新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

 論考 古事記 古事記は「骨事記」であり「乞食(こじき)」

2021-10-29 12:59:10 | 新日本意外史 古代から現代まで


     論考 古事記


古事記は「骨事記」であり「乞食(こじき)」



昭和十一年「竹内文書不敬事件」が起こった。
日本史の「根本史料」とされている「古事記」「日本書紀」と対立する「偽書」として徹底的に弾圧されたのがこれである。
(注・竹内文書)
竹内文書(たけうちもんじょ、たけのうちもんじょ、磯原文書、天津教文書ともいう)は、古代の文書を装ったとされる偽書。
神代文字で記された文書と、それを武烈天皇の勅命により武内宿禰の孫の平群真鳥が漢字とカタカナ交じり文に訳したとする写本群と、文字の刻まれた石、鉄剣など、一連の総称。天津教の聖典とされる。
原本が存在する立場からは、後述の裁判に提出されたのちに焼失したと主張される。


平群真鳥の子孫であるとされる竹内家に、養子に入ったと自称する竹内巨麿(たけうちきよまろが、1928年(昭和3年)3月29日に文書の存在を公開した。
昭和10年代以降加筆されたという説もある。写本の多くは戦前に焼失し失われているが、南朝系の古文献を再編したとされる写本もある。
当時竹内は皇祖皇太神宮天津教を興し、同宮の神職であった。元々の竹内文書は、彼の天津教と直接関係はないが、竹内文書の内容と、さらに新宗教天津教の教理が加えられたものが、同宗教団体の教典に位置づけられている。
書物だけではなく、神宝の類まで包括して「竹内文献(たけのうちぶんけん)」ということが多い。

昭和十一年、明治大学の総長だった鵜沢總名が「竹内文書不敬事件」で、竹内巨麿の特別弁護人をしていた。当時は神聖視されていた「日本書紀」と本居宣長の「古事記伝」との二つの相似性を、
「竹内文書」から発見し不敬にならぬよう立証する為、鵜澤はその作業をしていた。
だが竹内家の旧蔵書が、家宅捜査されて全部押収されていた中から、先生の教え子が検察畑の中にもいたので特別な便宜が得られた。
「一読後は、焼却処分の危険不良文書ゆえ、必らず返却すべきこと」との厳しい制約の朱書付箋付で、事実その後は逆押収され一切焚書されて今は、もはや一冊も残ってはいないものの中に、
足利末期に記されたらしい「こじき(乞食)」が在った。
 つまり、本居宣長が賀茂真淵より引きつぎ完成した今の「古事記伝」とは、まったく異質の、「コジキ」を、ガサ入れで竹内家より押収され廃棄処分にする前に二冊があったのである。
 「古来、宮中に『日本書紀』は有ったが、コジキは置かれていなかった」といわれる由縁が、その古いコジキには書かれていた。
この裏付けは、検察内部にも鵜澤総長の教え子がおり「こじき」は確かにあったと言っているのである。
「慶長四年乙亥卯月二十一日亮海刻版の『骨事記』及び「写本」で相当に紙魚に喰われていたが、足利末期らしい「こつじき(乞食)」の二つが在った」ということである。
今となってはこの「乞食」の内容を推理するしかないが、中国が日本列島に持ち込んで仏教を広めようとしたとき、難しい教義を教えたとて原住民は理解できない。
そこで手っ取り早く、視覚から入る極彩色の地獄図絵を見せて脅かした。即ち「仏教を信じる者は極楽へ行けるが、信じないものは地獄へ落ち赤鬼青鬼に虐待され血の池や針の山で苦しむのだ」と。
だから原住民たちを「隠忍(おに)」として同音の「鬼」と当て字をしてしまったものだろう。
「福は内、鬼は外」と一掴みの豆を戸外へ投げつけられ、それを拾って野良犬のようにコソコソと寄ってきて飢えを満たす憐れな隠忍どもを、体制側の豪いさまたちが原住民を蔑む記録だったろう。

この豪いさまの宣撫班の坊主たちは、墨染めの衣の袖まくりして、飢えた隠忍たちを集めては、「施餓鬼」と称して、薄い高粱がゆを一杯ずつ施しては仏など有難がらぬ先住民の群れを、
カユ一杯を餌に拝ませ、転向させては、いわゆる寺奴隷として使役にまわして世襲制の永代私有制にした。 
 「夷詠朗詠集」なる漢詩集がある。これは応仁の乱の前の豪い堂上公卿の詩だが、判りやすく意訳すれば、
「飢えはてて、朱き堂に餓死する屍や、これ夷也」」の一詩さえ残され伝わっている。今では、「稲荷」と当て字を換えさせられて豊作祈願とするが、農村にあるのは馬頭観音と道祖神だけであって、
朱い鳥居はみな町中にある。藤原の公卿が夷也とよんでいたものの同音換え字だろう。


 つまり進駐軍によって追われ、奴とならねば食する物がえられず、餓鬼となって、ひたすらに食を乞う者らを夷と蔑んだ体制側の豪いさんが「食乞い」の者らを「乞食」となし、
痩せさらばえて肋骨も透けてみえる隠忍どもを「骨事記」となしたものだろう。
なにしろ藤王朝に代った天武天皇の命令で、稗田阿礼が暗唱したものを、太安万侶が和銅五年一月に完成なしたとされてはいる。
この稗田とは、非や卑の当て替え字で、阿礼のアの発音は海洋渡来民族系の独得の名なのである。彼が喋舌ったことを、四っの騎馬民族系の末孫オオノヤスマロが、
天武天皇御即位の六七三年より三十九年後に完成されたとするのも可笑しい。
これだと、まるで阿礼の暗記していたのを太安万侶が、口述筆記したごとく誤られているが、それなら39年もの歳月が掛る訳はない。惧らく八母音を言語としていた海洋渡来系民族の説話なので、
それを日本海語のシラギかコマ語に変え、それを則天文字つまり漢字に又も書き直したから、40年近くも要したのだろう。
 といって、本居宣長の「古事記伝」みたいな今みる内容だったと、前述したように全く異質なのである。
 壬申の乱によって体制を握られた天武天皇が、被征服民どもの餓鬼ぶりを蔑けるために、海洋渡来系の阿礼に泣言をいわせ、それに騎馬民族系の四ツの者らの飢えてる餓鬼噺もつけたしての、
「勝利者の記録」を、被征服民族への嘲笑記として書かれたものでしかない、とみるべきではなかろうか。
それゆえ「日本書紀」のごとく御所には置かれていなかったというのが真実の処だろう。


賀茂真淵が伊勢松坂へ来たとき、その門人となった本居宣長は、従来の「コジキ」の内容を一変させ、当時としては斬新な「新興国学」をたてるため「鈴屋門流」とよぶ弟子たちに、
「旧事本紀」その他のものを底本として、さも「日本書紀」に対抗しうるようなものを、天明六年から文政五年にかけて刊行し、明治維新当初の「神祇省」設立の基礎を作ったようだ。
      
といって宣長は、神がかりみたいに賀茂真淵の言いなりに、何も判らずに新しきに走った訳ではなく、昔の伝承コジキの冊子も手元には持っていたようである。
その裏付けとしては、「賎者考」を宣長の死後、その跡目を継いだ稲葉陳隆の子であった本居太平も書いている。これは、
三一書房刊「近世庶民資料集大成」の第十三巻にも、被征服民族の実体を明らかにしている。だから「古事記伝」は労作とは認めるが研究資料として扱ってはならないのである。

