」である。質素倹約を旨として公務に弁ずる公務員、などという言葉は死語になったが、こ奴らは「市中引き廻しの上流罪処分」が順当。
何故なら、他人(国民の税金)の金で豪華なホテルでSEX三昧だから、国民をなめ切っている。
さて、こんな下司人間のケツの始末話を書いていると萎えてくるので、昔の壮絶な「女の性欲は男に劣らない」という物語を史実から掘り起こしてみましょう。
   
         織田信長の伯母
     (三人の夫を持った情愛深い女の物語)
 これは徳川家の史料『当代記』にもでている、確定史料のある話である。
信長の父、織田信秀の妹で美濃岩村城へ嫁に行き「尾張御前」と呼ばれていた女人がいた。
夫が長生きしていれば問題は無いのだが、先立たれてしまった。
ところがこの岩村という所は、武田信玄のいる甲州からの出口の要所に当たっていた。
 そこで武田信玄は、お悔やみを述べる使者として、甲府のつつじ館から秋山伯耆という者に、甲斐絹の本場だから、絹布など持たせて見舞いにやった。
勿論、未亡人になったばかりの彼女を慰めるためだから、厳つい鬼おもひしぐような豪傑をやるはずはない。
まあ女性好みのしそうな者を信玄は選んでやったらしい。
   
         武田信玄の深謀作戦
 
 「このたびは、さぞかしお力落としでしょう」などと秋山は優しく尾張御前を慰め、何日も逗留しては彼女の相談ごとにものったりして、好印象を残して戻ったらしい。
そのうちに織田信秀が死んで、信長が尾張の跡目を継いだ。信長も二十七歳になっていて、桶狭間で今川義元を討ってからは、形勢を挽回するが、それまでは
今川義元が廻してよこす松平衆に攻め続けられ苦しい状況だった。
 だからこの時、突如として武田信玄から軍勢を差し向けられた岩村の尾張御前は驚き狼狽し直ぐさま信長に救いを求めた。
しかし「今はとてもそんな余裕もなく、手が出せませぬ」ということなのか、信長から何の返事もなかった。
そこで尾張御前は、当時のことなので鎧に身をかためて兜を被り、城楼から取り囲んでいる武田勢を眺めていると「あいや・・・お懐かしや」
眼下へ馬を近づけてくる者がいる。見れば秋山伯耆である。
これには尾張御前も地獄で仏にあったようなもので、すっかり喜び愁眉をひらいた。
だがそこは女人のことなので、思わず体を乗り出して、恨めしげに秋山に対して「何で不意打ちに攻めてござったぞ」と詰問するような咎めかたをした。
 すると秋山は「・・・・主命でござれば」済まなそうに口にした。
そうきかされると、軍律厳しきなかなれどこれが見捨てておかれよかと、尾張御前は、
「城の耳門(くぐりもん)を開けるによって、中へ入りや。立ち話もかなうまい」
すぐさま番衆にいいつけ、大手門わきの潜り戸を開けさせたところ、秋山伯耆一人のつもりだったのが、次々と糸の様に繋がって後から続いて入ってくる。
 咎めだてすれば「秋山が家来でござる」「共でありまする」というから、城の番衆とて止めようがない。
その内勝手に、大手門の閂を何人もでかかって引っこ抜くと、ギイッと引開けて、そこへどんどん竹田勢が入ってきたから、あっという間もなく岩村城は無血占領されてしまった。
さて、この時の武田信玄からの伝言というのが、なかなか思いやりのあるもので、
「それ、男子というは、一人のみにては常時に用いがたく候わば、後二名を差し遣わし申し候」というので、やはり信玄供廻りの中から選ばれた座光寺三郎、
大島勘解由という二名が又岩村城へすぐ差し向けられた。
(注)男はセックスの際、一度射精すれば、生理的にも中々二度、三度ととは行かないものである。しかしこれが後に二人も控えていれば女としては連続した濃密な行為が持続され、
おおいにセックスを堪能できるという意味である。大英帝国のエリザベス一世も夜な夜な屈強な男を、とっかえひきかえ寝室に引き入れ、
愉しんでいたというが、ナイトを格好良く騎士の称号として美化しているが、何のことはなく「夜専用、セックス御用男」なのである。
 
 尾張御前が引見すると、この二人たるや秋山伯耆に比べても、勝るとも劣らぬ男ぶりである。
なにしろ男も綺麗な女に弱いものだが、女だって同じ人間だからなんら変わりは無い。
女城主の尾張御前が、こうしてメロメロになってしまえば、信玄の戦略は大当たりで、もうここに兵を置くことはなかろうというので、信玄は他へ転戦させるため軍をひいてしまった。
そして勿論岩村城は武田方のものになった。
      信長、伯母の行為に大いに困惑す
 
 さて、このまま何事もなく過ぎてゆけば、尾張御前は幸せいっぱいだったろうが、又しても岩村城に危機がおとずれた。
武田信玄の生きていた頃は、信玄が恐くて、織田信長は大人しく、その末のほうの子供の源三郎を伯母の養子にするという名目で岩村城へ送り、
岩村ではこれを甲府へ送って信長の人質とみていた。(天正十年六月二日に二条城でその兄の織田信忠と共に爆死した御坊源三郎である)
しかし信玄が死ぬと、信長は待ってましたとばかり、岩村城に対して使者を送り伯母へ、
「伯母上、我らは肉親で御座れば、血は水よりも濃しのたとえもあれば・・・・・」と、すぐ武田方と手を切るように求めた。
 だが三人の夫は、こういう時のために、武田信玄が付けていたのだから、口をそろえて「とんでもない」と反対した。こうなると、
「伯母殿といえどもほうってはおけぬ」そこで信長は、家臣の川尻与平らを先陣に出し、信長の跡目の信忠に岩村城を猛攻撃させた。
が、尾張御前は「三人の夫を庇うためには是非もなや」と濃茶威しの大鎧に身を固め薙刀をふるって寄せ手の真ん中へ突撃した。
 
  尾張御前の男に対する激情
   
 織田方にしてみれば、信長の父の妹にあたる尾張御前ゆえ、どうしても気兼ねして討ち取ることが出来ない。
そこをつけこんで、この尾張御前という女人は、日に何個も織田方の名のある武者の首を取って鞍につけ引き上げたという。
 これには寄手の織田信忠もすっかり閉口して「和議」を提案した。
尾張御前も「三人の夫さえ助命してくれるものなら」と同意した。
ここのところを、『信長記』では、
「十一月二十一日、秋山、大島、座光寺、御赦免の御礼を申し上げに城外へ出たところを捕らえられ、濃州岐阜の長良川原へ」
と出ている。尾張御前も一緒に出てきたところを、これは長良川ではなく岐阜城内へと連れて行かれた。
 信長にしてみれば肉親の伯母であるから、まさか殺す気はなく、まあ、尼寺へでも行ってもらおうという腹だった。
処が、尾張御前はまなじりを吊り上げ「この身を殺せ。が、三人の者は助けよ」と絶叫して止めなかった。
 そこで信長も「お助けしようと思っているのに浅間しや」腹を立てて庭先へおろしたが、それでもなお尾張御前はひるまず、大声をはりあげ、
「三人の者を川原から無事にここへ連れて来や」とわめき続けた。
 そこで信長が激怒し、自分で打ち刀をとって何度も斬ったが「・・・・・まだ三人は参らぬか・・・・早ようよべ」と
血を吐きながら夫たちの名を呼び続けた。
 これにたまりかねた近習の者が、耳の傍へより「お三人ともすでに長良の川原で張付けにかけられ、最早絶命されてござりまするぞ」
と教えてやったところ、尾張御前も「なら、この身も遅れずついてゆこう」と、ようやく息を引き取ったという。
『当代記』では、天正三年十二月の条に、
「信長自身これを切り給うに刀切れずして死にかねられるとかや、もとよりこれ業物なり」と、
尾張御前に対して「不死身」という表現までしている。
 何度切られても、その安否を気遣って、男の為に精神力だけで頑張ったというこの「崇高な愛の物語」は外国にも珍しい。
これはもっと評価されても良いのだが、夫が三人ではまずいのか、誰もこの話は書いていない。



