新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本のサイバー・セキュリティ防衛の実態

2020-06-28 10:16:54 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本のサイバー・セキュリティ防衛の実態


日経新聞は21日、「サイバー防衛、遅れる日本」と題する記事を掲載しました。
自衛隊が来春までにサイバー部隊の人員を3割増加の約290人に増やす一方、米国、中国、ロシアに比べると圧倒的に少ないと紹介している。
防衛省は民間からの専門家をヘッドハンティングすることを検討しているものの、その動きは鈍く、体制の強化が遅れると米国との協調に影響が出る可能性もあるとしています。
ということは、圧倒的に豊富な情報量の米国からの情報供与が少なくなり、日本は情報の谷間に孤立することを意味する。
従って日本はコンピューターに精通した、操作と分析力の強い俊英チームを、早急に大量に増やさなければならない。
私案だが、日本も欧米に倣って、内閣直属で少なくとも、5000人規模の「国家サイバー・セキュリティー・センター」が必要だろう。
台湾で大成功した、民間登用の天才IT大臣のように、日本も見習うべきである。
日本の数十万人の「引きこもり」の中にはコンピューターオタクも沢山いる。彼らをコンピューター科学で再教育し、サイバー・セキュリティー戦士として雇えばいい。
与えられたことをソツなくこなすしか能のない官僚や役人より、よっぽど尖がった思考方法の彼らこそ適任だと思う。
ハッカーは個人もいれば、世界には主要なハッカー工場がある。
そこにはロシア政府グループ、イラン、イスラエル、北朝鮮があり、これらグループは日々不正侵入にいそしんでいる。
しかし、個々のデータベースには、不正侵入すれば識別番号や、クッキーの識別で同一PCが判る。
また、メールヘッダーからはIPアドレスが判るし、リモートホストからはプロバイダーも解かる。こうした痕跡を辿ればそこから個人や組織を辿ることは可能である。
だが全く痕跡を残さずサーバーに侵入して、情報を盗んだり、ウイルスを仕掛ける猛者もいるのである。これらに対抗するには並みの技術では到底対抗できない。
発表はされていないが、日本は銀行や、防衛産業などからの金や情報が盗られていることが想像できる。
こうした強力な相手に伍して対抗しなければならない日本は、相当な資金も人材も育成しなければならない。
米国のサイバーセキュリティ人員は、民間企業に勤めていて、国防省から依頼を受けている人も含めて約6000人と言われている。
アメリカは、アラブ人の自殺テロにより、3000人近くが殺された、9.11事件の後、衝撃を受け、深刻なトラウマを負い、現在もその傷は癒えていない。
その後アメリカは復讐を誓い、テロ対策に膨大な金を使った。ブッシュ大統領の八年間と、オバマ大統領の一期目の四年間で一兆ドルと言われている。
日本の国家予算の一年分以上にもなる。
当時、アメリカの全ての情報機関がきちんと仕事をしていたら、9.11は防げただろう。何故なら様々な兆候や示唆や噂や密告があり、
尋常でない事実が指摘され、報告され記録されていたのだが、結局は無視されたのである。
政府としては何かしなければならないということで、既存の組織と職務が重複する新組織が何十と作られた。
『安全保障』という錦の御旗により政府の支出は爆発的に増えた。そして、これらの情報がきちんと読まれたのはそのうちの一割ほどに過ぎないという事態が生じた。
膨大な情報を処理する時間も人間もない。そしてこの十二年間に、コンピューターのデータベースが世界を支配するようになったのである。

ちなみに、アメリカを裏切り亡命したエドワード・スノーデンがモスクワへ飛んだときには、150万件以上の文書を持ち出したと考えられている。
それだけの文書を入れたメモリースティックを肛門に挿入してから国境を越えたのだ。
スパイの世界の古株たちが言うとおり、それだけの情報を運ぶには昔なら何台ものトラックをつらねなければならなかっただろう。そんな車列が国境を越えようとしたら、人目につくどころの話ではない。
 そんなふうにコンピューターが人問から仕事を引き継いだことで、何兆件もの秘密情報がデータベースに蓄積されるようになった。
サイバースペースと呼ばれる神秘の空間がますます複雑怪奇になるにつれて、そのからくりを理解できる人間が少なくなる。
それと歩調を合わせて、犯罪も変化した。昔は帳簿をごまかして小金を横領していたのが、今日ではコンピューターを使って史上類をみないに額の金を盗み出す。
こうして現代世界はインターネットの隠し資産と、ハツカーと呼ばれるサイバースペースの泥棒を生み出した。
これらを国家ぐるみで実行しているのが、金正日独裁国家、北朝鮮なのである。
 
そして北朝鮮には6800人のサイバー部隊がいて、仮想通貨を盗み出して換金するなど、国家の「稼ぎ」にもつなげているという噂もあり、韓国の公共インフラを停止したり、
原子力発電所を暴走させたりすることもできると言われている。そしてターゲットには日本も入っているという恐ろしい『強盗国家』なのである。
一方の中国は国策によって10万人を超える規模を誇っていて、ロシアでさえ1000人規模だという。
中国には、戦略支援部隊の下にサイバー部隊があるが、このうち約3万人は攻撃部隊だと言われてる。
こういう、敵意と悪意に満ちた国家に包囲されている日本のサイバーセキュリティー対策は、遅れに遅れている。
先頃の、中国発祥の武漢病毒肺炎で疲弊した日本国民に「一時金支給」にしても、迷走につぐ迷走で日本のネットの弱さを露呈した。
これも、十年も前に電子化をしなかった自民党政府(通商産業省)の重大な過失責任である。
日本は、喫緊の武漢病毒肺炎対策の強化は勿論、侵略国家中国の尖閣防衛、北朝鮮や中国からのミサイル防衛(イージス・アショア)と、
問題は山積している。このサイバー・セキュリティーも併せて早急に構築しなければならない課題の一つであろう。


嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第一部】 光秀の母の名は

2020-06-24 16:03:46 | 新日本意外史 古代から現代まで
※本稿も長文です。NHKの大河ドラマを本物と思い込んでいる方は、その違いに驚かれるだろう。どちらを信じるかは読者の自由です。
しかし、興味のある方はプリントアウトして熟読するのもよろしいかと。尚、誤字脱字はご容赦。

   嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第一部】
 光秀の母の名は

 〈総見記〉は別名を〈織田軍記〉ともいうが、これに、こう言う話が載っている。
 「明智光秀は天正七年の五月に丹波へ進攻し、八田、波多、八折の諸城を落した。だが八上城の波多野一族だけは、あくまでも反抗して手をやいてしまった。
当時、西丹波から攻めこんだ秀吉は、僅か二十日間で平定して既に播磨へ凱旋していたから、東を攻略できぬ光秀は焦った。
そこで、五月二十八日に、己れの老母を人質として八上城へ送り、波多野兄弟を、光秀は、自分の本目(もとめ)の陣へ招いた。
ところが信長から召連れるようにと沙汰があったから、安土へ伴ったところ、信長は、波多野兄弟を、慈恩寺の門前で張付にかけて虐殺した。この報復として八上城の者は、
人質にきていた光秀の母を殺した。そこで世間の者は『なにも手柄をたてたい為に、自分の母を棄て殺しにすることはあるまい』と、光秀のことを『親殺し』とよんだ。
そこで、こうなったのは、みな信長のせいであると、この時から光秀は逆意を抱くに到った」というのが、その荒ら筋である。
 〈柏崎物語〉にも、これと同巧異曲の話がのっている。
 (ということは、つまり、どちらかが書き移したのであろう)なにしろ「信長殺し」を「母の仇討」にすると、いかにも恰好がつくらしい。
だから光秀びいきの者によって、この話は、よく引用され、まことの実話みたいにされる。
 これの史料の裏づけとしては、ただ、〈太田信長公記〉巻十二の、「丹波国の波多野兄弟の張り付けの事」に、
「さる程に惟任日向守が押しつめ取りまき、三里四方に堀をつくり塀をたてて攻めたてたゆえ、波多野の城中は食がなくなり、切羽詰って転げ出てくる者も、
みな切り殺したから(生き残りの城兵は、なんとかして助かろうとして)波多野の城主兄弟三人の者〈調略〉を以て召し謔り(これを光秀の許へと届け自分らの命乞いをした)」
 とあるのを、どう筆がすべってしまったのか、「調略」という言葉を間違えてしまったらしい。と故高柳光寿先生は、
(波多野の家来が切羽詰って、我が身可愛さに、その主人兄弟を瞞して捕えた)というのが本筋なのに、主格を取り違えてしまった。光秀が調略をした事にしたのだと、
解明している。さすがに立派な学者である。

 それなのに他は、「それなら母でも人質に出したことにしよう。波多野が殺されているから、その報復手段として人質の母も殺されよう。
そうなれば、光秀が無念に想って、母の敵討ちに本能寺へ押しかけたことになって判りやすいだろう」と、こしらえてしまったようである。
 さて、これは、この問題とは無関係かも知れないが、「光秀の母」は誰であろうかということも、考えてみる必要がある。といって、なにしろ光秀の父の方も皆目判らない。
 もちろん「系図」は色々ある。父の名は、〈続群書類従本〉の〈土岐系図〉は、監物助光国〈明智宮城家〉の〈相伝系図書〉は、玄蕃頭光綱〈鈴木叢書〉の〈明智系図〉は
玄蕃頭光隆〈系図纂要〉の〈明智一族〉は安芸守光綱となっている。このように各種によって皆相違している。
だがこんなにたくさんの父がいるということは、結局は、一人もいなかったに、ひとしい。
もし光秀の生母が、性業でも営んでいたのなら、一晩に何人もの男を順ぐりに送り迎えしたから、多分、この中の一人か、又は複合体かも知れないと言えるが、
そんな事はありえないから、これはその名を明らかにできない父ということになる。勿論母の方も不明である。
 だが、双方がいなくては、まあ産れてくる筈はない。だから、初めは居たこと自体に間違いあるまい。
 ただ判ることは、いやしくも「明智姓」を名のらせ、明智城内で育てられたからには、侍女や下女の子ではなく、これは明智一族の女の一人が、この世へ産み落した児らしいと言うことである。
 この当時の東美濃可児郡明智城主は、「明智駿河守光継」という者である。彼には、娘が三人いた。どうも、この中の一人が生母ではあるまいかと想われる。
 さて、これから私の推定であって、もちろん正確な引用は何も残っていない。しかし、「光秀」が、もし五十五歳で死んだものなら、その生れた年は、享禄元年となる。
すると、この時点では、光継の娘は一人は死に、一人は他へ嫁いで、明智城にいたのは三女しかいない。そして当時の結婚年齢は現代と違って、きわめて早い。
普通は十四、五歳で嫁いでいる。ところが、その享禄元年に、三女は既に十六歳になっていた。この時代なら、すでに嫁入りして赤児の一人や二人はいても可笑しくない年齢である。
それなのにこの三女は、何処へも嫁に行っていない。天文二年二月一日になって、ようやく二十一歳という当時では婚期を逸した年齢になってから、彼女はようやく稲葉山の井の口城へ行く。
 斎藤道三の後添えである。「小見の方」という名であったと〈諸旧記〉にはある。
 が、ふつうは当時の慣習で、「明智御前」とよばれていたのだろう。もちろん、彼女は自ら進んで嫁入りをしたのではない。
当時の美濃の国主の土岐頼芸が、まだ長井新九郎秀竜と名のっていた道三に、彼女を無理やり強制的に押しつけたのである。
ということは、そうした命令をされなければ、二十一になって平均嫁入り年齢を、すでに六、七年たっていたのに、小見の方には、他へ嫁ぐ気がなかったということになる。
つまり明智城に何かが在ったのか。当時の言葉でいえば「嫁にゆけない躰」になっていて「行かず後家」で生涯をおえる覚悟だったらしい。
 この発想は、蜂須賀家所蔵の光秀の短歌、「咲つづく花の梢を眺むれば、さながら雪の山かぜぞ吹(く)」によるものである。
 この短冊は伝えられる処によると、同じ物が、まだ二、三残っているそうである。と言うことは、光秀が気に入っていて、所望されるたびに、この歌ばかりを、あちらこちらへ書き残したことになる。
が、この歌はたいして感心する程の叙景歌でもない。しかし当人にしてみれば、余程、印象が深かった情景に相違ない。
そうなると、人間が一番感受性にとむ年頃といえば、これは、やはり幼年期であろう。すると光秀少年の五、六歳位からの年代において、印象づけられるような出来事で、
しかも、山の雪風が、まだ吹いてくる花の季節といえば、これは天文二年の二月。現今の新暦ならば三月の、小見の方の嫁入りしかない。