なお「日本書紀」の現在のものは「畏れ多くも後西天皇が侍臣に命じて書き写せしめ給いし、渋表紙の巻子本五十巻にて、天地に墨界を施し一行十数字に書せられたり。外題なし。『京都御所東山御文庫』と申しあげ、
特に御聴許を得て許され、この貴重なる御本を拝観するを得たるは無上の光栄とする所なり」
 と、皇国史観の黒板勝美が、「凡例」として謹書しているが、この後西さまこそ「京雀」に書かれてある通り、二十七歳の若さで徳川勢力によって、今でいえば「伊達綱宗との共同謀反容疑」をかけられ、
京所司代牧野備後守貞通のため、鳥篭をかぶせたような竹矢来の茅屋に生涯いれられていた御方さまであらせられるのである。


侍臣に命じてではなく恐れ多くも御宸筆であって、「徳川は、今では王と自称し千代田城を朝廷など僭称しているが……本当の体制は御所の方であるが正しいのだ」と、
貞享二年二月二十二日に鳥篭を冠せられたような茅屋で御宝算四十九歳にて崩御遊ばされるまで、通算二十二年間の幽閉のお暮しに憤られて書かれたのが、今の日本書紀そのものなのである。
勤王の志の厚かった水戸光圀が、筆硯用紙に、防寒の道衣を差入れた咎めで、徳川綱吉によって罰せられ、江戸から唐丸篭で水戸の西山荘まで運ばれ、生涯幽閉された。
 つまり今の日本書紀は、皇国史観歴史が、まかり通った時代から、唯一の国史のごとく扱われがちだが、後西さまは歴史家ではない。御所の所領はあくまで三万石の田舎大名並みでも、
御所こそが、天武さまからの連綿たる真の王であるとの、ご憤激のあまりに、宮中に散逸している古文書資料を密かに持ちこませ、お悼しくも水戸光圀が道衣を差入れするまでは、
震えて寒さに堪えつつ、五十巻もの著述を二十余年お続けられた反徳川文書なるがゆえに、外題つまりタイトルは無しである。
 昭和六十年に、徳川オカミの権勢をしめすために、まったく言いがかりの容疑で雀小屋へ押しこめられて、窮死なされた後西さま崩御三百年祭が、宮中ではしめやかにおこなわれた。
「華族は皇室の藩屏なり」と仰せられた明治大帝の御勅旨があり、その華族会長が戦前までは”旧徳川公爵家"だったから、徳川体制が大不敬な不祥事をなしたことは、一般には知らすべからずで伏せられていた。
だが、それにしても、黒板勝美の知能智識の低さは呆れざるをえぬものがある。
畏れ多いことだが、子供は「つづり方」に、面白かった事や愉しかったことを書く。しかし大のオトナは口惜しさや恨みつらみで書くものである。おいたわしいし申し訳けないきわみであるが、
雀小屋へ押しこめられた後西さまは、光圀の指図で京屋敷より差入れの用紙に、宮中に残っていた古文により怨念をこめて「後西さま日本書紀」をおかき遊ばれたのである。
「皇国史観歴史屋黒板勝美」は、藤原勧学院派グループが、桓武天皇のオンモン書紀にとって換るべきものとして、高千穂の峯へ降臨してきた天孫民族とは吾らトウ(藤原)なのだ、
 としたのが判らず、「藤原鎌足の伜の不比等の作」といった愚にもつかぬ仮説を鵜呑みにしての六国史作成ゆえ、日本の歴史屋に外国人御雇え教師のアドルフーリースが歴史学博士を許さなかったのはむべなるかなである。
だから日本は先進国で唯一「歴史学博士」の居ない不可思議な国なのである。


プラモデルの断捨離 大間のマグロ漁船

2021-10-23 11:06:46 | 新日本意外史 古代から現代まで


プラモデルの断捨離
大間のマグロ漁船



何百と作った模型の中で、ただ一つ漁船のモデルです。
左舷前方マスト下に見える「赤い箱」が函館市に本社がある「東和電機製作所」製のマグロ自動巻き上げ機です。


マグロ釣り機 DR-Zと呼ばれ、コンピューターによって巻き下げアシスト機能により、軽い錘でもスムーズに下がり、糸ふけしません。
正確な水深計測機能で、ドラム径やラインの巻太りの補正量を設定可能。
ヒット検知機能が充実しており、シャクリ動作中にヒットすれば即時自動で巻き上げます。ヒットして糸が繰り出されると自動で巻き上げます。
マグロ漁船の「命」ともいうべき優れもので、テレビでもお馴染み。
(以下ウイキペディアからの転載)
大間崎の前沖5キロメートル付近の近海で大間まぐろは獲ることができる。大間町民の約半分が漁師だという。マグロ漁は例年8月頃から行われ、1月くらいまで釣ることができる。
水温が低くなる秋から冬にかけてがマグロ漁の旬とされている。


大間町が面する津軽海峡は、日本海と太平洋を結ぶ海峡であり、黒潮、対馬海流、千島海流の3つの海流が流れ込むため、たくさんのプランクトンが生息している。
この良質なプランクトンがいる漁場が高級ブランドのマグロを収穫することができ、マグロの他にも、身の厚いイカやイワシが水揚げされている。また、このイカやイワシがマグロの餌でもある。


収穫されるマグロは。時速40キロ程度で泳ぎ、身の危険を感じたときや獲物を獲るときなどは最高時速120〜130キロのスピードを出すとされている。日中は一本釣り、夜間は延縄漁で収穫が行われている。
網で捕獲する漁法とは異なり、マグロに傷が付かず、魚が弱ってしまう前に血抜き生〆作業を施すため、鮮度を保ってマグロを出荷することが可能である。
近年では船の近くまで寄ってきたマグロに電気ショッカーを使い一時的に感電させ、失神させてから船に水揚する手法をとっている[1]。


また、一本釣りでも龍飛や三厩の漁法とは異なり、ソナーでマグロの群れを見つけ、その群れにエサをつけた針を投入し、釣り上げるという手法である。
操船技術から始まり、エサや道具の選定、エサの投入タイミング、合わせ、巻き取り技術などが全て上手くいかないと釣るのは非常に難しく、何ヶ月も釣れない漁師もいる。


1995年頃は7月-10月頃が水揚げ時期であったが、地球温暖化などの水温の変化で9月-12月頃に変わり、近年は8月-1月までと時期が変わっている。
原因は不明のままだが、1985年〜1993年の8年間は大間でマグロが穫れなくなる時期もあったという。



日本史解説 考察 江戸の旗本奴  何故白衣を着るのか  旗本奴 水野十郎左衛門

2021-10-22 11:51:53 | 新日本意外史 古代から現代まで


 日本に伝わる史料の内、信長秀吉関係は、「誰が何のために筆写したり版本にして、ひろめ伝えたか」
 と、その目的意識をさぐると、どうも茶湯をはやらせその蔭の儲けようという道具屋さんが、カタログ用にと意企し年代を古くみせて配布したものが多いようである。
 なにしろ猫の飯くい茶碗でも、もっともらしく、「松影の井戸碗」などと名をつければ、「名物」として莫大な金になったから、歴史の先生にいろいろ加筆挿入させたのだろう。
「信長公記」あたりでさえ、信長が妹婿の浅井長政に背後をつかれ、死にものぐるいで逃げかえってきた時点あたりにおいても、「信長名物狩りなされ候て、かくかく、しかじか」とずらりと名称を列記し、「天下
の名物みな集めて」などと、ぬけぬけとかいている。
これで相当にスポンサーの道具屋は儲けたろうが、困るのは後世の私どもである。「歴史は茶碗で作られる」では、堪らないからである。
現在、人気番組で「開運・何でも鑑定団」があり、数多く桃山時代や利休や信長愛用の茶碗が出る。
怪しげな鑑定士によって何十万円と途方もない値がつけられている。
地震大国の日本で、400年も昔の土器が現存している事自体が怪しいのに、これに尤もらしい「箱書き」が在れば更に高額にもなってしまう。
こういう現象は日本独特の金儲け文化といえよう。
 