ノルマンデー上陸作戦の考察

2020-02-22 18:43:45 | 新日本意外史 古代から現代まで

ノルマンデー上陸作戦の考察

プロローグ
ルントシュテット(西方総軍総司令官)とロンメル(西方総軍B軍総司令官)この二人の司令官は当初はカレー上陸を信じていた。
ヒットラーも国防軍最高司令部もカレー上陸を信じていた。
何故なら連合軍の諜報機関がその総力を挙げた、ノルマンデーからドイツ軍の目をそらす欺瞞作戦が功を奏したからである。
この熾烈な欺瞞工作の詳細は多くの書物になり、映画の名作「針の目」にもなっている。
(ヒットラー直属のスパイが、イギリスに埋め込まれて活躍し、連合軍の欺瞞工作を見破り、ノルマンデーこそが上陸地点だと、ベルリンへ
知らせる、という内容だが、正体を知られ、イギリス官憲に殺される)
さて、以下がノルマンデー作戦に対する、ウィンストンーチャーチルの言葉である。
 「もつれにもっれた混乱ぶり、策略と対抗策、計略と背信、投降と裏切り、本物のスパイ、偽物のスパイ、二重スパイ、黄金と鋼鉄、爆弾と短剣と銃殺隊。
こうしたものが織り込まれて、にわかには信じられないほど複雑だが間違いなく真実である布地が何枚も織り上げられた」
また、孫氏の兵法には「敵に、我が軍が攻撃しようとしている場所を知られてはならない。なぜなら、我が軍が攻撃しようとしている場所が分がらなければ、敵は多くの場所で備えをしなくてはならないからだ。
備える場所が多くなれば、そのうちの一つで我が軍が戦わなくてはならない敵の兵力は少なくなる。敵がどこもかしこも備えようとすれば、敵はどこもかしこも手薄になる」がある。
この兵法を忠実に実践した連合国の勝利といえよう。
ノルマンディ上陸作戦
イギリスの欺瞞先戦に負けたドイツ軍
1941年、ソ連へ攻め込んだ「バルバロッサ作戦」はモスクワも、レニーグランドも陥落させることができず失敗しつつあった。
そして1943年3月にはロンメル元帥は、北アフリカ戦で敗退し、ドイツ本国に送還されてからしばらく療養生活を送っていた。
ロンメル率いるアフリカ軍団の構想は壮大なものだった。チェニジアからトリポリ、ベンガジ、トブルクを抜き、エジプトのカイロを占領。
イギリス軍をアフリカから追い出し、更にイラク、トルコから、ソ連の油田地帯を占領する戦略だったのである。
しかしヒットラーはこの計画に許可を与えず、戦車も燃料も航空機も兵も送らなかったため、ロンメルは北アフリカで敗北した。
後、健康が回復したせいもあり、6月にはギリシャの防衛を担当していたE軍集団の指揮官に任命された。
これは英軍によるギリシャ上陸を警戒しての人事であったが結局ギリシャに連合軍が上陸を仕掛けることは無く、その年の8月ロンメルは北イタリアを防衛するために新設されたB軍集団の指揮官に転属された。
しかし11月にヒトラーがイタリア戦線全般の指揮権をケッセルリンクに与えたため、B軍集団の担当地区は北イタリアから北フランスに変更された。
ロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動し、ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。 
ロンメルは着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察し、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然とする。
連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。
その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。
ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事が分かっており、
その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であると知っていた。そのためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で迎撃する事を主張。
上陸第一日が防衛軍にとって「最も長い一日(Der langste Tag)になる」と訴えた。 
しかし、西方軍総司令官のルントシュテット元帥は英米の航空戦力の脅威を正確に評価せず、連合軍を上陸させた後に装甲師団で叩く戦術を主張し対立した。
ルントシュテットは敵航空戦力が弱体な東部戦線の経験しか持たないが、ロンメルはエル・アラメインでの敗北により、航空兵力が戦況の鍵を握る事を知っていたのである。
結局ロンメルは水際での攻撃を主張したため装甲師団は前線の近くに配置されるべきだと主張し、対するルントシュテットは連合軍による空爆による被害を避けるためにもより後方に配置されるべきだと主張し、
両者とも譲らなかった。 
こうした将軍同士の対立の中で準備が進められた。ロンメルは自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、
地雷を山ほど埋設して連合軍の上陸に備えたが6月の時点ではまだまだ十分ではないと考えていた。そして、D-Dayこと1944年6月6日、
連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行される。航空部隊の支援が制限される雨季に上陸する可能性は極めて低いと考えられていたため、
不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っていた。このためロンメルは軍団を指揮することが出来ず、
ルントシュテットの作戦により連合軍の制空権下で味方の装甲師団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来なかった。 

叩き上げの軍人ロンメルの悲哀
短期間に中佐から元帥にまで昇進したロンメルは、軍人の閥族を軽蔑していた。
 ロンメルは、テーブルの向う側でブランデーを嘗めているグデリアンに鋭い視線を送った。きょうグデリアンは、随伴のフォソーガイェル将軍とともに、この北フランスの
リ・ロシューギョンにあるロンメルの司令部へ、兵力展開の指示にやって来ていた。この種の訪客に対してロンメルは、いらだちから激怒までのさまざまな不快の反応を見せるのが常だった。
参謀本部というものは、彼の見解によれば、信頼できる情報と軍需資材を遅滞なく前線に川けることこそが任務であるべきにもかかわらず、彼のアフリカ戦線での経験でも明らかなように、
それすら満足にやれないのだ。
ハインツーグデリアン将軍との会談が口論に終わるだろうことは、エルウィンロンメル将軍には最初からわかりきっていた。
 グデリアンは、ロンメルが嫌っている典型的なプロシヤ貴族タイプの男だ。両人は以前から知り合っており、ロンメルは、さきに敗色濃厚なアフリカ戦線を去るに当って、
自分の後任としてひそかに彼を推薦したことがあるが、この裏工作は、当時ヒトラーがグデリアンに好感をもっていなかったことから相手にされなかった。
この当時トルコでは、英軍が、トルコ軍との連携のもとに、その第九および第十軍をギリシア国境へ展開し始めており、ユーゴではパルチザンも集結しつつある。アルジェリアでは、
フランス人部隊がリビェラで侵攻を準備中であるし、ソ連軍は、スエーデンに対して水陸両面からの侵攻を企図しているように見受けられる。イタリア戦線の連合軍は、口ーマ進撃の態勢にある。
 以上のほか、小規模な動きとしては、クレタ島での将官誘拐事件、リョンでのドイツ情報将校殺害、ロードス島のレーダー基地攻撃、アテネでの航空機破壊、ブーローニュ・シェル・セーヌの
酸素工場爆破、アーデンの列車転覆事件など、ほかにも数かぎりなくドイツ軍に対する破壊活動が頻発していた。
 このように、状況はきわめて明白、つまりドイツ軍の占領地域で各種の妨害工作や破壊活動が激化しており、ドイツ軍との境界線では、いたるところで進攻作戦の準備が進められていた。
ドイツ参謀本部では、この夏に連合軍の大規模攻勢があることを疑う者はなく、各所で頻発する小事件は、攻勢の日標地点をわが方に察知されないための偽装工作との見方で一致している」
グデリアンはここでひと息ついた。彼の訓辞調の話しぶりにじりじりしていたロンメルは、すかさず口をはさんだ。
 「だからこそ、参謀本部がそういう情報を総合・分析し、敵の行動を予測するのを、われわれ前線部隊では期待している」
 グデリアンは、苦笑をうかべてつづけた。「そういう予測には、おのずから限度というものがあることも認めなくてはならない。そこで、貴官には貴官なりの敵攻撃地点の予測があって然るべきだし、
われわれにも勿論それがある。だが、戦略は、その前提となる推測に誤りのある可能性も考慮して検討されなくてはならない」
 回りくどい話し方だが、グデリアソの論点はもうロンメルには読めていた。彼は、どなりつけたい衝動を押さえていた。
 「貴官の指揮下には四個の機甲師団がある」グデリアンはつづけた。「さきにフォン・ガイエル将軍は、これら機甲師団を海岸線から内陸部へ移動させ、必要の際、
直ちに敵攻勢に対する報復に出られる態勢に置くよう貴官に申し入れた。これはわが軍の基本方針に基づく戦略であるが、遺憾ながら、貴官は、この提案に従わなかったのみか、
かえって第二十一機甲師団を大西洋岸へ移動させ……」「いや、残りの三個師団も」ロンメルはとうとうこらえきれず、まくし立てた。「早急に海岸線へ移動させる必要がある。
いったい、貴官たちはいつになったらわかるのか?制空権は、完全に連合軍に握られているのだ。いったん敵の上陸進攻が開始された場合、わが機甲部隊の動きは英空軍に封じられ、
機動作戦はまったく不可能になる。貴官らがやたら大事がる機甲部隊は、それがどこにいようと、連合軍の進攻時にいる場所から動けなくなるのだ。経験上、私は、それをよく知っている。すでに二度も経験ずみだ。
機甲師団に予備機動部隊の役目をさせるなどということは、それ自体を無用の長物化することでしかない。敵進攻に対する戦術は、敵が最も攻撃に弱い上陸時に、水際でたたいて海に追い落とすにかぎる。
いったん上陸を許して橋頭堡を確保させたならば、反撃などもってのほかだ」ロンメルは、いくらか憤懣の色を和らげてさらにつづけた。
 「すでに私は、水際に水面下の障害物を設け、海岸防壁を強化し、地雷を敷設した。さらに、内陸部の牧場で飛行機の着陸に使われる可能性のあるものには、すべて着陸妨害用の杭を打ちこんだ。
現在麾下の部隊は、戦闘訓練以外の時間には全員塹壕掘りに従事している。
 私の指揮下にある機甲師団をすべて海岸線へ移動させるのは当然であり、そのほか、ドイツ国防軍の予備兵力をフランス領内に再展開することと、
東部戦線の第九および第十SS師団を西部戦線へ復帰させることが急務である。
わが軍の戦略は、連合軍に橋頭堡を確保させないため、すべてを傾注するものでなくてはならない。いったん敵にそれを許したならば、迎撃作戦はおろか、この戦争に完敗することになりかねないのだ」
 グデリアンは、冷やかな笑みを浮かべて身を乗り出した。「貴官のいわんとするところは、北はノルウェーから南はイベリア半鳥を回ってローマまで、
全ヨーロでの海岸線を防禦することと同じだが、いったい、それに要する兵力をどこからもってくればよいのかな?」
 「そんな質問は、七年前の一九三八年にすべきだったんだ」と、ロンメルはつぶやくようにいった。かねて政治的な発言をしないロンメルにしては、めずらしいことだった。
 それを間いて、グデリアンとフォン・ガイエルはギョッとした感じで口をつぐんだ。
 やがて、フォンガイェルが沈黙を破った。「では、元帥は、敵がどこを上陸地点に選ぶと思われますか?」
 ロンメルは、ちょっと考えてからいった。「以前は私もカレー説を信じていたが、前回総統との会議の折、総統の主張されたノルマンディ説に感銘をうけ、その後ノルマンディ説に変った。
総統の直感は、過去の事例をふり返ってみるときわめてよく当っている。そこで私は、わが機甲部隊はノルマンディの海岸線へ移動すべきだと主張する。ただし、そのうちの一個師団はソンム川河口に展開し、他の
軍団の支援をうける」グデリアンは、首を横に振った。「いや、いや、それはあまりにも冒険すぎて、問題にならない」
 「では、直接ヒトラー総統に私から進言してもいい」「貴官が総統に進言するのを止めはしないが、私は、それに同意できない。ただ……」
 「ただ何?」ロンメルは、グデリアンがことによると譲歩するのではないかという感じをうけ、内心むしろ駑いた。グデリアソは、しぶしぶさきを続けた。「貴官も知って
のことと思うが、総統は、目下英国内にいるきわめて優秀な密偵からの報告を待っておられる」「それは私も覚えている。ディーナデルとかいったな」
 「そのとおり。この密偵は、束部イングランドにある米パットン将軍指揮下の米国第一軍団の兵力調査を命ぜられている。もし彼から、同軍団の兵力が強大であり、
かつ発進態勢をととのえているとの報告があれば、遠からずそういう報告があると思うが、当然ながら貴官の主張を容れ機甲師団をノルマンデーへ移動させよう」
こうしたロンメルと上部司令部の対立の為、連合軍の上陸後やっと機甲師団がノルマンデーへ向かったが、制空権のないドイツ軍は橋頭堡を作られ、上陸は成功した。
(当時ドイツ軍の配置)
ロシア戦線  歩兵師団 122
       機甲師団 25
       その他 17個師団
イタリアおよびバルカン半島
       歩兵師団 37
       機甲師団 9
       その他 4個師団
西部戦線   歩兵師団 64
       機甲師団 12
       その他 12個師団
ドイツ国内  歩兵師団 3
       機甲師団 1
       その他 4個師団
ドイツ軍は、敗戦濃厚になった、この時期でさえ歩兵師団243、機甲師団37も維持していたのである。
その西部戦線の機甲部隊十二個師団のうちノルマソディ海岸にいるのは一個師団だけだった。SS部隊の精鋭二個師団も、それぞれツールーズとブリュツセルに駐屯したまま移動する気配がなかった。
この虎の子の師団がノルマンデーへ移動したのは、連合軍が上陸し、橋頭堡を築いた後であった。
が、制空権を握られたドイツ軍は(戦闘機による爆撃や機銃掃射が激しく、ドイツ軍は彼らを「ヤーボ」と呼んで非常に恐れた。後にロンメルも機銃掃射により負傷)
時すでに遅しで、以後連合軍はベルリンまで進撃し、ドイツの降伏で終わる。

