新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

◆◆◆日の丸と君が代◆◆◆ 

2020-04-30 10:24:32 | 新日本意外史 古代から現代まで

            ◆◆◆日の丸と君が代◆◆◆ 

以前、札幌で開催された第2回アジア冬季競技大会のスケート表彰式で、優勝した韓国選手の栄誉を讃えて韓国国家を流す際、間違えてモンゴルと北朝鮮の国歌が相次いで流されるという大失態があった。
大会委員会は、韓国選手団に不手際をついで流されると言う大失態があった。大会委員会は、韓国選手団に不手際を詫びるとともに再発防止を約束、韓国側はこの謝罪を受け入れてことなきをえたが、
全く国辱ものであり、大きな国際問題に発展しなかったことは幸いだった。
また、男子1500Mの優勝者も韓国選手で、引き続き表彰式が行われたが、その際韓国選手団から「選手団の旗を掲揚、選手団の歌を演奏する」との場内アナウンスに対して、
「何故国旗を掲揚し、国歌を演奏するとしないのか」とクレームがついた。このため、組織委は男子500Mの表彰を延期し、JOCの判断を仰ぐなど、事後の対応策を検討することになり、
大会に大きな凝りを残した。(韓国はこと日本との問題となると、殊更ヒステリックになる傾向が在る)
このように国旗、国歌のない国は寡聞にして聞かないし、その民族、国家にとって重大な意味を持つものである。
さて、いまだに日本では「日の丸」と「君が代」の掲揚と斉唱を巡る動きが、特に教育現場で喧しい。起立しない教師や、歌わない教師がいるのは「ふとどき」である。
旧ソ連は崩壊したし、東欧も民主化し、中国、北朝鮮、キューバぐらいしか社会主義国家はなくなった。だから日本の左翼は若者に人気がなく、すっかり落ち目だと言われているが、
必ずしもそうとは言えない状況もある。というのは、日教組は相変わらず国旗、国歌反対の教育にしがみついているし、文化人の中にも安普請の人間が多く、ことさらに反国歌、反皇室のポーズをとりたがる。
国旗、国歌を論ずれば必ず天皇制の問題につきあたるし、そして天皇制を擁護すれば右翼のレッテルを貼られる。
だが右でも左でもない自由な視点でこの国を見 、日本を愛している人間は何千万といる。よく「日の丸は血塗られた侵略のシンボルだ」と言うが、米国や英国、その他の先進国の国旗は侵略や革命で、
まさに血に染まった国旗以外の何物でもない。
自国の国旗にこうした過剰反応を示すのはこの国だけである。
人種の坩堝であるアメリカなどは、国民結束意識高揚のため、至る所に星条旗が在るし、ストリップ劇場でさえ観客は国歌を歌っている。
従ってそういう安普請の人間達の思想はいかにも浅薄で、其の行動もいかにも矛盾している。彼らこそ、この日本を危うくしている元凶ではないのか。
日本史の記紀は神話だし、徳川史観や皇国史観では虐げられた庶民の歴史は隠されていて、さっぱり解らない。一日も早く現在の日本史から脱却し、自由で怜悧な目でこの国の歴史を見直せば、
日の丸も君が代も、その生い立ちが理解できるしこれからの道も見えてくる筈である。
 大和民族単一説の棄却        
まず日本人の既成概念となっている「大和民族単一説」は捨てることである。大別すれば海洋漁業系、騎馬民族系に二大別出来る。古い順に並べると、
1、土着西南系(九州、四国方面に多い、弥生時代、邪馬台国群、八幡国群)
2、海洋漁業系(後の平氏、天の朝、中近東、ベトナム方面より)
3、原住農耕系(大陸系に帰順して農奴となった、仁徳王朝)