考察 江戸の旗本奴
 
本当に歴史好きだった考証家の田村栄太郎さん、そして掛けがえのない日本歴史学会会長高柳光寿博士のお二人は今は鬼籍に入られて久しい。
本当に惜しい碩学が亡くなられて残念である。
戦国期の研究に一生を捧げ、「真実とは何か」とあくまでも追求された先生の死は、日本歴史の正しい解明も、これで終りになるのではあるまいかという気にさえなる。
 春秋社が、先生の戦国戦記の未完のものを、この際早く刊行してくれることを祈る。恐らく先生の御名は長く歴史を志す者には残るだろうと想い、先生のご冥福を祈る。


 さて、良き時代の良き日本人の典型として、
「幡随院長兵衛は男でござる」と水野十郎左衛門の向けてくる槍先を、何もいわずに、「さあ、ここをどんとお突きなせえやし」
 すっ裸の胸を叩いてニッコリ笑うのは、お芝居や講談だが、今では悪役なみの、「水野十郎左衛門」に話をもってゆくことにする。
 いまの歴史家は、まこと単純なもので、「ブルジョワジーの興隆に伴う町人階級の利益保護のために、長兵衛ら町奴はうまれ、特権階級の旗本奴と対立した」と説く。
 しかし徳川時代といっても、ざっと三世紀はある。
 まだ戦国の匂いのぬけていない明暦年間と、幕末に近い文化文政の頃とでは違う。 この水野十郎左衛門の祖父というのが、高柳光寿博士の文中にでてくる水野藤十郎勝成なのである。
そして、この勝成というのは、三河苅屋城主だった水野勝元の弟忠重の倅だが、関ヶ原合戦の起きる前に家康から召されて、
「あやかれよ」明智光秀遺愛の槍を貰うと、「はあッ、光秀のごとく頑張ります」と、それからは奮戦し、元和元年大阪夏の陣では、
「天下の豪傑岩見重太郎」こと薄田隼人。
 大坂一の暴れん坊の、後藤又兵衛基次。
 この二人を、光秀遺愛の槍をもって仕止め、
「誠忠無比」「剛快無双」と謳われ、「備後福山十万石」の大名に昇任した人物である。

 さて、幕末の有名な詩人菅茶山には、
『福山志料』の著があるが、その中に、「備後福山の西北に本庄村、東に三吉村、そしてその先の深津村は橋のない川が流れて、住民を<三八>とよんでいる」とある。
 これは水野勝成が福山の領主になった時、三河苅屋の八を伴ってゆき、彼らを直属の秘密警察組織として、新しく貰った土地の監察をさせたから、それで(三河からの八)が鈍って、
いわゆる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」とよばれる者になったのである。

さて現代では、橋のない川はとかく問題になっているが、徳川初期はどうだったかというと、この福山では殿様の警察組織ゆえ、「三八は常に大小の二刀をさし、歩く時は槍を先に立て通行した。この三八の者らは
牢番警吏拷問を仕事とした。また処刑も彼らの一存で一方的に取り決め、初めは深津村専故寺前で斬罪にしたり、その首をさらし物にしたが、のちに榎峠に移された」とある。
なぜ、こんなに絶えず首斬りをしたのかというと、これは需要があってヨロクがあった故、必要以上に死罪にして殺していたものらしい。
と云うのは、化学薬品のなかった頃は、肺病には生血、レプラには尻の肉。心臓病にはハツ、肝臓病にはタンを食すれば薬効ありとされていた。ところが今も昔も病人は多く需要も多い。

だが、冷凍設備がなくて死人のストックもきかない時代ゆえ、注文が溜まってくると、それっと、「御用ッ」「御用ッ」と三八衆は出動し、適当に誰か召捕ってきて、ゴウモンも公然の仕事だから、
「生血を入れる竹筒を用意しておけ」「レバーを包むイモの葉っぱを揃えろ」
とセットしておいてから、バッサリ殺してしまい、「お待ち遠うであった」と配達したらしい。つまり、このために専故寺もそうだが、彼らの薬師系の寺は、備後以外でも「医王山」とか「医王仏」などという。
しかし、現在吾々の口にする、コンビーフが馬の肉を使用しているように、そうそう人間は殺せないからイミテーションに牛馬を代用にした。
そのため皮はぎもしたが、竹細工でお茶の茶筅作りも利休時代からしていたので、「茶せん」「おんぼう」の別名もある。
何故この人達が、やがて明治大正となり橋のない川になったかというと、五代将軍綱吉の頃の弾圧からなのである。そして明治になって警察制度が代わって、彼らのかつての警察権がなくなったため、
他の住民に報復され落ちぶれたせいである。
江戸時代には、「人斬り長兵衛」とよぶ八部の親方がいて天保から安政にかけて此方の淵でズラリと並べてはバッタバッタと斬ってのけ、「富士の妙薬」といわれた生血は竹筒一節分銀二匁で売った。
脳味噌は生薬として梅毒の特効薬で銀五匁。心臓や肝臓はラウガイといわれた肺病用銀三匁で斬刑の時は奪い合いで薬屋が求めにきた。需要の多さに何でも死罪にしてしまうような無茶をしたので怖れられていた。