 だか、六歳の幼児にとって、小見の方が他所へ行ってしまうのか、何故、そこまで傷心のできごとで、大人になってからも、その追憶の歌ばかり書いていたのだろうか。
 さて、小見の方は嫁して二年目に一女をうんだ。〈武将感状記〉にいう「濃姫」である。のち信長にとっいだ、奇蝶姫である。
そして天文二十年三月に、三十九歳で小見の方は死んでしまい、二十三歳の光秀は瓢然と当てもない流浪の旅に出てしまうのである。もちろん、
〈明智軍記〉では、その五年後の「弘治二年に斎藤竜興が明智城を攻めたから、城主明智宗宿が、わが子弥平次光春の前途を頼み光秀を、落城の寸前に逃がしてやる」事になっているが、
弥平次は秀満のことで、実父の三宅氏は別にいたのだし、斎藤竜興の名も、父親の義竜と間違えている。この俗書は、ついてゆけない。
 まだ、これよりは、〈細川家記〉の、「光秀は、自分は信長の室家(奥方)に縁があって、しきりに招かれているか、大禄を与えようとの誘いに、かえって躊躇している」
 といった一節のほうが本当らしい。なにしろ美濃を併呑した信長は、占領政策として、東美濃の可児の豪族の血をひく、その室の奇蝶を岐阜へ伴った。
占領地には訴訟が多い。双方から多額の銀や銭が、奇蝶の許へ届けられたであろう。そう判ってくると、牢人していた光秀が、この時分から俄かに、いきなり金持になってしまって、
家来を沢山召し抱えたり、大邸宅を京にもうけ、信長を泊めて、対等の交際を始めだしたのかという謎も、これで、いくらか、とけてくるというものである。
前記したように、小見の方は光秀の母だが、斎藤道三に嫁いで帰蝶を生んだのだから、光秀と帰蝶は父親違いの兄妹ということになる。
さて、頼山陽の詩に、
「本能寺ノ溝ノ深サ幾尺ナルゾ。吾レ大事ニツクハ今タニアリ。チマキヲ手ニアリ皮ヲ併セテハムというのがある。〈日本外史〉
光秀が天正十年五月二十七日に亀山から愛宕山へ登って、その 夜は、そこに参籠し二度も三度も、神籤をひき、翌二十八日、山頂西ノ坊において、
連歌師里村紹巴らと百首つくる会をひらき、その席で光秀は、まず、「時は今、あめが下しる五月かな」と第一句をつくって、クーデターの決意を示したというのが、動かぬ証拠として、
 「光秀謀叛計画説」の裏書きになる話で、太田牛一〈信長公記〉巻十五にも出ているから〈原文〉を参考に前に出しておいた。
 つまり美濃は土岐管領(ひじきの旧名か正しい)の治めていた国だから、明智も土岐の支流であろう。だから、その(とき)が今こそ(天下)を握る五月であると、これは
「メーデー歌」の草分けだと、その謀叛の確固たる物証にされている。
 もちろん、これには、まことしやかな挿話さえもっいている。光秀の死亡後、秀吉が、その証拠物件の懐紙を持参させたところ、里村紹巴は、
 「御覧の通り、初めは(天が下なる)とありましたものを、後で(天が下しる)と、しに直されていましたので、私とても気付きませなんだ」と、自分は無関係であると弁解し、事なきを得たと伝わっている。
 しかし、不思議なことに、その里村紹巴は、その二日後つまり六月二日に二条御所にいた。まるで攻撃軍がくるのを予知していたように、彼は早朝からいたのである。
そして荷輿をもって誠仁親王を東口から避難させ、自分も同行している。これは、〈言経卿記〉にも記載されてある。偶然の一致だろうか。
 なんだか、巡り合せが、できすぎている。それに、この連歌興行の日は、二十八日と二十九日の二説がある。
〈林鍾談〉などは二十八日から始めて、この夜一巡を終り、明朝また続けたと、二十九日説で、このとき名物だからと笹ちまきを出されたのを、光秀は放心状態で、
がぶりとやってしまい、おおいに赤面したというのが、転じて、〈頼山陽〉の「われ大事につくは今夕にあり」と、なるのである。
 だが、この年は五月二十九日の翌日が、六月一日になるのだから、なんぼなんでも最終日に、「五月かな」と強調するのは訝しい。
 どうしても月を入れたかったら、「六月かな」にしないと意味が通じない。
 それに、もう一つ、虚心坦懐に、〈言経卿記〉の五月二十九日の天候をみると、この日は土砂降りである。五月雨というのがあるが、
この頃は陰暦だから、初夏の本降りである。「車軸を流すような」とか「天地が入れ換ったような」と表現される大雨なのである。
 すると、のっけの発句に、「ときは今、まだ五月だというのに、天が下に逆になったような、えらい雨降りよなあ」と、よんだところで、これは自然なスケッチではなかろうか。
変にコジツケをするより遙かに、この方がシリアスである。それに光秀が、もし土岐氏を自称したいならば、この当時、前の美濃国主の土岐頼芸が流浪し、
美濃三人衆の稲葉一鉄が面倒をみているのだから、それを光秀が引取ってもよい筈である。ところが光秀は、差入れ一つしていない。
 すこしも土岐氏といった古い家名に気をひかれていないのは、彼が土岐を名のった形跡が絶無なのでも判る。だから、これも訝しい。
それに「どき」とよむのは棒よみで、足利時代は「ひじき」といっている。次に「おみくじ」を何度もひいたから怪しいという説だって、何も現行のように一回につき十円ずつ払うわけではない。
おみくじの木筒を持ってこられたら、ガラガラと一回では愛想もないから、自分の外に、妻子の分も、ついでにひいたのかも知れない。
 笹ちまきを、笹ごと喰ったのが謀叛心のあった証拠だというか、現在のように大きく見せようと何枚も笹をまくような事は、当時はしていない。ただ一枚の青笹をまくきりである。
そして、これは延宝年間の、〈本朝和漢薬集成〉に、「眼疾、または腎虚に、笹の精を用う。刻みて餅につくか、これをまいて服す」とある。
 腎虚つまり精力減退の方は、光秀の身体のそこは判らないが、〈曲直瀬道三の治療日誌〉の、「天正四年六月二十三日」に、「眼労、惟任日向守」という記載もあるし、
 〈多聞院日記〉の「天正九年八月二十一日」には、
 「去る七、八日に、惟任の妻の妹死す。惟任昨年来、眼疾治療のため当地に灸に通う」とも出ている。だから愛宕山でも、眼疾にきくという熊笹を攤いてこねたか、
又は喰べやすいように細く裂いたものを、巻きつけて、光秀には出したのであろう。だったら当時いうところの「薬喰い」で笹の葉の一枚ぐらいむしゃむしゃやったとしても当然の振舞いではなかろうか。
第二部へ続く。