  


敵は本能寺 第五部 旗印と旗指物の意味

2020-02-13 12:01:08 | 新日本意外史 古代から現代まで
敵は本能寺 第五部  

旗印と旗指物の意味


 とは言うものの、なにしろ、
「本能寺を襲った者は、それは明智光秀」 という定説が一般化してしまっているから、語句の上の注釈で、私がとやかく言ったとしても、詭弁を弄しているようにとられるかもしれない。また、
その危険性も充分にあろう。
 だから、私は話を反転させて、今日まで<真実>として伝わっているように、「明智と見受けた」という、一つの仮定のもとに、立ってみることにする。
 さて、当時の習慣では、主人が存在する事を示すためには「馬印」を立てる。そして相手方に対して、その責任の有無をはっきりさせる筈であり、これが定法である。
そこで<明暦版の「御馬印武艦」>によると、「あけち、ひうかのかみ」は「白紙たて一枚に切目を入れた旗もの」とある。
 これが<總見公武艦>にいうところの、「白紙のしでしない」である。
 これは神棚にあげる神酒の壷にさす、鳥の羽の片側のような物、つまり白紙の左耳を袋状にして竿に通し、右側に切れ目をずうっと入れ、
風にはためくようにしたもので、風圧を受けるから貼合わせなしの一枚ものである。当時の寸法として計れるのは<美濃紙縁起・日本紙業史>によれば、
 手漉きの枠が30センチから70センチ幅が最高だったというから、美濃全紙を用いたにせよ、およその形体は想像できる。
勿論、このサイズは、眼の前に拡げた大きさであるから、本能寺のような周囲が1.2キロ平方であれば、信長のいた客殿を中央とみても、これに築土外の堀割1メートル80を加え、
やはり600メートルの距離ともなるから、これは、「遠見物体に対する被写距離計数の算出法」という旧日本陸軍の「砲術操典」の測定法に従って計算すると、
縦1メートルの物でも600メートルの間隔で割り出すと3センチ弱にしか視えないとある。
 ところが、である。
 これは視界が良好な、晴天の太陽光線による肉眼識別のものであって、
(「ようやく夜も明け方にまかりなり」で、京都へ入ったところ、「すでに信長公御座所本能寺を囲み居る」)といったような、午前三時から四時と推定される刻限において、
はたして肉眼で、その3センチ弱が、視えるだろうか。
<高橋賢一の「旗指物」>によると、
「水色に桔梗の紋をつけたる九本旗。四手しなえの馬印。つまり旗の方は『水色桔梗』といって、紋自体が青い水色をもち、むろん旗の地色も水色だった。
これは『明智系図』といって、光秀の子で仏門へ入った玄琳が、父の五十回忌に編したものに出ているので間違いない」とある。
純白の馬印さえ見えない時刻に、水色の桔梗の旗が見える筈も、これまた考えられない。
 さて、うっかり全文を引用してしまったから、ついでに解明しなければならないが、光秀の男児は二名しかいない。
 それなのに、この『明智系図』というのは<鈴木叢書>に所収のもので、寛永八年六月十三日に、妙心寺の塔頭にいた玄琳という坊主が、喜多村弥兵衛宛に差出したものとあるが、
これでは実子だけでも男子六人、女子五人となる。子福者になっている。そして作者は己を光秀の伜にしてしまい、姉の一人などは、
講談で大久保彦左と渡り合う隣家の川勝丹波の奥方にしているし、弟の一人を(筒井伊賀守定次養子、のち左馬助と改め、坂本城にて自害)としている。
が、俗に明智左馬助というのは、狩野永徳の陣羽織をきて「湖水渡り」で有名な講談の主人公である。
実在の明智秀満の方ならば、これは明智姓でも光秀の娘婿で、その実父の三宅氏は、「天正十年六月十四日に丹波横山で捕えられ、七月二日に粟田口で張付柱にかけられて殺された」
と<兼見卿記>に記載があり、<言経卿記>には、「その年齢が六十三歳」とまで明確にされている。
 つまり高橋賢一は「間違いない」と言い切るが、「明智系図」や「明智軍記」といったものは、なんの真実性もない「為にするためのもの」であって、資料にはならないものである。
こういうのを資料扱いされては困る。
 なお、この寛永期というのは、明智光秀の家老斎藤内蔵介の娘の阿福が春日の局となって権勢をふるい、その寛永六年十月十日に後水尾天皇に強訴をして、翌月八日、
堪りかねた帝が、徳川秀忠の娘の東福門院の産んだ七歳(又は二歳)の女一官に帝位を譲られたりして、物情騒然としていた。そして、これから二十八年後の明暦二年。
つまり由比正雪の謀叛騒ぎがあって五年目に、玄琳の俗世の時の伜というのが、やはり妙心寺にて得度し、密宗和尚というのになる。
さて、この人は、自分は光秀の孫だと、
「明智系図」の代りに「明智風呂」というのを、妙心寺の本堂参拝道の脇に建てた。
三十坪ほどの豪勢な桧造りの蒸風呂である。これに参詣人の善男善女を入れて、おおいに明智光秀のPRを、その当時はしたようである。
 現今のトルオ風呂、サウナ風呂のようなものであるが、今は閉め切った侭である。京都駅から車で二十分程のところの花園に現存している。
 さて、こういう時日は、玄琳にしろ密宗にしろ、事実上はなんらの血縁がないにもかかわらず、
「謀叛人と定説のあった光秀の子や孫だ」と自分から宣伝するのは訝しいから、もはや、この時点では、
「光秀無関係説」が一度は、一般に流布され、事によったら慰藉料でも出るような噂があったのではあるまいかと思われる。これは後でも説明する。