4、騎馬民族系(後の源氏、農耕は一切しない、崇神王朝)
5、藤原船舶系(中国大陸から渡来し、藤原氏を名乗る、継体王朝)となる。

そして、混血はしているが日本人であれば必ずこの内のどれかに属している。
また、これらの部族には民族の色として、海洋渡来系は赤色、騎馬系は白、藤原系は黒、土着西南系は黄色と、厳然と色分けされている。
だから日本人は今でもなにかといえばすぐ赤白に分かれたがるのである。運動会、紅白歌合戦然り。今、我々の身近な物で「水引」と言うのがある。
これは舟べりに垂らす布を御所ではかく呼ぶ。武家では能舞台に垂らす布をいう。だが庶民の間では寺へ持っていく布施に黒の細布を巻き付けてそう呼び出した。
江戸期になると一般にも多く用いられだしたが、日本列島の原住民は源氏と平氏が圧倒的に多い。だから双方に向くように、紙よりを赤と白の二等分にした。
幔幕も同じ色分けだが、農耕漁業の平氏のほうが多いので、天と地は赤色の横布をつけている。現在も当時のままであるのは皆さん御存知の通り。紅白が全ての行事に使われる根元は、日本人の民族色別による。
現在寺へ出す供養料などの包みの水引だけが黒白となつたのは、元禄期、綱吉の神仏混合令以降の名残である。
さて、幕末期北海道近海にはロシア船が頻繁に来攻しだした。ために徳川幕府は北海道防衛にと赤系の平氏者を集め、彼らが今でいう、有事立法の下に頑張るようにと、船体を紅殻で染めた赤船艦隊64艘を作った。
高田屋嘉平が「操船するのは海洋民族の平氏が良いが、応戦する者は武闘派の源氏者が宜しかろう」と、進言した。それゆえ同乗させた双方が船内で宗旨違いで争っては困ると、
源氏の白旗の中心に平家の赤を丸で入れて恰好をつけたのである。
『嗚呼、堂々の日の丸船団』はこの時誕生したのである。源氏者は「我らの白で赤を囲んでいるんじゃ」と言い、平家者は「白の真ん中に我らの赤がどっかり座っとる」と、どちらも都合良く解釈し、
すこぶる評判は良かったらしい。文化、文政には根室、択捉、国後まで日の丸をたてた500石や1500石の船団が北の海に君臨した。
不勉強な歴史屋は勝海舟が乗り込んだ威臨丸の日の丸が最初と言うが、この赤船が嚆矢なのである。しかし当時も厳しい北の海である。難破する船が続出し、文化10年を以て廃止されたゆえ、
万延元年の渡米の際まで途絶えていた。ペルリが浦賀へ来る前のアメリカ捕鯨船団がこの赤船を見かけている記録が現存している。
【追記】
この日の丸国旗のいわれについてはもう一つある。
日本民族の内、赤と黒は天孫系で、白と無色が原住系という識別が厳然としていたらしい。徳川家は三代家光からは血統も怪しくなったが、
それでも「神君家康公思召しにより」と幕末まで「八朔」といって、旧暦ゆえ秋風のたつ頃なのに、将軍家から端下女のお末に到るまで、全員白装束になる習慣があった。
当日は吉原の女郎衆も白衣を着て江戸中が白一色になった。だから、幕末に新見豊前守が訪米使節になった時、
(大公儀が京を包み参らせる形なり)と採用した白地に赤丸入りの旗が御一新になると、(赤丸が白を押さえ従えるのは良い図柄)と反対に評価されやがて「白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや」となったのだとも云う。
いずれにしろ「白は空で、赤は太陽を表す」という認識は誤りで、日本民族の「民族カラー」が正しいようである。

           
        《君が代の起源》