  何故白衣を着るのか      

 水野十郎左衛門の話が、その祖父の勝成にさかのぼり、備後福山の三八にまで、脱線して展開してしまったが、私がいいたかったのは、「旗本白柄組」の時代というのは、
八の連中が戦国時代の名残りで、まだ肩で風をきり、槍をたてて威張っていた頃だという事である。
 そして、彼のグループの久世三四郎、加賀爪甚十郎といった連中も、みんな三河横須賀まむし塚出身の別所者で俗にいう、「白須賀衆」の旗本の面々だったのである。
 さて彼らが刀の柄に白糸の編んだのや、白革を目につくように冠せ、自分らから、「白柄組」と名のったというのは、そうする事が、あの時代では恰好良いことであり、
もてたからだったのではなかろうか。といって、看護婦さんは白衣をきているから、天使のように素晴らしい、などという少女的な発想とも、これは違うのである。
かつて都電が四方八方に動いていた頃。
 夏ともなると(都の催し)という掲示が車内に出たものだが、上野公園の納涼大会に並んで、そこに書かれた文字で、「八朔」というのが見られた。
 これは八月一日の当日限り、昔の江戸城では将軍から茶坊主に至るまで白衣を着て、吉原の女郎衆も白一色になる行事である。といって、
(お女郎衆は博愛を衆に及ぼしているから)と、ナイチンゲールにあやかって、白衣をというわけではない。彼女を有名にさせたクリミヤ戦争は、1856年つまり幕末安政三年だが、江戸のお女郎衆は家康の頃
から、八月一日は揃って白衣をきていた。ところが八月一日という時候がら、と間違えやすいが、陰暦の八月一日は秋風のたつ九月である。何も防暑のため白をきたわけではない。
 これは家康の臣内藤清成が書いたという、『天正日記』によると、
「天正十八年(1590)八月一日に、小田原城攻めが終り、秀吉から国替えを命ぜられた徳川家康が、白衣を羽織って江戸入りした」
 旨の記載がある。つまり八月一日は、「江戸開都祭」といった意味での、「八朔の祝い」で、諸大名や旗本もみな白上下をきて、揃って江戸城へ式日として伺候したのである。さて、では何故、「白衣をきて家康の一行は入ってきたか」
 ということになるが、内藤清成は、その日記の八月七日の条に、「とうこういん(東光院)へ参拝」と明記。
 八月十三日のところには、
「家康公の御乗馬花咲が病気になって倒れたので、豊島鳥越郷の江田[]をよびて渡す。彼らは源頼朝公以来の江田一族だと申しでた」 とある。これは「東鑑」に江田小次郎。
「平気物語」に江田源三、
「源平盛衰記」に江田弘基、
「太平記」には、江田源八、
 とあるように、いわゆる源氏の主流をなす者が名のった姓で、彼らは北条氏に追われて山間僻地へ逃げ込んだが、足利時代には、「白旗党余類」といった蔑称をうけ、その信仰も、かつては白山や土俗八幡や荒神を信心していたが、
やがてこれが、「東光」とよぶ、東方ルリ[瑠璃][光?]如来の薬師派になって団結していった。つまり、
「西方極楽浄土を説く仏教徒」が墨染の衣、つまり黒を身につけるのに対し、彼らは、「白衣をもって対抗していた」という歴史的事実がある。そして源頼朝が、総追捕使の官をうけた時点に於て、
各地の江田一族の白旗党に、末端の警察権をもたせたので、
それが慣習となって、彼らがお上御用の逮捕権をもったり、断罪権を明治五年まで握っていた。「弾正」とか「弾正台」というのは唐の官名の輸入だが、「弾左衛門」というのは、
幕末までは漢字は発音記号と同じで当て字が当たり前だったから、「断罪衛門」のことではなかったかとも考えられる。
また、「松永弾正」とか「仁木弾正」といった名があるが、これは「井伊掃部頭」といった類と同じで、白旗党余類にのみに与えられた侮蔑的官名で、信長の父の織田信秀も、八田別所の出自ゆえそうした名乗りを貰っている。
つまり水野勝成が、三河の八を伴っていって、「警官兼検事、そして獄吏」に用いたのも、なにも特殊なことではなく、当時は日本全国どこへ行っても、番太郎、下引き、目明かし、牢役人は彼らだったのである。だ
からして江戸期も中頃になると、重なる怨みに民衆は、「源氏」という呼称を、きわめて悪意的につかった。例えば、ならず者のことを、「源氏屋」と蔑んだり、いかがわしい女の屯する青線を、「源氏店」とよんだ。
しかし芝居もとよばれる彼らの分派集団だったゆえ、現在の人形町と堀留の中間にあった岡場所などは、「しがねえ恋の情けが仇」の芝居をする時には、わざと、玄冶店(げんやだな)と文字づらを変えた。
もちろん俗説の「清和源氏」などというのも、系図屋さんや筆耕者の江戸時代の作りごとで、清和帝が土着の原住民に係りなどあろうはずはなく、これが全然無関係の虚妄にすぎなかったことは、
今なき高柳光寿先生の努力によっても解明されている。

      旗本奴 水野十郎左衛門

 さて、旗本奴として反仏的な水野勝成の五男の跡目の十郎左衛門などが、「吾々は白系だぞ」とエリートづらをして、のし歩くのに反感をもったのは、お布施を、「なんまいだ、なんまいだ」と数えて、
坊主丸儲けを豪語していた寺ということになる。「けったくそ悪い、仏罰をあてたろまいか」となったらしい。昔なら、僧兵でもくり出す所だろうが、時代も江戸期となると、そうもゆかず各寺から腕っ節の強いのが選抜された。
 ところが、ばらばらに寄せ集めたのでは、とても喧嘩にならない。そこで幡随院の住職良碩(りょうせき)上人という坊主が、スカウトしてきたのが常平とよぶ者。これに今でいえばジムを境内に作らせて、
トレーニングさせてから、「幡随院の長兵衛」という寺の名をPRするような名をつけた。すると各寺から、「この小僧は頭がよぉないで、お経はなかなか覚えぬが腕っ節は強い」とか、
「うちの境内で悪いことをした奴だが、強そうだから牢へ入れるよりは」といった連中を次々と、幡随院のジムへ送りこんできた。そこでこれらを順番に訓練して、
「唐犬権兵衛」「小仏小兵衛」などと名づけ、とりあえず四回戦ボーイに仕立てると、浄土宗だけでなく日蓮宗の寺からも、「法華の平兵衛」以下が送り込まれてきた。
 また、浄土真宗でも、これとて、「念仏佐平次」といった連中を育てて送りこんできた。だから今でいう三派全共闘ということになった。そして各宗派をうって一丸となしたこの全仏教連合は、その総合
名を、「黒手組」と、白柄組に対する名称にした。後年は講釈師がこれを間違えて、(花川戸助六を黒手組としてしまった)が、実際はこの時の連合団体の総称であるのが正しい。


 もちろん、これだけに人数が増えてしまうと、寺でも布施やサイ銭だけでは賄ってゆけない。そこで「割元」とよぶ、男の派出野郎会を始めた。といって、この時代のことゆえ料理や炊事に廻すのではなく、
武家屋敷へ供揃いの類の人手不足の折に出すのである。
 さて、こうなると旗本白柄組のところへも注文があれば、人手をさしむけるようになる。
 そこで双方が衝突となると、町奴とよばれる長兵衛方が向こうの内情を知っているだけに、なにかと好都合でゲリラ活動をする。
 溜りかねた十郎左衛門が、向こうのボスの長兵衛と、(白昼の対決)をすることとなった。

 ところがこれが無法な西部の荒くれ男なら、互いに路上に現れて、早射ちで相手を倒しあうのだが、まだアメリカなどという国は出来る前で、それに既に当時の日本は法治国である。
「鯉口三寸(十センチ)抜いたら御家は断絶、その身は死罪」という治安維持法が千代田城の松の廊下だけでなく、広く一般にあった。
 いまも警官はみな拳銃を持っているが、だからといってアメリカなみに、人をみたら泥棒と思えとやたらに撃たない。いや撃てないのと同じことで、武士が刀をさしているからといってテレビのチャンバラみたいに、
抜かなくては損みたいに振舞わすということはなかった。
 
それに武士の刀は公刀ゆえ、抜刀するには、やむを得ざる理由がある場合か、扶持を貰っている主君の許可がいることになっていた。
 だから、はたしあいは人目につかぬ室内となった。この時、講談では長兵衛が風呂へ入っているところへ、卑怯にも水野十郎左が、「許せッ」と袴のももだちをとって押しこみ槍をつきつけ、
裸の彼をブスリとやったことになっている。
 しかし、そういう事はなかったろう。第一あの時代にあんな当今みたいな風呂はあり得ない。

 幕末まで、風呂というのは今のサウナみたいなもので、湯気で身体を温める式のものである。桶に水を入れてわかすのは、江戸中期でも五右衛門風呂といって関西独特のものだった。
十返舎一九も弥次喜多が初めての経験のため浮板をとり、下駄ばきのまま入って釜をこわすように話をかいている。
 炊き口から火を燃やし積んだ石を熱して湯気をだすのは容易だが、ボイラーのない時代ゆえ、浴槽を作って中へ入るには、大きな釜を作るしかないが、それが技術的にも一人用の五右衛門風呂の釜くらいが精一杯で、
何人もが浸れる大きな鉄函は当時の鍛工では出来なかった。

