新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「清和源氏」はありえない 足柄山の金太郎は源氏 平家は源氏を奴隷として輸出していた

2020-07-30 18:55:01 | 新日本意外史 古代から現代まで

「清和源氏」はありえない
足柄山の金太郎は源氏
平家は源氏を奴隷として輸出していた

「足柄山の山奥で‥‥」の童謡で名高い坂田の金時は、子供の頃に絵本で散々眺めさせられたが、マサカリ担いで本当に獣を集めて相撲をとらせたり、馬の代わりに熊にのったりしていたものだろうか。
また、五月五日の端午の節句には、「金時」の人形が必ずといって良いほど飾られるのは、(勇壮な男児に育ってほしい)といった親の願望だけでなく、
金太郎系の原住民が今もかなり多いせいではなかろうか、などとも想える。
 また、坂田の金時のほかに、渡辺の綱、碓井(うすい)貞光、卜部季武(すえたけ)という、源頼光の四天王の名が、治安元年(1021)に初めて現れてきて、
いわゆる源氏の郎党団のはしりをなすのも、それ相応のいわれがあるのでは‥‥と考えられるものがある。
 そして一般に、よく、「清和源氏」といわれるが、戦後は、清和帝と源氏は無関係だったとか、誤りであるといいだされてきた。となると、
「清和帝----貞純親王----経基----満仲----頼光」といった従来の、「その頼光の弟の頼信から、頼義。そして八幡太郎義家」とする源氏系図なるものは、
まるっきりの架空のフィクションと化してしまう事にもなる。それでは、「足柄山」の山中で、わざわざマサカリ担いだ金太郎が、熊に跨ってハイシドウドウ、ハイドウドウと馬乗りの稽古をつみ、
「坂田の金時」と改名し、頼光の四天王になったのも意味合いがなくなるような気がしてくる。
 では、源氏とはいったい全体、何であったのか‥‥、彼らが自称していたらしい、「みなもとの何某」という表現の仕方は、ミナモトの民、つまり原住民を意味するも
のとみるしかないから、彼らがそうであるなら絶対に天孫系の皇統であり得る筈では
ないのであるともみられる。つまり、
「清和源氏」というのは、系図歴史屋のフィクションではなかろうかという事になる。
 昔は、「は=わ」ゆえ「姓わ源氏」といった歴史の嘘としかみる他はなくなる。
 源頼光の弟頼信が、岩清水八幡へ捧げた告文に、「吾は陽成帝の御子元平王の流れをくむ、経基の孫である」 とあるのが発見されたとして、戦後になってからというもの、
「これまで清和源氏といわれていたのは、陽成帝では御治世の功績もなく、それに早く藤原氏によって廃帝された御方と伝わり、桓武平氏という称号に比べ、対照上劣るような感じがするからして、
清和帝の子孫が『源』の姓を賜ったことにしたのだろう」と、これまでの、「清和源氏」という呼称は実存しない誤りであったとされるようになった。が、
「陽成帝よりの流れであるならば」というので、今では、木地師とよばれる山者の祖先といわれる御方の祖先と、源氏の祖は同じこととされ、「陽成源氏という呼称に変えるべきだ」
 の説も強まっている。しかしである。「誰が誰の末裔」といった系図的思考は、ひとまずこれを棚上げとして、
「源」という姓だけを考えると、なにも源姓は、清和帝や陽成帝の御子孫に初めて授かったものでもなんでもないようである。もともと、
『日本三代実録』というのは、清和、陽成、光孝三朝の国史であるが、その貞観元年(859)正月の条をみると、清和帝が御即位なさったばかりだというのに、もう、
「左大臣、従二位 源の朝臣真(あそんまこと)」
「縁葬諸司 正三位 源の朝臣定(あそんさだ)」
「参議中納言正三位 源の朝臣弘(あそんひろし)」
「参議左兵衛従四位 源の朝臣多(あそんただし)」
「兵部少輔従五位下 源の朝臣直(あそんすぐる)」
 武官系の殿上人には源の姓をつけた者が、ずらりと並んでいる。
 これでは清和帝の子孫の授姓でもなければ、その御子陽成帝の御子孫に、初めて賜ったものでもない事が一目で判り得る。
 貞観十八年[876]十一月二十九日に陽成帝が、御位を替わられ、年号が、「元慶元年」と改まるが、源融以下左大臣、大納言、参議の源氏の者らの身分はその儘である。
 三年後の元慶三年[879]。この二月四日に十七歳の陽成帝は、藤原一門のために二条院へ移され給い、帝位は仁明帝の第三皇子であった五十五歳の時康親王へと譲られ、
この御方が光孝帝とならせられるのだが、正月の宴ではまだ、
「源 融はそのまま左大臣」「源 多が大納言から昇進して右大臣」
「源 能有が、参議から中納言に昇任」そして参議には新しく、「源 冷」「源 光」「源 是忠」の三人が加わっている。
 その後、間もなく藤原基経太政大臣の野望によって、藤原一門がこぞって、「帝廃位」の不敬をあえてするようになるのだが、まだ正月には、「源」の姓のつく一族一門は栄えていたのである。
となると、さて、これまでのごとく、「清和源氏」といった名称を公然と用いていた歴史家は、「清和帝のお生まれなされる以前から、源の朝臣某といった連中が、
きら星のごとくいたのでは、説明のつけようがない」
 というのであろうか、それにこの時代は、「応天門炎上の伴善男事件があったので、どうしても右大臣や左大臣といった官職をもつ源朝臣の名も表向きになってしまう」
 と気をつかってのせいか、これら源の姓をもつ人々を、「王と運命を共にした」というこじつけであろうか、「王氏」とよび、王氏と藤原氏の争いによって陽成帝の廃立を説明しているようである。
 そして延喜十三年(913)まで右大臣をつとめた「源朝臣光」を最後にして、源の姓を持つ者は御所から消え失せてゆくのである。
 さて、それではこの源姓の者たちの発生はいつからかとなると、
「桓武帝」の次の「平城帝」そして、その後の「嵯峨帝」の御系図によれば、
嵯峨-----仁明帝-----文徳帝-----清和帝-----陽成帝
   |___源 信 |__源 多 |__源能有
|___源 常 |__源 光
      |___源 融
 つまり清和帝の御誕生以前から、源の姓は皇室の御一門の賜姓として既にあった事になっている。
 そして、藤原氏の策謀によって、源姓系の天皇さまは追われ、そのクダラ系の御一族も追手の眼をのがれ各地へ逃げられたから、今いう処の、白衣をきたり白旗をたてるところの、
「近江源氏」「村上源氏」といった色々なグループが各地で生まれるようになるのらしい。
 しかし、いくら命からがら逃げ落ちられたにしても、そう簡単に何処へでも逃避行できるというものではない。
 そこで陽成帝側近の源姓の者らは、かつて嵯峨帝の祖父に当られる桓武帝の延暦の御代に、百済王俊哲や坂上田村麿をして討伐させ、その捕虜を全国二千余ヵ所に分散させた別所へと、
その難をさけられた。そこのは、桓武帝の時からの者だから、「彼処へ入りこめば、われらは助かろう」と、それぞれ各地の別所へと源氏は入りこんだのである。
 この「別所」という地名は、今でも柳生但馬守の、柳生の庄にもその儘で残り、「別所小学校」の名もあるが、鯛で名高い備後の鞆の浦へ行く道路の左側も、やはり「別所」の地名で残っている。
 名古屋から静岡にかけては「院内(いんだい)」、京では「院地」「印地」、地方では「、山所、産所」ともよばれる。安寿と厨子王の連れてゆかれた所の、
「山所太夫」というのが、そこののことで、そうした地域は、原住民捕虜収容所だった関係上、山奥や辺ぴな地帯だったので、そこに住む奇怪な生物も、「山椒魚」などとよばれる。
 さて山の中の別所へ入りこんだ源氏と原住民は、「生きてゆくため」には、原生林を切りひらき、山中の獣を集めてこれを馴らしたり、その肉を食し皮をはいで防寒具にした。
 そして、いつの日にかまた再起する時のため、山中で武闘を旨として、その訓練にあけくれていたのである。
 だから○金の腹掛けをしていたかどうか判らぬが、金時がまさかりを肩に、熊にのっていたのはその為であり、刀伊族が船団を連ねて来寇してきた国難の時がきて、彼らに徴用令がでて、
「国土防衛の士は集まれ、憂国の者は来れ」それまでは見むきもされなかった敵性の別所へも布令が廻ってきた。今でいえば、さしずめ自衛隊の創設である。
 そこで坂田の金時は足柄山別所から、渡辺の綱らは京の羅生門あたりの茅屋から、源の頼光司令官の軍隊へ応募し、やがて、「四天王」とよばれるようになるのである。
 そして今も源氏が好きな人が多いのは、金時らの子孫が、現代の吾々日本人の中には、かなり多いことを意味しているのだろう。

      エビスとは何なのか
「征夷大将軍」という官名に対しての、これは疑惑であるが‥‥
 永承六年(1051)、奥州平泉の東夷尊長安倍頼良(のち頼時)が反乱を起こした。そこで陸奥守藤原登任が討伐に向かったが、あべこべに撃破されてしまったため、
急遽京へ向け、「乞う援軍、われらとても打ち勝こと能わず」と、 悲壮なSOSを発したので、時の関白藤原頼通(通長の長男で、一条中宮顕子の弟にあたる)が、源頼信の伜の頼義をよび、
「汝を陸奥守に任ずるによって、征きて東夷を討つべし」と命令を下した。そこで源頼義はその子の八幡太郎義家以下家の子郎党を従えて、「勝ってくるぞと勇ましく」とばかり奥州へ向かっていった。
 ところが延暦の昔、紀の古佐美が平泉へ討伐に行った時は、「征東大将軍」の官名と節刀を奉じて行ったが、源頼義の場合は、「陸奥守の後任」というだけで、御所へよばれて正式に辞令が出たわけでもなく、
節刀を拝受して行ったものでもない。ただ藤原頼通の代理の右大臣藤原教通から、「確りやってくるがよいぞ」と激励され、送り出されたにすぎぬ。そこで史家の中にはそれを証拠に、
「安倍一族はアイヌの東夷の酋長に当るから、その討伐位に、大げさに征夷(東)大将軍の任命などしなかったのだろう」との説もあるが、はたしてそうだったのだろうかと、これに引っ掛かる。
『東北史料』の<奥羽記要>には、「頼義これ夷なり、そのため昇殿は許されず、もって節刀を賜ることなく東行す。よって土人らはその威に服さず」とあるからでもある。
 さて、「征東大将軍」の官名はその当時すでにあった、「征夷大将軍」の方は、この百三十年後の寿永三年(1184)に、源義仲が初めて授けられる官名だからして、
(まだ、ないものが授与される訳とてなかろう)といってしまえばそれ迄の話だが、これには別の理由があるらしい。