古今和歌集の「わが君は千代に八千代にさざれ石の」なる詠み人知らずが明治13年に採用され、同26年から文部省告示で全国の学校で斉唱されたというのが、現在の定説となっている。
しかし、実際にはすでに薩摩の軍楽隊によって明治3年にこの曲は初演奏されている。「峰の小松に舞鶴住みて、谷の小川に亀遊ぶ、君が代は千代に八千代に、
ささ゛れ石の巌となりて、苔のむすまで命ながえて…」というのは二代目羅卒総長となった大山巌の生地、鹿児島鍛冶屋町のものが、旧幕時代には祝歌として、尾張万歳や三河万歳のごとく口にしていた歌である。
明治になると彼ら下級武士が天下をとったので、薩摩琵琶歌として東京で流行させたのである。
歌詞の中に自分の名の巌が読み込まれているので、大山はいつも放歌高吟していたという。
明治3年当時の大山はまだ薩摩大砲一番隊長であったが野津静雄(後の陸軍中将)、大迫清(四代目総長)らと三人で、時局談をしていた時、横浜の英国軍楽隊へ教習へいっていた江川吉次郎が訪れてきた。
そして「イギリスの軍楽隊長から、世界中何処の国にも国歌というものがある。しかしこの国には無いのはどうしたことか、と言われ悔しい思いをした。
早速同志の者と相談して探してくると、かくはお知恵を拝借にきました。なんぞ頃合いの物は有りませんか」と三人に懇願した。
突然の申し出に三人は面食らったが、イギリス人に嘲られたとあっては国辱ものである。
そこで「おはんもよう知っとる……巌となりての、あれを国歌じゃというてやったらよか」と大山巌は独断で命令した。
江川も良く知ってる薩摩の歌ゆえ、横浜へ戻って歌詞を書いてフエントン楽長に渡しすぐ演奏した。これが世上物議をかもしている「君が代」の起源である。
歴史を怜悧な目で読みとるならば、およそこんなものでる。
「君が代」が天皇賛歌でケシカランと言うならこうした裏面史を公開したうえで論議し、「我らが世」と変えるもよし、国民合意の上で新国歌を作るのも一方法である。
以前、石橋文相は「君が代の君は国民全部を意味している」との認識を示したし、昭和59年の衆議院内閣委員会で森善郎文相は「現行憲法下では、日本国民統合の象徴である天皇を持つ日本の国が永遠に
平和であってほしいと言う歌と、国民も理解していると思う」と誠に苦しい答弁をしている。
一国の大臣がこんな寝ぼけたことしか答えられないのも、歴史を知らないからである。日本という国は暖流や寒流に乗って、アラブ、インド、ベトナム、中国系やモンゴル系、
さらに白系ロシアや南鮮、北鮮系と島国ゆえ沢山の民族がこの列島へやってきているのである。
大和民族単一説を広めたのは、対外戦争に国民を一致団結させるため、明治昭和の軍部が流したプロパガンダにすぎない。
日本は今やバブル崩壊後、長い不況のトンネルから抜け出せず、21世紀に入っても新しい国の形を見いだせないでいる。
おまけに少子高齢化解消は喫緊の問題なのに、国の方針定まらず、危険な方向にまっしぐらである。
国民は間違った歴史観のせいで、何を信じ、何を拠り所にしてよいのか解らぬ迷える子羊の群である。結局、金や物しか信じられぬ拝金主義者となり、精神は荒廃している。
国を愛し、国を憂うるならば自国の正しい史観ほど大切なものはない。正しい史観のもとに国民が一致団結して、同じ方向を向いた時初めて、この激浪を乗り切れると思うのだが。

                            


徳川家康は「サンカ」出身 葵紋はサンカの象徴 旭日旗は世界を照らす

2020-04-22 16:52:26 | 新日本意外史 古代から現代まで