 異聞 『徳川家康』 徳川家康の妻  松平元康が徳川家康は間違い

2020-06-19 10:38:10 | 新日本意外史 古代から現代まで
  異聞 『徳川家康』

    徳川家康の妻
  松平元康が徳川家康は間違い

 〈泰平年表〉には家康の母の事を次のように記されている。
「西郷弾左衛門清員の養女にて実は服部平太夫郷則の娘にて、実は竜泉院と諡し、
駿府の府中に竜泉寺を建立。これに葬る。のち寛永五年七月。従一位を贈位。宝台院と改謚す。俗名おあいの方さま。
西郷の局とも申しあげ、台徳院様(徳川秀忠)、薩摩守忠吉の御生母」とあり、
〈徳川実紀〉では「家康公正室」と明記されてある。
この服部平太夫郷則というのは、家康の若い頃その一党と身を寄せていた鍛冶屋の事である。
もちろん、鍛冶屋の平太に、初からこんないかめしい名があるわけはなく、後からこしらえたものであるし、西郷村の弾左衛門というのは、
これは非違を糾す当時の役名のようなものが弾左衛門なのである。つまり小伝馬町牢屋敷の江戸の弾左衛門だけが有名で今でも名が伝わっているが、この時代には、
各地域ごとに弾左衛門を名のる者がいた。これは別所の長史の呼び名で、当時の村役人にも当っていた。
もともとは天武帝の時に輸入された唐の「御史台」であるが、大宝令につぐ延暦十一年の「弾正例八十三年」から今日の刑法のように定まり、「弾正巡察」の制が設けられた。
 やがて源頼朝の頃からは、この部族が逮捕権や警察権をもったから、織田信長の父備後守信秀などは、
江州八田別所の出身ゆえ「弾正弼」の官名を貰い、求刑の論告をする所を「弾正台」といい、後年は論難するような事をさして「弾劾」「糾弾」というのである。
 こうした種類の官名には「掃部頭」もある。これは桜田門の変で名高い井伊大老の江州彦根の代々の世襲の名として知られているが「宮中でお掃除をする者共の束ね」から由来している。
 さて〈泰平年表〉の記述は、鍛冶屋の平太を取締っている酉郷村の弾左衛門が、そのという身分から、平太の所の後家娘の「おあい」を自分の養女という体裁にしてやったものらしい。
 なおこの戦国期というのは、軍事上の目的で、その命令を伝達する際に、ただの平太や吾平だけでは、同名が多くて紛らわしいから、間違いのないようにその出身地や居住地を、
名の上につけ「服部村の平太」とか「服部の平太」といったように、姓が一般化した。
つまり、これは天保期以降の博徒が「国定村の忠次」とか「清水の次郎長」といったように、何処々々の誰といった分類であったから、当時の正式の名のりは、
姓と名の間に「の」が入るのが正しいようである。しかし源平期などを扱った〈吾妻鏡〉や〈源平盛衰記〉の類では、はっきりと「熊谷の次郎」とか「仁田の四郎」と、
「の」の宇を入れているが、儒学が隆盛になってからは、中国風になってしまって、元禄期以降に書かれたものでは悉く「の」を抜かして棒読みになっているから、とかく仰々しくうっかりすると間違われやすい。
 織田信長にしても、父の信秀の頃までは、はっきりと、「江州八田別所の織田の庄の出」という肩書のような名のりをつけていたもので、これが幕末の博徒全盛期に入ってからは、
「てまえ生国と発しまするは……」といった名のりの自己解説の「じんぎ(神祇)」に転化するのである。さて、〈大成記〉という徳川家の史料の中にも、原文の儘で引用すると、
 「神君家康公は、その創業に当らせ給いて御苦心の程まことに筆舌に尽し難き程なりき。さる程に、三州設楽郡長篠村まで来られてからは、その地の郷民に頼まれて舟をもとめ、
これにて遠州へひとまず戻らされ、同地の鍛冶の家に落着かせ給う。この間の御辛苦、御艱難たるや、筆にも詞にもいいがたかりき」
 と、服部村の平太といった名は出てこないが、遠州の鍛冶屋といった表現で、そこの家が、当時の家康の根拠地だったことは、これにも明白にされている。そして鍛冶屋というと、
 「森の鍛冶屋」というポピュラー音楽が大正時代に輸入されたり、また尋常小学校の教科書にも「村の鍛冶屋がトッテンカン」と、のんびりした描写があったから、つい陽気に考えてしまうが、
この家康の創業期の鍛冶屋というのは、小規模とはいえ矢尻を作り、槍の穂先を鍛えていた当時の軍需工場なのである。
 なにも、そこの家に「おあい」とよぶ出戻り娘がいたから、その色香に迷って若き日の家康が、入り浸りしていたというのではない。
恐らく実際はあべこべで、鍛冶屋にどんどん武具を生産させる為に、家康は、そこの出戻り娘を手なずけ、まるで、後家になったおあいの跡釜というか、
入り婿のような恰好で居坐って、おおいに利用していたものとも想える。
こういう事は現代でも別に珍らしくはない。女の縁で立身出世の土台を作るのは、今でも利口な男の生活の知恵とされている。
だから家康が、そういう処世術をとったとしてもこれまた止むを得なかったろう。
当時の鍛冶屋の武具生産価格は、槍の穗や打ち刀までは詳細に判明しないが、矢尻だけは、
「八木(こめ)一升にて三個」という相場が明確に〈弾左衛門資料〉の中にでている。
この頃は一般に粟や稗を常食にしていた時代なので、米価は現今と違って、〈お湯どの上日記〉や〈鹿苑目録〉によれば、今の換算率ならば一升が約千五百円位にもなる。
すると矢竹にはめる矢尻が一個で五百円の勘定である。だからして、若き日の家康が男の貞操を当てたとしても頷けるものがある。
山岡荘八の「徳川家康」は借信しがたい
ここまで読んだ読者は、現在流布されている「松平記」を底本にした山岡荘八の「徳川家康」を信じている人は奇異に思うだろう。
しかし、秀忠の産土神(うぶかな神)の五社明神も、もとは遠州佐野の西郷村から移転しているのである。
二代将軍の母親というは、もとは遠州の鍛冶屋の娘で、そこに巣喰っていた若き日の家康が産ませたのである。
世にも奇怪な噺だが、家康の元の名が松平元康だとするならその家康とは、「石ヶ瀬」で、互いに激しい合戦をしている事実が在る。
(村岡素一郎「史疑」)なにしろ鍛冶屋の家を溜り場にし矢尻を鍛えさせ、刀や槍をうたせて武具をととのえ、さて人集めした若き日の家康は、
この天下の争乱の時に一旗あげようとしたが、今川義元なきあとの今川氏真は出て戦わず、尾張の織田も勝って兜の緒をしめよと、清洲城から動かない有様だった。
そこで業をにやした家康は、中に挾まれた弱体の三河を乗っ取ろうとして、遠洲から矢矧川の上流を渡って攻めこんだので、
松平信康の実父の松平蔵人元康も放ってはおけず、これを石ヶ瀬の原っぱにて迎えうったのである。
しかし何んといっても、松平党は長年にわたって父祖の代よりの君臣の間柄。
しかし家康の方は云わば一旗あげようといった程の野伏り共の烏合の衆。正面衝突をしては、とても松平党の敵ではなかったのである。
よって家康は、その志は大、血気も盛んであったが、ものの見事に負け戦となって降参してしまった。
ところが家康は、本物の松平元康の家来になったのかというとそうではない。
降人したときは、そういう話だったらしかったが、抜目のない家康は直ちに山中城へ向って、そこを攻めとってしまい、当時の三河山中城主の松平権兵衛重弘を追って、
自分が代って城主となってからは、もう元康の家来ではなく、合力衆のような形になったのである。そして、
刈谷城の水野信元を攻めたときなど、岡崎勢の先手となって、十八町畷まで押しよせて戰った。
ついで家康は、元康に協力して、野伏り衆を放って、挙母の砦、梅ヶ坪の砦と火をつけて廻ったから、三河党の士気もおおいに振い、
元康も『この分ならば織田信長を攻め滅して、人質に横取りされてしまっている吾児の信康を奪還しよう』と桶狭間のあった翌年の十二月四日に、
合力の家康や三河党をもって尾張領に入り、岩崎から翌日は森山へと兵をすすめ本陣を移した。
ところが、その陣中で、粗忽な家臣のために、元康公は討たれてしまった。それで仕方なく、陣をひきはらって、ひとまず退却ということになった。
これが史上有名な「森山崩れ」といわれている。
この『森山くずれ』で討ちはたされたのは、その永禄三年より二十六年前にあたる天文四年のことで、討たれた元康のが祖父の清康の方である。
 天文三年の頃は、信長の父の織田信秀が、岡崎城と目と鼻の安祥の城まで確保していて、三河の半分は織田方の勢力に入っていた頃だから、
どうしても、岡崎衆が入りこんできて森山へ陣取りなどできる筈はなかった。
天文四年の頃なら、織田信秀が、小豆坂合戦で今川や松平を撃破していたころである。
                           