 では身体ごと浸る風呂はいつからかというと、これは幕末の産物であって、初めは街道の茶店の葭簀の蔭に溜めた天水を入れた桶をおき、太陽熱で温かくなったのに、汗まみれの旅人が銭を払って汗流しに入ったもの。
 江戸では、川へ入っての水浴しかしたことのない薩摩人が幕末に増えてきてから、「水風呂」の名称でこれまでの蒸し風呂と区別して三田ッ原に出来たのが最初で、西部劇のバスなみに、
ぬるくなると三助が熱湯をそそいでいたが、それでも、「水風呂で風邪をひいたとくしゃみをし」物珍しさで入湯にいった江戸っ子の川柳があるくらいである。つまり、
こうした全身入浴の風呂なら生まれた儘の姿で入るが、ふつうの浴室はサウナゆえ、男は下帯、女も湯巻をまいて入り、その部分は目に入らぬから、「男女混浴」も日本では自然だったらしい。
 つまり長兵衛が湯船からザブンとでてきて、ぐっと胸を張って殺される場面は、恰好はよいが、あれは絵空事にすぎないらしい。

『福山水野家記』によると、
「成之(十郎左衛門)三千石にて分家お旗本として召されしが、徒党をくみ競いあう。明暦丁酉暴徒(長兵衛)不敵にも忍びこみ襲う。発覚して浴間へ這いこむ。柘榴(ざくろ)口は狭少なるを以って入れず、
成之の家臣これを仕付槍にて刺す。しかれど、その槍が権現さま拝領のものゆえ、その時はお構いなかりしがその後も乱妨やまず七年後に蜂須賀家へ預けられ、家事不取締に問われ死罪仰せつけられ、
成之の家系はこれにて絶ゆ」とある。

 福山十万石は十郎左衛門の里方ゆえ身びいきもあるだろうが、三千石の直参旗本が、割元風情の男を自邸に招待するというのもおかしい。
 やはり実際は秘かに邸内へ忍びこみ、見つかって這って潜れる柘榴口から隠れ、これを十郎左の家来が突き殺したのが本当かも知れぬ。となると、これまでの芝居はまるっきりの出鱈目、
フィクションということになる。しかし双方共に、別に男を売るといった事より、ありては白の神信心と、それに対抗する黒の仏徒側の宗教争いゆえ、それくらいが落ちかも知れない。
 が、今でもテレビドラマをみて実存と思い込む人がいるように、日露戦争後から大正にかけてのデモクラシー時代に生まれた(町人の味方の侠客長兵衛)というイメージにとりつかれ、
十郎左を悪玉扱いする向きもあるが、それではせっかく明智光秀の槍を貰ったその祖父の水野藤十郎勝成に澄まないようなもので、「男でござる」と客観的にいいきれるのは、
作りものということになるのであろうか。カッコがよいのやらもっともらしいのは信用できかねる。

 忠臣蔵で一般的によく知られているところの、「ないないのマイナイ(贈賄)を江戸勤め家老がしなかったばっかりに、吉良上野を憤らせてしまい、
殿中で恥をかかされた浅野内匠頭が上野に斬りつけた」という話がある。
 このために浅野家は取りつぶしにあって、家老大石内蔵介以下が、翌年十二月に、本所松坂町の吉良邸へ討入りゲバを敢行。これが、「忠臣蔵」だが、討入りがよく知られている割には、
その発端はあまり知られていない。
 だが、定説みたいな通説はまかり通っている。幕末の嘉永年間に岩城平藩士鍋田昌山が資料を集めたという。(補遺の三に別冊四冊つきで赤穂義士資料大成として限定
版が日本シェル出版よりでている。)「赤穂義人纂書」を定本にしていて、明治四十三年に上下二巻で刊行された国書刊行会のものにも、佐藤直方門下の書いたという、
「浅野吉良喧嘩にあらざる論」があるが、「吉良が浅野に対してつらぐせして浅野に腹を立てさせたるは、浅野が吝で金をやらぬ故なり」とでていて、ケチを理由にしているし、
太宰春台のものでは、「相役の伊達右京充の家臣は吉良上野に多額の金帛を贈る。よって吉良は殿中にて伊達を賞める。赤穂候浅野内匠頭はこれをきき逆上して吉良をきる」となっている。
 だからして収賄事件が発端のように伝わっているが、昭和六年に雄山閣から出た二巻の、「赤穂義士史料」に入っている。
「関白近衛日記」では、
「口論に及び、しこうして浅野は吉良に一刀を討つという、珍事珍事」とあり、
「東園基量卿記」では原因を、
「浅野内匠頭乱心の由、沙汰あり」とする。
 まあ突然発狂したというのであれば、極めて事の起こりは簡単だが、太宰説では、(浅野内匠頭の家臣も伊達の家臣同様に吉良上野介に、多額の金を贈っておいたのに、
片手落ちに伊達の方だけを賞めたから、それは不公平ではないかと、斬りつけた)ことになっていて、これでは吝ということにはならなくなる。
 だからして、どうも、これまでの通説がおかしいのではないかと疑いたくなる。
 というのは今でこそ相手に手土産や金を贈るのは、帰り間際か用談中に差し出すのだが、昔は違った。先に入口の式台にまず並べてから、
「頼もう」といったものである。すると、「どうれ」と受付がでてきて用向きをきき、持ってきた金品と比べてみて、秤にかけ、至当と思えば、その進物を式台の上でコツン、ガタンと音させた。
 そこで取次衆とか申次という役目の者が、「いまの音なら、これは合格であるな」と判断し、表書院へ通す仕度をさせた。だから、こういったものを、
江戸時代まで「音物(いんもつ)」といい、物も届けてこねば便りもないのを「音信不通」ともいう。

 そして入口の式台から転じて昔は、「色代(しきだい)」というのが挨拶のことで、(これでは少ない)といわれ音物を増すのを、「色をつける」とも称しこれは今でも用いられている。
 足利十五代将軍の義昭などは信長に追われて、和歌山の由良や備後の鞆にいた頃は、面会というか拝謁にくる者から、参観料みたいに銭五疋から十疋。
一疋は十文だから当今の五千円から一万円の色代をとって、それを生活費にあてていた記録が、同地静観寺には残っている。つまり色代には相場があった。
 だから浅野家江戸屋敷詰めの者が、吉良邸へ挨拶にゆくのには、それ相応の相場に叶った金品は先に持って行っているはずである。
 でなければ玄関払いされて受付けてもらえないからである。また浅野家は、その数年前に、やはり接待役を仰せつかってコーチを頼みにいっているから、これを前例として、
「吉良邸へは何程の色代を持参するか」は前もってよく知っていたはずである。
 間違っても浅野家の江戸家老が、「ケチをしまよう。ド吝にしよう」
 と持ってゆく物を惜しんで、手ぶらで挨拶に行ったとは考えられない。だいいちそれでは面会謝絶である。

 それに各藩とも江戸勤めの家老というのは、「御留守居役」とも称され、現在でいえば外交官の仕事で、普段でも老中や役向きを接待して一席もうけたり、
それぞれに付け届けするのが彼らの仕事だったから、それが、「江戸家老がケチしたばかりに、吉良上野にいびられ、殿が我慢しかねて抜刀した」
 というのでは辻つまが合わなさすぎる。つまりこれは一般に判りやすいようにというか、収賄したくとも出来ぬ民衆の為に、
(贈賄ばかり取っている人間の末路は哀れなもので、炭俵のつんである小屋へ逃げこんで真っ黒になっても、白い雪のところ引っ張り出されて殺されてしまうのだ。
おう貧しき者こそ幸いなるかな。そは収賄ができねばなり)
 といった説話的構成になっているのか、はたまた勧善懲悪でか?と、どうも首を傾げたくなる。
 

