新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

信長の野望とは何か? 信長が本能寺で「一掃」したかったのは何か?

2021-02-26 17:41:15 | 新日本意外史 古代から現代まで




信長の野望とは何か?
信長が本能寺で「一掃」したかったのは何か?
公卿たちは本能寺に何をしに行ったのか



<当代記>には「一左右(いっそう)次第中国へ可罷立之旨曰く(まかりたつべしといわく)」と記されている。
<信長公記>にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨おふれにて」と書いてある。

「信長公記」には、信長が京の本能寺へ入り「ごいっそう」と書かれていて、従来これの解釈が曖昧になっている。
この「一掃する」という言葉を、口の中で日本語に直して繰返すと、どうしても、すぐ思いたってくるのは、天正十年の五月二十九日に、はたして何を一掃しに、信長は上洛してきて、
本能寺に入ったのかという事になる。蒸し返すわけではないが、信長は、その四年前の天正六年の四月に、在任してまだ足かけ六ヵ月目にすぎない「右府(右大臣)」を、
さっさと弊履のごとく投げ棄ててしまった。


愕いた禁中では、ときの関白の藤原皚良が、直ちに自分が退官して、その位を信長にすすめた。
「右府」の上の官位としては「内相(内大臣)」を、その昨秋に放りだした信長には、もはや「関白」しかなかったからてある。
しかし、信長には、その「関白」さえも魅力がなかった。だからこれも拒んだ。そして年末になって、信長は、九条兼孝をもって「関白」にさせた。
「右府」の方も、ずうっと空位には、させて置けないから、せめて今しばらくは「右府」を続けてほしいとも慫慂されたが、信長け翌春、自分の許へよく出入りしている二条昭実をもって、
これを身代りの「右府」にしてしまった。実力者の天下びとの信長が、なんの官位も受けずにいるということは、禁中としては、堪えがたい脅威であり、圧迫であったのであろう。
なんとかして、御所の官位の中へ入れさせ、安全保障を求めたかったのであろう。


 なにしろ信長は、次々と馬揃えと袮しては、観兵式を興行して武威を見せっけデモンストレーションをやる。時には、弓、鉄砲で武装した連中を率いて、御所の中を乗馬のまま駈け廻って、
今にもクーデターをしそうに見せる。大宮びとや女官共が、真っ青になって右往左往して逃げ俎ると、それを面白がって、にやにやと鞍の上から冷たく笑って眺めている。
 そこで禁中としては、すっかり、ねをあげてしまい、昔、平の相国入道清盛しかなったことのない「太政大臣」の官位を、また復活させて、これを信長に捧げ、就任か求めようとした。
「人臣を極む」という臣下としては最高位である。だから、これならば、信長とても受けてくれよう。そして、御所の一員とし自分らの安全を引き合って保証してくれようと、公卿共は考えたのである。
 しかし、これさえも思惑が外されてしまった。信長は天正十年二月。武田征伐に向うために上洛すると、自分に提供されていた「太政大臣」の椅子を、惜しげもなく、
信長派といわれて、いつも機嫌伺いに来ている近衛前久をもって、当てるようにと命令をだした。


 そして、さっさと信濃へ向かい、武田四郎勝頼を討ち、この五月は凱旋してきたばかりである。それでも信長は、安土へなど一応は立ち戻っていたが、長子の信忠のごときは、軍装もとかず、
京を見張るように妙見寺に待機していた。禁中としては、もはや何んの対処の途もない有様だったろう。だからこそ、信長上洛と伝わるや、上御所の尊い身分にかしずく女性は周章てふためいて、
お里方へ避難され、大雨の中を六月一日には、文武百官の公卿がまるで野良犬のように式台前で、もってきた進物をつきかえされ玄関払いなされながらも、必死になって面会強要をしたのだろう。


 彼らは信長の野望をおそれ、できればなんとかして食い止めようという努力をこれまでしてきたが、なんの効果もなかったから、この日は自分たちの身のふり方を心配して行ったのかも知れない。
しかし信長は、安土城中に祀ってあった神像を、その一月前から公開していた。


ポルトガル人は、アポロというギリシヤ神話の彫刻を流用したものだというが、
いま愛知の清洲公園にある銅像よりは遙かに立派であっただろう。さて天主教派のとく、「この世に蘇えりたもう神」つまり地上に復活した、現世神として自己主張をうちだした信長に、
地上の王位を狙う気などは、実際にはなかったろう。そこで本能寺へ参集した公卿衆共は、自分たちの安全を計るために、まさか信長を担ぎ出すわけにもゆかないから、
その長子の信忠を、天皇の猶子にでもして奉戴しようと、その申しこみに行ったのではあるまいか。


 と言うのは、信長に、御所の勢力を一掃するような不逞な精神があるものなら、弱体化しきっていた当時の禁中の実力では、いくらでも、前に実行はできた筈である。
だが、信長は無視こそしたが、そのよう々暴挙は敢えて、それまで試みていない。おそらく源頼朝が鎌倉幕府を開いたように、海洋渡来系原住民を主体とした、
安土幕府をつくるぐらいの下心はあったろうが、自分が別の皇統をたてるような、そんな大それた考えはなかったらしい。
もし、それが洩れていたら、ときの主上としても、後醍醐帝のように、毛利氏や北条氏に「打倒信長」の宣旨を出されていただろう。
又、そういう動きがあれば、信長が一掃すべく意気ごんできた上洛の意味もあるが、そうした事実はないのである。ただ禁中としては、
今までの経験上、官位を、てんで欲しがらず、勝手に自分が「神」であると言いだした野放図もない信長を、「どう解釈してよいか」「どう扱ってよいか」
前例がないだけに、当てはめる方式がなく、奔命に疲労困憊しきっていたのではあるまいか。なにしろ凡人共には、天才は、えたいの知れぬものである。
 これまでは、なんとか、理解できる存在にしようとした。言いかえれば信長を手なずけるために、内相にし、右府にし、そのあとは関白、太政大臣と当てかっては、失敗し続けてきた。
もう、こうなっては、御所中心主義の公卿たちにしてみれば、「近よってこないものは敵になるかも知れぬ」といった脅怖観念しかなかった。
なんとか自家薬籠中のものにしてしまわねば怖しいと、心配したのだろう。そこで主上にも、とくと内奏してお許しを賜わり、ときの皇女を、信長の伜の信忠にご降嫁させ、
 「親類づきあい」という、安心できる線を考えだしたのではあるまいかと想われる。


 信忠には、側妾は何人かいたし、三法師という幼児もいた。だか、まだ正式に誰某の娘をと、嫁とりして決っているわけではない。だから、誠仁親王の妹姫にあたる方の中から、
ご降嫁の案を出したものと、当時の状態からも考えられる。(未婚の皇女は三人あらせられる)そこで、この日。つまり六月一日の夕方。
 公卿共がようやく引揚げてから、すぐに二条の妙覚寺へ信長から使いが出され、信忠は本能寺へ呼ばれている。
 そして御所については詳しい、京所司代役にも当る村井道春軒も一緒によばれて、いろいろと信長に聞かれもした。だから、公卿衆のもってきた話が、嫡子信忠に関係かあると判る。
 ということは、〈言経卿記〉には、この日の公卿四十名と信長との団体交渉において、「大慶々々」と権中納言山科言経は、その日記にはつけているが、信長の方としては、
それに確答を与えていないものと、考えざるを得ないからである。だが、なにしろ、その翌朝、その信長は本能寺で、信忠や村井道春軒は二条城で、共に髪毛一本も残さず、ふっとんでしまっている。
 死んでしまえば、もう用なしである。何も心配することも、気遣いも要らない。だから、この日に、公卿共が何を提案しに行ったのかは、すっかり秘密にされている。
何も書き残されたものも、伝わってはいない。