だから、それまで互いに戦までしあった事もある二人が、合併してその時から一人になる……つまり松平元康が俄かに亡くなったゆえ、当座しのぎの恰好で、
家康が、後始末をするため元康の後釜に入ったのである。
おそらく、当時は尾張の熱田にいた信康を取返すため、家康が元康の死を匿して、まんまと自分が化けて代りに乗りこみ、
清洲城で織田信長と談合をなし、起請文でもいれて和平を誓い、それで信康を返してもらったものだろう。
それで、その手柄をかわれ松平の家来共の衆望を担い、如才なく家康は立ち廻って、幼ない信康の後見人の恰好になり、やがてはまんまと松平党を、その属にした。
この証拠に江戸時代になっても徳川姓は主とし、松平姓を属として、薩摩の島津にまで松平姓を与えている。
 殿さまの松平蔵人元康が誤って家来の安部弥七郎の手に掛かって急死した三州岡崎城では、跡目の信康がいないから話にならない。
そのとき、三州山中城を自力で乗っとり、次々と放火して手柄をたてた家康が「和子を尾張から奪い返す計略として、俺を亡き殿さまの身代りに仕立てい」といえば、
松平党の面々は、「これは殿の喪を表沙汰にし、他から攻め込まれなくとも済む安全な上策である」とすぐ賛成してしまったものと考えられる。
 そこで、まんまと松平蔵人元康に化けてしまった家康は、恐れ気もなく永禄五年三月には清洲城へのりこみ、三州と尾張の攻守同盟を結んで、
熱田にいたか、清洲城内にいたか(大須万松寺天王坊という説もある)はっきりせぬが、当時は四歳になっていた信康を貰い受け、岡崎へ戻ってきた。
この手柄は大きいし、それに山中城主になっていた家康自身が、もうその時は既に何百と私兵をもっだ大勢力だったから「この儘で、信康さまが成人の時までは、後見人」という事にもなったのだろう。
 
その時は家康は二十一歳だから、その年齢で四歳の子持ちというのはすこし早いが、なにしろませた風采をしていたのだろう。だから、さすがの織田信長も、このときは、
永禄四年から毎年のように美濃へ攻めこんでは破れていた矢先であるし、まんまと、尋ねてきた松平蔵人元康を本物と思ってしまって、美濃攻めに後顧の憂いのないようにと、
東隣の三河と和平をしたのだろう。そして足かけ三年も尾張に居たのだから、信康がすっかり可愛くなっていて、自分の伜らと仲よく遊んでいるのを思いだし、
その頃、うまれた女の子に「信忠、信雄、信孝、信康をも加え、五人で五徳のごとく輪になって確かり地に立てや」と、初手から嫁にやる気で五徳と名づけ、
その縁談も信康を返す条件として家康に持ちかけたものであろう。
 
そのときは一時の便法で、まんまと信長を欺き、家康は元康に化けてしまったものの、どうせ信長など、たいした事はない。その内には誰かに滅ぼされてしまおうと、
高をくくっていたが、これがなんともならなかった。
というのは、先代織田信秀の代には、尾張八郡の他に、三河の小豆坂から安祥までも占領していた強剛だったのが、
桶狭間合戦の始まる頃には、戦場で用いる武器が鉄砲に一変した為に、○に二引きの旗をたてた今川の水軍は、
どんどん鉄砲を上方より取りよせ次第に勢力をはるのに反し、信長の方は水軍がないから、鉄砲や火薬が入手できない。
そこで今川に追われ那古屋の城も危うくなって清洲へ逃げこんでいた程で、尾張八郡の内、鳴海から中村までは今川に取られてしまい残りは半分の四郡。
しかもその内の一郡の長島郡は、服部右京之允という一向門徒に押えられて正味は三郡という惨めさだった。
それをよく見知っている家康は、桶狭間合戦も、まぐれ当りの勝ちとみていたし、その翌年から連年開始した美濃攻略の連戦連敗も知っていたから
まあ早くいえば舐めてかかって居たものとみえる。
しかし手玉にとったつもりの信長が、中々もって思ったよりも頑張りやで、美濃も四年目には、まんまと攻略して、ついに稲葉山の井の口の城をとって、これを大普請し、
岐阜城と改名した。こうなると、家康たるもの、化けの皮が剥れて瞞していたことが判ったら、どうしようかと戦々兢々としてしまった。
だから、元康と家康が別人であったなどという証拠は、これ、ことごとく湮滅させてしまっだのである。
だから有名な三河の一向門徒の騒動というも、所詮は、元康に家康がなり切ったが為に起った守門争いなのである。
それまでの三州岡崎衆は、尾張長島の一向門徒と手をくんでいたところなのに、もともと野州二荒別所から、駿府の久能別所に居た家康は、その家来とても、
大久保党のように七福神信仰系や、本田一族は白山信仰系、榊原康政は伊勢白子の松下神社の氏子である。
酒井一族は修験者あがりといったようにどれもが神信心の集団だった。
そこでお寺とお社は仇同志の世の中である。反目しあっている内に……まず岡崎城内にあって、亡き松平元康の家老でもあった酒井将監が、
松平一族を糾合して家康に叛心を抱いたが失敗して、猿投山中へ逃れてしまった。
ついで昔は城代までをしていた三木の領主の松平信孝も、その他出中に三木の館を徳川党に襲われ、戻ってきてから安祥の敵兵力をかり謀叛を企てたが、
明大寺村合戦にて一族もろとも家康に皆殺しにされた。
この後、松平大炊助好景も、幡豆郡長良の善明丹宮で家康側に包囲されてあえなく全滅。
そこで堪りかねた松平党の三河武者が、浜松や伊勢からきている他所者の徳川党と戦ったが独力では無理なので、とうとう岡崎の松平衆は一向宗の力をかりたゆえ、
よって表むきは一向騒動となったのである。
そこで、その後は、三州岡崎城内においては、もはや家康に楯つく松平衆もいなくなったのである。
そして徳川家康に忠誠を誓うものは、松平姓でも、そのままにさし許され懐柔策はとられていた。
しかし合戦のときには徳川衆は『東三河衆』とよばせてこれを酒井忠次に率いさせ、旧三河武士の松平の残党はこれを『西三向衆』と呼ばせ仏門の石川数正に率いさせ区別した。
そして何時も危険な所や先陣はこの石川の西三河衆にさせていた。
だから堪り兼ねた石川数正は、小笠原秀政らを伴って、豊臣秀吉の許へ走ってしまった。
石川数正にしろ小笠原も、これらはみな亡き松平元康の家人ゆえ、その遺孤の岡崎三郎信康の成人を願って、心ならずも家康に仕え、
戦ともなれば、まっさきにいつも人間の楯や仕寄せのように用いられながら、それでも辛抱して奉公していた者たちである。
信康の武功が世の評判になり「これにて三河松平覚の御家も万々歳だ」とみな吻っと喜びあったのも東の間のこと。
やがて世に、信康が高名になったのを妬とんだ家康は、かねて当初よりの約定にて三州岡崎城を、三河一国と共に信康に戻してしまっては、
『これでは損をするし、それに自分の正体も、うかうかすれば露見すねかもしれない』と苦慮したか。
作を弄した家康は、天正七年九月十五日に遠州二股城にて、信康は、家康の奸計に陥し入れられて、殺された。