徳川家康は「サンカ」出身
葵紋はサンカの象徴
何故、春日局は家康の子を産んだのか
旭日旗は世界を照らす

徳川家の家紋は葵ということは誰でも知っている。
この葵という植物は、葉が絡みあっていて、サンカ言葉ではセケ葉とか、セケンツナガリともいう。
 どうも独断みたいだが、「アオイの葉」が全国サンカの目標だったとみれば、作りものにすぎぬテレビの「水戸黄門漫遊記」でも毎回きまって、
フラメンコギター(趣味のフラメンコギターが玄人はだし)の為の爪まできって、ぐっと差し出す助さん役の俳優、伊吹吾郎の印籠に、全国のイツキサンカ(居付き、五木)は胸を躍らせて視聴率をあげているのではあるまいか。
 「紋章学」の本などでは「アオイの紋所は、将軍家特有のものゆえ、一般には使われずである」とでているが、隠れサンカが殆んどこの葵紋だとなると、
まさか、それを見え見えの紋付きにつけて着たり、幕に染めぬく者もない。国中に多くはある筈だけれど、唯、人目にはつかぬだけの話である。
 「初代市川団十郎物語」というテレビで、万治三年(一六六〇)に生まれ宝永元年(一七〇四)に殺された生涯が放映された。
これもフィクションゆえとやかく言うべきプロットではないが、その親が「町奴」で「唐犬の権兵衛」が世話して役者になるという筋立で旗本奴との衝突もする。
 幡随院の長兵衛が水野十郎左衛門の風呂場で槍で突き殺される芝居が、講談でも映画でも広まっているから、それに合わせて説得性があるだろうとの脚本によるものだろう。
(注)水野十郎佐衛門は備後福山城主水野勝成の孫にあたる。勝成がその働きを認められて家康から、明智光秀遺愛の朱槍を「汝も光秀にあやかれよ・・・・」と渡された。
  十郎左衛門が幡随院長兵衛を殺した事は全くお咎め無しだったが、突き殺した槍が問題になったのである。槍は祖父から受け継いだ、家康遺愛のものである。
  「恐れ多くも権現様より拝領の槍で、寺奴風情を殺すとは不敬である」ということになって「切腹」を命じられたのが真相。 
だが、江戸初期の有り方を、まったく誰も書いていないし、活字で残っているのは講談速記本の類しかないのが現状。
しかもそれを下敷にした「町奴と旗本奴」といった本しか大正時代になっても出ていないのである。
 
判りやすく話を遡らせてみる。普通の仏教という墨染衣僧が中国から伝来させ建国統一前の日本列島の原住民の武器は、鋭く磨いた貝や青銅が主だった。
当時文化度が高い中国では頑丈な鉄武器が普及していた。
だから原住民である、大和の豪族たちは、鉄器や鉄剣欲しさに歓心をかおうとして輸入を求め、本心は隠して上辺を取り繕って仏教を信じたふりをした。
仏教は「西方に極楽浄土」とするもので、中国勢力は宣教することによって接取したがったか、当時日本列島に居付きして暮していた原住民のうち、
裏日本系は騎馬系で白山信仰。表日本の黒潮渡来系は祇信仰で誰も改宗しない。そこで大和を平定して原住民を東へ追い払った権力は彼らをも宣撫しようと、
「東方にも瑠璃光如来とよぶ有難い御仏がある」と、彼らにも信じやすい仏像を持込み、各地に、拠点寺を『国分寺』として設置し、信者には薬草を与えて医者の真似をボッズ共にさせた。
そのため、「東光寺」とよばれる原住民宣撫用の寺には、どこも「医王山」と上につける。
明治になる迄は、医者や薬屋が限定職の賤業として厳しく取締られていたのは、この時からの定めなのである。
さて家康も、せっかく収入の安定していた駿河、遠江、三河の三ケ国を小田原攻めが済んだ途端にもう遠慮する勢力が無くなったので、秀吉に取られてしまった。