秀吉は時の親王を恐喝した


 ただ、その四年後。これを種に脅喝を働いた男がいる。
 ときの皇太子であらせられる誠仁親王に対し奉って、この嚇かしは、なされた。
「……親王さまは、織田信忠が生きていては、将来ご自分が即位なさるとき、邪魔じゃと思われたので、ござりましょうな」と、その男はいった。
 そして、じわじわ絡みっき「そんで、あなたさまは、信忠と、そのおやじさまの信長を、六月二日に、京で討たれ……勿諭、ご自分は素知らぬ顔をなさって、かねて、ご昵懇の忠義者の光秀を、
殺し屋におしたてなされたが……」と、いやがらせをしたあとで、「わしや信長さまに飼うて貰って出世させて貰うた男で、天下さまには、ひとかたならぬ御恩がある
わしゃ忠義もんだし、それに曲ったことはすかん。よし相手が、どない豪い方でも、ご身分かあられたとて、悪いことをなされた方は見すごしはでけん。
わしや、信長さまの敵を、おめおめ許しゃあしませんぞな。不倶戴天の仇ですがな」
 と、厭味を散々に並べたあとで「昔し下の御所、つまり二条御所に奉公しとった雑掌で、親王さまの使いとして、明智光秀の許へ何度も行っとったもんがのう、
恐れながらちゅうて、あなたさまが光秀に下知なされたときの、お書きつけを、すぐ火に入れて焼くよう仰せっかっていながら、忘れくさっとってな、こちらへと届けに参っとりまするがのう」とか、
又は「………いろんな手証を揃えて、あなたさまこそ、信長さま殺しの発頭人じゃいうて、もとの清洲からの奉公衆どもが、たんとかしておくれんかねと、わしの許へ願い出てきて難儀しとるで、
もう過ぎさった事だし、それにあなたさまは、えれえさまの身分だで……いっそ洗いざらい、ぶちまけてしもうて、余が信長父子を成敗させたが、
それか何か悪いちゅうてひとつ御書面でも作られたら如何じやろ」
などと、手をかえ、品をかえ尾張弁で、あの手、この干で脅し続けたものらしい。この結果が〈多聞院日記〉にでてくる。
 「誠仁親王は、はしかで急死されたとの発表だが、三十五歳の親王さまが、子供のように、はしかで死なれるというのは変だと想っていたら、まことは切腹されたとかいって、
自決されたのだそうである」という、あの記載になって残されている。


 勿論、その後に「もう、これで、次の帝位には、秀吉がつくように決ったも同然だ」と出てくるから、親王を恐喝して自殺させたのは、秀吉その人だということも、はっきりする。そして、誠仁親王は脅かされて自決をしているから、
やはり秀吉が指弾したように、信長殺しの黒幕は親王とも考えられる。そして忠義者の光秀は、言われる儘に働いたが、結果は、あぶ蜂とらずの有様で殺され、まんまと脇から出てきた秀吉に一切をさらわれてしまったのだから、
「誠仁親王はドンーキホーテで、光秀は、サンチョパンサだった、という仮定も、なりたってくる。また、「親王側近の里村紹巴がおかしいから」どうしても、そうなると、
誠仁親王が怪しい。そこで.光秀がという論理にもなる。だがである。


 誠仁親王が自殺をしている点。並びに父ぎみにおわす、時のみかどが、やはり立腹されて割腹をなさろうとし、絶食し、断食自殺をなさろうとあそばされた事実からみて、
「信長殺し」の元兇は、皇室関係ではなく、これは恐れ多くも、みな秀吉のでっち上げと判る。
 つまり、公卿衆は、人問的に発想の次元が違う信長の真意を推測しかね、六月一日に雨の中をデモ行為したが、これは勘違いに基くものであって、五月二十九日に、織田信長が「一掃」しに出てきたものは、
まったく方面違いのものであるということが、親王の目殺、おそれ多いが、ときの至上の自殺未遂によって明白にされる。
では真相はなんであろうか、ということになる。そして本能寺襲撃の実行部隊の黒幕は誰なのかという謎を解かなければならない。


     続く



韓国が敵国になる日 日本は韓国の態度に動じるな

2021-02-24 10:46:31 | 新日本意外史 古代から現代まで


韓国が敵国になる日
日本は韓国の態度に動じるな


 韓国外交部(外務省に相当)のチョン・ウィヨン長官が就任後初めて「日韓間の葛藤事案について、米国の仲裁を要請する可能性もある」と話し、日本政府がこれに反応するかどうか注目されている。
現在、日本政府は韓国政府の日韓関係改善の意志表明に応じずにいる。

 チョン長官は18日、国会外交統一委員会の全体会議で「日米韓の三ヶ国協力を進めながら、日韓間の問題、必要ならば米国の支援を受けることができる」と発言した。
日韓関係の改善が進展する兆しを見せないため、米国の“仲裁”の可能性を取り上げたのだ。


 現在、日韓関係は行き詰まり状態だ。強制徴用、従軍慰安婦問題などにより始まった歴史問題が外交問題へと発展した。チョン長官就任後、茂木敏充外務大臣との通話が行われておらず、
先月就任したカン・チャンイル 新駐日大使も日本政府の高官たちと接見できずにいるため、日本に冷遇されているという話まで出ている。


大体韓国は、慰安婦にしろ、徴用工にしろ、解決済みの案件を蒸し返し、日本に難癖をつけている国なのである。
元慰安婦のおばはんは、国際司法裁判所に訴えろと気勢を上げている始末。そして、
自国の問題解決もできず、他国(アメリカ)に仲裁を要請するとは、馬鹿に付ける薬はないというが、最低の国である。


この国は、馬韓、弁韓、辰韓の太古より、中国の属国で、李氏朝鮮の約500年間も属国であり続け、王や貴族の下に両班(りょうはん)という特権階級が居て、 国民を奴隷化していた。
国内は権力争いと、陰謀に明け暮れ、奴隷根性は嘘と盗みと人を騙すことに長けた民族に出来上がった。
何人もの歴代の王は、権力闘争に明け暮れ、形勢が悪くなると、国を捨て、宮殿から逃げて、中国やロシア大使館に逃げ込んでいる。
日清、日露戦争の遠因は、実は朝鮮のこうした自国の当事者能力の無さが引き起こしたものなのである。
今風に言えば「問題解決能力の欠如」が朝鮮民族の特徴なのである。


当時の朝鮮の都の道路という道路には、動物と人糞が散乱し、その強烈な臭気に吐き気がしたという。こうした世界一不潔な国を日本は統合したのである。
そして、法律、教育、道徳、社会インフラとあらゆるものを(人、物、金、情報)提供し、朝鮮を僅か十年で立ち直らせたのが日本国なのである。
だから、この国は国民に「感謝」という概念が無いらしいので、それは置くとしても、都合の悪い歴史を捏造せず、正しい歴史を教えるべきである。


