信長の野望とは何か?
信長が本能寺で「一掃」したかったのは何か?
公卿たちは本能寺に何をしに行ったのか
<当代記>には「一左右(いっそう)次第中国へ可罷立之旨曰く(まかりたつべしといわく)」と記されている。
<信長公記>にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨おふれにて」と書いてある。
「信長公記」には、信長が京の本能寺へ入り「ごいっそう」と書かれていて、従来これの解釈が曖昧になっている。
この「一掃する」という言葉を、口の中で日本語に直して繰返すと、どうしても、すぐ思いたってくるのは、天正十年の五月二十九日に、はたして何を一掃しに、信長は上洛してきて、
本能寺に入ったのかという事になる。蒸し返すわけではないが、信長は、その四年前の天正六年の四月に、在任してまだ足かけ六ヵ月目にすぎない「右府(右大臣)」を、
さっさと弊履のごとく投げ棄ててしまった。
愕いた禁中では、ときの関白の藤原皚良が、直ちに自分が退官して、その位を信長にすすめた。
「右府」の上の官位としては「内相(内大臣)」を、その昨秋に放りだした信長には、もはや「関白」しかなかったからてある。
しかし、信長には、その「関白」さえも魅力がなかった。だからこれも拒んだ。そして年末になって、信長は、九条兼孝をもって「関白」にさせた。
「右府」の方も、ずうっと空位には、させて置けないから、せめて今しばらくは「右府」を続けてほしいとも慫慂されたが、信長け翌春、自分の許へよく出入りしている二条昭実をもって、
これを身代りの「右府」にしてしまった。実力者の天下びとの信長が、なんの官位も受けずにいるということは、禁中としては、堪えがたい脅威であり、圧迫であったのであろう。
なんとかして、御所の官位の中へ入れさせ、安全保障を求めたかったのであろう。
なにしろ信長は、次々と馬揃えと袮しては、観兵式を興行して武威を見せっけデモンストレーションをやる。時には、弓、鉄砲で武装した連中を率いて、御所の中を乗馬のまま駈け廻って、
今にもクーデターをしそうに見せる。大宮びとや女官共が、真っ青になって右往左往して逃げ俎ると、それを面白がって、にやにやと鞍の上から冷たく笑って眺めている。
そこで禁中としては、すっかり、ねをあげてしまい、昔、平の相国入道清盛しかなったことのない「太政大臣」の官位を、また復活させて、これを信長に捧げ、就任か求めようとした。
「人臣を極む」という臣下としては最高位である。だから、これならば、信長とても受けてくれよう。そして、御所の一員とし自分らの安全を引き合って保証してくれようと、公卿共は考えたのである。
しかし、これさえも思惑が外されてしまった。信長は天正十年二月。武田征伐に向うために上洛すると、自分に提供されていた「太政大臣」の椅子を、惜しげもなく、
信長派といわれて、いつも機嫌伺いに来ている近衛前久をもって、当てるようにと命令をだした。
そして、さっさと信濃へ向かい、武田四郎勝頼を討ち、この五月は凱旋してきたばかりである。それでも信長は、安土へなど一応は立ち戻っていたが、長子の信忠のごときは、軍装もとかず、
京を見張るように妙見寺に待機していた。禁中としては、もはや何んの対処の途もない有様だったろう。だからこそ、信長上洛と伝わるや、上御所の尊い身分にかしずく女性は周章てふためいて、
お里方へ避難され、大雨の中を六月一日には、文武百官の公卿がまるで野良犬のように式台前で、もってきた進物をつきかえされ玄関払いなされながらも、必死になって面会強要をしたのだろう。
彼らは信長の野望をおそれ、できればなんとかして食い止めようという努力をこれまでしてきたが、なんの効果もなかったから、この日は自分たちの身のふり方を心配して行ったのかも知れない。