その代わり、当時は未開地にひとしい関東八ヶ国を代りにもたされる事となった。
 初めて江戸入りした家康が「人心を慰撫するため訪れたのも、東光寺であった」とは、当時の近習にょって書かれた日誌にもででいる。
しかし家康や信長は反仏派だったゆえ実際には、「仏寺の新築」などはする必要もなく、江戸の町には当時は一つも作らせなかったのである。
処が、信長殺しを丹波目付斎藤内蔵介に頼んで命からがら堺へ逃げた家康は、その時に、よくよくの事だったろうが、
 「もし徳川の家が残これば、おことの血脈をもってあてる」とまで固く約束をしているのである。その証拠に、
 安土城より暇乞いして天正十年五月二十七日より京へきていた家康一行は、一日おいて二十日夕刻に本能寺へ信長主従30騎が入洛すると、従来なら信長に直ちに訪れて挨拶すべきなのに、
周章狼狽して斉藤内蔵介屋敷を訪れて後事を託し堺へそのまま逃げたのである。
だが、堺政所の松井友閖に船をみな押えられていたので海路脱出は失敗した。翌30日にカブト越えで伊賀を抜け白子浦へでた。
そのため本能寺が襲撃された6月1日には、ようやく船の上だった。
 さて六月二日にはやっと自国の三河へたどり着き、酒井忠次に西三河衆とは呼ぶが、浜松城直属の親衛隊で駿河者や渥美衆の部隊を、内蔵介へ味方させるため進発させた。
しかし、尾張津島まで到着したとき、内蔵介が敗死したと伝わってきて家康はやむなく撤兵した。
その後、家康が天下を取り、伏見城に入ると、斉藤内蔵介の末娘の阿福が、稲葉佐渡守の妻となって既に四人の子持ちだったのを探し求めると、
夫には五千石の手切れを払ってまでして彼女を伏見城に迎えた。於福(後の春日局)に己の種を仕込むためである。
川越の喜多院に今も残る「家光生誕の問」とよぶ居室が、(江戸城よりと説明されているものの)京間で、畳の寸法が上方寸法なのは、伏見城から運ばせて移築したゆえである。
       家光の母は「春日局」
さて家康は阿福のうんだ児を己れの種と思いこんだ。これは男なら当然のことである。
 当時は血液鑑定などなかったから仕方もないが、伜の秀忠へ、家光20歳とならば将軍職を譲れと遺言した。
明治になって千代田城三の丸の、今の国会図書館なみの「紅葉山文庫」が反古同然に襖下張り用と払い下げられる世となった。その散逸をおそれ[国書刊行会]ができた。
 明治40年代から次々と活字本として、非売品として刊行された一冊の中に「松のさかえ」なるのがある。
家康の遺言の形式みたいになっているが、その中に、はっきりと、
   国 松 (駿河大納言 忠長) 御腹 江与の方。(織田信長の血脈)
   竹干代 (のち三代将軍家光) 御腹 春日局。 (足利蜷川の血脈)と明白に書かれている。
これを見ると、竹千代(家光)の母は春日局で、父親の名は明白にされていない。
国松(忠長)の母は、二代将軍秀忠の正室(御台所)である江与の方だから、血筋としては正統なのであるが何故か三代将軍になれず、後年大納言を剥奪され、
「素行悪きをもって・・・・・」と安藤家へお預けとなり、自殺している。
だから徳川家は家康、秀忠まではれっきとした日本原住民系「サンカ」の血筋だったが゛、三代家光以降は大陸の血が混じり、混沌の徳川史となって今に至っている。
春日局とは女性としては最高の位で従三位の官位をもつ小御所まで入れる身分の女人のことで、足利将軍家では、代々にわたって15人の春日局がいた。
将軍直接では言い憎い上奏を代ってさせる為の者の称号なのである。