さて、最近の情報によると、韓国は日本に対抗して「小型空母」や「原潜」を造る計画があるらしい。
日本は太平洋戦争で機動部隊を整備し、航空母艦も多く持って運用した実績とノウハウが蓄積されている。
だから、予算さえあれば技術的には大型空母も建造できるが、韓国には無理で、せいぜいが小型空母止まり。
しかし、原潜となると話は違ってくる。


原潜の役目は、敵艦攻撃もあるが、核弾頭で国土が消滅しても、海中から敵国に核ミサイルで報復するという戦術兵器なのである。
だから韓国が原潜を持つということは、米韓同盟を破棄し、中国にも米国にも頼らず、中立の国策を取るということを意味する。
それの前提として、文在寅大統領政権の採る政策は、北朝鮮と統合し、北の核とミサイル技術の確保だろう。こうなると世界有数の核保有国で日本を見下すことができ、韓国の国威は大いに上がる。


 ここ数年は日本の哨戒機への韓国艦船のレーダー照射や韓国のGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)破棄の動き、
さらには200カイリの接点地域内(排他的経済水域)における海上保安庁と韓国海洋警察庁との間で睨み合いなどが相次ぎ、政治、経済だけでなく安全保障の面でも敵意むき出しの態度は要注意だ。


日本は、こうした韓国の邪悪な戦略を見据えた国策を取る必要が出てきた。米国の新バイデン政権も、米韓同盟の危うさに対する懸念も表明している。
こうした、中国の尖閣奪還や韓国の日本敵視政策を目前にして、日米同盟に頼り切っている日本は果たしてどの道を進むのか。
重大な岐路に立たされている。


『反日種族主義』『反日種族主義との闘争』『反日への最後通告』

2021-02-19 17:59:46 | 新日本意外史 古代から現代まで


『反日種族主義』『反日種族主義との闘争』『反日への最後通告』


この三冊の本は、正しい史観で歴史を観れば真実に到達できる、という証拠を示してくれた大変な「良書」である。
李栄薫氏などは、膨大な日本、韓国、英文資料を渉猟し、その努力の跡が窺われ、日本にとっても素晴らしい仕事をしてくれた。
本来なら、こうした研究は日本の学者が達成するべきなのだが、一人として現れないのは学者どもの怠慢。
私は、学術会議問題で批判した日本の学者の成すべき事の一つに、軍事研究も挙げたが、歴史問題にも期待できないとは、全く情けない。
これらの本は是非とも英訳して世界に発信し、日本の正当性を知らしめて貰いたいものである。


以下は両執筆者の経歴である。


『反日種族主義』とその続編『反日種族主義との闘争』
著者は韓国人、李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学で韓国経済史研究で博士号取得。
韓神大学、成均館大学教授に就任。定年退職後、李承晩学堂の校長として活躍している。


『反日への最後通告』
著者は韓国人、池萬元(チ・マンウオン)元韓国陸軍大佐。
韓国陸軍士官学校第22期卒業(1966年)、経営学修士(1975年アメリカ合衆国海軍大学院).システムエ学博士(1980年アメリカ合衆国海軍大学院)、
ベトナム戦争出征(作戦将校)、国防情報本部海外情報募集将校.国防企画計画予算制度導入研究員、国防研究員責任研究委員、陸軍予備役大佐(1987年)、
アメリカ合衆国海軍大学副教授(1987-89年).社会発展システム研究所長.ソウル市市政改革委員(1998-99年)、国家安保政策研究所諮問委員(1998-99年)、現在システムクラブ代表、評論家。


慰安婦に対する韓国内での見方。(以下『反日種族主義との闘争』より引用)


 韓国では従軍慰安婦問題は聖域だ。慰安婦出身の女性に敬意をこめて「慰安婦「ルモニ」と呼びかけ、彼女たちは両班家の育ちがいいお嬢様だったと言わなければならない。
非の打ち所がない良家のお嬢様が野獣のような日本の憲兵に強引に日本軍の慰安所に連れて行かれて、性奴隷として毎日数十名もの野獣のような日本軍将兵に凌辱されて身も心も憔悴しきっていた、
日本人は獣にも劣る野蛮人だ、と言わなければならない。
朝鮮の娘たちが自ら慰安婦になったなどと言うのはもっての他だ。
 慰安婦の権利と名誉を守るために設立された挺身隊問題対策協議会(略称・挺対協)も聖域化された組織だ。
戦時下の労働力不足を補うために組織されて工場などでの勤労労働に従事した挺身隊と主に戦地で将兵の性の相手をしていた慰安婦は、性格自体が全く異なるにもかかわらず、
一部の左翼系の女性が一九九〇年十一月十六日に日本軍慰安婦の名誉と人権を守るという名分で「挺身隊問題対策協議会」を設立した。
慰安婦と挺身隊を混同して付けた名称だ。同団体の名称は「慰安婦問題対策協議会」とするべきだった。
 彼女たちは三十年間韓国内外でこの団体名を名乗って国家利益と相いれない不穏な活動を行って来たが、未だに慰安婦問題はこの組織が事実上排他的に独占している。
慰安婦についてこの組織の見解と異なる発言をした人間は、言論人であろうが学者であろうが直ちに糾弾されて訴訟を提起される。
 挺対協は二〇一八年七月十六日に団体名を「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(略称・正義連)に変えたが、一年以上たってもこの名前を知る人は少ない。
長年自分たちが慣れ親しんできた名称をわざわざ変えた理由として、次の二つのことが考えられる。


 一つは、挺対協が悪名高かったからだ。挺対協は多くの韓国民から「慰安婦を口実に反日・反米・反国家活動に奔走している」という批判を受け、
そのたびに大規模な弁護団を組織して訴訟を起こした。現在の韓国司法部は左翼系の判事らに掌握されているだけに、左翼の実勢の顔色を窺ったような判決が多かったことから、
「挺対協が訴えたらみな監獄行きだ」という流行語まで生まれた。だから、この組織の幹部はこの悪名高い名称を使いづらくなり、曖昧で抽象的な「正義記憶連帯」という名称に変えたのだろう。
 もう一つは、挺対協の正式名称が「挺身隊問題対策協議会」だからだ。自分たちが挺身隊と慰安婦を混同していることを露呈するような名称を使うのはさすがに体裁が悪かったはずだ。(以下略)

韓国の共産主義者たちは、日本の憲兵に連れて行かれて慰安婦にされた女性の数は二十万人を下らないと主張している。しかし、多くの研究者の見積もりによると、朝鮮半島出身の慰安婦は一九三七年の日中戦争から
一九四五年八月十五日までの八年間で最も多い年でも三六〇〇人ほどだった。日本軍慰安婦の構成割合を国別に分類して見ると、最も多かったのは日本人(約四割)で、その次が中国、続いて、
朝鮮を含む十力国にのぼる被占領国の順になっている。


 にもかかわらず、韓国共産主義者たちは、日本軍慰安婦はすべて朝鮮人で、その数は二十万人にものぼると主張しており、これまで慰安婦問題に関心がなかった韓国人はその嘘を真に受けている。
韓国で誰もが知っている慰安婦に関するキーワードは、◎強制連行、◎理不尽な強姦、◎嘲りと虐待、◎代価のない搾取などだが、これらには専門家の研究結果と一致しない事実が含まれている。
こうした資料は日本にも在り、良識ある識者や自民党議員でも主張している正しい情報なのである。
慰安婦とは「性奴隷」ではなく、売春婦なのである。朝鮮人慰安婦は多くの場合、親に売られたり、ブローカーに騙さた者が多い。それ以外は自分の意思で慰安婦になっているのが実態なのである。