映画「マーシャル・ロー」の紹介

2021-10-14 18:47:34 | 新日本意外史 古代から現代まで


映画「マーシャル・ロー」の紹介。


この映画は2001年のアメリカ同時多発テロをモデルにしたものではなく、公開は1998年だから、まるで多発テロを予言したような内容である。
以下が配役である。デンゼル・ワシントンやブルース・ウイルスに関してここでの論評はしないが、女優のアネット・ベニングについての感想を少し。
まず美人である。清純さと色気が混じりあった大人の女の魅力がある。
何度もアカデミー賞候補になっているが一度も取っていない。この映画ではCIA工作員になって、利用できれば協力者にも肉体を与える凄腕の女を演じ最後は撃たれて壮絶に死ぬ。
「アメリカン・プレジデント」では大統領(マイケル・ダグラス)と恋に落ちるラブストーリーの清純なヒロイン役が印象深かった。
決して肉体派ではないが、均整の取れた肉体を晒し「濡れ場(SEXシーン)」も綺麗でよろしい。
日本の女優といわれる役者は己の肉体を晒すのを嫌がる。所詮役者などという人種は「見られてナンボ」の世界の住人。
本番をやったらポルノになるが、物語の必然性で、裸やSEXシーンが在れば監督の言う通り演じればいいだけ。ここで名前は挙げないが、
ねり絹のような肌を持ち、女らしい色香の漂う女優やタレントは、テレビ画面からも想像できる女は多い。またアラン・ドロンの名言で「役者は役を演じるのではなく人間を演じるのだ」を実践して、
臭い演技は捨て、人間の暗い洞や深い闇を抱えた悪女役や、濡れ場にもどんどん挑戦してもらいたいものだ。


アンソニー・ハバード - デンゼル・ワシントン
エリース・クラフト/シャロン・ブリッジャー - アネット・ベニング
ウィリアム・デヴロー将軍 - ブルース・ウィリス
フランク・ハダッド - トニー・シャルーブ
サミール・ナジデ - サミ・ブアジラ
フロイド・ローズ - ランス・レディック
マイク・ヨハンソン - マーク・バレー

映画の概要。
以下ウイキペディアからの転載。

邦題の「マーシャル・ロー (martial law)」 は「戒厳」の意味。原題のまま「シージー」では日本語として語感が今一つで、「戒厳令」では語感が重すぎるとの判断から採用された。
なお「マーシャル・ロー」は原題決定前の仮題でもあった。
また原題の"siege"は「包囲」を意味し、戒厳の前提状態の一つである「合囲状態」を意味するフランス語の「État de siège」に通じる。
ニューヨークで大規模なテロが多発した時、警察やFBI、軍隊はそれにどう対処するべきか、自由の意味、法の価値などを説いている。
本来アメリカ国外でしか活動しないCIAと連邦軍がアメリカ国内でのテロに対処するためアメリカ国内で活動し、
「アメリカ国外でCIAと連邦軍が行っていること」がアメリカ国内で行われることになる。アメリカ国内での違法行為を取り締まるFBIは、CIAと連邦軍の違法行為に直面する。
デンゼル・ワシントンとエドワード・ズウィックとの、3度目のコラボレーション作品であり、DVDの特典映像であるメイキング・オブ・マーシャル・ローでは、彼ら2人のお互いに対する思いや作品に傾ける熱意について詳しく語られている。


「日本書紀」考察 天智天皇と天武天皇との謎 桃太郎

2021-10-06 18:29:41 | 新日本意外史 古代から現代まで


  「日本書紀」考察
 
 天智天皇と天武天皇との謎 


桃太郎伝説 御伽噺から見える日本史の真実 


先ず、「日本書紀」の編纂者は誰か不明である。そして書紀には「天皇家の祖先や祖神が、日本列島においては遅れて来た者達であり、神武(イワレヒコ)が大和盆地に侵入して」その地において新たに王朝(?)を建てたという立場をとっている。
神武の即位を辛酉の年においた識緯説の神武天皇の即位を辛酉の年において識緯説の辛酉革命論は、神武の大和侵入及び征服は前王朝(考古学的には「銅鐸国家」の顛覆)が前提となっている。
中国古代史を通読してみれば王朝の交替は明記されている。前王統に連なる者であるとか五世の孫であるとかの記述はない。その中国文化を範とした大和政権が、何故王朝交替を隠匿したのかの疑問がある。
日本にのみ固有のこの血統の継ぎはぎ現象の動機が不可解なのである。


次に、日本列島の三韓分有説については、それが事実であったなら『好太王碑』に倭の出自について、百済や新羅に対すると同様、「もと高句麗(扶余)から分かれた」との文字が当然あるべき筈である。
それを書いて不利な理由がない。もちろん明治十六年に中国東北部にある輯安の好太王碑を訪れ、その拓本(写し)を持ち帰った酒匂大尉が削除したというの説もある。


 白村江以降の唐占領説についても、唐側の史書にその旨の記載をしても唐にとって国威発揚になるし、宣伝により威信を高める効果ならば考えられるが、書いたことによるデメリットは無いのになぜ書かなかったかのか? 
血統信仰に関連するのが、奈良の百済政権は当時の日本と比べて文化的・技術的に先進国であり、貴種でもある自らの血統を、日本先住民に対して優位に立っているのになぜ匿さねばならなかったのか。


唐は倭国と日本国を何故に並記しているのか?西暦8世紀迄は、日本列島は唐によって二分されていたのではなかろうか?海洋渡来系先住民である八ッ族の額田王に関連するのでしょうか。
次の二点が大変明確に読み取れます。


①天智紀七年の条「是歳、沙門道行草薙剣を盗み新羅に逃ぐ。風雨にあひて、荒迷ひて帰る。
②天武紀朱鳥元年六月「……戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣が祟れり、即日、尾張国の熱田社に送り置く」と言う具合に、剣の有難さというか後に「三種の神器」となる尊さをとく。


また、景行紀のヤマトタケルの東国平定説話のエピソードの一つとして、草薙剣を神体とする熱田神宮の起源潭について、中村幸雄氏は『市民の古代研究』というパソフレッ卜に、前紀①、②の記事を考察している。
結論を言うと、草薙剣は天智の時に初めて近畿にもたらされた(もちろん唐側から見た倭国で盗まれた?)もので、この剣は、天智には祟らなかったけれど、天武には祟って天武は結局この病で死亡した。
熱田神宮に剣が合祀されたのはこの時だ、というものである。私はこれに加えて、何故尾張なのかという疑問を感じていたのですが、徳川時代の尾張がアマ族の国であったという説と関連するのだと思います。
何故なら徳川時代の尾張が海洋渡来先住民であるアマの民(アマ族)の国であったとという説と関連するからです。


上記は「日本書紀」と「古事記」を金科玉条とする歴史屋と一線を画し「日本書紀」の記述に疑問を呈した飛騨高山のK氏の一文である。
常識も思考力も失った歴史屋よりよほど勉強されている。先日ノーベル物理学賞受賞の真鍋淑朗氏も言われているように、「何故」「何故」という飽くなき疑問と「好奇心」こそ学問の基本だからである。


    「日本書紀」考察


ここから「日本書紀」に絞ってK氏の疑問点と合わせて考察をしてみたい。
さて、「日本書紀」では、落下傘もなしに天孫民族が降臨し、金色のトビをガイドに遠征し、大和地域を平定して、辛酉の世変りの年に、鉄剣で日本先住民を征服し、建国したとしているけれど、
今では歴史屋でも、さすがにこの説はとっていない。前王朝の銅鐸国家というのは、高麗系が建てた出雲王朝の事である。
武内宿弥の昔から、朝鮮半島人の勢力と中国本土より渡来勢力は、日本列島を舞台にして何度となく、代理戦争で仁義なき戦いをくり返していたのが実態。そして、そのたびに鉄砲玉として先住民で
ある吾々の先祖が、消耗品とし双方に使われ殺されてきた、使い棄ての歴史そのものなのである。