本の紹介 「天下分け目の 関が原合戦はなかった」

2020-06-11 11:13:18 | 新日本意外史 古代から現代まで

本の紹介
「天下分け目の 関が原合戦はなかった」


著者紹介(二人の共著になっている)
以下は巻末の紹介文からの引用である。
乃至政彦(ないし・まさひこ)
歴史家。 1974年、香川県高松市生まれ。神奈川県相模原市在住。 2011年に伊東潤との共著『関東戦国史と御館の乱』(洋泉社)を刊行。
代表作に『戦国の陣形』(講談社)、『上杉謙信の夢と野望』(KKべストセラーズ)、『戦国武将と男色』(洋泉社)。その他、多数の書籍の監修に携わる。
おもな論文に「戦国期における旗本陣立書の成立:[武田信玄旗本陣立書]の構成から」。 NHK 『歴史秘話ヒストリア』、BS-TBS 『諸説あり!』などの歴史番組にも出演。
高橋陽介(たかはし・ようすけ)
歴史研究者。1969年、静岡県浜松市生まれ。東海古城研究会・勝永座談会・佐賀戦国研究会・曳馬郷土史研究会に所属。おもな論文に「関ヶ原新説-西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説-
に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」。著書に『改訂版一次史料・にみる関ケ原の戦い』(ブイッーソリューション)がある。
関ケ原の合戦の研究で最先端に位置する新進気鋭の研究者として、歴史学者や歴史愛好家から注目を集め、BS-TBS 『諸説あり』にも出演した。
河出書房出版社 定価・本体1600円(税別)
両者とも、BSテレビ番組に出演して、著名な人らしいが、この手の番組は観ないし、二人の著作本も見たことがないので、コメントのしようがない。
今回は、この本に関しての感想だけを書いてみます。
表紙の通り、「関が原の合戦はなかった」は太く大文字で、「天下分け目の」が小さく書いてある。
そそっかしい私は、かの有名な関が原合戦が、実はなかったのだという、新説だと思い込み購入した。
一次史料が伝える"通説を根底から覆す"真実とはの見出しにも魅かれた。
読み進むうち、読み切る気力がなくなったが、我慢して最後まで読んだ。何故なら、文中に、戦国時代に剣豪という言葉が出てくるし、
秀吉の妻、ねねを杉原氏の出身としての間違いがある。さらに家康には天下取りの野望がなかったと断定している。
こうした細かな間違いが至る所に散見される。
五大老と五奉行の関係、毛利氏と家康の関係、合戦の詳細などは、よく調べてはいる点は努力の跡は窺える。
だが、通説を否定しながら、通説を引用して自説を補強しているのも頂けない。
真実は、後述するが、大阪夏冬の陣は、豊臣の血脈を断つ最後の「掃討戦」に過ぎないし、関ヶ原合戦は、家康が、京、蜷川財閥の銀で、神徒系大名を味方につけていて、勝負はすでに決まっていたのである。その証拠に家康が江戸幕府を開くと、江戸は箱根の山を境に「金本位制」にし、西は九州の果てまで「銀本位制」にしたことでも判る。
この本の終章に「本書は万能完全の正解を提示するものではなく、新しい歴史解釈へと踏み出してもらうための手引きとしてご用意申し上げる」
とある如く、真実を探求した書では無いことが判った。
結局、衝撃的な見出しで釣って、読者を困惑させただけの「売らんが為の」通俗歴史小説といえる。

さて、以前にUPした記事だが、関連するので再掲載しておきます。

       山崎合戦はなかった
日本史解説  何でこんなに嘘ばかりなのか。
   日本史の読み方


歴史には「事実として存在する歴史」と「後世の人間が勝手に思い込んでいる歴史」がある。事日本史に関しては後者の歴史が蔓延している。

日本人は何か書かれたもの、即ち本でも写本でも古文書にしても、文字の繋がったものを見ると、すぐ頭ごなしに、
自分の常識や判断を棚上げしてしまって、つまり己を無にしてしまって、
 「何々の本に書いてある」とか「文章として残されている」といとも単純に惑わされてしまい信頼したがる。
大事なことは「誰が何の為に書いたのか」「何故に書く必要があって、これが伝わっているのか?そして本にされているのか?」
ここを考えることが大切なのである。

 本屋に並んでいるものなら「売らんがため」といった刊行目的も判るし、自費出版センター刊行のものなら 「己が生きていた証に石碑代わりのもの」と納得もし得る。
「何々社業史」となれば、得意先へ配布する宣伝ものだとは、いかに現社長が社業に尽くし立派な人格者で会社の成長に尽力した功績は数え切れぬかは、頁を開かなくとも判りうる。

処が江戸時代に失業武士が再就職(仕官)したさに祖先の名を尤もらしく出して「先祖は強かった、豪かった」と言いたい為に、実際は在りもしなかった合戦噺を書き、さらに版木本にまでしてしまったのが貸本として多くの人に読まれた。

「洞ヶ峠を決め込む」と、日和見主義者の代名詞に筒井順慶の名が流布した迄はまあまあだが、
「陸軍省参謀本部偏」と箔をつけられた「日本戦史」の中の一巻にまでも、秀吉が明智光秀を打ち破ったという起きもしなかった「山崎合戦」が堂々と秀吉の圧勝ぶりで出ている。
 これが嘘から出た誠であるのは、歴史学会会長をされていた故高柳光寿氏の本にもはっきり嘘だと指摘されている。
これは戦でも合戦でもない有体は全くの騙まし討ちでしかない。

本当のところは、山崎円明寺川畔の勝竜寺城を築いた長岡藤孝が兵を隠していて、その長男の、後の細川忠興が明智光秀の女婿だったことを利用して安心させて光秀を招き、
騙まし討ちに襲って殺しただけの話で、もし秀吉が通説のように織田信孝を名代に立てて共に戦ったものなら、詳しい戦況書面を、信孝の家老の斉藤玄蕃介や城代の岡本へ送り届ける筈は無いのである。
処が明治史学御用学者共は、何故に書かれて木版刷りにまでされたのか、その利用目的を考える能力が無く、文字として文章として残存するからには史実だろうと、これを信用してしまった。

 だから「寡にして大敵に勝つ奇襲戦法」のテキスト版として、裏付けも探求せずに一冊にした。
「日本の合戦シリーズ」の一巻として今度は参謀本部偏の重みで其の儘に刊行される。

失業武士が、仕官したい一心で金をつぎ込んで身上書に添付する際に、筆書きよりは真実味と重みがあると、木版本にしただけの作り話とは、現在の歴史屋共が神様扱いの明治史学の連中は、
金欲しさだけで考えもしなかったのである。
「何かの理由で、何かに利用される目的で、何かの力で支援されて本は刊行されている」といった基礎的な事を読んで引きずり込まれて訳が判らなくなる前に、先ず考えて欲しい。
これまでの日本列島では明治以降も 真実を書き残したいと本にしたのは、獄死した阿部弘蔵の「日本奴隷史事典」と「木村鷹太郎著作集」や 「日本部落史料」の数冊しかない。

 昔から日本では口伝ではあるが「文字づらに捉われるな」とか「文字通り額面通りには受け取ってはならぬ」といった戒めが、各地方の差別されていたごとに守られていたのはこの為なのである。

 しかし、今では義務教育法といった法律で、学校で教わった教科書の文字通りになんら考えることなく丸暗記させられテストに書かねば落ちこぼれにされてしまう。
「物証」として、本や書かれたものは、裁判の係争でも最重要視される。

これは当時の国学者塙保己一が、寛政五年に幕府お抱えとなってしまい、和漢講談所なる御用団体にされた際、
「同一文章が複数に存在するものに限って、他を裏付けとなす証拠として筆写採録を許可す」と制約され、 「群書類従」及び「続郡書類従」を編したのに始まるといってよい。
「類従」の文字は公儀へのせめてもの抵抗であって、其の儘の「類に従う」の意味合いで、
同種が何種類もあるものは、その必要性が在ったからこそ複写されたのだろうという認定で、他は焼却処分されてしまった。