家康が将軍職についたのは慶長八年二月十二日のことゆえ、阿福が徳川家第一人目の春日局に任官したのは、その何日か恐らく後のことであろう。
 「大師は弘法にうばわれ、局は春日でおわる」と言われるのは、次の秀忠が将軍職になっても、まだ阿福の春日局が活躍して、秀忠の娘を「女御」として入内させたり、
和子が入内して23歳の時にうみ奉った一宮姫が七歳になられた寛永六年には、ときの後水尾帝に退位して頂き、
 「人皇百九代の明正女帝」に即位と一切を仕切っていたので、己が春日局をたてる訳けにはゆかず、家光の子らが第四代、第五代となったし、御所よりは節刀を頂き勅命を拝する儀式も、
四代家綱から、もはやしなくなったので、「春日局」の号は阿福をもって最後となってしまったのである。
 さて於福は、京五山と結びつき銀本位貨幣制度を足利時代から司ってきた蜷川家の血筋である。
そして、秀忠が寛永九年正月に亡くなると、於福は江戸湯島に遠慮なくまっ先に寺をたてた。さて
(徳川家は家康、秀忠まではバリバリの神信心だった。しかし三代将軍家光は春日局と天海僧正の種なのである。ここから徳川家は仏教の血筋に変わり、混迷の徳川史観が始まる。)
寺のガードマンも奴隷だった
こうなると京阪紀伊の仏教各宗本山は新興都市江戸への、進出をしたくて、それぞれ狙うようになった。
 しかし反仏教の者らが、ひしめく江戸の町々である。原住民に襲われる用心をせねばならなかった。
 山の頂上にでも建てればよいが、「府内」とよばれる江戸市内では、小さな山はあっても削られて埋めたてに使われていてとても地の利をえた安全な敷地など見つけようもなかった。
 やむなく町中の到る処に寺をたてた。だが不用心にすぎる。仏つくって魂入れずと言うが、寺を建てても坊主だけでは物騒である。そこで扶持離れした牢人とか、
腕っぷしの強いのを「寺男」としてガードマンにすることにした。だが江戸は、埋めたてが盛んで土木工事に賑わっているから、屈強な男は府内ではあまり雇えぬからして、
各寺では限定地の奴隷百姓をつれてきた。
これを「寺奴」とよんだが、ヤッコでも寺の使用人ともなれば、寺発行の通行手形が入手できる。
 そこで限定の者を次々とよびよせて、斡旋ブローカーみたいな私設職業安定所のような口入れ屋を始めた。
しかし寺奴とは違い臨時雇いが多いので、仕事のない時には三々伍々つれだって飯をくえる処はないかと、町のあちらこちらを、ほっつき廻って歩いていた。
「町奴」の名称は。これからついたのである。つまり「幡随院」という寺にゆかりのあるのが、「幡随院の長兵衛」と名のったり、「小仏の五平」といった名の由来もそこからでている。
日本史では「奴隷」の名称を使ったのは、阿部弘蔵の『日本奴隷史事典』が嚆矢で、それに対して官学の滝川政治郎法学博士が「日本奴隷経済史」をだし、吾国の奴隷制を初めて認めた。
だが、奴隷人口は全人口の僅かに5%だったと事実をまったく逆にしての発表をした。しかしそれまで一般には、
「ヤッコさんは辛いね」の小唄のごとく用い、賤業の女も、ただヤッコとか、奴女郎と言われていた。
 だから奴隷が逃亡してもすぐ発見して捕えやすいように、ゴバン割りの区画にして奴隷たちの限定居住に明治までされていたのが実態だった。
今でも豆腐を賽の目に切って出す冷めたいのを「冷やヤッコ」というのはここからきているのである。
そして今でも日常に使われている「困ったヤツ」とか「厭やなヤツ」とか略して、「ヤツ」だけでも、奴つまり奴隷のことをさす。
「海洋渡来居付き民族」はアカサタナハマヤの八母音の発音を今の名古屋弁みたいに、アラブ式に使うから「八つ」とこの日本ではいうのである。「ヤツ」の意からもきているのである。