 従来の史観は、朝鮮の銅剣が中国本土よりの、鋼鉄製の鋭利な刃物のホコや青竜刀によって叩き折られて征服されたのを数度くらいにみている。
しかしこれは大きな間違いで、実態はあけくれ西暦六六三年の白村江の敗戦後のあとまで続いている。ずっと後になっての南北朝合戦にしても同じことである。
(南朝は朝鮮高麗系で、水軍として河野氏、土居氏、宋氏、対馬水軍、菊池氏にど。北朝は明国系の足利氏)




 新興明国の後押しをうけた足利方の北朝と、兵庫三の宮から湊川にかけての勢力で最後の戦いをしたのが南朝側である。が、当時は従来の高麗体制が崩れ「李氏朝鮮」に換わった時点だったのである。
だから朝鮮から日本列島への援助どころではなく、後楯として武器輸送ができず足利方が勝って勝敗が付いてしまった。
 が歴史屋さんたちの最大の誤りは、大東亜戦争中の軍部の誇大宣伝のごとく、日本列島に、昔から「日本帝国」のような壮厳で、かつ立派な国が、朝鮮半や中国大陸と、さも対峙し存在していたかのような、
夢というか幻を蜃気楼の如く妄想を抱きすぎていることである。
正直いって、昭和の至尊が、韓国全大統領に仰せられたごとく、我が国の建国は六世紀七世紀なのである。
以前の日本列島は、前方後円墳を今に残す地方豪族というのが、潮流で日本各地に渡ってきて住み着いていた。
彼らは武器などという物はなく、裸足で喰いつき合うような原始的な状態だった。だから苦も無く彼らを奴隷化して、地方別に小さな勢力を維持していた、纏まりのない、いわば無法地帯だった。
だから「豊葦原瑞穂の国」というのは「農耕もする海洋渡来の先住民は、太平洋岸の各地に住み着いて、彼らは後の平氏となる、赤を民族色とした部族で稲穂の地区。一方寒流で日本海を渡ってきた
遊牧民族が、馬に食わせる豊かな牧草が茂る葦の原っぱ」という意味なのである。
中国や朝鮮と比べて、日本は未開発途上国だったゆえ、散々苛められ、次々と彼らに君臨されて「奴隷」とされていた。庶子の民から生まれたから「庶民」とされ、これが「我々庶民の生活は・・・・」と今でも使われる。


  「任那の日本府」の間違い


 明治軍部は大陸進出の為中国人を「チャンコロ」とか「ヨボ」と戦意高揚のために学校教育で蔑称を与えた。
これはかって太古の時代日本先住民が差別され苛められた仕返しとみれば非難の対象にはなるまい。
かつては、「満州国」の名称で敗戦まで中国東北部にあった。その当時の入植した日本人は
 「相手は日系か、じゃ心配いらん」 「えっ朝鮮系か、用心せんといかん。彼奴らは油断ならん」
 「えっ満州系。そりゃ念を入れて掛らんと向うは頭がよく廻る、コスッカラクひどい目にあう」と現地の日本人は、五族協和の国というのに韓国系に用心し中国人は賢いと敬遠していたのである。


 威張っていたのは関東軍の連中だけで、現地の日本人は軍を背景にせねばかなわなかったのである。処が日本内地では、かつて苛酷に扱われ散々に苛め殺されたミジメたらしいことへの裏返しなのか、
日本歴史をロマン化し美化して偽造してゆくため、日韓合併後は堂々と朝鮮半島の新羅、百済、高句麗は日本へ貢進してたような嘘を書く。
半島三国が、それぞれに、「ムネとする城」の意味の胸蔵(ムネサシ)の今の東京都。「ムと主を現す城」の武蔵の今の埼玉県。「中核を意味するサネを上につけたサネサシ」の相模の今の神奈川県と、
関東だけでも三つ巴になって狭い日本列島の中で相争っていたのが実相。


 従って現地解決はむりなので、朝鮮半島に「任那」とよぶ三国合同の協議会議所、今の38度線の南北管理会談所みたいなものを作った。
これを「任那の日本府」と歴史では言うが、これは三国の協力統治が目的のためだったものにすぎなかったのに、これをさも往古より巨大な日本国が存在していた如く学校歴史で教育されている。
だから先日もテレビ番組で櫻井よしこ氏が「あの時日本が朝鮮を助けたのです・・・」と話していた。
日本で最も注目される論客で、碩学の一人でもある櫻井氏でさえこうして間違いをしてしまうのだから、あとは悲しいかな推して知るべしである。
 ここの間違えは、植民地占領側の支配の「好太王碑」の文面に、「もと高句麗(扶余)から分かれた(人種)」などとは、未開発の野蛮人視していた倭人のことを書く筈などありえない。
                    
   白村江で勝ったのは「唐」


朝鮮半島の百済が唐に侵略され、母国滅亡の危機を救うため、日本に君臨していて、奈良朝の百済人が日本先住民をかき集め(二万三千~三万人説)本国救済に白村江へ送った。
しかし将校や指揮官は百済人だが、多くの日本先住民は当たり前の話だが百済に散々苛められてきて、真面目に戦うはずはない。それに武器も圧倒的に劣悪だった。
鎧袖一触敗戦となる。
勝った唐の将軍劉仁軌は部下の郭将軍に、降伏した百済人朴将軍以下将校共に道案内をさせ、日本に上陸し、倭国の御所を占領した。
この事実は西暦六六九年の唐の高宗総章二年に、倭の完全制圧に必要な兵員は要求通り送らず、僅か二千余人を冷ややかに形ばかりに派遣した事実。


これを日本では白村村の戦いというが、奈良王朝の人間は少なく、指揮官だけだから唐の軍勢に一敗地にまみれ、指揮官達は捕虜となった。
 そして百済を占領した唐軍は、唐の将軍鎮将劉仁軌は部下の郭将軍に降参した奈良王朝人たちを道先案内にして、日本へ進駐してきたのである。


この証拠が次の有名な歌である。


いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな


この歌を綺麗な桜の情景と誤解しているが、とんでもない間違いでその意味は。 これを現代語訳では


「いにしえの昔の、奈良の都の八重桜が、今日は九重の宮中で、 ひときわ美しく咲き誇っております」となっていて良く知られている。
だが果たしてそうだろうか?

このサクラの語源は古代百済語の「群がり」の意味なのである。
今は居なくなったが昭和35年頃までのヤクザの香具師たちの言葉で、客寄せの意味に 使われていた。
 香具師たちは大道で店を開き、衣服や万年筆など様々な品を売っていた。
「さあこれは値打ちもんだよ、実は○○工場が倒産して社員の給料が出ない、だから安く売りに出したんだよ。はい300円でいいよ」

 すると何人かが近寄ってきて「ほぉーこれは安いね、俺に3個おくれ」「そんじゃ俺も社員を助けるためだ、5個おくれ」 こうなると通りすがりの一般の客も集まってきて、我も我もと買っていく。
これを<タンカバイ>というが、この客寄せ用の云わばヤラセ役がサクラというのである。
現在でも各テレビ局の放映の際、スタジオに集められてデレクターの合図で笑ったり拍手したり、驚いたりする奥さん連中もサクラなのである。

 さて、その昔はサクラとは賤の者の集まりや集団で、つまり差別され虐げられていた 日本原住民達を指す。下総の佐倉といった地名も残る。
尚、ヤエとは女のことで、八重桜とは百済の女達をいう。これらを頭に入れてこの歌を読み解けばこうなる。