 さて、である。動物と違って夜目のきく筈もない森蘭丸の目玉に、どうして、まだ暗く、夜の幕もあけていないのに、そんな保護色めいた水色桔梗の旗や、
ペラペラした紙ばたきみたいな馬印が、識別できたというのであろうか。
 まがりなりにも「明智の手の者」とか「明智が者」と見受けたというからには、一体彼は何を視たというのだろう。現在ならば、こうした視野のきかない時には、
超赤外線望遠レンズというのが、国庫援助で、コダックで開発されているそうだが、当時のドイツは、免罪符騒ぎである。
カール五世陛下はレンズ事業などは知ったことではなかったろう、と想像される。だから、そんな便利な望遠鏡はまだ発明されず日本へも輸出していなかったろう。
 それに、この本能寺包囲という限定状態は、どう考えても合戦ではない。だから源平合戦や当今の選挙運動のトラックみたいに、まさか、「明智党公認の○○が、ご挨拶に参りました」
とは、声もかけなかったろうし、連呼もしなかったろう。
 そうなると、目からは視えず、耳からは聴こえずである。あとは臭覚の鼻であるが、本能寺に信長は軍用犬をつれてきている形跡はない。
シェパード種は嗅覚がすぐれている点で警察犬にも採用されているが、当時は、今のように犬屋がなかったから輸入されてもいない。もし本能寺自体に飼犬がいたとしても、
これは日本犬であろう。そうなると、お人好しの忠実さしか取柄のない純日本犬のことだから、人間のお伴をして焼け死んだぐらいが落ちで、とても外部の偵察などはしてない。
 また信長は、鷹によって鳥をとるスポーツが好きだったから、鷹匠の名前は<信長記>の、この時の一行には見えないが、一人ぐらいはついてきていたかもしれない。
だが、鷹や雉が空をとんで「ご注進」とやるのは、あれは「桃太郎」の譚である。
 するとである。眼で視えずに耳に入らず、臭いも嗅げない状態で、まさか手さぐりに撫ぜもしない寄手の実体を、どうして森乱丸は判別したというのだろうか。つまり、
これは識別したというのではなく、当時の常識によって、もし答えたものなら勘だろう。
 なにしろ‥‥
 当時、関東派遣軍は滝川方面軍は上州厩橋。
 北陸方面軍の柴田勝家は富山魚津で攻戦中。
 中国方面軍の羽柴隊は備中高松で功囲中。
 四国派遣軍の丹羽隊は住吉浦から出発準備中。
 指を追って数えていけば、どうしたって兵力を集結して、まだ進発していないのは中国応援軍の明智隊しか残っていないということになる。
 だから引き算をして、そこで差引きして残ったのを、「明智が手の者と見受けられ候」と答えたのだろう。
という「原本信長記」の一章ができ上るのである。そして、この言葉の用法は、今でも「~さんと見受けますが、違いますか」
といった具合に、必ず後にダブドがつき、?の疑問符をつけて、これは使用される。
 だから、<信長公記>の方でも、「明智が者を見受けられ候も、しかと分別仕つれず」というニュアンスを残している。
 つまり「如何でございましょう」という疑問なのだから、これに対して信長自身も、「そうか。そうであったのか」
などと肯定もしていなければ、「まさか」と否定も、していない。
 ここの一節が(信長殺しは光秀か)どうかという分岐点になる微妙なところである。
 しかし、講談や、それに類似した娯楽読物では、「花は紅、柳は緑」といった発想で、(信長殺害犯人は光秀)という純な決めつけ方で、判りやすくというか、
読者に反撥を持たせないように媚びてしまって、ここを脚色し、「おのれ、光秀め、よくも大恩ある、この信長に対して」と、はったと戸外を睨みつけ
「おのれ、無念残念、口惜しや‥‥」と作っている。だが現実は、そうはゆかない。
 いくら考えたって、そんな事には、なりはしない。いくら首をひねっても、とても変なのである。
 今の時点では「光秀が信長を殺した」というのが、一般大衆に植えつけられてしまった定説であり、常識であるが、この<信長公記>が筆写された寛永期というのは、
「明智系図」の説明でも触れたが、「光秀は信長殺しではない、寃罪であった」というのが、その時代では常識であり、定説になりかけていたのだ。
でなければ、何も玄琳なんて坊主が、わざわざ大金をかけて、総桧造りの銭湯ぐらいの広さのある蒸風呂を、山門の入口に建てて、参拝人に入浴させ、
これを「明智風呂」と命名し、「何を隠そう、私こそは」と、天一坊になって、儲けを企む筈はない。また、「明智系図」だって、まさか素人の坊主の玄琳には作れっこないから
(現代でも、泥棒のとってきた品物を売り買いする商人を「故買屋」つまり「けいずや」というが、その専門である系図屋の、源内のような専門技師に頼んで、
相当の銀を払って何通も贋作してもらって、これを諸方にばらまいたのか、理由を考えればわかる。
 そもそも坊主というものは、古来「坊主まる儲け」といわれるくらい、取るものはとって懐へ入れても、出す物は紙一枚でも惜しむとされている。
それなのに玄琳や、その伜の密宗が、現在の観点からみれば、おかしいみたいに、「私こそは、謀叛人で主殺しの、光秀の忘れ形見であります」と、
わざわざ、そうでもないのに名乗りを上げ、貰い溜めた銀を惜し気もなくばらまいたというのは、この寛永七、八年に、京では「光秀に贈位の沙汰が出て、その遺族には特別の沙汰」
という評判が相当にあったものとみられる。
 今でも「ブラジルで死んだ一世の遺産」など新聞記事が出ると、「我こそ、その縁者である」と無関係な者まで名乗り出るのと、これは同じケースのようだ。
 つまり、寛永期という17世紀は、「光秀は信長殺しではなく、故人の供養料として、遺族には慰藉料として、莫大な恩賞か、位階の褒美がいただける‥‥」
といったような風評のあった時代だったらしい。
 だから、「信長公記」を、売本にするため、せっせと筆写する人間も迷ってしまって、是とも非とも書けぬままに、ここは徹底的にボカしてしまって逃げをうったのらしい。
 でなければ、
「明智が(手の)者と見受けられ候」に対し、「是非に及ばず。と信長が上意候」というのでは、ぜんぜん文章が繋らないのである。
 なぜ、(是非に及ばず)なのかも判らない。ふつう私共が、この文句を使うのは、
いよいよ万策尽きはてて、なんともならない最後の時のこれは終局語である。
 それなのに、この場合は、あべこべに冒頭に用いられている。
 だから、後年になると「明智と名を聞いた途端に、是非に及ばずと、すぐ観念してしまうからには、信長には思いあたるものがあったのだろう」と、揣摩臆測されて、
後述するように、光秀怨恨説が四十近くも作られてしまう。
 しかし、本当のところは、「是非に及ばず」と信長が言った事にしてあるのは、筆写者自身が、原作と世評の板挟みになってしまい、途方にくれて、
自分自身が(是非に及ばず)と、こう書いたものと、私は考えている。また。それしか想えようもない。