今も現存する「楠木合戦注文」という史料等も、南朝志向の明治史学の歴史屋は、敵の足利方も湊川対陣の時の楠木側の天皇に対して殉忠善戦に感動して、彼らの名を列記して、
これを感激の賜物とするが、実際は大間違いである。
楠木一族は足利幕府創業を邪魔した「反体制一族」として、それに繋がる妻子や縁者まで捕らえて、
各地の収容所へ放り込む為の、今で言えば「指名手配書」だったから何十通も写され配布していたゆえ複数に残っていただけの話なのである。
 近頃ではテレビや時代小説さえ歴史だと思い込んでいる頭の軽い手合いも多い。

   「関が原合戦、西軍が負けたのは雨が原因」
 現在の通説として、関が原の戦いは徳川家康の東軍が、岐阜の大垣城から出てきた西軍の石田三成らを九月十五日に撃破したとなっている。
 その為に豊臣秀頼は摂津河内和泉で僅か六十万石の大名に成り下がってしまった。
その後大阪夏の陣でも負け、豊臣家は滅亡してしまう。このことは史実としては正しい。
 但し戦略的には、家康は京の蜷川より多額献金を受け、西国大名に与え、裏切りや積極的に戦わなかった事が大きい。
まあ勝負は戦う前から決まっていたといえる。だから後に江戸幕府を開いた家康は
 蜷川に遠慮し、箱根以東は金本位制、西は九州の果てまで銀本位制と定めたのである。
 このことは学校歴史では教えないが、詳細は以下にある。
 
 しかし戦は水物。戦術的な西軍の敗戦は「雨」なのである。
 

 現代では、関が原でせっかく美濃大垣城に西軍の兵を入れていた石田三成が、
何故に前日は篠突く大雨だったといわれる悪天候の中、折角城に篭っている兵を連れ出し徳川方が布陣している関が原へと討って出たのは何故なのかと怪しまれ、
 
 現在様々な諸説が氾濫している。曰く
「一気に雌雄を決する為ではなかったか」
「石田三成が若かったから焦った」等など。
 勿論戦術を有利にするためには沛然と降りそそぐ雨の中を厭わず、折角大会戦のため食料や武器弾薬を集積していた城を出て関が原へ向かったのだということは頷ける。
 だが問題は、現在では全く知られていないが『雨』なのである。
 つまり、戦国時代から江戸時代でさえも合戦という行動は雨の日は休みだったのである。
即ち「雨天順延」で、現代の運動会のようなものだった。後段でこの訳は解き明かすが、
 ここのところをよく理解しておかなければこの謎は解けない。
当時は今のようにビニールやレザーの無い時代だから、武者達の鎧は金具や糸布を使っていたが、
陣羽織は「紙衣」(かみこという)だったし、武者が背に指す旗指物や馬印さえもが、
 こうぞから作られる紙、即ち和紙だったのである。だから雨に濡れるとべとべとと解けてしまい目印が判らなくなってしまうのである。
 当時木綿も貴重品で絹布などは高嶺の花。大将ともなれば流石に純綿を使ったが、
一般の武者共は紙製の旗指物だったのである。このことは<兵法雄鑑>や<雑兵物語>に明確に記述されている。
 原文は難解だから次に平文に訳しておく。
 「もののふは名こそ惜しむ。よって雨が降りきたれば、折角の己の目印の
  旗指物も濡れ、印も文字も滲みて見えなくなり、何の為に働き高名を
  たつるや判らず、よって皆樹陰に入り、雨の晴れるのを待ち、互いに
   戦は共に休みになして、左右に別れ去るものぞ」と、明確に書かれている。
 さらに「空を仰ぎ見て、今日は曇りにて雨になるらんと、戦は休みなるべしゆえと
     朝飯は抜き、しもじゅうて、皆は早く晴れたらええと、腹が臍くくりになり
      ひもじさに皆ぶうぶう言い合う」等とも書かれている。
 江戸中期の兵法家大道寺遊山は「落穂集」で有名だが、「武道初心集」も書いていて、これは現代岩波文庫で刊行されているが、その「岩淵夜話」の本の中にも、
 「雨天休戦は武士の相身たがいの為なり」とある。
 また武士たるものは「忠臣は二君に仕えず」などと現代は言うが、これは奉公先の大名が徳川の施政方針のため次々と取り潰され、武士の就職難の江戸時代からの話で、
戦国時代は全く逆で、槍の才蔵と謳われた有名な可児才蔵のごときは、生涯戦場を駆け回り死ぬまでに十余回も主君を変えている。
さて「瀬戸際」という言葉がある。
 この言葉の語源は、関が原合戦で雨中で三成の軍勢に包囲され、
切羽詰った家康が必死猛死に脱出して、合戦の勝敗を逆転させたわけだが、こういう状況の場合に使ったものなのである。
 さて、可児才蔵の如く、戦場で己を大いに宣伝し、今までより扶持、即ち給料を多く出してくれる奉公先が見つかれば、直ちに条件次第で其方へ移る。
これを武士言葉で「鞍替え」という。
 この言葉は後には武士の多くは源氏系だったから、源氏の女しか遊女になれなかった江戸時代になると、これが転用され遊女や芸者が借金を多くさせてくれる方へ住み替えることにも
この鞍替えという言葉が使われた。始まりは武家言葉なのである。
  
  さて話を戻すが、戦国期の合戦で、武者達は今日で言う条件のよいところへスカウトされるためには、
遠くからでも見分けが付く旗指物は前記したように紙だから、それゆえ雨が降ってきたら濡れ、
使い物にならない訳である。だから「これでは鞍替えの機会が無い」と武士は戦わず、したがって戦は休みだったのである。
 現代ではこれは奇異に思われるだろうが、この行動は江戸時代の幕末になっても、慶応二年五月は大振りで上野戦争の際の彰義隊(幕臣の次男三男を募集して作られた武士の部隊)は
 「今日は雨だから薩摩(官軍)の奴らも攻めて来んだろう」と、上野の山から近くの湯島や神田明神や吉原に女買いに繰り出し当日は部隊の半数も残っていなかった。
 これを見てとった周防人で武士ではなく、医者上がりの大村益次郎は、そんな古い武士の不文律など知りもしないから、「この機会だからやってしまえ」と各藩の官軍に命令を出した。
 しかし「こんなに雨が降っているのに、古来武士は雨戦はせぬものぞ」
「まさか間違いであろう」となかなか兵が集まらず、止む無く薩摩の西郷隆盛が、蓑をつけ草鞋履きで先頭に立って出かけていったぐらいのものなのである。
 維新の志士などという美名を奉られている明治期の薩長の大物は、医者や身分の低い武士ともいえない郷士上がりが多く、正規の武士の習慣も知らず、従って慣習に捕われない発想が逆に功を奏したのであろう。
 つまり、関が原の話に戻るが、「この大雨では明日も戦になるまい、だったらその前に今の内に東軍の退路を絶っておこう」と石田三成が秘かにタブーを破って大垣城を出てきたところを
桃配り山東軍本陣の徳川家康が、雨の中を濡れぬように、旗も幟も仕舞って迫ってくる石田方を、物見の者から報告されると、家康はすぐさま大きく合点して包囲に任せた。
そして家康は「この雨では、敵の武者共も紙旗が濡れるゆえ、働いても損だと目覚しい戦いはしないぞ」
 と、先に開戦命令を出したのである。
 そして渋紙塗り(油塗り)の金色の幟に「五」の字を捺した徳川本体の使番を各陣営へ出し、まさかと思っていた三成の西軍へ不意打ちをして合戦に勝ったのである。


本の紹介 「ザ・フォツクス」著者 フレデリック・フォーサイス 定価・本体1800円(税別)