劣悪な労働環境どころか、月経になれば休めるし、性病予防も徹底していた。給料も多く、朝鮮の親族に毎月送金し、貯金する者も多かった。そして搾取なども無かった。
有名な慰安婦の、文玉珠の回顧録では、美人で歌がうまく、利口で陽気で、面倒見がよかったため、日本軍の将兵の人気が高く、多額のチップを貰っていたという。
だから、現金三万一千円、ダイヤの指輪、ワニ革のバックなどの贅沢品の他に、日本内地の郵便局に五万円以上の貯金をしていたという。
ちなみに昭和20年ころの、サラリーマンの給料は、勤続20年の社員で手取り300円位というデータと比較すると、価値が判るだろう。
「日本軍慰安婦は公認された売春婦であり、日本に拉致されて売春を強要された『性奴隷』ではない」というのが真実。


余談だが、江戸時代の島原の乱の際、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。
この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのが真相である。
日本は昔から従軍慰安婦ともいうべき兵隊のセックス処理のため、売春婦を戦地へ連れて行くのは、通例となっていた。
現在、これが韓国や中国が問題にして騒ぎ立てているが、白人国家は、侵略した土地で女たちを現地調達して、これは苛斂誅求で酷いものだった。
フランスの植民地だったアルジェリアなど、職業も差別され、男はギャルソンくらいしかなく、女の多くは売春婦で生活の糧を得ていた。
そして、一般人の女さえフランス人に要求されれば、どんな場合でも応じなければならず、断れば殺されても文句が言えない状態だった。
日本は自国民をしかもお金を払って買っていたのだから、その残酷度はまるで比べ物にならない。
ちなみに、台湾も朝鮮も当時は日本国であって、植民地ではなかったことを理解しなければならない。


島原の乱については以下を参照されたい。


https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12509273081.html

韓国は「朝鮮併合」に感謝せよ


日本では明治維新により、西洋の文物を貪欲に吸収し、富国強兵、殖産興業政策に力を入れ、列強の地位を目指した。
福沢諭吉が英語の単語を日本語に訳した和製漢語を数多く作った偉業を達成し、渋沢栄一は日本の経営者に論語と算盤を同時に教え、損得のみならず経営者としての高い追徳を身に付けることを勤めた。
朝鮮は、第二十六代高宗(同一八六二~一九〇七)の時代に当たる一八八五年には、伊藤博文が日本帝国初代内閣総理大臣になり、日本は日清戦争と日露戦争で勝利を収めた後、
大韓帝国と乙巳保護条約を締結した。第二十七代純宗は、朝鮮時代を自ら幕引きして日韓併合条約に基づいて朝鮮を日本に献上した。


一九一〇年八月ニト九日には『純宗勅書』が公布された。


 「朕是に於いて決然として内省し、確然として自ら断じ、ここに韓国の統治権を従前より親信依り仰したる隣国の大日本皇帝陛下に譲与し、外に東洋の平和を強固ならしめ、
内に八域の民生を保全ならしめんとする。汝ら大小臣民は国勢と時宜を深察し、煩擾すべからず」


これを見ると、日本が朝鮮を強制的に武力によって、占領したといういわゆる日帝強占の話は全く事実ではない。日本は朝鮮を強制的に占領したわけではない。これは韓国共産主義者たちの謀略にすぎない。
当時の朝鮮には内乱と外国の侵略から王室を保護する能力すらなかった。自力では持ちこたえる自信がなかった王室が日本に支援を要請したのである。
高宗や純宗、大院君や閔妃らは宮中で権力争いに明け暮れ、外の世界がどのように変わっているのか、そして、その変化が今後何を意味することになるかということに、まったく目がいかなかったのである。
今になって韓国は「朝鮮併合は違法だ」と騒ぐが、併合後の日本が僅か十年で朝鮮にどれだけ金と労力をつぎ込んだか分かっているのか。
そして日本が世界を相手に戦いあえなく敗れた際、国も、企業も個人も、全ての金と施設(財産)を置いて、裸一貫で朝鮮から引き揚げたのである。
そして彼ら朝鮮人は、日本が残した財産を利用して、経済的発展ができたのである。
経済、教育、社会インフラその他もろもろの礎は日本築き上げ朝鮮に残してきたものなのである。
日本が併合したおかげで、自由主義の国として韓国は残った。さもなくば今頃は北朝鮮と同じく共産国家として、中国かソ連の属国となっていただろう。
有難かったと感謝されても、文句を付けられる謂れは微塵もない。
現在、日本人でさえ韓国の捏造情報を鵜呑みにして、ある日憲兵が突然やってきて、朝鮮娘を強引にトラックに積み連行した。と、
「強制連行」を信じ込んでいる者たちも多い。
以下に「強制動員」と「強制徴用」の本当の意味を書いておくので、よく理解してもらいたい。『反日種族主義との闘争』P-80-より引用。


先ず、強制徴用の否定についてお話しします。
 私は徴用を否定したりしていません。一九四四年九月から徴用が実施され、これにより二十二万余名の朝鮮人が日本に動員されました。
徴用に応じなければ、一年以下の懲役か1000円以下の罰金に処されました。このように、徴用は明白な強制でした。
したがって私は、「法律が規制する強制的な動員方法だったと記しました。それにもかかわらず強制徴用を否定している、という批判が提起されるのは、私の文章を間違って読んだのでなければ、
「私が、強制徴用という言葉自体が事実を歪曲する虚構的な概念だ」と批判したためだと考えられます。


 徴用はそれ自体が強制であるにもかかわらず、わざわざ「強制」という単語を付けています。
もし韓国で徴兵を「強制徴兵」と言えば、人々は笑うことでしょう。同じことです。それでもなお敢えて「強制」という言葉を付けたがるのは、徴用に「奴隷のように連れられて行った」という式の、
奴隷狩りのイメージを塗り付けるためです。意図したことではないのかも知れませんが、結果的にはそうです。しかし徴用は、基本的にそういうものではありません。
 当時、徴用令書と呼ばれた令状が出ると、対象者は令状を受領しなければならず、決められた時間と場所に出頭し、身体検査と適性検査を受けました。


それを通過すると面事務所や郡庁に再度集まり、釜山や麗水に集団移動し、そこで日本の会社から来た労務担当者の引率下、連絡船に乗って海を渡りました。
徴用にはこのような定められた法規かあり、それに則って行なわれたのであり、デタラメに手当たり次第に捕まえてトラックに載せ、荷物のように日本に運ばれたのではありません。
"強制動員”も、事実を誇張し歴史を歪曲する概念です。徴用に先立ち一九三九年九月以降、満五年にわたり「募集」と「官斡旋」という方式で労務動員が行なわれました。
募集と官斡旋は、基本的に個人の自発的な意思によるものでした。日本に動員された七十二万余名の労務者の中で、徴用されて行った二二万名ほどを除いた約五〇万名が、そうして日本に渡りました。
徴用されて行ったとしても、一年足らずで戦争が終わったので、労務動員において徴用の持つ意味は、さらに小さくなります。
"強制動員"という概念の下では、日本に動員された全ての朝鮮人は奴隷になってしまいます。