敵は本能寺 第四部 奇怪

2020-02-10 11:51:31 | 新日本意外史 古代から現代まで
 敵は本能寺 第四部
 
       奇怪

 
 攻め寄せてきたといわれる一万三千の丹波衆の軍勢も訳が判らないが、攻められたと称せられる信長の方も、常識では、てんで理解に苦しむものである。
 これまでの小説、映画、テレビのどれをみても、白綸子か白絹の寝間着を着たままで、かなわぬまでも必死に敢闘精神を発揮し、やがて傷つき、力尽き、「さらば、これまでである」と、信長は一室に入って、心静かに切腹するような具合
になっている。
 また、読む側も見る側も、これに対して何らの疑点を抱くこともなく。いと素直に、そのままで受け取ってしまい、
「信長というのは強い男だった。だから、おめおめ座して敵の手に殺されるような事はあるまい。かなわぬまでも弓を引き、槍をとって戦い、そして潔よい最後を遂げたであろう」としか想わないようである。後で原文は引用するが、これは<信長公記>
の巻末の(その十五)に、「信長公、本能寺にて御腹召され候こと」というタイトルで載っているものの、これ皆焼き直しである。
 筆者の大田牛一というのは、尾張の人間で、信長の祐筆で、今でいえば、秘書課勤務のような人間だった。そして、まさか彼が臆面もなく、あつかましくも書いたものとも想えないが、その第十三の巻頭に、
「本記事に、一点の虚飾なきを誓い、除く箇所もなく、また書き添える部分もない」と、はっきり「不除有」「不添無」といった、ことわり書きさえつけられている。と、大正十一年刊の<尾張の勤王>には明示されている。
 (人間の社会では、尤もらしい事をいうやつは、あらかた嘘つきで腹黒い人間だし、尤もらしい話こそ、それは、みな、デフォルメされた眉唾ものでしかない)
と、私なんかは、これまでの人間関係で蒙った被害体験からして、「巧言令色それ仁すくなきかな」とは思う。だが、普通の人は疑うよりは信じる方がきわめて楽だし、それに手軽だから、ついこれを、さも信頼できるもののような受取り方をしている。
ひどい人になると「大田牛一も信長の家臣の端くれだから、本能寺へ伴して行っていて、その最期まで身辺近くにあって、立ちあって書いた、これは記録ルポである」と、その著書に説明しているのもある。びっくりさせられてしまう。
  そして現在のようなマイホーム時代になると、この本能寺の場面に、美濃御前までが現れてくる。テレビなどでは、お濃の方をつかまえて信長が「コイ、コイ」という。だから、花札賭博でもやるのかと興味をもって視ていたら、どうやら、それは、呼び名を知らずに間違えたらしく、本能寺では夫婦共働きの敢闘ぶりをみせ、死んでしまう浪花節調になっていた。後述する話だが、その当時にあっては、最初に「信長殺し」の真犯人として扱われていたのは、他ならぬ、この美濃御前こと奇蝶であったのである。
さて、これも後で詳しく説明するが、当時本能寺で包囲されていた信長の一行で、生きて脱出した者は一人もいない。なにしろ、まる三日間にわたって百にも及ばぬ黒焦げ焼死体を、血眼になって検屍しても、信長の遺体が判らず、大騒動したと<言経卿記>や<兼見卿記>にもあるくらいだから、瞬間的に全部がふっ飛ぶか、すごい高熱で白骨化されているのである。
 黒焦げや生焼け程度なら、仔細に検分すれば、鑑別もまだつく。腹を切ったり、小姓が介錯をしているならば、どの遺体が信長かは、誰が見てもこれなら直ぐにも判った筈である。
  それに、もし、それが普通の出火なら、周囲を囲んでいた一万三千が、すぐ消火に築土をかけのぼって入り込んでいたであろう。なにしろ全部焼けてしまっては、まるっきり元も子もないからである。それに、当時の事だから、消防自動車や消火栓はなかったろうが、一町四方の本能寺の周囲は、2メートル幅の濠があって、連日の降雨で溢れていて、防火用水には、こと欠かなかったはずである。
 それなのに火力が強く濠を越して四方の民家に類焼させている。といって、この場合どう考えてみたところで、一万三千の寄手が、砦や城攻めではあるまいし、お寺にすぎない本能寺を持て余して、包囲後三時間半もたってから火攻めにして片付ける筈
もない。今でいう「不審火」。どうしたって、これは寄手からすれば意外な火の筈である。だったら寄手は驚いて飛び込んで、水をかけたり、筵で叩き消しにかかっているとみるのが、それこそ常識というものであろう。
<吉川太閤記>では、茶碗屋の阿福が、無事に茶碗を抱えて脱出してくるが、あれは話を面白くするためのフィクションである。また、大田牛一が、このときルポライターとして同行していることなどもあり得ない。だいたい、有名人に報道部員やカメラ
 マンが随行するのは、これは新聞や週刊誌ができてからのことで、400年前には瓦版といった木版の印刷物も、まだまだありはしなかったのである。
 もともと大田牛一は織田の臣である。
だから、信長に伴していた小姓達や、その馬の口取りの仲間の名ぐらいは知っていただろう。そこで、その連中の名を組み合わせて、(かくもあろう、こうもあろう)とイマジネーションで書いたものが、「本能寺の情景画」であろう。後年、「講釈師、見てきたような嘘をつき」という川柳が江戸中期に現れるが、大田牛一は、つまり、その元祖のようなものだったらしい。
 そして、受取る側も、信長というイメージから、アッと云う間に吹っ飛んでしまったのでは面白くもない。また猛火に呑みこまれ、腹を切る暇もなく、あっけない最期をとげても、これまた、もの足らない。それではとても承知できなかったのであろう。
 だから、いわゆる死花を咲かせて、「白綸子の寝間着の侭でも、ヒュウ、ヒュウと弓をひかせて、矢継ぎ早やに何人かの敵を仕止めさせ、」そして、おまけとして「槍までふるって次々と敵を突きまくらせ」
それから肘を負傷してしまったから、「やむなく切腹」というように、納得しやすいように順々と話を追っていって、「人事を尽く天命を待つ」といった段取りにしたのではないだろうか。
 もちろん、それが事実であっても、なくても、‥‥その方が真実らしく、受入れやすいから、迎合するために、そう書かれたものであろうし、また今日まで、如何にもそうらしいと思われるから、誰も疑義を挟まず、その侭、<真実>に化転(げてん)
して伝わってきているような気がする。なにしろ「そうである」ことより、「そうだったらしい」ほうが、どうも<真実>というものにされてしまう可能性が、現実的には、極めて多いようである。
 ついでに、大田牛一の素性も解明すると、これなども現在の<富山房の国史辞典>などでは、はっきりと、
「尾張春日井郡安食村に生まれ、通称又助。近江の代官を勤め、のち秀吉に仕え、天正十七年伏見の検地奉行。その功により、和泉守に任官。のち秀吉の側室松丸殿つきとなり、慶長十五年八月。八十四歳まで生存と<猪熊物語>の奥書にあり。<信長記>の他、著書多し」ということになっている。
 ところが、木曽川を越えた岐阜には「印食上人」でも知られている「印食」というのはあるが、国史辞典に明記されている「安食」などという地名は、愛知県春日井郡はもとより、当時の尾張美濃の古書をみてもありはしない。つまり、これは「尾張万
 歳」の発祥地とされているところの、「尾張春日井郡味鋺(あじま)村」の間違いである。これは<山崎美成筆・民間時令>に、「<無住道跡考>に曰く。
 
正応五年(1292)頃より、万歳楽と号し、正月の初めに、寿(ことほ)ぎの謡をうなり、家家にて唱わしむ」と出ているような、関西の唱門師と同じ様な集団結成である。1738年の元文三
年に、尾張藩の郡代役所へ提出されている、<尾張万歳由緒書上げ書>にも、「あじま村のものは、往古より陰陽師を代々相いつとめ、村内に頭分となる家名十六人も、今これあり」とある村なのである。
 つまり大田牛一というのは、尾張万歳を神前に供える陰陽師の出身者である。ということは、信長の時代は、仏を信じる者と神信心の者が、かっきり二つに分かれていて、両者の間は、全く仇敵同志だったから、牛一のように神徒に属する者は、主取りをするのでも限定されていたという事である。
 そして、こうした地域は、別所とか、東海では院内(いんだい)といった名で呼ばれていた。
 もちろん、織田信長の出身も、<荘園志料>という古文献によれば、その中に集録されている<妙法院文書>によれば、
「越前国の八田別所」という文字が康永三年七月の記録として入っていて、その附記に、「八田別所は、越前丹生郡の織田庄の内。この地より、尾州織田家は発祥せり」とある。
 この年号は南朝のもので、北朝の興国三年つまり1242年にあたっている。
 なぜ南朝年号がついているかというと、これは妙法院という仏教徒側の記録であって、八田別所の神徒である異教徒を、加賀平泉寺の僧侶で、良寛禅師というのが、これを「はち開き」と称えられる改宗をさせ、仏徒に転向させたという功名帖。つまり
彼等の勝利の記録であるからに違いない。
おそらく信長の先祖の織田の庄の神徒は、良寛坊主が国家権力を背景に、改宗を迫ってきた時点において、越前から尾張へ集団で逃亡してきたらしいと想われる。というのは、
<群書類従>に収録されている大江匡房のものにも、「東国美濃参河遠江の神を祀る者は、徒党を組み豪貴をなす」と出ているくらいである。だから美濃と参河に挟まれた尾張だって、大いに徒党をつくって、豪貴な生活をしていた筈と想像ができる。
 だから、今でも信長の出た名古屋市には、八田、八坂の地名が、そのまま各地に残っているし、かの有名な<安国寺文書>にも、今名古屋駅のある中村の出身者の木下藤吉郎を、毛利家に対して、「さりとて藤吉郎は、八の者にて候」といった具合に扱っている。そして名古屋市自身が、その八の字を○に入れて、郷土の生んだ英雄秀吉を偲んで市章にして、現在も用いている。昔の旗印である。
  さて、信長の父の織田信秀のいた愛知県の名鉄線の勝幡(しょうはた)の城跡には、今は何も残っていないが、千葉県の香取郡小見川へ、「織田の幡」をもって分離したと伝承される織幡(おりはた)地方には、現在も遺物は残っている。
(斎藤道三に追われた土岐頼芸も、織田信秀を頼って美濃奪還に攻め込んで敗れた後、千葉の親類の許へ行き、そこの城内で眼を患って治療していた記録があるが、美濃や尾張と千葉は、戦国期には相当に行き来が、密接にあったらしい。
 さて、織幡は、古書によると「別所千軒」という異名があるくらい昔は賑やかな土地だったということで、その別所の白山権現の社殿には、高さ三十糎あまりの白山神の神像が今でも祀られている。つまり「八の幡」を祀る八幡神社と、加賀の白山信仰
の白山神社が、当時はこれら神徒側の者の信仰の二大神柱であったようである。