 朝鮮半島の百済人が奈良王朝を立てて日本に君臨していたが、本国の百済が大陸の強国唐に負け、
唐の勢力が奈良王朝に取って代わって奈良の御所に入ってきた際御所に居た百済の女達は、キムチの臭いか放屁の臭いか、とにかく唐の男たちには臭くて堪らなかった。
という意味。
桜の花なんか強烈な臭いなどしないし、綺麗な歌なら「かおる」というだろう。即ち戦勝唐勢力の百済を卑下した歌だと判る。




「魏志」には収録されている倭に対する記述を額面通り受け取ってはならないのである。
何故ならあれは書き手は魏の下っ端の役人で、稿料か褒美が欲しくて、見聞していもせず、ましてや実際に行ってもいない倭のことを、中国お得意の白髪三千丈式の誇大に書いたものである。
それでは実際の所は何処かと言えば、現在のベトナム沖の「海南島」でこれが「倭人伝」なのである。
それに書かれている倭が立派な国家なら、唐も占領しがいがあり、本腰を入れてもっと兵も送り、積極的に援助もしたろう。


そうすれば、従九位下の朝散太夫の位階しかない郭あたりではなく、従四位の劉仁軌将軍位の豪いのが代わることになる。そうなっては、折角苦労して倭へ入った郭の手柄が上司にとられてしまう。
ここが問題で大事なところである。まず倭の日本列島が、見るべき資源もなく何の価値も認められぬゆえ、唐本国ではあまり気乗りせず放任し、占領など念頭に無かったのが真相だろう。
次に郭が本国へ凱旋して二階級ぐらい昇進したとしても、到底皇帝への御目見え格には程遠い。つまり戻ってもたいした立身出世は望めない。
ならば男は度胸と居直ってしまい、さながら唐の分国「倭独立国」のような立場をとった。


そして、劉仁軌将軍の部下や本国へ戻ってもウダツの上がらぬ同僚たちを招いた。また唐本国で前途のないアブレ者やナラズ者を、新建国のため金で集めて呼んだかも知れない。
当時の倭には、何の資源もなかったが、山金だけは東北や新潟にゴロゴロ在ったからである。




 日本歴史年表では「舒明二年八月五日に犬上御田鍬、薬師恵日を唐に遣わす」と、これが遣唐使の始まりなりとする。だが、それは唐の太宗の貞観四年で西暦六三〇年のことである。次は、
西暦六五三年五月十二日に吉土長丹、道厳らを第二回の「大唐遣唐使」として送る。
同年七月の遣唐使高田根麿の乗船が薩摩の曲竹島にて沈没したので、翌西暦六五四年二月には、高向玄理らを改めて遣唐使として送る。と、24年間に四回も唐へ船を出し、帰りに人材を迎えている。


 だから郭務ソウも新しく国をおこすぐらいの有能な人材は、どうにか当時の倭には、もう揃っていたのかも知れない。さて自村江の戦いのあった西暦六六三年の前の九年間には遣唐使の記録はまったくない。
戦後の六六五年九月二十三日だけ唐より近州司馬、馬上柱国、劉抬高がきて、潮流が唐へ流れる十二月に彼らが帰る際に、郭は何んの報告をさせるつもりか、弁口のうまい小錦守君大石らをつけて戻している。
これが功を奏したのか、、倭の地は野蛮な地にて、なんら利あらざる土地と吹きこませたせいか、白村江敗戦から実に60年後の西暦七一六年になって初めて、第五回目の遣唐使が、
八月廿日に多洽比懸守によって、郭将軍の死後らしく送られている。
 ということは半世紀の余にわたって、唐の方も倭の方も互いに知らぬふりで放っておかれたのであるから、「唐書」に「倭を唐が占領した」となっていないのが当然のことと言える。


 なにしろ当時の日本列島は半世紀以上もたって、久しぶりに遣唐使を送った8世紀にあっては、唐に滅ぼされて取って換わられた隋の時代に渡った人々が、日本書紀でいう「中ツ国」と称し今も中国地方と呼ばれる岡山に集団結束していて、
この一大勢力を、郭務ソウは、トウはトウの発音でも「桃」の字をあて、己れらはトウはトウでも「藤」の当て字をもってして、同じ中国人どうしでも張りあっていたのだから、唐側で倭と日本と二分したのも有りうる事である。
 唐の鑑真和尚来日のとき「桃輩(原)」として彼らを通訳に使ったのである。江戸期まで「隋隋ずっころばしゴマ味噌ズイ」の蔭口は童唄として残されている程である。
これは唐が隋を滅ぼしたことへの優越感と、馬鹿にした伝承童謡なのである。最後に、この考察を補強する意味で「桃太郎伝説」の真実を以下に記しておく。



桃太郎伝説 御伽噺から見える日本史の真実 
 



 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きました。
 おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
「おや、これは良いおみやげになるわ」
 おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと、
中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。
 桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
 そしてある日、桃太郎が言いました。
「ぼく、鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、わるい鬼を退治します」
 そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。
 旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
 そして、こんどはサルに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 そしてこんどは、キジに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」
「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」
「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」
 こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。



 鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。
「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」
 イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。
 そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。
 とうとう鬼の親分が、
「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」
と、手をついてあやまりました。
 桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。
 おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。
 そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。お終い。
 
これが、一般的な物語の筋書きである。

桃太郎は善で、悪いやつは鬼と言うことになっている。
だがこれは善玉と悪玉が完全に逆になっている。
 
 さて、ここからこの面妖な昔話を解剖すると、日本で「中ッ国」と呼ばれるのは現在の中国地方の岡山。
中国大陸で隋を滅ぼした唐が朝鮮半島の百済も滅ぼした。

 この当時の日本は百済人が立てた奈良王朝時代である。百済人たちは「朝鮮半島本国の一大事」とばかりに、
二万七千とも三万人とも言われる日本原住民をかり集め、派遣軍を半島へ送り込んだが白村江の戦いで大敗する。
これは学校でも教えている有名な史実である。
が、此処からが日本史では隠されているが、真実は以下のようになったのである。


 勢いに乗って唐の軍勢は、九州から本州へと進軍した。
そして唐を「籐」と替字し「藤原氏」と称した。この時代を平安時代という。そして当時から「ズイズイズッコロバシゴマ味噌ズイ」と
今も童歌に残るように、日本にも唐が滅ぼした隋の人間は沢山来ていたので、彼らには同じトウでも「桃」の字を充てて区別していた。
(昔の日本は四季のはっきりとした、公害も無く、まして岡山地方は美しく住みやすく、黄塵の吹き荒れる大陸人にとってはこの世のパラダイスとも写ったろう。だからこれを「桃源郷」という)

 だから占領軍である桃(唐)から生まれた桃太郎は凛々しい貴公子で、偉い様なのである。
当時のことゆえ、吉備で獲れたキビを与えたとも考えられるが、おそらくはコウリャンだったろう。

新羅系の猿(サルリ、サルメ)、高麗の犬(コマイヌ)、百済の偵察を意味する雉、キージーに食料を配給して、
隠忍(オニ、鬼)と呼ばれていた、我ら御先祖の日本原住民(唐体制に従わぬ民)を討伐し、彼らが生産していた穀物や干魚、荒塩などを、宝物として略奪してきた、という話なのである。
こうした真実を教えないで、幼児時代から一般庶民の洗脳教育に童話の絵本が広まってる。
原住民の内でも、どんな体制にも従わず、河川、海浜や山奥に家族と一緒に逃げ回っていたサンカ族は、この国には多くいて、
サンカが特に多く住むと言う東海地方は太平洋戦争後、昭和30年代でも大人は、桃太郎の絵本などは絶対自分の子供に見せないし「わしらの頭に、角が生えているか・・・・・」と、本当の意味は判っていたらしい。