しかし、募集と官斡旋で重要だったことは、新しい場所で自身の運命を開拓しようとした朝鮮人たちの自発的な意思でした。このような意味で"強制動員”は歴史の真実を歪曲する概念です。
私は、「たんに『労務動員』とだけ表現すればよい」と主張しています。このことで「"強制動員”を否定した」と批判するのは、私の主張の論点をぼやかすことです。
以下略
その他、この三冊は、韓国大法院の歪んだ判決、竹島問題等々・・・・・詳細な分析がなされ、文在寅大統領一派の考え方がよく解る優れた書物である。



大本営参謀の情報戦記」本の紹介 第四部

2021-02-17 19:06:52 | 新日本意外史 古代から現代まで
参謀本部「ソ連班」はドイツの敗北を分析していた

第二次大戦前、日本は、日独伊の三国同盟を国策として締結した。
そして、ドイツがソ連に攻め込むと、ドイツの勝利を疑わなかった。だがこれは、何々をすればドイツが勝つだろうという、予想と願望を基にした甘い判断だった。
しかし、参謀本部情報課第五課は「ドイツ敗北」の判断をしていたのであるが、参謀総長はこれを無視してしまった。
日本にも正しい情報判断をしていた人や部署があったというのに、惜しみて余りある話である。


以下p-50-からの引用。

 西郷大佐の第十六課の情報への取り組み方は、何といっても大島浩という近来稀な大物武官(のち大使)を持っていて、ドイツの権力の中枢であるヒットラー、ヘス、リッベントロップといった重要人物と、
あまりにも容易に会って意見を聞き得る立場にあり、彼ら中枢の意図することが聞き出せたのと、日独伊三国同盟の同盟国が日本に嘘をつくことはないという認識の甘さと、
日本軍の中枢を占める高級軍人たちのほとんどが盲信的な親独感情を持っていたことなどが基礎になっていたことは否定できない。
従って大島大使から、「リッベントロップが本職に斯く斯く説明せり」と打電してくると、その内容は疑う余地のない絶対性をもつものになっていた。
換言すれば第十六課は大島大使を長とする在独武官室の東京出張所といっても過言ではなかった。

 これに対して林大佐の第五課は、ドイツ課の取り組み方とはまったく違っていた。在ソの駐在武官や大使が、容易にクレムリンに出入りして、スターリンやモロトフや軍の首脳と和気藹々と話をすることは、
ドイツと違って至難中の至難であったから、止むを得ず権力の中枢の考えている意中が、ソ連国内のどこかに、何かの形で徴候として出ていないかを、虎視たんたん克明に探して分析していくことになる。

そのため、国内や隣接国家を旅行したり、シベリヤ鉄道の輸送に何か変ったことはないか、観兵式に出る新しい兵器はどうか、新聞雑誌でソ連の要人が何を喋ったか、以前に喋った内容と、今度の内容に喰い違いはないかなど、
各種の徴候を丹念に積み上げ、る情報を基礎に、「ドイツは三ヶ月以内にソ連軍を席巻してモスコーに進出する」と言い、第五課は「ソ連の戦力は第一次世界大戦のときとは比較にならないほど充実していて、
たとえモスコーやさらにウラル山系まで後退することがあっても、それはソ連特有の遅滞作戦であって、米国からの軍需品補給が続く限り、冬とともにソ連が一大攻勢に転ずる可能性が強い」と主張してソ連に軍配を上げた。

その結果は、翌十八年二月独軍がスターリングラードで惨憺たる潰滅的敗北を受け、それ以来東部戦線はソ連軍の支配的戦勢に変ってしまったことで明らかである。

 大島大使の電報はいまも外務省資料館に残っている。参考までに、昭和十六年十一月十一日の電報では(原文は片仮名、傍点は筆者)、
「(冒頭部省略)今回の大作戦開始までに、既に五百万のソ軍を殲滅し、(中略)今や往電一二二四号の如く、モスコー大包囲戦を展開中なるが、最近のブリヤンスク、ウィヤスマにおける包囲により、
残存せるチモシェンコ軍に更に大打撃を与うべきを以て、モスコーの運命はも早や尽きたりというべく、かくてドイツは計画通り厳冬期前にソ軍に殲滅的打撃を与え、ソ連を再起不能の状態に陥らしむるを得べく(中略)今日と
雖も其の方針に毫も変化なきは、『ヒ』総統、『リ』外相の累次の本使(註、大島)に対する言明に徴しても明らかなり(以下略)」

 というようなものであるから、これを信じない方がおかしいと思われるぐらい電報受領者の心を揺すぶってしまった。しかし冷静に読んでも大島電の中で、傍点を付した部分は明らかに推測または仮定である。
親独という眼鏡をかけて読むと、推測や仮定が真実に倒錯するから、情報は二線、三線と異った複数の視点の線の交叉点を求めないと危険なことをよく示している。
 なお付け加えておくと、第五課では昭和十六年八月(独ソ戦開始後二ヶ月)、すでに諸情報を分析して、ソ連有利の判決を参謀総長に出していた。

以下略

ここで少し、独ソ戦で有名なバルバロッサ作戦について触れておく。
ドイツ軍はソ連侵攻に当たって三個軍集団300万人を終結させた。その内訳は、
北方軍集団(リッター・フオン・レープ元帥)がレニーグラードを目指した。
中央軍集団(フェドール・フオン・ボック元帥)がモスクワを目指した。
南方軍集団(ケルト・フオン・ルントシュテット元帥)スターリングラードを目指した。
そしてこのかってない大規模侵略軍の内容は、戦車3500両、野戦砲7000門、航空機2000機となっていた。


バルバロッサ作戦の兵站計画?

ロシアへの侵攻作戦が決まった時、戦場となる広大な領域での補給路確保が重要な問題だった。過去の戦争に比べて戦場となるロシアは広大であり、ドイツの補給ラインに対するロシア側の脅威が予想された。
ドイツ軍は後方補給線保護に苦心した。アクティブとパッシブの後方警備対策が区別され、状況に応じた警備用の特殊部隊が複数設立された。
一方で警備隊は予備役や退役兵など主に高齢者から構成され最低限の訓練しか受けていなかった。武器の補充も不十分で赤軍から鹵獲したロシア製の武器を利用していた。
ドイツ軍の兵站業務は陸軍参謀本部の兵站総監部が統括していたが、バルバロッサ作戦では広大なロシアの領域をカバーするため各軍集団に現地事務所が設置され補給を担当した。
しかしソ連の広大な領土で整備された街道はミンスク~スモレンスク~モスクワ間の一本しかなく、機甲部隊の通行に適さないデコボコの悪路が果てしなく続いていた。
また雨が降ると地面は泥濘化し、雨季のまともな作戦行動は困難だった。
侵攻開始から一か月で輸送用トラックの3割が故障し、機甲部隊の戦車も稼働率が激減した。
(この当時、ドイツ機甲軍の戦車の多くは、二号戦車、三号戦車、Ⅳ号戦車で、チェコ製のシェコダ戦車も使われていた。ソ連のT-34戦車に苦戦した結果、パンツァーやタイガー戦車の開発に着手している)

ドイツ軍は道路の不整備を鉄道輸送で補おうと試みたがロシアとドイツでは間隔(ゲージ)が異なり、ゲージ変換作業に追われた。鉄道工作部隊が編制されたが補給路への負担は改善されず
物資の積み替え駅では深刻な渋滞が発生した。7月31日時点でドイツ軍は東部の戦闘で21万3301人を喪失していたが補充されたのは4万7000人に過ぎなかった。鉄道網と道路の不備は前線に深刻な物資の欠乏を生じさせていた。
また兵站の優先順位が曖昧であり、運行優先権をめぐって現地部隊が対立し、酷い時は部隊間で物資を積み込んだ列車のハイジャックが行われた。