        大久保彦左衛門
 大田牛一の<信長公記>を「あれはあやしい」と筆誅を加えた者もいないではない。
 信長の死後四十年たった元和八年四月十一日に、原文のままで紹介すれば、
「さてまた<信長記>を見るに、偽り多し。三つに一つは事実だか、あとの二つは似たような事はあったが、まあ出鱈目か。根も葉もない嘘っぱちである」と、その著の<三河物語>で論破しているのは、大久保彦左衛門忠教(ただのり)で、ほぼ信長と
は同時代の彼は、「誤りだらけだ」とその具体例まであげているが、さて「信長殺しは、誰だった」とまでは書いていない。だから、この点においても彦左衛門の主人の徳川家康が疑惑に包まれてもくる事になる。
 しかしである。<信長記>という本は、織田信長の晴れ舞台である「桶狭間合戦」の記事さえ、あろう事か永禄三年なのに、天文二十一年と、七年も間違える程度であるし、この信長の対今川義元合戦の有様も、現在では調べもせず、鵜呑みで、そのま
ま踏襲され信じられているが、当時の彦左にすれば、まこと噴飯ものの「桶狭間合戦」であったろう。
 だから、<三河物語>を手掛かりにして、どこの三分の一が正確で、あとは出鱈目なのかと、解明する人がいてもよい筈なのだが、なにしろ彦左衛門は、後に「一心太助」という講談に引張りだされ、副主人公にされているから、ともすれば歴史と講談
を混同する傾向上、タライに乗って登城するような人間の書いたものはと、てんで顧られていない。
 それに変な話だが、「天下の御意見番、大久保彦左衛門」という講談は、徳川家の御政道讃美のPRとして、江戸期から辻講釈に出ていたのに、肝心な<信長記>の方は、ずっと年代が遅れて、明治四十四年になって初めて<史籍集覧>の第十九集に収録されて、一般には公開されたのである。
つまり江戸期においては発禁扱いの<お止め本>の流通禁止のものだったから、その<史籍集覧>の解説にも、「これ町田久成秘蔵に係る寛永期の珍写本にして、世にも稀らし」と書かれている。
<信長記>は、この町田氏が秘かに隠匿していた一揃の他には、内閣文庫の寛延三年に筆写されたという<原本信長記>と、やはり旧前田侯爵家で秘密に蔵われていた一部きりの古写本の三点しか、現在には伝わっていない。
 もちろん、この他に(總見寺本)で俗に「織田軍記」と言われるのや、類似した軍談めいたものも有るにはある。 しかし、明治四十四年刊の、<史籍雑纂>第三巻に納められている亨保年間に発表
された建部賢明の、<大系図評判遮中抄>によると、

「寛文より元禄にかけて、近江の百姓の倅にて源内なる者あり、偽って『近江右衛門義綱』と詐称し、米塩の資を得るため系図偽作を業となす。また、この者は戦国期に材をとりて、古書にみせての贋作書も多くかき、いま世人これを知らずに真実として
扱いているもの、<中古国家治乱記><異本難波戦記><浅井三代記><武家盛衰記><三河後風土記>曰く<XX軍記>など、その後、枚挙にいとまなし。<北越軍談>のごときも、源内の偽書を引用し、それを論証とするは、これ愚なり。そもそも、
この源内というは、青蓮院の尊純親王に稚児奉公中、銀製仏具を窃取し放逐されし後も、その盗癖生涯やまずして云々」とある。
 青蓮院とは以前重要文化財を執事の役僧が、無断で盗み売りしたが無罪になったというので、有名になった京都の寺である。
 さて、この「贋本つくり」の天才ともいうべき源内は、元禄戌辰、つまり1688年まで生きていて、書きまくったと伝わる。すると<町田本信長記>として伝わる一部が、寛永期といえば、それは彼が贋作生活を始めた二十六歳頃までの年号にあたるし、町田侯爵家本の写本も元禄期のものである。
<原本信長記>のごときも、それより後期の写本である。これぞ、まさしく源内の筆写でないとは、誰が言い切れるだろう。(なにしろ、こうした本は印刷されたのではなく、一冊ずつ手書きされて造本されたものである)
 もしも大田牛一自身のものならば、なんぼなんでも、大久保彦左に指摘されるように、三つに一つしか事実に符合せず、誤りだらけというのはひどすぎるから、彦左が晩年に入手して読んだものは、事によったら源内がリライトした海賊版でなかったか、
という疑念さえも生じてくる。もちろん源内も商売として盛大にやっているからには、源内グループというライターを多く抱えていて、彼等に書き写しを次々とやらせていたのであろう。

 そうなると、今日伝わっている<信長記>は、どれも三種とも、これは贋造物という事になってきて、真実性はもてなくなってくる。
 といっても、今日、信長を解明したり、その死因を追求するとなると、残念ながら、これしか日本には、他に手掛かりはないのである。
  だから、根本史料と目されているこの<信長公記>の肝心な部分を、ややくどいが、どうしても原文そのままで、ここで引き写しにして、まず、それに基いて解明するしか、「信長殺し」の緒口は解いてゆきようもないのであろう。短いものだから全文を、そのままで転記することにする。

  「信長公、本能寺にて御腹を召され候こと」
六月朔日、夜にいり、老の山(大江山)へ登り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国への道なり。左へ下れば京へ出ずる道なり。
 ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候。
 すでに信長公御座所の本能寺を取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。
 信長も、御小姓も、
「当座の喧嘩を、下々の者共が、しでかし候や」と、思召され候のところ、一向に、そうではなく、彼らは、ときの声をはりあげ、御殿へ鉄砲を打ち入れ候。
「これは謀反か。如何なる者の企てか」と御諚があったところ、森乱丸が申すようには、「『明智が者』と見え申し候」と言上したところ、
「‥‥是非に及ばず」との上意に候。
 隙もなく直ちに御殿へ乗り入れ、面御堂(めんごどう)の御番衆も御殿へ一手になられ候て、御馬屋より、矢代勝介、伴太郎左衛門、伴正林、村田吉五が切って出て、討死。
 この外、厩仲間衆の藤九郎、藤八、岩新六、彦一、弥六、熊、小駒若、虎若、その倅の小虎若を初めとし二十四人が、そろって御馬屋にて討死。
御殿の内にて討死をされた衆。
森乱丸、森力丸、森坊丸、の三兄弟。
小河愛平、高橋虎松、金森義入。
魚住藤七、武田喜太郎、大塚又一郎
菅屋角蔵、狩野又九郎、蒲田余五郎
今川孫二郎、落合小八郎、伊藤彦作
久々利亀、種田亀、針阿弥、飯河宮松
山口弥太郎、祖父江孫、柏原鍋兄弟
平尾久助、大塚孫三、湯浅甚介、小倉松寿らの御小姓掛かり合い、懸り合い討死候なり。
 この内、湯浅、小倉の両人は、町の宿にてこの由を承りて、敵の中に交じり入り、本能寺へ駈け込みて討死のもの。
 お台所口にては、高橋虎松が暫く支え合せ、比類なき働きなり。
 信長、初めには、御弓をとりあい、二、三つ遊ばし候えば、いずれも時刻到来候て、御弓の絃が切れ、その後、御槍にてお戦いなされ、御肘に槍疵をこうむられて引き退がられると、
「女は苦しからず、急ぎ、まかり出よ」と、これまで御傍にいた女共の附き添っていた者共に仰せられ、追い出され、
「御姿を、敵にお見せあるまじき」と、思召し候にてか。もはや、すでに火をかけて、次第に焼けて来たり候ゆえ、
 信長はそのまま殿中の奥深くへ入らせたまい、内側より、御納戸口をたてて閉め、それにて無情にも、御腹を召され。
 これだけが問題になる原文の全貌である。最後の「御腹を召され‥‥」などという結び方など迫真の表現で、疑う余地もないような如実的描写で締めくくられている。
 だから、これが織田信長の最後を伝えるところの、唯一無二の史料として扱われ、徳川方の史料であるところの<当代記>六月二日の条も、殆ど、これと同一内容のものが納めて入っている。ただ<原本信長記>の方だけは、「明智が者と、見受けられ」
が「明智が手の者」となっている。これも同一視されやすいが、いざ解明にあたると、これはこれで相当な差異が、当時の用兵上にはある。勿論これは対比してあとで解明する。
 さて、種々疑わしい点は多いにしろ、
<信長殺しは光秀ではない>という事を引き出すのには、何といっても、解明するには、国内ではこれしか伝承されている資料はないのである。
 もちろん、歴史家が説くような「大田和泉守牛一」の著述であるとか、よって「紛うことなき真実」といった意見には、とてもついてゆけないし賛成もしかねる。
 私などが思うには、当初は大田牛一の書いたものであったにしろ、それが源内グループの筆耕屋の手にかかって一冊一冊が手写しされているうち、時代の影響でリライトされ続け変化したものとみる。たとえば<兵法雄鑑><甲陽軍鑑>の手書き写本に
しろ、これらはおそらく勉学のための写本と考えられるが、そうしたものでさえ、写している間に誤ってくるとみえ、同一のものは全然二つとない。
 まして売本の筆耕ときたら、どこまで忠実に書き写したか疑問である。といって<信長公記>も江戸期の筆写だからと、それと同一視するのではないが、なにしろリコピーのなかった頃の事である。だから、これが不完全な写本であるという点において
 は、異見をはさむ人もでないだろうと思う。
  それと、もう一つ。源内の贋造本として、江戸中期に既に書名を並べられてるものと、この<信長公記>の文章や用字法が相似している疑問である。
「時代時代でそういうものは同一であっても不思議ではない」と説く人もあるが、そんな事を言ったら昭和期の文学などは、みな同一文体でなくてはならない。だが、それでは「文学全集」など出しようもない。「文体は、その人間そのものだ」と考えている私などには承服できない。とはいえ、定説化してしまっている<信長公記>という<真実>を冠せられた古文献に挑むのは、それは、やや冒涜かもしれない。だがである。
 (アポストロ(使徒))パウロは叫んだそうである。
「オムニヤブロバーデエト、クオツドボスムエスト、デネデー(あらゆるものを探し出し、その信じうるものをこそ、見つけよ)」と。
 これは<使徒行伝>のテサロニカ第五章のたしか第二十節か二十一節の言葉である。
 