しかし信長は、安土城中に祀ってあった神像を、その一月前から公開していた。
ポルトガル人は、アポロというギリシヤ神話の彫刻を流用したものだというが、
いま愛知の清洲公園にある銅像よりは遙かに立派であっただろう。さて天主教派のとく、「この世に蘇えりたもう神」つまり地上に復活した、現世神として自己主張をうちだした信長に、
地上の王位を狙う気などは、実際にはなかったろう。そこで本能寺へ参集した公卿衆共は、自分たちの安全を計るために、まさか信長を担ぎ出すわけにもゆかないから、
その長子の信忠を、天皇の猶子にでもして奉戴しようと、その申しこみに行ったのではあるまいか。
と言うのは、信長に、御所の勢力を一掃するような不逞な精神があるものなら、弱体化しきっていた当時の禁中の実力では、いくらでも、前に実行はできた筈である。
だが、信長は無視こそしたが、そのよう々暴挙は敢えて、それまで試みていない。おそらく源頼朝が鎌倉幕府を開いたように、海洋渡来系原住民を主体とした、
安土幕府をつくるぐらいの下心はあったろうが、自分が別の皇統をたてるような、そんな大それた考えはなかったらしい。
もし、それが洩れていたら、ときの主上としても、後醍醐帝のように、毛利氏や北条氏に「打倒信長」の宣旨を出されていただろう。
又、そういう動きがあれば、信長が一掃すべく意気ごんできた上洛の意味もあるが、そうした事実はないのである。ただ禁中としては、
今までの経験上、官位を、てんで欲しがらず、勝手に自分が「神」であると言いだした野放図もない信長を、「どう解釈してよいか」「どう扱ってよいか」
前例がないだけに、当てはめる方式がなく、奔命に疲労困憊しきっていたのではあるまいか。なにしろ凡人共には、天才は、えたいの知れぬものである。
これまでは、なんとか、理解できる存在にしようとした。言いかえれば信長を手なずけるために、内相にし、右府にし、そのあとは関白、太政大臣と当てかっては、失敗し続けてきた。
もう、こうなっては、御所中心主義の公卿たちにしてみれば、「近よってこないものは敵になるかも知れぬ」といった脅怖観念しかなかった。
なんとか自家薬籠中のものにしてしまわねば怖しいと、心配したのだろう。そこで主上にも、とくと内奏してお許しを賜わり、ときの皇女を、信長の伜の信忠にご降嫁させ、
「親類づきあい」という、安心できる線を考えだしたのではあるまいかと想われる。
信忠には、側妾は何人かいたし、三法師という幼児もいた。だか、まだ正式に誰某の娘をと、嫁とりして決っているわけではない。だから、誠仁親王の妹姫にあたる方の中から、
ご降嫁の案を出したものと、当時の状態からも考えられる。(未婚の皇女は三人あらせられる)そこで、この日。つまり六月一日の夕方。
公卿共がようやく引揚げてから、すぐに二条の妙覚寺へ信長から使いが出され、信忠は本能寺へ呼ばれている。
そして御所については詳しい、京所司代役にも当る村井道春軒も一緒によばれて、いろいろと信長に聞かれもした。だから、公卿衆のもってきた話が、嫡子信忠に関係かあると判る。
ということは、〈言経卿記〉には、この日の公卿四十名と信長との団体交渉において、「大慶々々」と権中納言山科言経は、その日記にはつけているが、信長の方としては、
それに確答を与えていないものと、考えざるを得ないからである。だが、なにしろ、その翌朝、その信長は本能寺で、信忠や村井道春軒は二条城で、共に髪毛一本も残さず、ふっとんでしまっている。
死んでしまえば、もう用なしである。何も心配することも、気遣いも要らない。だから、この日に、公卿共が何を提案しに行ったのかは、すっかり秘密にされている。
何も書き残されたものも、伝わってはいない。