 紀の古佐美の時には、東海道東山道各地から召集した壮丁五万をもって、進撃させたのだから、どうしても、いかめしい肩書きが統制上必要だったのだろうが、
「源の頼義の場合」は、奥州の平泉へ行くまでの間に、各地の別所に入れられている原住民と、そこへ紛れこんでいる陽成帝の頃の、落武者みたいな源氏の末裔を、呼び集め統合して行くだけのことだから、
いわば一族一門のことであるとされていたらしい。
 つまり、なにもなんとか大将軍などという、肩書きを貰って行かなくても、統制上支障を来さないと見られていたからなのであろうと考えられもする。
 なにしろ、この時点から約三十年前に、刀伊(一)の来寇があった。それまで海外から攻めこまれる事など、夢にも考えていなかった藤原氏が、これには周章てふためき、
「これは、えらいこっちゃ、大変どっせ」とばかり、かつての被占領民である俘囚の裔を狩り集めてきて、「剣の鍛造が手間どるなら片刃だけでよいから、量産に励め」
 当時のことゆえ、軍需工場は村の鍛冶屋だから、これを総動員して、「その手ゆるめば、戦力にぶる」とか、「産業戦士が国運をささえ握る」と、それまでの双方の剣に代わる、
片一方だけが刃のカタナ(片名)を、どんどん作らせ、これを俘囚の裔にみな持たせ、インスタント武士団である国土防衛戦士を編成したことがある。
「刀伊の来寇」を「刀一」ともかくのは、この時、片刃刀が生まれたせいによるらしい。つまり、源の頼光やその四天王の坂田の金時らも、そのときの一員だったのであるが、
さて俄か作りとはいえ、日本が挙国一致体制をしき、「片刃とはいえ刀まで量産して、迎え撃つ構えをしている」という情報が向こうに伝わったせいなのか、
「では止めとこう」となった模様で、その後は進攻してこなくなった。だから藤原氏は、やれやれとほっとしたものの、
「武器をもたせた俘囚の裔を、ぶらぶらさせておくのは危険だ」クーデターでも起こされては大変と心配したあげく、
「夷をもって夷を征さすべし」となって、これが、「東北進攻」の命令となったのである。
 さて、この、「夷」というよび方であるが、これはもともと日本語ではなく、中国の呼称なのである。つまり、話は横道にそれるが、
「倭」が紀元一、二世紀頃の名だったのに代わって、それを征服して建国した、崇神朝以降の日本に対する中国(後漢から蜀、晋、宋)から見ての呼称であった。
 だからインドの矮小民族が群居していたヤバダイや八(はち)ハタ国家群が、「倭」ならば‥‥騎馬民族のたてた国が、「夷」ということになるわけだが、
これを「イ」と発音するか、「エビス」と読むかで色々と違ってこようというものである。

 昔のことだが、東京の山手線のエビス駅の近くに昭和の初めまで、「エビスビール」の大きな煙突が今はまたリバイバルされたが、その頃は残骸をさらしていた。
 もちろん今はないが、このビール会社没落の原因は、大正初年シベリヤ出兵の頃か、その後は、北樺太より沿海州方面へ、ビールをどんどん輸出したのが一本も売れなくて、破産したからである。
 なぜ売れなかったかといえば、北樺太や沿海州のツングース系人の間では、「エビス」というのは、日本語の「オ○○コ」と同じような、極めて一般的に普及している女性自身の原語だったからして、
向こうの男共に、「そこは此方から入れる個所であって、此方の咽喉へ通すものではない」とか、「おう不潔‥‥」といった具合に完全な不買同盟をつくられ、総スカンをくったからである。
 その内に冬季がくると、零下三十度の寒さに、瓶がみな割れてしまって返品も不能になり、そのビール会社はついに倒産してしまったのである。
 江上波夫氏の「騎馬民族説」つまりツングースが日本へ渡ってきたのではないか、という発想も、案外このエビスビールがヒントであるのかも知れない。
 さて、「夷」とよばれるのが、ツングース系だったとなると、彼らは、その渡来した当初こそ、矮小民族の国々を馬蹄に踏みにじって、日本列島を押えていたものの、
そのうち文化の進んだ三韓からやってきた軍勢に追われたのか、それともシャモロの仏教勢力によって叩かれたのか、征服され、あくまでその新興勢力に帰順しなかった者らは、
「敵性原住民」として別所へ収容されたり、さもなくば東北の寒い地帯へ追い詰められていたものらしい。
 つまり、エビスダイコクといった七福神というのは、「蘇(素)民将来系」という原始宗教の祭神になっていて、特に、(鯛を抱えたエビスと、米俵二つを踏まえたダイコク)の一対は、
今でも縁起物として売られたり飾られているが、双方とも男体というのは変である。あれの原型の、「お白さま」というのが東北に残っていて、今では「こけし」にも転化し、
「おひなさま」にも変化しているが、米俵二つを踏んづけているのは、ホーデンを意味する男性の象徴だからダイコクさまは男らしい。しかし、エビスの方は初めは女らしいのである。
 七人の内で弁天さまだけが、唯一の女人で、後はみな男というのでは釣合がとれぬから、すくなくともエビスも、やはり女人の性器名ゆえそうであるらしい。
 東海地区は別所をもって上にオをつけて呼ぶが、関西へゆくとエベスの転化をもって呼称する地域もある。しかし仏家は、この原始宗教の七福神を忌み嫌っていたから、
余計にこんがらかせようと意図し「酒をハンニャ湯」といったように、寺の隠し女のことを故意に、「ダイコク」などといわせている。
 さて、当時の日本の生き残りの夷で、東北で一大勢力をしめしていた安倍一族は、のち「藤原姓」を金で買った藤原三代の遺体が、ミイラとして残っているので骨格の復元をしてみたところ、
アイヌ系というよりは大頭のツングース系だったといわれている。
 こうなると安倍一族に従っていた軍勢の中には、北海道のアシュロ系のアイヌ人も混じっていたかも知れぬが、平泉に砦をかまえていた安倍の一党は、そうではなかったらしい。
 しかしアイヌでなくても、公家からみれば、夷と目されるツングース系の騎馬民族であった事に間違いない。
 だから、伊勢二見ガ浦と平泉の二ヵ所だけに、「松下社」とよ蘇民将来系の日本土着系の神社がある。彼ら土着民を騎馬民族が押え服従させるために、その神を押えていたものと推理できるのではなかろうか。

  源平合戦は奴隷の反乱
「おごる平家は久しからず」とはいうものの、1132年(長承元年)に、三十三間堂建立の建築技術を認められ、内昇殿へ上ることを許された平忠盛の伜の高平太が、
その三十五年後(仁安二年)には、「太政大臣平相国清盛」となり、四年後(承安元年)に、彼は十五歳の娘の徳子を、十一歳の高倉帝に押しつけ奉り、
「平家にあらざれば人に非ず」とばかり「お種頂戴」を強要するまでに専横をほしい儘にし、そして十年後にその清盛入道が死ぬと、あとはバラバラになって転落の一途を辿り、
寿永四年(1185)の三月に平家の一門は、壇の浦の海底へみな沈んだことになっている。
 ただ清盛の弟経盛の末子敦盛だけが、一の谷の合戦で船へ逃げこもうとする寸前、波打際で熊谷直実につかまってしまった。
 ところが、見ればまだ稚(わか)く美しい身分ありげな公達なので、熊谷直実は、「さあ早うに行きなされ」と見逃して助けようとした。なのに、
「これこれ熊谷どの、何をしておられる」と源氏の兵が近くまで駈け寄ってきたので、敦盛も、もはやこれまで逃れえぬ土壇場と観念してか、けなげにも首を直実の前にさし伸ばし、
「早うに、お討ちなされましょう」と口にした。熊谷直実は不憫とは想ったが、味方の荒武者が集まってくるのでは、もはやなんともならず涙をのんで、
「では、お覚悟ッ」と、その細首を打ち落したが、敦盛の事を忘れかねて戦後は出家し、二十三年後の承元二年(1208)九月十四日に京の黒谷で死去するまで、
「あつもり」「あつもり」といっていたというが、そんなに美少年だったのだろうか。どうも話としては面白いが、あまりに話ができすぎていて、衆道の盛んな頃の作話らしく、
文政五年(1822)刊の黄表紙の、「一谷双葉軍記」では、うつ伏せにねじ伏せた敦盛の鎧の下垂れをめくりあげ、直実がなんしている挿絵まで入っている程である。
 とはいえ、だからといって敦盛が絶世の美童だったかどうかは、想像画しか残っていないから判らない。

 しかし引っ掛かるのは安芸宮島の厳島神社で、拝観料をとる宝物殿に飾ってある陳列ケースの中の、「平家公達の佩刀」と説明されている刀である。
 平敦盛も平家の公達の一人だから、一の谷の戦でもこうした佩刀をおびていただろう。処が、これは日本刀ではない。
 全然そりのない棒剣なのである。これはトルコの三日月刀(ヤガタン)と同じような、サラセンの貴族が腰にささず、ぶら下げるものであって、イスタンブールや、ヨルダンの空港では、
同型のものを土産品として米貨15ドルぐらいから並べて売られている。
 
さて、その宝物殿の入って右側の、採光の悪いガラスケースの上の方に、古い彩色画とミニチュアの模型の船がおかれている。
 これを見た時、はて何処かで同じ物にお目に掛ったことがあると考えたら、ポルトガルのリスボンの海岸べりにある海事博物館に、「ムーアの王の船」として陳列されていたモデルシップと、
そっくりそのものなのである。しかし、このモデルショップたるやガレー船なのである。奴隷が左右に三十人ずつ、交互に漕ぐように櫂が並んでいる船である。
 アラビア人とアフリカ人の混血したのがムーア人だが、こうした奴隷船はスペインやポルトガルの古書には、よく挿絵入りであるし、映画でも見られるものである。
 しかし日本には、奴隷を鎖でつなぎ鉄笞でぶん殴って漕がせるガレー船は、なかったことになっている。なのに厳島神社宝物殿には、
「平家御座船」の小さな木札とともに、模型が展示され、胡粉がとれ薄ぼんやりとしてはいるが、船が海に浮かんでいる絵までが現存するのである。これは何を意味するのだろう。
 それに、もう一つ、
 源氏の方は各地の別所へ押しこめられていた原住系の裔だから、近江から尾張からと一斉に蜂起して、武士団を結成するのだが、平氏ときたら、何処彼処から挙兵して、
清盛の許へ駆けつけてきたという話は何もない。対比してみると、源氏には、梶原源太景時とか和田義盛といった一騎当千の家臣団の名が、きら星のごとくに並ぶが、平氏の方はこれといった名も伝わっていない。
みな、「平家の公達」と御一門の名だけである。現代の株式会社には、「同族会社」というのがあるが、武士団で同族きりというのは変である。
 だから平家の武士団とは何処からかの、傭兵としか考えられないが、そのせいか壇の浦合戦で、すうっとみな消えていってしまう。日本史では、海底の藻屑となってしまったということになっているが、
それならば、(死体を確認し、その首をもいで)一般に公示しなければ、討ち取った事にはならない。ただ漠然と、見えなくなった海底へ沈んだらしいだけでは、今でいう、「行方不明」にすぎなくなる。
当時の源氏は平宗盛とその子清宗、平時忠だけを捕え、その首を六条河原にさらしただけにすぎない。
 謡曲では、平知盛が舟の碇を身体にまきつけ、海底に沈んだように作ってあるが、碇は救命ブイと違って一人一個の割りにはなっていない。
 舟一隻に一個しかついていない筈だから、完全に沈んだ者は一隻一人となる。では平家一門がみな死んだのを証明したのは誰かというと、小泉八雲こと外人のラフカディオ・ハーンである。
 彼は「耳なし抱一」をかいた時、幼い安徳帝初め平氏の一門の石塔がずらりと並んだ墓所で、抱一が琵琶を弾じたように描写したからして、それからというもの、
(平家の一門のお墓が揃って有ったという事は、皆水死をとげたという証拠であろう)とされている。つまり小説で外人が証明した恰好になって、明治期に墓も揃い、それで日本史はできている。