 さて、である。この<信長公記>の引用した一章。
 まず最初に、第一行から七行目までを、繰り返して読んでみると、ここに何んとも判読しにくいところがある。この為に原文は改行していないのを、わざと三つにわけたのであるが、これを順を追うてA、B、Cにしてみると、こういう内容らしい。
(Aの行)は、六月一日の夜という時日の設定と、大江山の老の坂からのコースの説明である。今日のガイド・ブックと同じらしい。
(Bの行)は、原文をパターンすると、
「ここを左へ下り、桂川をうちこえ、ようやく夜も明け方に、まかりなり候」とあって、この桂川をわたるコースはわかるが、夜も明け方という午前四時に<夜>自体がまかりなったのか、誰かが歩いてきて、まかりなったのか、ここのところがわからな
い。主格が欠けているためである。といって、夜明けがまかりなって、朝に近づいたというきりではわからないから、それを誰か判らないが、まずXと擬人化して仮定すれば、(A+B)は、
「X氏らは六月一日の夜になってから、老いの山へ登って、摂津へのコースをとらず、左へおりる京都コースをとった。桂川を渡ったら、夜も明け方近くなってきた」というのだ。
 ところが、
 (Cの行)になると、AやBの平板な記述とは、全く相違して、俄然、「すでに」という過去形を頭にのせて、「信長公御座所の本能寺を取り巻きの衆」が、
その本能寺へ五ヶ所から「乱れ入るなり」という行動の描写に、支配されているのである。
 しかも、
「乱れ入ったり」なら主観であるが、「乱れ入るなり」では客観である。
 こうなると(A+B)までにおいては、主格であったX氏らは(C)の行に入ると、単なる傍観者でしか、ならなくなる。
「‥‥桂川を越えて京へ入ったら(そこには兵が充満していて)既に(もはや)本能寺は包囲されていた」
 ということになり、そして、その後が、「その本能寺を取り巻いていた衆が、X氏らが到着した時には、既に五方より『ワアッとばかり』乱入していたあとだった」
 これがCである。つまり(AとB)には、X氏らが主格であったものが、(C)になると、(既に取巻いていて本能寺へ乱入した衆)とよぶY集団が主格として、ここに登場してくる。つまり両者は全く別個のようである。
 だから六月一日の夜半に行動を起し、本能寺へ向かった集団が、この描写によれば、
(主となっているX)と、(実行部隊のY)との二つに分かれている。そしてXとYとの関連があったのか、なかったのかという点になると、
 「取り巻きの者」なら、Xの指揮下とも解釈できるが、「取巻きの衆」では、まるっきり同格で、これは指揮下の勢力ではない。
 これは例えば、「‥‥おい、皆の衆」という三橋美智也の唄にもあるように、衆というのは、その家来や、使用人をさすものではない。ほぼ同格の他人である。
 だから、ここまでを繰返して読むと、
「桂川を渡って入洛したXと、本能寺を既に襲っていたYとは、まるっきり無関係な存在であったこと」が、この冒頭に、既に匂わせて書かれているのである。とも読むことができる。
 つまり、何処の箇所にも「桂川を渡った部隊が、そこから本能寺へ乱れ入った」とは出ていないし、XがYらに逢って、
「早く到着して、よくぞやった。御苦労様である」などとは言っていないからである。
  だから本能寺襲撃の謎。信長殺しの加害者が誰かということは、つまり、このXとYの解明に掛っているのではなかろうか、とさえ想えてしまう。
 それなのに、この肝心な事を<信長公記>では、信長をして「Who are it」(誰なのか)と言わせているだけなのだ。
 彼自身の口からは、何も背定も確認もさせていない。それに対して、また森蘭丸も、これも漠然と、<原本信長記>の方では「(明智が手の者)と見受けられる」としか記述されていないのである。
 この「‥‥の手の者」というのは、後年の江戸期になっても「何々御差配の手の者」といえば、その指揮下にあるという意味だけであって、直属ではないことになっている。だから、奉行役所人ではない民間の岡っぴきなどは、正式の給与形態をもって奉
公している訳ではないので、これを「お手先き」といったものである。つまり、その同心の下僕や小者とは違って、家事の手伝いや庭掃除などはしない。ただ役目の上での繋りだけだ、と断っているのである。
 だから、(明智が者)といえば、これは明智日向守光秀を寄騎親として、その指揮下に入っていた寄騎衆のことであって、これは、その直属を指すとは限らないようである。
 つまり、信長の軍団編成制にあっては、これは安土城の最高統帥部から「明智が手につけ」と命ぜられていた、丹後宮津の細川藤孝や大和郡山の筒井順慶、摂津の高山重友、中川瀬兵衛らである。
 地域ブロックの単位編成だった信長の兵制は、その天正九年二月二十八日や翌十年の京都での馬揃えの観兵式でもわかるように、これは判然としていたものである。
 いわば、これは近世の「方面指令軍」の制度である。だから、蘭丸が、「明智が‥‥」と個人名を言わずに、現今のように、「あッ、関東軍」とか「近畿管区司令軍」と報告していたら、すっかり感じは変って
くる。しかし、そうなれば、<信長公記>の後に続く、(「‥‥是非に及ばず」との上意に候)という、まことに簡単な場景描写では納まらなくなる。
 なにしろ普通の場合でも「何々と見え申します」といえば、
「そうか、間違いないか」ぐらいな事はいうものである。まして蘭丸の報告では、「明智が者」または「明智が手の者」と言っているだけである。けっして<信長公記>でも、
「‥‥明智光秀の謀叛」などと、そのものずばりなことは言っていないのである。また信長自身も聞き返してもいない。
  明智の家来にしろ、その寄騎の者にしろ、そこに指揮系統を明白にするために光秀自身の出馬か、代理を現わす馬印が出ないことには、これは明智光秀の行為とは認められないからである。
 現行法によっても、たとえば交通事故を起した車体に、その所属会社の代表又はそれに代る者が乗っていない限りは、事故責任は、その車の運転手だけに止まり、損害補償の枠が、その所属会社まで拡大され摘要されるに到ったのは、きわめて最近の判
例である。
 だから、400年前においては、家来や寄騎が企てた事に対し、その主人や寄親は、都合のよい時には、さも自分が指図をしたように顔を出しても、都合の悪いときは「一向に相存ぜず」と、頬かむりをして通したものであるし、また、それで通ってい
た。元亀元年に木下籐吉郎が横山城の城代をしていた頃、その寄騎に江州蒲の穂の城主堀二郎及び、その倅の樋口之介というのがいた。
 彼等の守っていた箇所へ浅井勢が攻め込んできた時、藤吉郎は横山城を逆封鎖されていたから、百騎ばかりの精兵だけを率いて応援に駆けつけた。ところが当時、寄親の木下籐吉郎は江州長浜五万貫なのに、土地にいついたまま信長方についた堀家の方
は、藤吉郎の倍の十万貫の身代だったから、つい見下げていて、「‥‥五万貫武者の藤吉は、たった一束の兵をつれ、寄親じゃからと、大きな顔をしくさって、やってきおった」
 と耳に聞こえるように、わざと雑言をした。
 それでなくとも、やっと江州長浜城主に成り上がったとはいえ、コンプレックスの塊のような籐吉郎にとって、これは聞き捨てならぬ一言だったから、すぐさま種々のでっち上げをして、これを自分直接にはきり出せぬから他の者の口を使い、さも尤も
らしく「近江蒲の穂の堀二郎父子は、浅井久政と通じ、お味方に仇をなす裏切り者」と信長に直訴をさせた。
  この場合、寄騎の堀二郎が敵と内通していることが発見したのなら、その直属の寄親の木下藤吉郎も、「監督不行届」のかどによって謹責処分されて、しかるべきなのに、結果は反対である。
「寄騎の悪行には、さぞ手をやき、迷惑したであろう」と没収した蒲の穂の十万貫を、そっくり信長は、慰籍料として籐吉郎に与えている。
 だから木下藤吉郎たる者、私憤を晴らした上に、所得倍増どころか三倍になってしまったという話が<当代記>や<信長公記>に出ている。
 つまり「木下の手の者の堀二郎」が内通しても、責任者たる木下藤吉郎には何の咎もなく、かえって加増までされている時代なのだから、
「明智が手の者」とか「明智が者」と聞いただけで、「明智の手の者の誰か。家来の何者か」とも確認もせず、さっさと諦めてしまうのは訝しい。ここに無理があり、謎がある。