ヒトラー対スターリン

 一九四一年十二月初め、モスクワまで十六キロの地点に迫っていたドイツ軍は、新たに出現したソ連極東軍団に押し戻され、独ソ戦開始以来初めて退却に転じた。
これは日本が大きく関係していた。ソ連諜報員ゾルゲによって、日本の国策が南進政策に決定し、満州国境の百万からのソ連軍を転用できると踏んだのである。

ドイツ軍は越冬の準備と戦線の再構築にとりかかり、ソ連軍の士気は上がった。緒戦の電撃作戦によるモスクワ攻略には失敗したものの、しかしドイツ軍は全体としてまだ強大であり、独ソ戦の行方は予断を許さなかった。
 年が明けて一九四二年に入ると、独ソ戦線の様相はいっそうの混迷を深めてきた。ヒトラーとスターリンは軍事の専門家でも何でもなかったが、戦争のプロフェッショナルである軍部の作戦に執拗に介入してきた。
この二人の独裁者はまるで互いの失敗を補い合うかのように、相互に愚行を繰り返した。ヒトラーもスターリンも自国の作戦に不利をもたらし、多大の損害を与えた。

 ドイツでは、ヒトラーの執拗な干渉によって作戦をひっかきまわされる軍部がたまりかね、「ヒトラーはスターリンのまわし者ではないか」という冗談にも、ときどき真剣さが入りまじるほどだったという。
ドイツ陸軍の頭脳とうたわれたマンシュタインユタイン元帥は戦後、その著書『失われ
た勝利』のなかで、もしもヒトラーの作戦干渉なしに自分が戦争指導していたら、ドイツは100パーセント、ソ連に勝っていた、と断言している。

 モスクワ攻略には失敗したものの、ドイツ軍は一九四二年春に戦線を立て直し、攻勢をかけてきたソ連軍を迎え撃った。五月、南部のウクライナ方面に大攻勢をかけたスターリンは、
まずクリミア半島のセバストポリを解放しようとして大軍を差し向けてきた。しかしこれはマンシュダイン元帥の反撃にあってクリミア半島から駆逐され、一八万のソ連軍が捕虜になり、飛行機四百機と戦車三五〇両が捕獲された。
さらにその直後にスターリンがハリコフ奪回のためにかけた大攻勢も、ドイツ軍機甲部隊によって包囲殲滅され、二五万の兵士が捕虜になり、千二百両の戦車と二千門の火砲が捕獲された。

これはドイツ軍の力を過小評価して、無理な攻勢に打って出たスターリンの大失策だった。ドイツ軍はこの戦いの勝利の余勢を駆って、ヴォルガ河とカフカスに殺到した。
そしてこれが、来るべきスターリングラード攻防戦の幕開けとなるのである。
 カフカスは油田地帯である。ここの石油資源を入手できなければ、ドイツの戦争継続は難しくなる。カフカスに向かったドイツ軍は占領に成功したが、ソ連軍は退却に際して油田を徹底的に破壊した

地獄のスターリングラード

 ヴォルガ河に向かったドイツ軍は、スターリングラードに突入した。ここは交通の要衝であり、ここを取られたらソ連は南北に分断されてしまう。戦闘は、最初はドイツ軍が優勢だったが、スターリンはいかなる理由があろうと撤退を許さず、
死守を厳命し、もてる限りの軍事力を投入し、次から次へと補充部隊を送りこんできた。酸鼻を極める市街戦となった。一つの建物をめぐって奪ったり奪い返されたり、同じ建物の中で両軍が階を隔てて占拠したり、
といった混戦になった。当初優勢だったドイツ軍も次第に追いつめられ、軍司令官のパウルス元帥は、ひとまずスターリングラードから撤退して戦線を立て直したいと、ヒトラーに要求した。しかしヒトラーは「断固死守せよ」と厳命し、
撤退を拒絶した。これはヒトラーの大きな誤りだった。進退窮まったスターリングラードのドイツ軍は、ついに一九四三年二月降伏し、十万が捕虜になった。
このスターリングラードの攻防戦が独ソ戦の天王山であり、分岐点になったとよくいわれる。


 スターリングラード攻防戦は辛うじてソ連が勝ったが、独ソ戦は一九四三年いっぱいを通じてまだまだ一進一退の攻防が続いた。七月のクルスクの戦いは、史上最大の戦車戦となった。
ドイツ軍の戦車二千七百台とソ連軍の戦車六千台が激突し、戦闘は一進一退を続けた。局地的な戦闘ではドイツ軍が圧勝したものの、攻撃能力は限界に達し、ヒトラーは作戦中止命令を出して撤退に転じた。
結局ドイツはこの地を占領することができず、この戦いをもって、ドイツがソ連に勝利する最後のチャンスは失われた。そしてまさにこの同時期に連合軍がシチリア島に上陸し、地中海、バルカン方面でドイツ軍を牽制したため、
これはソ連でのドイツの戦いにも暗雲を及ぼしはじめるのである。

 一九四四年六月六日、連合軍がフランスのノルマンディーに上陸して、ヨーロッパ大陸の第二戦線が構築されると、それに呼応するかのようにソ連軍は東部戦線で大攻勢をかけてきた。
これを正面から受けたドイツ中央軍は、すでに弱体化が著しかったため、とりあえず撤退して戦線を立て直すことを要求した。しかしヒトラーはこれを断固として許さず、死守を命じたため、
ドイツ中央軍は総崩れとなり、四十万人が死傷し、十万が捕虜になった。壊滅状態となったドイツ軍はあっという間に三週間でベラルーシを奪還され、ソ連軍はポーランドのヴィスワ川まで迫った。
これはソ連軍の電撃作戦とでもいうべきものだった。これによってドイツの敗北は確定的となり、ソ連軍はその後も戦闘で膨大な犠牲を出しつつも、翌年四月ベルリンに突人するのである。

以上長々と独ソ戦の状況を、バルバロッサ関連史料を元に記述したが、堀参謀が指摘している「兵站(補給)」が如何に大切かを力説したかった故である。

ソ連が勝利できたのも、膨大な兵站、即ちアメリカからソ連に供与された軍事物資が桁外れだったからである。
トラックを中心に、軍用車四十万両、機関車千九百台、ソ連の全タイヤの四三パーセント、鉄道レールの五十六パーセント、使用された爆薬の三分の一などである。
さらに加えて膨大な食料、銅、アルミニウム、航空機用燃料も惜しみなくソ連に与えられた。しかし狡猾なスターリンは、アメリカから援助を受けていることをいっさい公表しなかったが、これらの
 援助がなければ、ソ連はドイツとの戦争をとうてい勝ち抜くことができなかっただろう。
日本がアメリカに負けた大きな要因は、元々圧倒的な国力の差で勝ち目はなかったが、「情報」「兵站」の脆弱性も大きな要素だった。 


大本営参謀の情報戦記」本の紹介 第二部

2021-02-03 11:00:04 | 新日本意外史 古代から現代まで

大本営参謀の情報戦記」本の紹介 第二部
軍事指導者は何を書き残そうとしたのか



 昭和陸軍の軍事指導者たちの手記の類は、戦後七十五年の今、私家版も含めると、三百冊ほどになるのではないか。
こうした類の書にふれてきた者として言えることは、次のような特徴に注目して分類が出来る。