 しかし、この海戦で変なのは、平氏の船団が、小舟の類に到るまで鉄鎖で連絡されていたということである。当時の日本は、今もそうだが鉄の産出はすくなく、鉄鎖など貴重品である。
 それに、これから海戦をしようという船群が、そんなふうに行動の自由を自分から束縛するような事をしたら、船合戦など出来よう筈がない。
 だから「義経八艘飛び」などといったジャンプもされてしまうのだが、これは何故だろうか‥‥となるのである。
 しかし寿永四年三月二十八日というのは、今の太陽暦に直すと五月三日。つまり東南へ季節風が吹きだす時期に当たっている。
 平氏の船団は、その季節風に流され、内海から外洋の黒汐にのって、東南アジアへ脱出するため、はぐれぬよう小舟まで繋いだのではあるまいかと考えられまいか。
また海戦の途中で平氏の船団は東南へと流されていってしまったから、平氏一門の大半は取り逃してしまったものの、
(次に、東南の方角から逆の季節風が吹いてくるのは、冬である)という知識は源氏の武者共にもあったから、すぐさま頼朝へ、
「平氏の大半を討ち洩らし逃がしましたが、もし取って返して攻めてきましても、それは半年先のことにござそうろ」
 と梶原源太らが、そのことを鎌倉へ注進をしたのだろうことは想像がつく。

『玉葉』や「吾妻鏡』をみても、本来なら平氏の残党狩りを徹底的にやるべきなのに、頼朝は平氏と結託した公卿の追捕は命じているが、てんで平氏の残党狩りなどやっていない。
 それどころか頼朝は平氏の方は放ったらかしで、その翌月から義経や伯父の行家を、反革命分子として追うのに憂身をやつしている。
 ----だがこれでは日本史は辻つまが合わなくなる。そこで、「平家」とか「秘境」というのが各地に点在するのである。
「おまや平家の公達ながれヨーオーホイ、おどま追討の那須の末ヨー」といった「ひえつき節」が今も唄われているから、
(船にのり損ねたり、浮び上がって陸へはい上った平氏の残党が、源氏の追捕を逃れて山の中へ逃げこんで、そこに秘境を作った)といった具合にされている。
しかしガレー船を漕がせていた海洋民族の平氏が、どうして山の中などへ入りこんで生きてゆけようか。そんな事をしなくても、年に二回交互に季節風が吹き、外洋の黒汐の潮流にのれば、
楽に南支やマレーへ行けるのが判っていたのだから、とっくに彼らは洋上を逃げていた筈である。では、「秘境」とか「平家」と今いわれている所へ、逃げこんでいたのは誰だったかといえば、
それこそ頼朝の死後北条氏に追われた源氏の残党たちである。彼らは前にいた別所は、北条氏によく知られていたので、「自発的により深い、より安全な山の中へと、
それぞれ彼ら源氏の者らは逃げこんで行った」とみるべきで、「歴史読本」(42年3月号)に、「四国の険しい祖谷(いや)山脈の平家と称される所に、実は源氏の余類が秘かに匿れすみ、
その子孫が引き続き現存しているのはまことに面白い話である」と紹介されているのもその例だが、そうした秘境には、「白山神」が例外なしに祀られているのも、その特徴であるといえよう。

 白山神とか白山権現は(所によっては白髯神)は、韓(から)神さまであって、かつてツングース族が騎馬民族として、白衣を纏い白旗をたて日本列島へ渡来してきた時に奉じてきた祖神である。
彼らは平氏とは違い、「山の民」であるから、人跡まれな秘境へ入りこんでも、どうにか生きてゆけたものらしい。
 これも----今まで誰も解明しなかった事実で、まさかと首を傾けるむきもあろうが、今の神戸、その当時の福原を清盛が開港し、いった何処と貿易していたかを考えても、この答えはでてくる。

 これまでの史家は、朝鮮中国と交易していたものとしているが、
「対馬の国主宗親光」は、平氏を恐れ高麗(こま)に亡命していたが、壇の浦合戦がすむと、高麗王より、「これを進物に」と舟三杯の貢物を頼朝宛にことずかって帰国し、
国交再開の書面を鎌倉に届けているし、南宋孝宗淳煕も、「相国入道の時には国書を遣した者に非礼を加え、往復が絶えていたが今後は旧交を温めん」と使者をよこしている事が、
「宋国史」にも残っている。

 そのせいか、頼朝の死後、源実朝は北条政子ら一族の圧迫に堪えかねて、1217年(建保五年)に南宋亡命を企てねばならなかった事実もあるのである。
『吾妻鏡』や『玉葉』にも記載されている宗親光の、高麗よりの国交再開打診の話と並べてみると、平氏が朝鮮中国とは交易通商どころか国交さえ絶っていた事実が、それらでも立証され得る。
 となると平氏は、福原港つまり現在の神戸港を作ったのは、いったい何処の国と交易したり国交を結ぶ為だったろうかとなる。
 
しかしその頃は今のようにアメリカもまだなく、ロシアも有りえないのだから、朝鮮中国と仲違いしていて、それ以外の国といえば、地図をあけるまでもなく、東南アジアとか西南アジアといわれる地域か、
またはその先のインド、パキスタン方面という事になるだろう。
 そして日本からは西南方面に吹く貿易風の吹く季節に船出しても、途中で、風の切れ目もたまにはあるだろうから、日本沿岸では珍しい奴隷に漕がせるガレー船も平氏には必要だったのだろう。
 そして奴隷といっても、まさか向こうの人間を使うわけはなかろうから、平清盛は、山間に隠れ住んでいた原住系の男を捕えさせ、これを鉄鎖につないで船を漕がせたのだろう。
 だから、彼ら原住系の中には酷使に堪えかねて、寄港先のマレーシア方面で脱走を計った者も多かったらしく、
「逃亡奴隷」として案外に早くから、向こうには日本人が潜りこんでいたらしく、それぞれ日本人町といったタウンも、海岸べりに作っていたものと想像される。
 また、福原から何を輸出していたかという問題も、ここに出てくる。
 
史家は、味噌、漬物、織物とか漆器、刀剣甲冑ととくが、それらは江戸初期に向こうに定着した日本人が多くなって、成功した彼らの需要によって、初めて輸出可能になったものであろう。
 まだ命からがらに海を泳ぎ渡って陸に辿りつき、掘立て小屋で食うや食わずで乞食みたいな有様だった逃亡奴隷に、そんな物を輸入させ購入するだけの余力があったとは考えられぬ。
 では車も電化製品もなかった時代に、何を船積みして送り出していたかといえば、中世紀の交易品は世界中共通であるが、運搬が容易な商品である。
 つまりそれは人間である。平清盛は福原から奴隷輸出をして儲けていたとしか推理できぬのである。そして、その人間資源たるや、原住系つまり源氏の者らである。
 さて、日本史では源氏の面々が、「平氏追討」の院宣を賜わって各地から、馬に跨って集まり、やがて平氏一門を倒してしまった‥‥という事になっている。
 しかし、院宣という言葉に惑わされるが、ときの帝は、たとえ幼少であらせられても、清盛の孫に当たらせたもう安徳さまである。
 だから体制は平氏の側にあり、源氏は反体制として決起し、いわば革命を起こしたのである。

 さて今も昔も庶民は、体制には従順なものである。成田三里塚の農民たちが肥やしを頭からかむって抵抗したのも、何処からの至上命令でもなく、あれは吾れと我身を守る自衛でしかないのである。
つまり、源氏が痩せ馬に鞭うち、ゲバ棒担いで集まってきたのも、次々と捕えられ奴隷として積み出され、あの段階ではあれ以上は、もはや堪えられぬ限度へきていたのである。
 その当時としては、源(みなもと)と自称する民族は全滅寸前まで追いこまれていたと見るしかない。
 という事は、山狩りをされ、身体強健な者はガレー船の漕手にされ、他は数珠つなぎにされ、その船で商品として向こうへ輸出されていたのに他なかろうから、
やむを得なかったのだろう。
 つまり絵巻物での源平合戦は、美しくきらびやかであるが、あれは後世の絵空事としか想えぬ。まさかすぐ人目につく、あんなきらびやかな鎧をきていては、実際は、
矢を散々打ちかけられて狙われてしまうから、もっと地味な戦闘服だったろうし、それになんといっても、実質的には源平合戦たるや「奴隷の反乱」だったのだから、
もっと、みじめったらしく寒々としたものだと想うべきで、それを否定したい方は、元禄十五年(1702)十二月に、大石内蔵介以下が、あんな揃いのコスチュームで吉
良邸へ押しかけたとでも思っている、芝居と現実をごっちゃにしている人かも知れない。