歴史まがいテレビの弊害

2020-02-01 18:14:13 | 新日本意外史 古代から現代まで

歴史まがいテレビの弊害

誰の言葉か忘れたが、愚民教育は三つのSだと言う。スポーツ、セックス、スクリー ンである。誠に現代の日本にピッタリで言い得て妙である。
少子化による人口減少対策、地球温暖化の影響で、急務の自然災害対策、全国にある、古くなった橋梁、トンネル、道路(国土交通省調査で22万箇所という)
社会インフラの整備補修、侵略国家に急変した中国侵略(尖閣諸島)防止のための対策等々喫緊の課題が山積しているのに、五輪に使う膨大な無駄金の山。
ここではスクリーン、 即ちテレビの公害について論じてみたい。
と言っても、オール反安倍総理派と化し、安普請建付け正義論を振りかざす浮薄で無様なコメンテーターや評論家のことではない。
また、ろくに芸もないのに、テレビ業界を闊歩する、半端者集団の漫才屋のことでもない。
NHKに代表されるテレビの時代物についての考察である。
 日本人というのは、かって陽の当たる場所にいた京で勢力のあった一握りの者の他は
庶民と呼ばれてきた被征服者の子孫が国民の70から80%を占めている。
アメリカ等では白人がどんどん入ってきて一見それと解る有色人の原住民インデアン を、民主主義であると一世紀も立たぬ内にあらかた殺してしまった。
だが日本列島では、大陸から入ってきたのも、当時は弁髪していたが黄色人種。百済の母国を失って自分らのナラ王朝を倒されて、新興勢力に帰順降伏し、
傭兵となって忠義を尽くさんとしたのも黄色人種。
彼らに蕃族として討伐されていた日本原住民もエケセの古代民も、アマの王朝系や蘇民将来系も同じく黄色人種。
それにアメリカにはバファロと呼ぶ野生牛が群がっていた。だから新入白人も食料には困らなかった。しかし日本列島では違った。
種もみをあてがわれ食料供出用の「編戸の民」として原住民は圧迫され続けだが、 生存は許されてきた。が、幕末までは居住地や職業は先祖代々から限定されていた。
現代の如く勝手に本籍を移したり、他へ転出するが如きは「逃散」の重罪で死刑にされた。また親が百姓なら倅も百姓、親が大工なら倅も大工、といったように、
頼朝御判物の区分により職業も決まっていた。
そして歴史を暗記物として教え込むような義務教育の学校は、幕末まで無かったから、「わしらは宗旨違いだ」位の処で、あまり詮索などしなかつた日本原住民の子孫共が、否応なしに学校へ通わされ、
そこで歴史を覚えさせられる段になって疑問を抱きだした。
日本は世界有数の歴史関係書籍消費国なのはこの訳である。
(向こうよりの偉い人が大陸の文字によって、 自分らこそ未開の開発途上国だった列島の始祖である)とする歴史では、いくら丸暗記して覚え込めと教わっても、すんなりゆかない。
成人してくると疑問が色濃くなってきて、明確でないが(学校歴史と自分らのは違うのではないか?)となって、
歴史関係書を読み漁る事にもなる。「野史」と呼ぶのが日本に在る。しかし、京の公家の歴史に対して、地家の歴史なら良いのだが、残念ながらそうではない。
文字を信用して造語された、史実、史料、史伝等に幻惑された類が多い。
さて、今やテレビは一家に二台三台の時代だが、時代劇という奴にはほとほと困惑さ せられる。時代考証何某とまで出ているから本当なのだろうと思わされてしまう。
通史俗史にのっかるのが視聴率につながるからと、全くの嘘ばかりである。
ポカンと観ていると面白いのだろうが、人間が生きていくのに一番大切な判断力、 批判精神や懐疑心が喪失してしまう。
その点、以前放映していた劇画からの「浮浪雲」は、チョンマゲの主人公が巻煙草を煙管で吸つたりしていて、ハチャメチャで結構だが、
同じ局の「暴れん坊将軍」になると、尾張の徳川宗春が八代将軍吉宗と張り合う内容だけに困る。
八代将軍候補にあがったのは宗春の兄継友の方で、将軍が紀州の吉宗に決定すると急死してしまう。
それゆえ既に奥州梁川三万石へ養子に行っていた宗春が戻つて家督を継いだ。
兄の死が毒殺ではないかと疑って城中に居るより、尾張に居るときには、 野外へ鷹狩りと称して出歩くことが多かったせいか、
「何、これなる石が瀬の川原で対陣して、松平元康の軍と権現様の手勢が戦をし、相手が強くて負けて逃げ込ん だゆえ、あれなる山を権現山というか」と、
次々と松平勢と権現様(家康)の合戦の遺跡を見つけだし、負けて逃げるときに、酒井忠次が世話になった木こりへ手渡した白扇なども検分した。
各地の古老を呼んで聞き取りもした。尾張宗春にとっては家康は直系の曾祖父にあたる。
だから「徳川の世もすでに八代目である。創業の頃には三河松平入道の血脈と言った方が恰好が良かっただろうが、今となっては赤手徒拳の世良田次郎三郎が田楽狭間で、
今川方の優れた鉄砲を持って行った織田信長の引きあげた後へ行き、その残りの武具甲冑を遺骸から剥がして完全武装し、浜松の酒井や伊勢の榊原、渥美の大久保、伊賀の服部らと兵を集め、
やがて天下平定を成したのは立派なことで今更隠すこともあるまい」と、
書物奉行堀田恒山の名で「章善院目録」と後に呼ばれる一冊を木刷りで刊行してのけた。
権威だけが天下の政道と心得ていた能史大岡忠相によって、直ぐさま江戸表から、「徳川家祖先のことをみだりに書くべからず。また、刊行者の奥付に著者と発行者を
明記のこと」と世界最初の出版統制令が発布され、尾張宗春は閉門。
また何か書くかもしれぬと紙と名の付くものは便所の紙まで支給厳禁されて生涯監禁された。
宗春の子らはみんな次々と早死にさせられ血脈は絶たれてしまい、以降尾張の殿様は一橋家と田安家から交互に送り込まれ幕末まで続いていたのが真相である。
この事は「愛知県史」や「名古屋史」にも明白にされている。
その他にも水戸黄門も、竹矢来を張り巡らされて、常陸太田で生涯閉じこめの憂き目にあつていた水戸光圀の実像も知らず「アッハッハッ」と高笑いしながら日本各地を廻って歩くのも、
高視聴率ゆえやむなしと、立川文庫のテレビ版が次々とシリーズを重ね、娯楽物だからと問題にもしない見解は、金儲けの土地開発のため、各地の
古墳や遺跡が取り壊され潰されて消滅してゆくのと何ら変わりがない。
それどころか映像の誤ったイメージが何千万もの人々に垂れ流されているだけに、そ の害はもっと甚だしいと言えよう。
さつま芋だって種類がある。(農林1号)と(金時)ではまるで違う。日本歴史とて同様、書く人間によって全然相反する。だが人間の場合バイは在ってもノーリンは なく、
これを作別銘柄に分類すると「神信仰系」の原住系と「仏信心系」の外来系に分かれて今日まで続いている。が昔は、共存共栄なんかしてきた訳ではない。
原住系は圧迫され、歴史に残された限りでは圧倒的に外来系の独壇場である。これは勝者は己に都合良く歴史を改変出来る特権をもつからである。
しかも外来系は、仏教と一緒に漢字や平仮名まで持ち込みである。そして歴史とは、それらの発表具象の力を借り、記録の型に於いて伝承される物なのだ。
文字がなくて口伝に頼るとアイヌ のユーカラみたいな物になってしまう。
 さて今日、「この日本の歴史」の基盤を なすのは(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀 日本文徳天皇実録、日本 三代実録)を基幹となし、
それに(律、令義解、類聚三代格、延喜式、尊卑文脈)をもつて、根本史料と定められている。
だがしかしである。これが出来上がった西暦720年の年代に於いて、こうした漢字を駆使して書くことの出来たライターは はたして何処産の人間だろう。
 当時、真備や仲麿が留学していたから、唐へ勉強に行っていた学究が、 帰朝してから書いた物と言うのが通説になっている。
しかし真言天台の密教にしても、開祖と呼ぶのは4人のインド人やセイロン人、それを唐訳したという唐人の計7人で、日本人は一人も入っていない。
これは延暦寺でも高野山でも公然の話で、「大乗寺社寺雑事記」等にははっきりと、鹿園院(京の相国寺鹿苑院)に関し、「天竺人来る、住持となる」と文明18年の条には出て いる。
つまり神様のノリトというのは聞いていても判るが、お経というのは呪文を唱えて居るみたいに、文字でなければさっぱり判らないのは、このわけなんだろう。
そして雑事記には、「天竺人は二条通りと三条坊門烏丸の間にある唐人屋敷に居住している」と書かれている。さらに、

「西忍入道も幼名はムスルといい、後に天次といつたもので、こうした立野に固まっている連中は昔からの風習で<平氏>の姓を賜っている」と堂々と出ている。
これを見ると季節風に乗ってアラビア姓の名をもつ者たちが、日本へ渡ってきて、 京の二条から三条にかかる烏丸の租界に居住し、立野に土地をもらい小作人に耕させて彼らは平氏と名乗っていたことが判る。
つまり、人間はその母国語からは抜けきれないもので、これは湯川秀樹の如きノーベル賞的頭脳でさえ英語ではすらすらと論文が書けぬ事を考えてほしい。
タイトルに日本という文字がついてはいるが、それでメイド・イン・ジャパンとは断定できない。何しろ今日でもイタリアで堂々と米国西部劇が作られる程である。
 さて、その670年後でさえも、漢字はまだ一般には暗号同然だつた例証がある。
『宇喜多家譜』に「朝鮮王淋聖移住しての裔」と明記されている児島高徳が、延暦寺をも頼られた時の帝の行在所へ潜入し、
そこえ堂々と桜の幹を削って「天勾践をむなしゅうするなかれ」と書いてきたエピ ソードだ。
もし漢字が一般化していたのなら、そんなアジテートはすぐ抹消される筈である。だが警護の侍なんかには読めはしないから安全暗号として通用したのだと考えられはしないか。
<以下次回に続く>