秀吉は時の親王を恐喝した
ただ、その四年後。これを種に脅喝を働いた男がいる。
ときの皇太子であらせられる誠仁親王に対し奉って、この嚇かしは、なされた。
「……親王さまは、織田信忠が生きていては、将来ご自分が即位なさるとき、邪魔じゃと思われたので、ござりましょうな」と、その男はいった。
そして、じわじわ絡みっき「そんで、あなたさまは、信忠と、そのおやじさまの信長を、六月二日に、京で討たれ……勿諭、ご自分は素知らぬ顔をなさって、かねて、ご昵懇の忠義者の光秀を、
殺し屋におしたてなされたが……」と、いやがらせをしたあとで、「わしや信長さまに飼うて貰って出世させて貰うた男で、天下さまには、ひとかたならぬ御恩がある
わしゃ忠義もんだし、それに曲ったことはすかん。よし相手が、どない豪い方でも、ご身分かあられたとて、悪いことをなされた方は見すごしはでけん。
わしや、信長さまの敵を、おめおめ許しゃあしませんぞな。不倶戴天の仇ですがな」
と、厭味を散々に並べたあとで「昔し下の御所、つまり二条御所に奉公しとった雑掌で、親王さまの使いとして、明智光秀の許へ何度も行っとったもんがのう、
恐れながらちゅうて、あなたさまが光秀に下知なされたときの、お書きつけを、すぐ火に入れて焼くよう仰せっかっていながら、忘れくさっとってな、こちらへと届けに参っとりまするがのう」とか、
又は「………いろんな手証を揃えて、あなたさまこそ、信長さま殺しの発頭人じゃいうて、もとの清洲からの奉公衆どもが、たんとかしておくれんかねと、わしの許へ願い出てきて難儀しとるで、
もう過ぎさった事だし、それにあなたさまは、えれえさまの身分だで……いっそ洗いざらい、ぶちまけてしもうて、余が信長父子を成敗させたが、
それか何か悪いちゅうてひとつ御書面でも作られたら如何じやろ」
などと、手をかえ、品をかえ尾張弁で、あの手、この干で脅し続けたものらしい。この結果が〈多聞院日記〉にでてくる。
「誠仁親王は、はしかで急死されたとの発表だが、三十五歳の親王さまが、子供のように、はしかで死なれるというのは変だと想っていたら、まことは切腹されたとかいって、
自決されたのだそうである」という、あの記載になって残されている。
勿論、その後に「もう、これで、次の帝位には、秀吉がつくように決ったも同然だ」と出てくるから、親王を恐喝して自殺させたのは、秀吉その人だということも、はっきりする。そして、誠仁親王は脅かされて自決をしているから、
やはり秀吉が指弾したように、信長殺しの黒幕は親王とも考えられる。そして忠義者の光秀は、言われる儘に働いたが、結果は、あぶ蜂とらずの有様で殺され、まんまと脇から出てきた秀吉に一切をさらわれてしまったのだから、
「誠仁親王はドンーキホーテで、光秀は、サンチョパンサだった、という仮定も、なりたってくる。また、「親王側近の里村紹巴がおかしいから」どうしても、そうなると、
誠仁親王が怪しい。そこで.光秀がという論理にもなる。だがである。
誠仁親王が自殺をしている点。並びに父ぎみにおわす、時のみかどが、やはり立腹されて割腹をなさろうとし、絶食し、断食自殺をなさろうとあそばされた事実からみて、
「信長殺し」の元兇は、皇室関係ではなく、これは恐れ多くも、みな秀吉のでっち上げと判る。
つまり、公卿衆は、人問的に発想の次元が違う信長の真意を推測しかね、六月一日に雨の中をデモ行為したが、これは勘違いに基くものであって、五月二十九日に、織田信長が「一掃」しに出てきたものは、
まったく方面違いのものであるということが、親王の目殺、おそれ多いが、ときの至上の自殺未遂によって明白にされる。
では真相はなんであろうか、ということになる。そして本能寺襲撃の実行部隊の黒幕は誰なのかという謎を解かなければならない。
続く