契丹秘史 唐を滅ぼした文化の高い契丹 日本史では「北宋」「南宋」を「宋王朝」とする

2020-07-28 11:41:40 | 新日本意外史 古代から現代まで

契丹秘史
唐を滅ぼした文化の高い契丹
日本史では「北宋」「南宋」を「宋王朝」とする

Chinaは現在国連用語だが、インドやアラブ、ベトナムでは中国を今でもキタイと呼ぶところさえある。ソ連でもキタイスキーである。
この契丹(宋は)西暦960年から1270年まで、文化的にも唐よりはるかに偉大で、一大文化国として尊敬されていた為であるが、何故か日本では匿しこまれている。
日本史では「遼」とか「宋」となっている。
さて、「日韓同祖遡源」を大正十五年に発表して、日本と満州族それに韓国人は祖先を一つとすると発表したのが、当時陸軍経理将校だった浜田秀雄で、
かつてシベリヤで逮捕処刑されかけた時に、随行した韓国人通訳が身代りとなって銃殺され助かったのを徳としての刊行と、表向きには伝わります。
 大正十二年の関東大震災で朝鮮人虐殺をしたのが裏目にでて、併合(植民地ではない)した朝鮮各地で反日運動が起き、陸軍部内としては満州進出の為には有効適切とみとめて刊行させた本で、
後になりますと、「五族協和」をモットーに建国された満州国の根本理念となります。
さて浜名寛祐が今は瀋陽とよぶ奉天城内で〈契丹古代史二千文字〉をみつけ、日露戦争が終ると帰国して、その当時歴史学界の第一人者とみられていた金田一京助の許へ、
これが「幻の遼の正史です」とみせるため川原衛門に伴われて、現物をもってゆき見せた処、当時の歴史学者共の大権威はパラパラ拾い読みしただけで、
「学究でもない非専門家の素人が何を言う」と笑いとばしてのけた。今日になると、彼はアイヌモシリに甘言をもってユーカラの邦訳をやらせ、都合のよい物だけを自分の名で発表し大学者とされていた男で、
北海道小樽宮の絵文字さえ判らず神主の偽作だとと発表した。後にフゴッペで同じ物が発見されてからは、大恥をかいて馬脚を現わした人物だが、大学教授が豪かった明治時代ゆえ、浜名寛祐は断念してしまった。
 しかし浜田秀雄が譲りうけた契丹二千文字を改めて考究し、それから二十余年かけ、「地名と契丹古伝よりみた日本の紀元」全四巻を発表しました。
天文学で素人や少年が新星を発見したりしますが、歴史も非専門家の方が真実を探究しています。梅原猛や江上波夫とても歴史専攻ではありません。
 明治二十一年五月七日に学位令が施行されるに先だって、日本でも歴史学博士の称号を出そうとした時、ドイツから招聘されていたリースが頑として、
日本人には歴史学博士などの称号は無理。文字が読め学べる程度だからと主張して、文学博士しか認めなかった。
ゆえに今でも歴史学博士は日本には存在しない。これがせめてものルードウィヒーリースの、日本へ残した功績かも知れないと言えましょう。
 紺屋の白袴みたいな文字を読めるだけしか能のない教授は、なんの苦労や勉強もしていないが、契丹二千文字は、忌字とされていたもので、解明の苦労たるや歴史屋あたりにやれる事ではない。
 そもそも日本史で隣国の中国大陸の一大文化国だった契丹を、故意に匿してしまうのは訳があります。
大陸で唐を滅ぼし取って代わった契丹は日本海沿岸まで勢力をのばし、寒流にのって次々と人間を移してきました。時の醍醐帝が、唐の血を引く藤原時平に対抗させるため、
契丹から来ていた、その中の一人の菅原道真を蔵人に登用。
 しかし大陸の唐はなくなっても天武帝以来、平安京の御所にくいこんだ唐勢力は堅固なもので、道真は九州へ配罪とされて死なされてしまう。
だから、その道真の霊が祟り、雷となって仇をするのを恐れ、藤原氏は九州の太宰府に「祟りよけ」の天満宮を建てたのである。
数多くの契丹人も唐よりの藤原氏と同じ中国人なのに、漢民族でないという理由から、貴種から庶民に格下げされてしまいます。「わが母国唐を滅ぼしくさった憎っくき奴ら」だからなのです。
浜田秀雄の二十余年の結晶で判りやすくなった契丹二千文字の中には鈴、鬼、木といった、今も一般に使われている当用漢字も入っていて、
鈴木、鬼沢、鬼頭、木村、木下各姓の上につきます。現代でもこの「SU」とか「KI」と発音される苗字は多く、須藤、杉田、杉村、砂田、菅原、菅、須賀、菊池、木下、菊田、木沢、北沢、清田など
多く見られる。
 スのつく苗字は鈴木を筆頭に数的にもきわめて多い。しかしその割に、あまりパッとしません。つまり世に抜きん出て出世している人は前にも述べましたが案外と少ないのです。
 それは、何しろウ姓列かイ姓列の二つの姓列の中で事業を伸ばしたり、人間関係を円滑にしていかなければならないので、やむなく他姓と交じり合ったりしてますから、
それで去勢され、まず駄目人間になる結果を引き起こすからでしょう。
 それに、もう一つ、このスのつく姓が、ウ姓列に入っていながら振るわない理由は、八七九年つまり九世紀の終わりの醍醐帝の御即位のとき、それまでの藤原氏の専横に堪りかねられた新帝は、
菅原道真をば藤原時平の対抗馬とし左大臣とし、右大臣の藤原時平と競り合わさせたためです。
 いくら菅原氏が有能であっても、大化の改新以来、高松塚古墳の壁画にあるごとき唐美人を、本国より続々と輸入してきては、
「呑ませる、握らせる、抱かせる」の三代方針によって、勢力を張りめぐらしていた藤原氏には道真とてかなうはずはなかったようです。
 四年目には、首になって九州へ流され、その二年後の延喜三年二月二十五日には、罪なくして彼は配所で死んでいます。
 のち、その罪は許されたものの、菅原の名を遠慮して、鈴木とか杉村といったように、上にスの発音をつけたこの部族は、「負け犬」のごとくなって、もはや先人に懲りて栄達はのぞまず、
ひっそり暮らして、他に打ち込むこともありませんでしたから、子作りばかりに励みました。
 
それゆえ子孫はどんどん増え、おかげで今や日本中津々浦々に至るまで、スのつく人は多くなり、みちあふれているといえます。
 しかし藤原系に疎外された歴史をもつため、せっかく王朝側近派に一度はなっても、後は中途半端なことになって、正嫡な民とは認められぬ「庶民」の立場で今日に到っているのです。
今の官房長官の菅氏も、頭脳明晰で陰で力を発揮し、総理の座を望まず、安部総理の長期政権を支えているのを見ても判るだろう。
一方、次期総理に意欲を燃やしている石破や岸田は、要領がよく、お利口さんで、変わり身の速さと、優柔不断さで、いまひとつ信頼されないのである。
本姓「ハ」の付く女性の不思議
一方、キのつく人はイ姓と違って、全くといっていいくらい、時の体制に近い考えをもっています。内心はどうであれ表面では従順といってよいくらいにイエスマン型です。ですから、
相性としてはイ姓列の他ウ姓列ともうまく結びついていけるのです。もちろん抵抗要素が少ないからです。
 いうなれば、温厚篤実、真面目人間というところで、企業にあっては、ストライキのときなどには、真っ先に裏切って会社側につくという、きわめて権勢への順応性のある人たちです。
 そして自分では、「利口である」と自認し得たり、世渡りのうまさを誇れる型です。
 ですから、波乱万丈といったようなことはまったくなく、少しぐらいの反骨はあったとしても、良きサラリーマンして模範社員のごとくみられて、
一つ会社にとどまってうまくどんどん出世をしていけるタイプといえます。
戦国時代にもこの姓の武将や武者は結構の数が居た。秀吉の家臣や馬回りの武者にも多く見られる。
ス行
須賀備前、須田満親、諏訪頼重、栖本親高、吹田毛右衛門、陶晴賢、末吉利方、菅沼定利、菅屋長頼、杉浦重勝、杉原家次、杉原長盛、杉村長右衛門、
杉山源兵衛、杉若籐右衛門、杉若無心、鈴木佐太夫、鈴木重時、鈴木正之助、鈴木与三右衛門、薄田隼人正、薄田源太郎、薄田清左衛門、薄田千十郎、薄田若狭守
キ行
木曽八郎太郎、木曽義昌、木下家定、木下和泉入道、木下勝俊、木下一元、木下祐久、木下仙蔵、木下俊定、木下利房、木下利匡、木下頼継、木下昌利、
木村重成、木村宗無、木村常陸介、木村大善、木村吉清、木村由信、喜連川国朝、吉良氏朝、吉良義昭、菊池義勝、菊池義国、岸田忠氏、北畠具教、吉川広家、
京極高次、

(蛇足だが、当ブログを愛読して下さる読者に良い情報を提供する。それは、一世の色豪で文豪、故菊池寛の言葉で「本姓ハの付く女は何かとプレゼンをしてくれるよ」である。
これを私は何十人の女と付き合ってきた経験から、間違いがないことを保証する。橋本、橋田、羽田、羽根田、服部、浜村、浜田、半田、半藤、蜂谷、畠山、畑田などである。
普通、物を提供するということは、何らかの見返りを期待するものだが、この彼女たちは全くそれがない。ただ相手が喜んでくれることに楽しさを感じているようである。そして平均以上の美人も多い)
さて、はっきり言って、この契丹系の人間は、頭の回転の早い、よい男や美女がこの文字のつく家に生まれでてくるのは必然の事で、そうでない者は藤原氏の王朝時代に百済系に挟まれて、
生き残れなかったからでもありましょうか。故に藤原王朝史では共に天を頂かずと、契丹のキの字も避けて通史には何も残していないのを浜田は解明したのです。
つまり奉天城内とよばれていた中国人だけの旧城内町で「契丹秘史」を彼が見つけ出したからこそ、
京大グループが伊藤博文の命令で、御国の為にとみな集めて燃してしまいました古史料が、日本の起源を明瞭にするための、欠くべからざる資料として、
今や不死鳥のごとく蘇ってきて、どうにか朧気ながらでも日本史のアウトラインを吾々に提示してくれるのです。


明智光秀と細川家記

2020-07-24 11:55:51 | 日本史、戦国史、古代史、幕末


明智光秀と細川家記


光秀の実体は知られていない。講談では、「明智十兵衛は浪々の生活をしていたから、ある日客を招いたが、そのもてなしに、はたと困った。
ところが手拭いを姐さん冠りした妻女が、いそいそと酒や肴をみつくろって出してくれて、それで客に対し十兵衛は恥をかかずにすんだ。
が、さて、客の帰ったあとで、『今日の食事にも事欠く吾が家の暮らしに、よくも銭の調達ができたものよな』と十兵衛が不審がれば、妻女は、無言のまま畏って、
かぶっていた手拭いをぱらりと取った。それを見た途端、十兵衛は思わず『ウウン』と唸り、『そちゃ、己が黒髪を、女ごの命と知っていて切ったのか。
それを売って銭に換え、この十兵衛のため、客のもてなしをしてくれたのか‥‥』と泪ぐめば、
『いとしきお前さまが為ならば、髪の毛など切り売りするも、いとやすきこと‥‥夫婦の仲じゃありませぬかいな』と妻女は首をふり、にっこり笑ってみせた。
『済まぬ。きっと立身して、そなたを仕合せにしてみよう。なあ、それまで待ちや』と十兵衛は、己の妻の手をとって感謝する」という、仕組みになっている。つまり人
間の感情の中の底辺ともいうべき人情話で、ホロリとするものを意識的にかきたてようとする俗受けを狙った趣向で、そして、「かく貧窮の中にて浪々していました十兵衛をば、
織田信長が召し出され、とりあえず五百貫にて奉公させましたところ、妻女がよくできました方ですから、貧しいながらも、こざっぱりとした身仕度で登城させますし、
朋輩衆が家へきても、これも快く接待する。だから、段々出世して、ついには近江坂本二十万石から、丹波亀山五十万石にまで立身しましたなれど、時に天魔に魅入られましたか。
その大恩ある信長公を討ち奉り、これが世に言う『明智の三日天下』たちまち日ならずして、太閤様に攻め滅ぼされ、自分は、小栗栖村の百姓長兵衛に首をとられてしまう羽目になるという、因果応報。
天は正しきを助け悪は必ず滅びるという物語」となるのである。
この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん、こんなものは虚像である。
実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄十一年七月二十七日であるが、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、
「明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原のところでは、
明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。
 いくら妻女がロングロング・ヘアーであったとしても、又、女の髪の毛は象をも繋ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、
六百名に近い家来が、毛髪の切り売りぐらいで、賄えるものではないと想う。
 一人平均少なく見積もって十万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として六千万円の計上である。年間三億六千万の棒給を出すためには、企業ならば、その収益は年間三十億は必要である。
そうなると、当今なら五百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シートは保てない。
まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、寄せ集めの臨時雇いか、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては十万石に相当する。
(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは五万石以上の実力であり、格式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。
つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではないということになる。
 