①昭和陸軍の軌跡と自らの軌跡を同一化した書(全く反省の色がない書)


②昭和陸軍の中枢にいたが、自らはその政策に疑問を持っていたとの書(自分と組織を二元化した書)


③昭和陸軍の軌跡に関わりなく自らの歩んだ道を説く書(史観なき自分史で反省なし)


④昭和陸軍を擁護し、自己正当化するだけの書(自已賛美に終始した鼻持ちならない書)


⑤徹底した昭和陸軍の実態批判の書(自己弁護の書)


⑥客観的に昭和陸軍と自己の歩みを綴った書(史料になりうる書)


⑦次世代に語り継ぐために書かれた書(継承の書)


 この七点をそれぞれ分析していくと、大日本帝国の軍人たちは何を考えて戦争を行い、いかに戦ったのか、そして次の世代に何を残そうとしたのかが、わかってくる。
つまりはその軍人たちの教養と人格と、そして歴史的責任が浮かびあかってくる。昭和という時代が過ぎてほぼ三十年、戦争の傷は今なお可視化されていないにせよ、この社会の不可視の部分にその傷は幾つも残っている。
 あえて戦争政策を進めた軍事指導者(あるいは高級将校)の記録にふれることで、「現在」を見つめていくべきであろう。
そして、これらの分類の中で、「大本営参謀の情報戦記」は⑥と⑦に当たり、現在にも通用する秀逸で貴重な一冊である。




    アメリカが日系人を強制隔離した訳
以下に92ページからの引用。
情報戦争は、当然戦争の起る前から始まっているのである。一年前?いや五年前?
 とんでもない、米国が日本との戦争を準備したのは、寺本中将のいうごとく大正十年からであったという。そのぐらい前から情報戦争はすでに開戦していて、情報の収集が行われていたのである。
(中略)


 事前に収集する情報は既述のような軍事的なものだけではない。例えば経済(国力の検討)、資源(石油、鉄鉱など国力の基本となるもの)、人口(動員能力の検討)、産業(生産能力)、
教育(愛国心のバロメーター)、船舶量(輸送能力)、歴史、思想といったあらゆる分野の情報から、その国の戦争能力をはじきだしていかなければならない。
これらを調査するのは、新聞、雑誌、公刊文書などの文書諜報のほかに、諜者網をその国の中に十分に余裕をもって作り上げておかなければ、いざという時の役に立たない。
この諜者網を摘発して諜者の活動を防止するのが防諜である。日本はいま諜者天国という不名誉な名前を貰っており、防諜では日本民族ぐらい世界中でのんびりしている国はない。

 また一例を挙げよう。第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日系人の強制収容だった。
戦後になっても日本人は、これが何のためだったか知っていないし、知ろうとしない。戦後四十年経って米国は、何百万ドルを支払って、「ご免なさい」と議会で決めているから、実に立派な人道的民主主義の国だと思っている大が多い。
最近ある日本の経済界の要人が、「あのような感情的行動は怪しからん」と述べていて、米国が真珠湾攻撃を受けての反日の感情的処置であったと考えているふうであった。
 どうして日本人は、こんなにまで「おめでたい」のだろうか?むろん日本人をJAPと呼んだ当時の感情的反発の行動であったのは当然として、裏から見れば、あれで日本武官が、営々として作り上げてきた米国内の諜者網(もちろん日系人全部というわけではない)を破壊するための防諜対策だったと、どうして考えないのであろうか。
米国人は、国境を隔てて何百年の間、権謀術数に明け暮れた欧洲人の子孫である。日本人のように鎖国三百年の夢を貪ってきた民族とは、情報の収集や防諜に関しては全然血統が違っている。
四十年後に何百万ドル払って不平を静めようが、戦争に負けるよりはぐっと安いのである。
 孫子の言葉の中でもあまり知られていないものに、「爵禄百金を惜しんで、敵の情を知らざるは不仁の至なり、人の将にあらざるなり、主の佐にあらざるなり、勝の主にあらざるなり」という言葉がある。
大要は、敵情を知るには人材や金銭を惜しんではいけない、これを惜しむような人間は、将帥でもなく、幕僚でもなく、勝利の主になることは出来ないという意味で、情報を事前に収集するには、
最優秀の人材とあり余る金を使え、と教えている。
(後略)
こうしてアメリカにおける人的情報源(ヒューミント)は壊滅したのだが、以後は中立国の駐在武官からの情報や、海外放送や無線傍受(ジギント)になる。
さて、堀氏は「アメリカは大正10年から日本研究をしていた」と記している。
これは早くから仮想敵国が日本だったということになる。
もう一つの説として、主に石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)特命参与の岩間敏氏の「戦争と石油(2)」と題する好個の論文がある。
この論文には、太平洋戦争における日本の南方石油の還送をめぐる日米海軍の攻防の経緯が精密に描かれている。以下、この論文の一部を要約一補足して掲載する。
開戦に先立つアメリカの対日軍事戦略アメリカは、日露戦争直後から対日戦略計画の策定を開始した。1906年に初めて策定された計画は「オレンジ作戦」と呼ばれ、以後は時代・情勢に合わせて改訂された。
日華事変が始まった昭和12年の翌年には新たな「オレンジ作戦」を策定した。この計画の骨子には「日本は当初、アメリカのアジアにおける拠点、フィリピンを攻撃、これに対しアメリカ海軍主力艦隊は太平洋を西進し、
日本海軍と艦隊決戦する」ことと「アメリカは太平洋の制海権を把握し、日本に対して海上封鎖を実施、日本経済を枯渇させる」という二つの方針が示されていた。
 アメリカはこの「新オレンジ作戦」を踏まえて、昭和16年3月、今度はイギリスとの間で「レインボー5号作戦」を策定した。(以下略)
堀氏の大正10(1921年)年説と、岩間氏の1906年説を併記したが、以下に展開する考察からも岩間氏の説を採ることにする。

なぜこんなに早く、日本を将来の敵国として研究していたのかには訳がある。それは日本が、東洋で「日清戦争」と「日露戦争」に勝利したからである。これに驚いたヨーロッパの白人たちは黄色人種がまた地球を支配するのではとの危機感から、黄禍論を発表した。だから堀氏の説はの大正10年はこの時期に重なる。

次に日本における「移民」について考える必要がある。
明治維新以後、日本政府は多くの国や地域に移民を送り込んでいる。
 明治四年に大江卓造が民部大輔大木喬任へ建白書を提出。杉浦重剛は七個師団二軍団を編成し海南島を攻略させ移住をと唱えた。
マスコミの福陵新報までも移民政策を主張し、政府の政策に同調している。
ボルネオ、サンダカン、スマトラにはカラユキさんとして、実態は売春婦として多くの女たちが送られた。ベンゲネットへは過酷な工事移民集団。
南米では、ブラジルをはじめ、ペルー、アルゼンチン、ボリビア、パラグアイやチリへの移民も盛んに行われた、ハワイ諸島から米国本土にも多くの日本人が送られている。
しかし、この移民政策の実態は、移民という美名に隠されているが「棄民」だったのである。では一体何故、人口過剰でもなかった(当時の人口は3500万人弱)当時、自国の民を棄民しなければならなかったのか。
その訳を考えてみたい。