2020-06-09 09:55:35 | 新日本意外史 古代から現代まで

本の紹介 
「ザ・フォツクス」著者 フレデリック・フォーサイス 定価・本体1800円(税別)
フォーサイス、久々の新刊である。

英軍特殊部隊がとらえた、ハッカー(フォックス)。
米国国家安全保障局に侵入したのは、まだ高校生だった。
この時、英国首相の国家安全保障関係の個人的助言者である、サー・エイドリアン・ウェストンは米国大統領に、ある取引を持ち掛ける。
その内容は、敵対する国のシステムに痕跡も残さず侵入し、秘密工作を行わせ、その情報の全てを提供するという「トロイ作戦」の発動である。
こうして「フォックス」を使い、ウエストンの暗躍が始まるのだが、国際謀略小説の第一人者フォーサイスの筆力は健在である。
舞台は米国、英国、ロシア、イスラエル、イラン、北朝鮮と広範で、各国の秘密情報機関の暗闘は凄まじい。
この本の訳者黒川敏行氏の後書きを一部以下に引用します。

訳者あとがき

 国際謀略小説の巨匠フレデリック・フォーサイスの最新作、『サ・フオックス』をお届けする。
 原著刊行は二〇一八年九月。一九三八年八月生まれの著者はその時点で八十歳だが、いっこうに枯れることなく、今まさに緊迫の度を強めつつあるように見える危機的な国際情勢と生々しく切り結び、
それを面白さ抜群のストーリーに乗せるという、純正フォーサイス印のエンターテイメント作品に仕上がっているところはみごとと言うほかない。
 ある日、アメリカ合衆国の国家安全保障局(NSA)のコンピューターが何者かにハツキングされ、システムに大きな損傷を受ける。
NSAと言えば世界最強国家の電子情報収集活動の牙城であり、セキュリティーは鉄壁の守りという言葉でも足りないくらいに厳重きわまりない。
それをまんまと破ってしまったのは何者なのか?頭がよくて人を騙すのが得意な狐を思わせるというので"フォックス"と呼ばれるようになる謎の凄腕ハッカー。
その正体は、なんとイギリスに住む十八歳の引きこもりの若者、ルーク・ジエニングズだった。
 ルークはイギリス当局に逮捕される。アメリカは重大な犯罪を犯した若者の身柄引き渡しをイギリス政府に要求する。
だが、ルークは自閉症の一種であるアスベルガー症候群を患っており、家族と引き離されて外国の刑務所に入れられると、深刻な精神的ダメージを受けるに違いない。

 この事態を受けて、イギリス首相の私的顧問を務めるサー・エイドリアン・ウェストンが一計を案じた。
アメリカに身柄引き渡しを免除してもらい、ルークをイギリス政府で雇って極秘のサイバー戦に従事させる。
そして得られた成果をアメリカにも提供する。これならアメリカの、名は示されないが明らかにあの、「アメリカーファースト」の人物とおぼしき大統領も文句を言わないだろう。
 こうして一大プロジェクト、〈トロイ作戦〉が始動する。ハッキングによるサイバー戦は一種の騙し討ちであるから、
西洋世界最古の有名な欺瞞作戦に使われた"トロイの木馬”にあやかった忤戦名がっけられたのだ。
 著者インタビューによれば、アスペルガー症候群の若い天才ハツカーという人物設定は、実在の人物をもとにしているという。ラウリ・ラヴというのがその人物だ。
 二〇一三年一月、アメリカの連邦刑事事件の量刑基準を定める機関、合衆国量刑委員会のウェブサイトに突然、ハツキング事犯への刑の過酷さを批判する動画が現われ、
それと同時に、米軍やミサイル防衛局やNASAのデータベースから盗み出された機密情報が、暗号化された形でではあるが公開されるという事件が起きた。
犯人は国際的ハツカー集団アノニマスに参加している一グループで、事件の数日前に、ネットの自由を確保することで社会正義を実現しようとした活動家アーロン・スワーツが、
重すぎる刑を受ける可能性があることから自殺したことに対しての抗議のハッキングだった。
この犯行グループの首謀者が、電子工学専攻の学生ラウリーラヴ(当時二十八歳)で、イギリス当局に逮捕されたが、まもなく不起訴となった。
しかしアメリカ側は数千件のシステム侵入の罪でラヴを起訴する決定をし、イギリスに身柄の引き渡しを要求した。
 こうして引き渡しの可否を判断する審問かロンドンの裁判所で開かれたが、そこでケンブリッジ大学の心理学者サイモン・バロン・コーエン教授が証言をし、ラヴはアスベルガー症候群で、
引き渡せば自殺のおそれがあるから、人権保護の観点から引き渡しはすべきではないと主張した
(このサイモン・バロン・コーエン教授は本書に実名で登場している)
 
結局、アスペルガー症候群という事情と、アメリカにおけるハツキング事犯の刑罰があまりにも重すぎることを理由に、二〇一八年二月、引き渡し不許可の決定がなされた。
イギリスでは、二〇〇二年にアメリカの政府機関のコンピューターに侵人する事件を起こしたハツカー、ギャリー・マッキノンについても、二千十二年にアスベルガー症候群を理由として身柄引き渡しを化否している。
 さて本書でこの天才ハツカーという秘密兵器を運用するのが、今は表向き引退して悠々自適の老後を送っている元イギリス秘密情報部員、サー・エイドリアンーウェストンだ。
冷戦時代に培ったスパイ・マスターとしての豊富な経験を生かして、いくつかの秘密工作をしかけていく、前作の『キル・リスト』や前々作の『コブラ』は、仮にアメリカ大統領の強力な権限がバックにあったら、
自分なら麻薬問題やイスラム過激思想に染まったホームグロウンテロリズムにこんな手を打つだろう、という具合に、フォーサイスがシミュレーションをする小説の一面があったが、本書もそれにあてはまる。
以下を省略。

著者は、幅広い人脈から現役の軍人、情報機関員、学者などから、匿名で生の情報を仕入れているという。
だからその臨場感は迫力があり、情報誌としても利用できる程で、その取材力は正確である。
私は彼を含め、「ゴッド・ファザー」のマリオ・プーツオ、名作「針の目」のケン・フォレット、「寒い国から帰ってきたスパイ 」のジョン・ル・カレなどが大好きである。
フォーサイスの著作(コブラ、キルリスト、アウトサイダー、オデッサファイル、第四の核、名作ジャッカルの日、売国奴の持参金、カリブの失楽園、戦争の犠牲者、シェパード、帝王、
 翼を愛した男たち、悪魔の選択、神の拳、アヴェンジャー、騙し屋、ネゴシェイター、戦士たちの挽歌、アフガンの男、アウトサイダー)
これらが私の書棚を飾っている。
日本の文壇には、こうした国際的視野で小説を書く作家は皆無と言ってよい。何しろ漫才屋が身内の日常を描けば「直木賞」を貰えるのだから、チョロイものである。
勿論、読む価値がないとして読まなければいいだけで、私小説分野を否定はしない。
日本の小説は狭すぎる舞台設定、浅いスケール、陳腐な設定で、全く面白くない。
自衛隊が特殊部隊を派遣して、北朝鮮の金正日を拉致し、拉致被害者と交換するというような、壮大なスケールの小説家の出現を望みたいものである。
大ファンである私としては、この本の評価として☆☆☆☆☆ を進呈する。