  細川家記は謎だらけ

 そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。
しかしである。<細川家記>では、なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、五百貫の禄を得ていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、
足利将軍家の衰徴をなげき、深く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるようにと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」という時点が、これに当たる。
つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、五百石どりから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛盾しきっている。
それに当時の五百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が二人と六百人とでは違いが甚しいと思う。
 それに(山内一豊の講談)で、間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍くりで金を払ったからといって、馬に乗れたり、勝手に旗指物などつけられるものではない。
身分によって、初めて馬乗りになれたり、許可があって旗指物は背に立てられたのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍帽でも売っていたが、
それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇進できなかったのと全く同じ事で、これでは光秀の話も辻つまが合わない。
 さらに<細川家記>では、あくまでも、
「永禄十一年十月九日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家同様に、五百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、
(それでは光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、五百貫では安かろう)というのでもあろうか。悪書とよばれている、<明智軍記>というのは、禄高を修正して、約十倍にして、
「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、四千二百貫の闕所の地を与えられた」とする。
だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。
もっとひどいのに、この他、古書では、<校合(こうごう)雑記>というのがある。
これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を増やされ、
疲れ馬一疋にも乗れる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城を築いて、これを光秀に預けた」となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。
これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東四キロの戸津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。
 志賀城を信長から貰って一時居住した事は、<元亀二年記>という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、
<兼見卿記>の元亀三年正月六日の条に、「明十於坂本、而普請也」と出ている。
<年代記抄節>によると、「前年十二月より起工」とも出ている。そして、<兼見卿記>の元亀三年十二月二十四日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらかた落成し、
その結構壮美なるには眼を愕かす」と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ばりの筈である。しかも悠長に一年余もかけるわけはない。
これは志賀城の古い石畳も利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判り切った事でさえ、現代になると、すっかり間違えられてしまい、
「信長から坂本城を貰った」と言われている。

 まあ時日の隔りが遠いから、これはやむを得ないが、その当時の<校合雑記>が誤記しているのは、あきらかに作為である。
(明智を細川家の下風にあったもの)として世に宣伝したい為の、これは意識的にばらまかれた(ある種の目的)を明確に、露骨に提示した、当時の、今いうところの「怪文書」に他ならないと考えられもする。
 さて、このすでに二年前の時点において、<言継卿記>によると、元亀元年二月三十日(太陰暦)の条に、
「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」とある。
姉川合戦の後でも、七月四日に上洛し、七日まで、信長は近臣数百名と共に、当時はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。
五百貫どりや四千九百貫取りの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、いくら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。
それに、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だったのである。そして、「信用とは、金である」と今でも言うが、当時とて、それは同じだったのだろう。
  
  光秀は秀吉より出世が早かった
光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用ができたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまいか。
それが立証できるのは、<原本信長記>によれば、秀吉が、五万貫の江州長浜城主に登用されるより、既に一年有半前に、
「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。
つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう一国一城の主だったのである。
つまり講談本や俗説では、貧窮しきっていたか。又は、せいぜい五百貫ぐらいの乗馬将校の最低、旧陸軍なら、せいぜい中尉どまりであったといわれ、それゆえ出世したいばかりに努力をしたはよいが、
ついに慾を出しすぎ信長殺しをしたのだと、その謀叛説を説明する。
 しかし事実は、全く違うようである。
 彼は信長に逢う前から、極めて裕福だったからこそ、永禄十三年つまり元亀元年正月二十三日に、織田信長と十五代将軍の足利義昭の間に取換された文書が現存して、この内容は、きわめて重要なもので、
「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。
一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽くした輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しかるべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。
一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂たいものである。
一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断され、これに乗じられたり煽動されるような事があってはならないと、御留意下されたい」
というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。
この五ヶ条の通達にあたって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」の信長の朱印があるが、双方の代理人として、
織田信長方は、日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀となっている。
しかも実物は、<成簣堂文庫>にあるが、信長の朱印の上部において、「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。
つまり形式的であったとしても、この時点においては、光秀は信長から公文書においては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。
なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。
しかし美濃の明智城を出てから流浪した光秀が、一時にせよ朝倉義景に仕えていた事は、日本歴史学会会長だった<故高柳光寿著・明智光秀>の十四頁にも、
「光秀が朝倉に仕えたと思える良質の史料は、五十嵐氏所蔵の『古案』のいう古文書集の中にある」と出ている。だが名の通った家来としては、他の史料には、現れていないという。
そんな、名もなく貧しき一武者にすぎなかった明智光秀が、なぜ一躍、そんな大金持になってしまったのか、この不可思議さえ解明できない侭に、他の史家は見ぬふりをして逃げてしまい、
高柳氏のみが摘出して引例しているが、その謎は解けていない。
しかし、これが後の「信長殺し」の決め手にもされる理由で問題である。一つの鍵なのである。
 さて牢人した途端に何百と召し抱えた家来の中の溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛は、小栗栖村で光秀が倒れるまで、陰日向なくつき従っている。
彼らは世にも得がたき人材で、これは決して虚妄の幻の軍隊などではなかったという証拠でもある。
現在確定史料として信頼されている「細川家記」だが、これが如何に欺瞞に満ちているかは、
「謎の細川忠興」としてUPしてあるので、本能寺の変にも関連しているので参照されたい。

考察 明智光秀 「若かりし頃の明智光秀」
明智光秀は、東美濃可児郡明智城、享禄戌年生まれ。明智光継の三女で小見の方が母親である。しかし父親は不明。
母親の小見御前というのは、上の姉二人は十五歳でそれぞれ縁づいたが、二十一になるまで嫁に行っていなかった。時の美濃国主、土岐頼芸が無理矢理四十男の斉藤道三へ嫁がせた。
(当時の平均結婚年齢が十五~十六歳なのに、六年も嫁入りが遅れたのは何故なのか、謎である)そして後に道三と小見の方の間に奇蝶が生まれ、この奇蝶が織田信長の妻となる。
従って奇蝶とは異父兄妹であり、信長とは義理の兄妹にも当たる。
天文二十年三月、道三に嫁いだ小見の方が亡くなると同年四月、二十三歳になった光秀は明智城を出て諸国を流浪する。
越前の朝倉義景の家臣の端くれに納まっていたとき、足利義昭が朝倉を頼って越前にやってきた。 (三年前の永禄八年五月、三好松永勢に将軍足利義輝が襲われた時、
弟に当たる義昭は当時奈良一乗院の門跡で「覚慶」を名乗っていたが、近江甲賀へ逃げ、やがて矢島の六角承視を頼り、翌年は若狭の武田義統へ行ったが協力が得られずやむなく朝倉を頼って来たのである。
世が世なら将軍になる筈が、この時は諸国流浪の身であった)この足利義昭に申次衆として仕えていた長岡藤孝(後の細川幽斎)がなかなかの策士で、
光秀が今は無名だが、信長の正室奇蝶と異父兄妹と判るや、「利用価値有り」と判断して義昭にこの事を進言した。というのはこれには訳がある。
当時貴人に会うには”色代”といってそれ相当の銭が必要だった。室町御所での表向きの色代は銭三十疋が相場だった。
当時雪深い越前当たりをどさ廻りの義昭にとっては、銭十疋でも御の字あっただろう。それを実直にも馬鹿正直な光秀は、相当に無理をしてかっきり三十疋持って行ったから、金蔓だと思われたのだろう。
「身分や地位などどうでも良い、金蔓と思うたら逃がすでないぞ。なんせ、この義昭が晴れて将軍になれるもいなやも、一に懸かって金次第じゃ。
今の明智とか申す奴にも其方の口より、もし精出して忠義を尽くすにおいては、将来直臣に取り立て目を掛けてやらぬでもない、等とおいしいことを申し伝えておけよ」と長岡に言いつけた。
この時代には忠義などと言う儒教の訓育は輸入されていない。だから(金を貢いで持ち込んできたら)といった意味でもあろう。
何しろ義昭にしてみれば、ここ朝倉は思いの外にケチで軍資金を出さぬから、越後の上杉や地方の主立った武将に対して片っ端から、
(兵をだしてくれるか金をだしてくれるか)側衆を派遣して催促していた矢先なのである。
例え無名の者でも、三十疋の現なまをポンと持ってくるような者は何としてでも自家薬籠中のものとしておきたいところだった。
処が義昭は美濃尾張の兵力を使うために、信長と義兄弟の光秀を何とか信長との間の橋渡し役に使おうと画策し、色々汚い手を使って朝倉家からの追い出し策を弄する。
この時、流浪の旅に疲れ果てた光秀の妻、しら、が奇蝶を頼った。というのは、信長が美濃を占領したので奇蝶も岐阜城の二の丸へ来ていた。
そして、新しく美濃で領地を貰った尾張衆と、それまでの美濃者との争いが多く、公事の裁きを奇蝶はしていたので、夥しいお目見得料が集まっていたのである。
しらから今までの経緯をすっかり打ち明けられた奇蝶は、
「長岡藤孝が十兵衛殿に目を付け、義昭公の直臣にと言うは、おそらく斉藤龍興が失脚した今日、この織田家を利用せんとの企みとも覚ゆる。
が、こないな内幕を教えたとて、あの一本気で石頭の十兵衛どのには、とても判っては貰えまいのう」と思案にくれていたが、
「これまでは十兵衛どのは意地になって、わが夫の織田信長には近づくまいと避けていられたが、義昭どのの御家来ともなれば、向こうさまはその為にお傭いになるのゆえ、
もう否応なしにわが夫と逢わねばならぬだろう。
その時十兵衛どのにみすぼらしくされていては、うちの信長どのは、直ぐ他人を小馬鹿になさるお人ゆえ始末がつかぬ。幸いこの岐阜城二の丸へ戻ってからは銀も銭もどしどし入ってくる。
これを悉皆そちらへ送り届けるによって、先ずは京で大きな屋敷を求めて引き移り、名のある牢人にて素性の良き者など集めなされ」と、助言した。
そこで、しらは奇蝶の腹心の者に案内され京へ行くと、二条小路に一町四方もの大邸宅を見つける。次の日から三々五々武者達が、
「この度、手前お取立を頂きました何某でござる」次々と挨拶に来た。館の裏手には長屋が並んでいて、そこが武者長屋になっていて、新規に召し抱えられた者たちは皆そこへ納まってから、
「明智の殿は何時御上洛にて」と、しらの許へ毎朝ご機嫌伺いに来た。そこでしらが使いを立てて夫光秀に来て貰った。
到着した光秀は呆気にとられて驚いたが、それより面食らったのは出迎えた新しい家臣の面々である。(これ程の大きな館をもうけ、どんどん自分たちを採用してくれるからには、
さぞかし立派な武将で、きっと馬に乗り雄姿堂々とあまたの共武者を従えてくるもの)とばかり思っていたところ、尻端折りして古槍を担いだのが共も連れずに、
「おう」と館へ入ってきたのだから、すっかり皆が予期に反し、ビックリ仰天してしまった。また光秀の方も居並ぶ連中が、新しい家来だとしらに言われても「えッまことか」と、
自分が主人なのに「みな、よろしゅう頼むぞ」と此方から声をかけ頭を下げてしまった。(奇蝶の方から光秀に接触したと書かれた物もある)
だが、人間の心理というのは妙なもので、頭ごなしに横柄に扱われるものとばかり覚悟していた新参の連中は、こうなると光秀の人柄に傾倒してしまって、
口々に「実るほど頭の下がる稲穂かな、と言うけれど、この殿はよくよく出来た御方らしい。この殿のために吾らは粉骨砕身の奉公をせずばなるまい」とみな感動して光秀を慕った。
ここで「細川家記」永禄十一年七月十日の条を引用すると、「明智光秀の家来溝尾庄兵衛と三宅籐兵衛が二十余人の共武者をもって阿波口にて待ち、
七月十六日に一乗谷を出た足利義昭の一行の供をなして穴間の谷から若子橋へ出ると、京より明智光秀が仏が原の所で五百余の家来を率いてこれを迎え、
それより織田信長の家臣不破河内守、村井民部、島田所之助らの待つ近江犬上郡多摩へおもむき、二十五日には美濃の立政寺へ道中無事に義昭の一行は光秀主従に護衛されて到着した」とある。
これまでの通説のように、光秀は朝倉家へ奉公中も五百貫どり、信長に仕えた後も初任給五百貫というのは、どうも誤りのようである。一貫一石と換算しても五百余の家臣といえば、
これはたいしたもので、後の三万五千石の浅野内匠頭等は士分の他に足軽小者を入れても三百とは家来がいなかった。少なくとも光秀は最初から六、七万石の格式である。
この当時の公卿の日記である「言継卿記」や「兼見卿記」「中山家記」「宣教卿記」などによると、「元亀元年二月三十日、信長の一行は岐阜より上洛し、
光秀邸に泊まり翌三月一日光秀に案内されて禁裏へ伺候」「同年七月四日、姉川合戦に勝利をえて、織田信長はその旗本共と二条の光秀屋敷に逗留し、七日に岐阜へ帰る」などとある。
勿論この時代は、光秀はまだ足利義昭の方の直臣であって、信長の家来に等なっていない。
そしてこの当時の階級制度からゆくと、武門の棟梁は室町御所を二条城に移した足利義昭だから、その直臣の光秀は格からいくと信長と同列となる。
だから信長から足利義昭へ出した諫言の書簡でも、はっきり信長はそれに、「明智十兵衛尉殿」と殿という敬称を書いている。
だから上洛の時信長が光秀の館を宿舎に当てたというのは、当時の京都にはホテル等なく、何百という人数を宿泊させる所は何処にも無かったせいだろう。
だから信長は、まさかその豪壮な邸宅が、妻奇蝶のスポンサーによるものとは知らず、(かかる大邸宅を持ち、五百余の家来を持つとは、光秀はなかなかの者である)と、
今も昔も信用というのはやはり金だから、すっかり買いかぶってしまい、これは人材であると見込まれたらしい。
そこで、「足利義昭より、この信長の客分になりなされ」とスカウトされていて、織田家からも知行地を近江の志賀に貰っていた。
だから秀吉が近江長浜で初めて城持ちになった頃は、光秀はとっくに近江坂本に自分で城を築き、すでに一国一城の主にまでなっていた。
小者として奉公し努力を重ねて立身した秀吉には、初から客分として入り込んできた光秀は、煙たい存在であったらしい。
また光秀は、恰好をよくつけるために、奇蝶から夥しい銀や銭を貰っていた義理から、天正十年六月二日の本能寺の変が起きると、光秀に付いていた軍監の斉藤内蔵介の仕業で自分は無関係だったにもかかわらず、
その黒幕が奇蝶だと聞かされると、仕方なく名目人になったりして、まんまと長岡藤孝のもうけた罠に落ちてしまい、現在では本能寺の犯人にされてしまっている。
何しろ秀吉にすれば、かねて面白くない競争相手だったから、これを山崎円明寺川で破るや、さも光秀が信長殺しで、自分は仇討ちをしたように宣伝した。また徳川三百年の間は、
この信長殺しというのは、これは徳川家のタブーであったから、御三家水戸の御用学者頼山陽は、「神君家康公のおんため」を慮って、「敵は本能寺にあり」といった光秀謀反説を強調するものを作り、
これを流行させてしまった。
が、徳川政権はその後つぶれてしまったから、もう家康に気兼ねする事もないのだが、今でも江戸時代と同様に、光秀が信長殺しと誤っているような不勉強な読み物も多い。
さて「人生は禍福をあざなえる縄のごとし」というが、光秀の妻のしらが、
岐阜城へ奇蝶を訪れなければ、よし貧乏であったにしろ流れ者の暮らしであったにしろ、この夫婦はもっと穏やかに人生を送り、天寿を全うできたかもしれない。
また光秀が四十過ぎるまで、縁続きの奇蝶を厭がって近づかず、その夫の信長の許へも行かなかった理由は、(接近すると将来ろくな目に遭わない)といった予感が有ったのか、
又奇蝶の烈しい性格をよく知っていて(剣呑である)と用心して、側へ行かぬ算段をしていたのかこれは明らかではない。



嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第二部】

2020-07-18 11:45:28 | 新日本意外史 古代から現代まで
※本稿も長文です。興味のある方はプリントアウトして熟読するのもよろしいかと。尚、誤字脱字はご容赦。

   嗚呼!! 大忠臣・明智光秀 【第二部】

        殉   忠
 つまり、「光秀が信長を討った」とか「謀叛を企てた」という確定史料は、残念かも知れないが一つもないのが現状なのである。
 だから、何んとか理由づけようとして、怨恨説や謀叛発心説が、何十となく作られてきている。新井白石でさえも、その、〈白石紳書〉の中で、
 「井戸若狭守良弘という室町奉公衆の者が、山城の横島城主だった頃、つまり本能寺の変の十年前に、光秀が『われに願望あり、もし手をかしてくれて、それが成就した節には、大国はやれぬが、
小さな所なら国主にしてやろう』秘かに言われたことがある。良弘は、そのときは冗談と思って、きき流していたか、後になって『成程そうであったか』と膝を叩いた」という話をのせている。
 だが、山崎合戦で、旧室町幕府の奉公衆は、みな討死しているのに、この良弘は、それに加わらず生き残った、いわば裏切り者である。
保身のために何か言ったとしても、これは信用できない。もし、この線でたぐってゆけば、
足利十五代義昭のために、信長を討ったことになるのだがその証拠は見つからないのである。単なる話にすぎない。
<甲陽軍鑑>にも、「天正十年二月に、光秀から武田勝頼あてに、逆心するから協力してほしい旨を言ってきたか、長坂釣干斎が怪しいと言うので取りあわなかったから、
武田は武田で滅び、光秀も光秀で滅んでしまった。惜しいことをしたものである」とでている。
真偽どころかよい加減な作り話だが、もっと酷いのは、何といっても<細川家記>であろう。
「光秀は、武田勝頼に通謀していた。そこで天正十年五月に、徳川家康に伴われて、勝頼の伯父にあたる穴山梅雪が安土へくると聞き及んで、梅雪の口から信長に告げられるのを気遣い(心配して)謀叛をしたのだ」
と書かれてある。だが、しかし、五月十五日、十六日の両日は、一日中、十七日も、出兵の命令をうけた昼頃までは、光秀は、家康や梅雪の接待を、ちゃんとやりとげているのである。
 一番よく内情を知っている筈の光秀の組下の細川が、ぬけぬけとこうした記載をすると言うのは、それだけの理由なり、また色々な不都合があった証拠でもあろう。
なお、〈老人雑話〉では、今日の花背峠のさきの周山に、光秀が砦をもっていたのは、己れを「周の武王」にみたて、信長を悪逆無道な「殷の紂王」になぞらえ、かねて謀叛心をもっていたというが、
これも江戸後期の本らしい。なにしろ周山の砦というのは、桑田郡で細川のものなのである。
 
〈別本川角太閤記〉では、
 「六月二日付の小早川隆景宛の密書」というのもある。以下にその全文を引用する。
急度(きっと)飛檄をもって、言上せしめ候。今度、羽柴筑前守秀吉こと、備中国において乱防くわだつる条、将軍御旗をいだされ、三家御対陣のよし、まことに御忠烈のいたり、
長く末世につたふべく候。しからば、光秀こと、近年、信長に対し、いきどほりをいだき、遺恨もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長親子を誅し、素懐を達し候。
かつは、将軍御本位をとげらるるの条、生前の大慶、これに過ぐべからず候。このむね、よろしく御披露にあづかるべきものなり。誠煌誠恐。
        六月二日         惟任日向守
     小早川左衛門佐殿   
 
 この文中の(光秀こと近年、信長に対し憤りを抱き遺恨もだしがたく)というのを引例して、当人の名で、こういう書面があるからには、
やはり遺恨によることは間違いないと、主張している歴史学者もいるが、さて、どうであろうか。六月二日に書いたと言う日付が、どうも信じられないのである。
なにしろ、信長の死体が見つからなくて三日四日と生存説があった時点で「誅して」というのは嘘臭い。だが歴史家は「彼の立場で、まさか、いろいろ言えもしなければ、
また初めて手紙を送る相手に本当のことも書けまい。これくらいのところが常識的であろう」という。だが、それをもって証拠よばわりするのも、どうかと想う。
なにしろはっきり言えば、やはり偽物のつくりものである。ただ、この文中の将軍というのは、当時。備後の鞆にいた足利義昭のことで、こうした文面のような受取り方を、
今の時代の人はするのかも知れない。
 しかし六月二日の午後四時に瀬田の大橋に現れた光秀は、午後五時頃に坂本へ向っているから、戻ったのは午後八時ごろであろう。
それから近接の大名へ檄をとばすのなら判るが、遠い中国へまで書く筈があろうか。
「埋火」という言葉があるが、この意味するところは、
足利義昭が天正元年七月一日に、山城の槇島に三千七百で立籠り抗戦したが、時に利あらず、〈二条宴来日記〉にあるように、山城の枇杷荘へ移り二十日には三好義継の河内若江城へ入ったが、
十一月五日に堺へでて、そこから十一月九日に海路紀伊へ向って、由良の興国寺に、ひとまず落着くに先立ち、旧室町奉公衆を一人残らず光秀に託して、
炭火を灰にいけるようにして時機をまたせたという意味である。
 つまり兵力を減らされないように、信長の給与で温存させ、この埋火が六月二日に爆発したという着想のものである。
 しかし実際には、義昭は事前には何の情報も得ていなかったらしいのである。
〈土井覚兼日記〉の天正十二年二月十四目の日記をみると、「昨年末(十一年末)義昭将軍は、その春日局(征夷大将
軍家の側室の官名)をもって上洛させた」とあるし、また、この間の事情を、〈毛利家文書三〉によると、その春日局に対し、
「毛利家の将軍に対する処遇芳しからずと、春日局が各所にて演説し、迷惑この上なし」と、小早川隆景が歎いたともある。
 どうも、これを見ると、もし光秀が義昭の為に蹶起したにしては、其後一年半も、のんびり鞆にいた義昭将軍の態度が腑に落ちないし、春日局を代理に出したのも、
秀吉や其他からカンパを集めるのが目的だったようである。なにしろ、この翌年の八月十一日にも、〈小早川家文書〉によると、
 「かねて話のあった四国の伊予の料所を、即時出してくれ」と義昭は無心ばかりしている。だが三年たった天正十六年正月に、聚楽第行幸に参加するため京都へ帰ってきたら、
宮中では(信長を倒しか功労に酬ゆるべく)坊主頭にかって「昌山」と号していた彼に、「準后」の最高位を贈った。
 これは、太皇太后。皇太后、皇后の三宮につぐ、家臣としては最高位のものである。
 つまり日本始って以来、この位まで貰えたものは、かつては南朝の柱石の北畠親房と後では足利義昭のみである。
 ということは、宮中では、北畠に匹敵する勤王精神を、この義昭に認めたからである。織田信長が五月二十九日に、何を一掃しに上洛したか、これで腥気ながら判るような気も一面ではする。
 そして皇室御用の里村紹巴が、他へ災のかがらぬよう神出鬼没に活躍したのも判る。
 公卿衆が宮中を空っぽにして六月一日、雨の中をデモしてきて、玄関払いされても、強引に上りこんで泣きついた事態も、二れで呑みこめてくる。
 なにしろ秀吉というのは、信長のした通りにした男であるが、天正十四年家康と和平して天下を握り出すと、その七月二十四日付の、
 〈多聞院日記〉に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、
「二十四日に、本能寺の変のときに二条御所に居られた誠仁親王さまが崩御された。疱疹とか(ハシカと公表されたが、そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。
もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、さかのぼった、〈七月七日の条には〉
 「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、
此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆もみんな並べ張付にかけて殺しまするぞ。と秀吉に脅迫をされた。
みかどは無念に思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが。
 〈人物・日本の歴史・読売新聞版〉は、この裏話を紹介してから、秀吉への譲位の噂はしきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵がやけ天変地異が続いたので、
流石に秀吉も思ひ止まり十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を、後陽成帝として御位にっかせ給うた。とある。
        征夷大将軍になった光秀
 だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩にむくいたのである。という解釈もなりたってくる。
 だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買い被ることはなく、たった捨て扶持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったと言うのである。
 「信長殺しの真犯人は」直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問い詰められるか、証拠をつきつけられて、万策つきて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いか濃厚な容疑者になって居られる。
 光秀と親王が睦じくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵の立入宗継が、
畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴えでて、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王、下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させたことが、〈御湯殿上日記〉に詳しく出ている。
 光秀は、足利義昭が出奔したあと空城になっている二条城を修理し、ここを二条御所つまり下の御所として誠仁親王に住まって頂いたぐらいで、この時代には、「当代まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。
 優渥なる女房奉書の勅語も頂いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。
 後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遙かに篤かったようである。だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していたとき、
てっきり昔の足利尊氏にも当る信長を倒したものは、光秀であるだろうと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。
 そこで内示ではあろうか、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。
 この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。
 十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「何の沙汰」があったのかは、みな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。
だが、光秀にとって、それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐ御礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさま御礼にと献納している。
 この事実からおしてゆくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
 こう言うことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
 さて光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こう言う例は前にもある。
 木曾義仲か平家を破って上洛したとき、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入してきて、
義仲が粟津で敗死してしまったから、その儘うやむやになってしまった前例である。
 おそらく六月二目の午前九時すぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、取りあえず天機奉伺に上の御所へ参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、
官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのだろう。そうでなければ、高飛車に、「一掃」に脅えていた御所から、
 「信長をうち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でも頂いてしまったのだろう。
 これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、
 「綸言汗のごとし」である。 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったであろう。
 「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おみことのりとして、甘受して受けて立つしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。

 恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。
私だって、その揚になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、
余が、つつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。
 (おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、この後で証拠として秀吉に握られてしまったことも想像がっく)
だが、その時点に於ては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
 人間は五十になっても六十になっても、好い児になろう、賞められたいと言う願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。
 
至上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望をになえば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は、大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。
つまり「信長殺し」に名前を貸し、自分がその名義人になってしまったのである。もちろん禁中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をとは、そのときすぐにも話もあったろう。
 だが、かって光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存しているから、それは望めない事と光秀は想っていた。
 だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている。
 もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後は承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、
弁口の立つ、その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。
 だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるくらいなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかったことにされ、
一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、
喜んで死地にっくのは当然の事であったから、臣光秀にしろ、大君のおん為に醜の御楯として散華したのであろう。
 ただ光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していたことが判っていないから、すべての解釈が食い違ってくる。
たとえば山崎合戦で、伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の重だった面々が、一人残らず光秀の側にたって敢闘し討死していることが、
〈蓮成院記録〉〈言経卿記〉〈多聞院日記〉に出ているが、これとても、光秀が、征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死をとげたのである。だから、
この際、岸信介氏や橋本竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って頂きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
 もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は改めて認められるべきであろう。


 続 津軽史料の考察  「東日流外三郡史」の研究

2020-07-13 10:02:05 | 新日本意外史 古代から現代まで
     続 津軽史料の考察
     「東日流外三郡史」の研究

これは、津軽(青森県)は大和朝廷とはまったく異民族の土地なりとして、別個の歴史をもち、京方と戦いつつ、別個の王国だったとする内容である。
即ち、大和民族は単一民族となす説に反対する文献なのです。そしてまだ儒学が全盛の江戸期に書かれたものである。
それに寛政五年からは、津軽から福島までは未曽有の大飢饉で、津軽領だけでも二十万人もの餓死者を出している。
こんな時代に、手分けして各地を回り聞き書きをしに、餓鬼地獄の中を矢立をもって歩いて記したという、現実にそぐわぬ可笑しな部分もある。
こうした点は心して読む必要がある。
しかし、記紀を金科玉条とする史観より、見るべきものは多く、一笑に付すものでは決してない内容である。以下にその考察をしてみたい。

 「東日流外三郡誌」というのは、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂会が昭和四十六年に設置された際に、五所川原市飯詰の和田喜八郎家所蔵の、江尸時代から門外不出、
他見一切無用と厳禁されていた三百六十巻の古文書の中より、判読できる百巻を上中下の三巻にし、同村の委員会より「市浦村史資料編」として刊行された、
今まで正史とよばれるおかみの歴史とは全然異質の文献なのであります。
 和田家49代の当主によれば、寛政二年に和田長三郎が、鎌倉侍所別当の和田義盛の一族だったのに、北条氏に追われて秋田に隠れすみ、世直しのため南朝に与し津軽へきたが滅ぼされ、
神職を勤めていたが、長三郎はそれさえも追われ、妻が秋田上綺の秋田孝季の妹だったので、そこへ行き二人で祖先を追跡調査して、己れらの血脈を伝えるために生涯かけて採録筆写したものといいます。
 「反藩の罪科に厳重に問われるゆえ、と油桐紙に包み、極秘に天井裏に隠して伝わってきたもの」と、二人が書き綴って一部ずつを子孫に伝えたのが、秋田孝季の子孫の方の分は散逸してしまったが、
和田家では樟木の箱に入れていたので、二百六十巻は判読困難だったが、その中の百巻分だけは昭和三十二年春に初めて蓋をあけた時は助かって、どうにか読め得たと前書にのべています。
 さて、この津軽地方の地形的変遷や古代津軽人の風習言語、つまり「亀ヶ岡式上器」や「森田村石神(おせどう様)の縄文式円筒方式土器」それに「市浦村中島出土の土師器」に関連する古記録は
「耶馬台国五畿七道の(倭の)五王の長髄彦、安日彦が、九州日向に出現したジンム族の鉄製の剣や矛によって追われて、遠く津軽へ亡命してきて、
その伴ってきた一族によって開拓されたる為」といった記述が基礎となっているものですから、韓国歴史界にとって、この「東日流外三都誌」が、さも日本での唯一の信頼すべき古代史料のごとく、
大々的に取りあげられたことがあった。
 かつて長州の御雇い教師リースが、日本には歴史学はないと明治十八年の博士号設定の時に文学博士の範囲にしか入れさせなかった程ですから、日本では、宮下文書や竹内文書なみにしかみなさず、
問題にはされていません。ただ考古学や人類学の分野では研究しかけていますが、いわゆる各大学で講義する歴史屋さん達は、まったくまだ目も通していない程の不勉強さでかないません。
 しかし韓国だけでなく朝鮮人民共和国でもおおいに検討されだしていて、双方共に、「魏の国に貢進していた耶馬台国なる存在は、親魏政権というよりは今の中国の出先機関が統率していた中国の
支配体制。それを追払って新しい大和朝廷をたてた日向ジンム族は九州へ渡った朝鮮半島人だ」として、物騒なデマですが、南北が統一するのは失地回復しかないと秘かに言われています。
中国の以前の華首相の線引きで、朝鮮半島からまさかとは思いますが、南北統一は対外戦争しかないと攻めてこられては、吾々はまた縄文日本人の昔に逆戻りさせられてしまい困ります。
それゆえ専門家がまったく手がつけられぬ「東日流外三郡誌」の真の解明を、どうあっても吾々日本人が負わざるをえません。
 歴史とは過去の具象の真実のあり方を把握すべく努力することで、それを勝手に都合よく解釈する事ではないからです。さて、そうした誤りをおかさせるのには、その第一に述べられている処の、
〈東日流流転史〉に「山麓に住居するは阿曾部族、海浜に住むを津保化族とよぶは、その昔、天変地異ありて山が火を噴き、浦が隆起して陸となりし為なり」と、まず説明しているのであります。
 「太古の古い称号は、スーサンポー、津軽をチンパルとよぶは、いずれも唐の漢語。大昔のことだが大漢国より忍び難き国乱ありて、やむなく漂着してきたれる彼の国の難民共を祖先とす」
「その頃、九州の日向に起こりし一族が東に遠征。それまで耶馬台国五畿七道を洽領せし安田彦、長髄彦を討伐。
よって耶馬台一族は北方に遁がれて津軽まで落ちのび、再挙を企てたがならず、原住民の津保化や阿曾部の民と混血して、荒吐一族となり北上川平泉まで進攻し総処となし、
東西南北にそれぞれ王をおきて統治し、ウーワンと中国語でよび、日の神を、ヤンとかヤーとよんで崇拝した」となっていますから、
耶馬台国が「瞳」と当時はよばれていた中国大陸の出先機関の統治地だったというようにも解釈されてしまいます。もちろん魏の国へ朝貢していたからこそ、〈魏志倭人伝〉にも記載されているのです。
しかし、その頃の日本列島には耶馬台国群に対抗していた古代海人族らの、八幡国群が黒潮のくる各海浜には、処々にあって対抗し彼らは懸命に戦っていたのです。
 それに今も中国地方とよばれる岡山には、華夏王朝とよぶ吉備の地域が前から既にあったのです。
 高梁川の地名が今もある一帯で、大和朝廷になってからは、大陸から新しくきたのと区別するためにと、トウはトウでも藤でなく「桃」とよばれる人々のいた土地なのである。
〈群書類従〉の「大唐和尚伝」に、桃原とか桃生との文字ででてくる日本へきてからの唐人にお伴をする通訳の連中の植民地だった安全な土地があるのに、
何故に彼らが中国系だったら東北の津軽まで逃亡するのか辻つまが全然あいません。〈葦原談義〉には、つがる平原は、葦の大草原にて、豊葦原の国なりぬと史書にもいう、とあります。
 そして、ひとつかみの稲穂をもって九州の築紫にきた後の日向族が、遊放民族の猿田彦に米の味を覚えさせ、酒や女をあてがって、今いう呑ませる、抱かせる、握らせるで彼ら部族を己が奴隷となし、
自分らは高天原より高千穂に降臨せし神々なりと称し、やがて本州の耶馬台国を征討させました由。
 さて日向族の彼らが持ちこんできて、強制的に水稲を種もみとして植えさせ、収穫を、「上毛」と称して貢進させていたのが、韓国産のホコネとよぶ水稲の種もみと高天原より高千穂へ、
鉄の矛や剣をもってきたジンムは、韓国より渡来の日向族で、己らが先祖だと韓国史学界では言うのであります。
 津軽契丹 
東日流三郡暦の考察
天刑の乱こと、天慶の乱で坂東八ケ国の拝火宗徒を津軽へ追った時、藤原氏は唐を滅ぼし、取って代わった契丹(宋国)よりの今来漢人をになし東北へ追ったというのが、津軽大陸人説の真相である。
 〈東日流開聞〉の章では、太古は中国大陸や韓国とも日本列島は地続きであったとして、当初は、
「アソベ一族」の民が海浜で塩をやき漁をして暮していた処へ、中国系の津保化一族が大挙して押しよせてきて、石斧や石剣の縄文人を攻め、やがて彼らが逃げこんだ行来盛火山が噴火して死滅。
その後へ耶馬台国の一族や中国より渡来民が入ってきて、混血しあって、荒吐一族となり、異民族の倭族とはあけくれ交戦をくり返しつつ津軽を確保したといいます。
これが津軽の非大和民族説です。
 よって日向族がたてた大和朝廷では、斉明帝の頃に、奥州の荒吐五王を難波の都に招いて官位を与えて懐柔しようとしたが、津軽は拒んだので、阿倍比羅夫が百八十隻の船団で討伐にきたが、
有間浜で応戦して八十余隻を火箭をもって焼き払い、やむなく阿倍比羅夫は、船の酒や食糧を提供して命乞いしたといいますし、斉明六年に又も阿倍船団二百隻の来攻があったが、
十三湊で沈められてしまったのが半分以上。陸から前に攻めこんできた上野毛田道将軍のごときは、部下もろとも六百八十余名が一人残らず中山にて包囲全滅されてしまったと、その津軽の武勇さを誇っています。
 今でこそ大和民族は単一民族と学校歴史では義務教育しますが、これでは大和朝廷系の日向族と、東北の、耶馬台国残党の中国系の荒吐族とは、ともに天地を共に頂かぬ異民族どうしとなります。
 つまり韓国と中国の勢力争いを、縄文日本人を兵卒にして、双方で必死にくり返して、「安東将軍」とか「征東将軍」、明治になるまで「征夷大将軍」の官命がこれ故にあったのです。
明治政府も、「界外」とみて降参した賊軍会津を移したりしましたが「津軽盲暦」というヤマトの漢字は一切使用しない絵だけのカレンダーを江尸時代から用いて対抗していた。
契丹系も追われ津軽に多く住んでいて鈴木姓を名のる。現在でも青森県には「つがる暦」という漢字を全く使わない絵暦ががある。
 