明治新政府が、四民平等を掲げて戸籍制度を制定したとき、全国民に姓名を義務付けた。これを明治壬申戸籍という。
そして徴税や徴兵の為、全国的に人口調査をしたところ、江戸時代の身分制度の、士農工商の全人口と同じくらいの数の人口が在ることに驚いた。
武士は侍人別帳、町人は町人別長、百姓は寺人別帳で把握されていた。


それら人別以外の人間は、江戸時代以前から、時の政権にも、所の大名にも属さず、「統治されず統治せず、相互扶助」の原始共産主義ともいうべき生活形態をモットーに暮らしていた者たちである。
したがって彼らは、税金も免除され、助郷などとも無関係で、年二朱の人頭税をお頭に収めていた。
これらの民を後に研究発表した、故三角寛は「サンカ」と命名している。散家、山窩、山家、三家、などと当て字されている。
新政府は、地租改正で、土地にも課税した。土地の私有を認められた百姓は、納税できたが、荒れ地や河原を押し付けられたサンカたちは、作物も取れず、実収もなく重税にあえいで、
多くのサンカは途端に窮乏した。ために娘を遊郭に売る者たちも多く、日本各地でサンカの反乱が多く起こった。秩父事件をはじめ、


佐賀の乱、秋月の乱、思案橋事件、神風連の乱、萩の乱、これらは明治史で有名だが、サンカが「こんな政府なんかいらない」という無政府主義を掲げた抗議の反乱だったのである。
だから、納税しないサンカを非国民と憎んだ政府は、彼らを重点的に徴兵し、日露戦争で、犠牲の多い乃木将軍の第三軍へ送ったのである。
なんの戦術や作戦もない凡将乃木将軍は、機関銃の弾幕の中へ銃剣突撃で死屍累々の山をきずいた。
日本軍の兵の使い捨て戦法、命を軽視する伝統は、この時からのサンカ殺しからきていて、太平洋戦争まで続いた。
膨大な鉄量(砲弾、爆弾、機銃弾)に、銃剣突撃し、近代化された米軍の前に無残な姿を曝け出した。
これが日本軍中央部の精神第一主義の非情な体質なのである。昭和十二年の上海戦、十四年のノモンハン戦闘で完敗から何にも学んでいない。
こうして明治政府は、サンカを戦争で殺し、海外棄民で過酷に扱ったのが実相なのである。


そしてアメリカは日本史を研究したが、当初は「高千穂の峯に落下傘なしで天孫降臨し、金色のトビが道先案内して日本列島を征圧して日本国ができた」とされる日本の神話学校教育歴史では訳けがわからず、
対日開戦を躊躇せざるをえなかった。
そこでアメリカはどうしたかというと、アメリカに住むサンカ移民の二世三世を選抜し、表向き「日本語学校」名義で利用しようと計画した。
彼らを軍要員や軍属として採用し、その親や知り合いから口伝えのサンカ歴史をレポートさせ、
義務教育の日本軍部専用歴史を研究するため、在米棄民らのサンカ歴史を徹底的に纏め分析した。その結果が、


(大和民族は一つだと、国民を騙して団結させているが、本当は複合民族だと判った。だから敵は内にありと、内部崩壊もしかねない脆い団結なのだ。憲兵や特高体制で国内を取締っている日本だがもとても、
日米戦争となれば、日本など恐れることはない。だから、最終的に本土決戦までは出来まい)と結論を下した。


そして、日本から戦争を仕掛けさせるため、対日石油輸出禁止に踏みきり、真珠湾攻撃も見て見ぬふりで、アメリカに第二次世界大戦参加の大義名分を与えてしまった。
米国内では、有名大統領の暗殺犯不明なのを利用して「リンカーン殺害犯人は日本人説」をも拡めた。しかしケネディー暗殺以前の話だったゆえ、たいして効果はあまりなかったらしい。
そこで、ルーズベルトのスタッフたちが、国民の開戦意識をあおる効果的な方法はないかとチームでいろいろ考えた。


「山河燃ゆ」の大河ドラマでは、降参した日本兵の通訳用にと語学校設立はされたとされていたが、間違っている。
当初の日本兵は、奴隷根性で敵に捕われ食事を恵まれると、聞かれもしない事まで進んで話す。だから、
敵に媚び何でもしゃべってしまい、暗号や軍事機密の漏洩に困った軍部は、「虜囚の恥しめをうけるな」と口封じに重傷者にも自決強制をし、これを「戦陣訓」でしていたのだから辻つまが合わぬ。
実際の、語学校開設は眞珠湾攻撃より一年以上も前なのである。
 ペンタゴンの「対日戦資料」に、「彼らの協力によってアメリカ青年百万の生命は救われた」と、この詳細記録は感謝の言葉で飾られているくらいである。
さらにアメリカは、星条旗の為と志願した、ハワイ在住日系二世を、442部隊として大いに利用した。その戦死率は65%にもなった。
戦後、彼らの墓がハワイのパンチボウル(国立太平洋記念墓地)に祭られた。

大東亜戦争末期に日本国内で「スパイ狩り」として多くの同じ日本人が銃殺された事があるが、あれは米軍籍にされた彼ら二世が、「六七世紀以前の日本に戻してやる。その為だ」と甘言に釣られて、
軍服を脱ぎ行商人姿や会社員スタイルで、南洋群島はサイパンに近いアナタハン、グリガン、ヘダアムから潜入。沖縄戦には前もって慶良間諸島に上陸した。本土へは渥美半島から、
決死隊として秘かに上陸してきて、半分は行方不明となったがアメリカの為に尽したのである。しかし、
 
 「汝の敵日本を知れ」のタイトルで昭和六十年三月十七日のTBSの報道特集でアメリカの宣伝映画が放映されたけれど、終戦までは目の敵にしていた日本の階級制を、
その儘にして統治した方が安全で効果的だろうと、利用するだけ利用してサンカ二世はみな使い棄てにされた。


占領後、PXのアメリカ煙草やチョコレートを持っていると、進駐軍物資横流し容疑でMPに殴られ逮捕されていた時代に、彼らサンカ二世兵は軍用トラックで上野へ運び、
細々とシノガラの芋飴を戸板に並べて売っていた同族を、相互扶助精神で、香水や口紅まで卸して救済したのが、のちの飴屋(アメ屋)横町の始まりで、堂々と禁制品のアメリカ商品が売られていて咎められもしなかった。
 これは、罪滅ぼしに第一生命ビルのマッカーサー司令部で、見て見ぬ振りで黙認していたからであろう。
この移民二世(サンカ)利用の話は、彼らの冥福を心から願う、日本でも初めて、前人未到史なのです。

現在のアメリカは、同盟国首脳の電話盗聴までする国である。
国家安全保障局(NSA)や中央情報局(CIA)の職員だった、エドワード・スノーデンのスパイ事件は記憶に新しい。
彼は、秘密のベールに包まれていた、NSAによる国際的監視網を暴き、その情報をICチップにダウンロードし、肛門に隠し国外に持ち出した。
その量は、紙に印刷すればトラック15台分にもなるという膨大な情報である。
この一事からも判るように、アメリカは軍事、経済はもとより、強大な情報大国でもある。
 昨年の米国の国防費支出は7320億ドルで世界1位だった。これは全世界の国防費支出の38%を占め、2~11位の国の国防費支出総額より多い金額だった。
現在、大統領選挙のごたごたと、トランプ大統領四年間の施政で、アメリカの威信は弱くなったが、情報分野では決して侮れない、底力はゆるぎない、超大国なのである。