日本人は高千穂より九州を平定し大和へ入ってきた日向族ではなく津軽の荒吐族こそ耶馬台国直系の貴種なりとする他、世界史の中に、その津軽年代表をおき証明す。
 〈日本書紀〉や〈古事記〉みたいに神がかりの内容ではなくして、〈最古代重日流外三郡暦〉では、
「津軽の歴史は日本皇紀より約二千二百九十三年より古く、中国の陳の時代で、当時西南や太平洋州では、シャールキン一世がサーゴンと国号を定めて、カルジヤを建国し栄えていた時代」とし、
「アフリカでは既にメネスが黄金帝国をつくっていたし、エジプトでメンフィスが奴隷とした白色人種を使役したピラミッドを作りだしていたものである」と、
世界史の中で、津軽建国を説明しています。「ビッキムガモ」と称していた津軽の原住民たちが栄えだした頃は、中国は黄帝の世で暦法を定め、算術、医書、養蚕をもう始めだし、
アフリカではエジプト第四王朝のスフィンクス造成期となす。
 中国が「夏」となった頃、インドにアリアン族が大挙して進攻。当時の日本列島は百二十八の種族の民が漂着し、それぞれ一族で分領しあって相互闘争をくり返し、津軽では石器より土器時代。
 アラビヤにプクソスが現われて統一しだした時、ヨーロッパ北部には白っ子人種のスカンジナビア人が集りだし、これは後の白人種となる。津軽ではコウゾの樹皮や鹿皮で衣服をつくるようになったとします。
 スリイピングバックの元祖にあたるような、獣の毛皮をはぎ二枚をつなぎ合せた袋に入って、寒気の厳しき津軽では冬の寝具を作りだすようになった頃、中国では「殷」が建国されています。
 アラブではイスラエル族がカナンの地に入りだした頃。ヨーロッパのギリシヤが航海術にすぐれ、スカンジナビア人らも暖流寒流の潮流で大洋航行することを次第に覚え活躍しだしたゆえ、
スパルタが起こったり、トロイが木馬を城内に入れた為に隠れていた兵達に占領されたりして滅亡する。
 さて中国が『周』となって武王が即位した頃、とことわってから、〈東日流外三郡暦〉では、日本国日向に高天原天神地神の愚想信仰起こりて、衆是に従う者多し、その導師は女人なりという。
津軽にては大船を造りて渡島や東島崎にゆき交易」とでています。こんなことが堂々と行われたなら、江戸時代だけでなくても皇国史観の昭和初期から、戦後までのおかみでも、
不敬罪もので投獄処刑であります。さらに、「インドにシャカが生まれて仏法が弘まりだした頃になっても、日本はまだ統一されておらず」とあります。
 東北=津保化族。関東‥卜宇津味族。中部=津袮奈族。奈良H‥津止三毛野族。紀伊り奈津三毛野族。
南海道=大賀味族。淡路=賀止利族。因州=宇津奴族。安芸=亜羅三毛族。北九州=日向一族。南九州=猿田一族と分かれて「神武帝日向高千穂宮より東征なされしは、即位前七年冬十月五日なれど、
山口周防の軍勢に一年の余にわたって封じこめられ、進撃するあたわず、ようやく向わんとするも安芸に拒まれ七年の歳月を失う」と、吉備で八年も釘づけにされ、
「高島でも三年も悪戦苦闘をしいられて難波の浪速に到り、淀川をのぼって河内の草香村の自肩の津に辿りつく」とあります。
 河内の草香というのは後の桓武帝の御生母高野新笠の居られた土地で、ここへ彼らが持ちこんできた韓神さまが平野四神で〈神祇式〉によれば、やがて、皇大神となると記録されてもおります。
 だから妙に辻つまが合わされていて、河内で武具を整えて竜田へ進軍したがならず、生駒〈夷駒山〉越えに大和へ入ろうとした先発隊の五瀬命は討死。
和泉へ向えば稲飯命もそこであえなく戦死。
 といったように日向族が、大和朝廷をつくる迄の戦争。「津軽のみは殺掠を好まず別個に暮し豊かに暮せり。これ日本神代の実相にて、日本史の誤てるを心に感銘をなす可。寛政庚申二月 秋田孝季」
 となっています。つまり大和朝廷成立以前にあって、津軽は別個の、異民族として栄えていたというのです。明治以降ドイツからきた長州の御雇い教師リースが、日本人は島国ゆえ単一民族だと今の
学校歴史を設定してしまいましたが、この書はこれに反対して、明確に複合民族であると主張しているのです。
津軽異種説

縄文時代から武力征服されて弥生時代に変った時の日本の人種は、百余にも別れていたというし、あくまでも単一民族ではなくて違うと主張するのは津軽のみです。
 秋田孝季があげている各種族の名称を分類しますと、ウクスツヌの発音が上につく津とか宇のつく中国大陸系がある。イキシチニのつくのは朝鮮系。アカサタナのつくのは古代海人族。
オコソの発音がやはり上につくのは沿海州から入ってきた、蒙古系と分類されている。これは正しい見方である。
日本列島は、ベーリング寒流と黒潮暖流が流れてきて抜けてゆく日本列島だけに、あらゆる種族が入りまじっています。
また、〈日本古事記〉に言う苦戦の経過も、記紀のに合わされています。
 しかし、これをその儘うのみにしてしまいますと、中国大陸の魏の国に朝貢して臣従していた日本の耶馬台国政権を、韓国よりの日向族が随分とも苦労してご先祖様を解放してくれた事になります。
 なにしろ秋田孝季らが、これを書いた江戸時代の寛政時代というのは、まだ熊沢蕃山でさえ、「中国人は貴種」とあがめ、荻生徂徠でさえ物徂徠と号をつけ、
「もし孔子や孟子の国から攻めてきたら、それでも迎え討てるか?」等と議論しあい、儒学者たちが、しきりと迷い悩んでいた時代なのであります。
 今でも舶来崇拝とか西洋かぶれといった言葉がありますが、これは、縄文日本人として征服され弥生時代から奴隷とされてきた劣等感の裏返しみたいに、
日本人は「ええ恰好し」と言われる国民性です。
 ですから秋田孝季が現代人でしたら、山本七平みたいに(ユダヤ人でも白人だから)と書きもしたでしょうが、まだ南蛮人は紅毛の蛮人みたいに思われ、最高の貴人は中国人なりとされていた頃ゆえ、
津軽人の先祖は、その貴種なりと悦ばしげに恰好づけしたにすぎないような気がします。
 そして今日の学校歴史も、満鉄歴史と申してもよいように、日露戦争後に満州へ侵出するため布設した南満州鉄道によって鴨緑江経由でシルクロードから、すべての文化は流入されてきたごとくに、
海洋潮流学を全く考えぬ、陸路日本史ですので、中国人を柤とする津軽の荒吐族だけは、日向族つまり当時の三韓からの侵略者たちか弥生時代に変え、
奴隷にして徴兵した縄文日本原住民をそれぞれ三方から棄て殺しにして戦わせあっていたのに対し、津軽は超然としていたなどと書いたのでありましょう。
 しかし日本海も対島海峡もなく、中国大陸や韓国と日本列島が陸続きであったという仮説のもとに、この〈東日流外三郡誌〉は成立していますが、
〈魏志倭人伝〉にも、日本列島は洋上にあった事は明記されています。つまり藤原基経によって廃立され山中へ逃れたもうた陽成帝やその側近が、木地師となってからも、
自分らの先祖は高貴な出自であると誇って、それぞれが変ですが、「藤原姓」を、追われた立場では敵姓なのに、逆に用いて今に到っているのと同工異曲であります。
 なのに今では安倍一族でさえ京の懐柔政策で、藤原姓をうけて名のると、さもそのせいみたいに、「藤原三代の栄華」と、東北には当時黄金だけはあり余っていて、
消費都市の京へと「金売吉次」といったセールスマンを派遣しても捌けず、やむなく建立した金色堂などをもって裏付けとするのと、まったく本当の歴史離れした日本歴史の変てこな論理に、
さも中国大陸系の耶馬台人と、朝鮮系日向族の代理戦争みたいに書かれたものが、今となっては韓国史学界を歓ばせているのです。
 シルクロード熱で誤らされていては、真実の解明などは及びつこう筈はありえません。かえって、こうした他から隙を突かれるようなものさえも、今ここに蘇ってきてしまうのです。
まあ世界史とはまったく分離して独得すぎる日本史を勝手に作ってしまったのは歴史屋さんの責任でしょう。

今や共産中国は、ひたひたとその世界侵略を日本にも向けている。
 今さら日本国民を、右寄りに教育しても遅いが、日本人は百余種の流入混種の複合民族なのだと、そこを正直に教え、ライジングサンの旭日旗の下に、
日本人たるもの日本列島を命がけで守らねばならないと実教育をすべきでしょう。外国で歴史をよく勉強させるのは、愛国心を持たせるのが教育目的だそうです。
それを単なる暗記物にして年号だけ覚えさせたり、大学入試にも歴史は除かれている今のお国柄ではどうなるものでもなかろう。
尖閣を盗られ、沖縄も盗られ、最後は日本本土が奴隷化されかねない現状を俯瞰すれば、未来は暗澹たるものである。