 「汚れ多し」の仏教語の、忌み嫌われる言葉を当てはめてエタとも被差別されてきたが、この文字こそ神話時代のそんなに古いことではなく、
六世紀七世紀の建国時期に統一の妨げとなる、「天の王朝」系の、額田のオオキミと同じではないかとみられる投影的な存在なのである。
大陸勢力が原住民を滅し去った掃討作戦の結果を、ことさらに糊塗せん為の、偽装の仕事だったと認められる。その理由は、
 「イザナギ、イザナミの男柱女柱が、天ノ浮橋ニテ互イニ見染メタマイテ近カヨラレテ『エナ男ヤ』『エナ女ヤ』と、互いに両性の結合を意識なされて立った儘にてマグワラレたまい、
その時に下へたれしたたった雫にて、秋津島、大八州島と海上に日本列島の土地形成はされた」
 とするのが、神話の中での日本列島が出来た時の秘話とされてきているが、この際に使用の、
 「エな」が、グッド、良、可の意味であって、今でも出産の際に胎児についで排泄される胎盤を、殆んどの日本人が祝う意味から、サンカ用語でも同じく[エナ]と袮し「胞衣」とあてる。
 そのエナのエをつけるのは征服宗教仏教が、嫌味なケガレ多しの当て宇からして視覚反応で不快感さえもたされたにしても、決して彼らの描いた図面通りに踊らされてはいけないのである。
江戸期、本居宣長が、「古事記伝」を書いた時の下地にしたと思われる「骨事記」や、それより古いらしい「乞食」には、
 「紅がら塗りの柱たよりに彷徨の、飢えし隠忍は江津多やあらめ」の一句が残されている。
この「紅がら塗りの柱」のあるのは「祗」とか「宮」とよばれる七福神系の拝み堂なのである。
 「隠忍」は、仏教が宣撫用にもちこんできた脅しの地獄図絵の、虎皮褌に鉄棒をもつ赤鬼や青鬼の類ではない。
虐げられた日本原住民が隠れ忍んでセブをはり、危うくなれば疾走(のり)で姿をくらまし、辛うじて生きのび、「鬼は外……」と、一掴みの豆を外へ放られると、
こそこそと拾って食し、逃げ隠れするのが隠忍なのててててである。
 日本にいもしない虎の皮や、鉄が採鉱されぬ国に鉄棒などある訳もないし、角をはやして強いのがオニならば、飢えはて彷徨する筈などはない。
隠忍だからこそ桃太郎ごときに攻めこまれても降参して、取っておきの干魚やアワの宝物までを、みな奪われる破目になってしまう。これが桃太郎伝説の実態なのである。
 「江津多」は、グッドの良き民が黒潮の流れっく「津」のある地方には「多く住みつく」の意味である。
 「越」は「エツ」なのに裏日本の越前越中越後とされ、わざわざ「コシ」の国とし、「古志」と当て宇までされるゆえに、こんがらがって、判らなくされてしまう。
もともとは今の佐渡が「夷島」と呼ばれ、そして新潟が幕末までは「白山島」と呼ばれていたくらいに、沿海州や満州、北朝鮮からベーリング寒流の親潮で、
能登半島や夷の新潟へと突入するごとく流されてきた騎馬民族系である。
 処が大和に建国されて、初めは京阪から九州を統一しだした体制は、裏日本の源氏となる白旗を目印にするのは後の源氏である。
彼らは遊牧民族で農耕や漁業といった食糧の生産業務をしないから「穀潰」しだとして、「守戸」「森戸」と前述したように、抑えて降参したのは陵の番人にした。
だが逃げ廻る者たちは、東北へと順次に追い落しにした。処が、逆に近江の「八」のへ逃げたものもいる。
後に「近江源氏」とよばれる佐々木四郎の白旗が奇蹟的に残っていて、彼らは「蜂起」の文字旗を立てて戦った。だからこの「ホウキ」とは「「ハチ起し」つまり、
山の中の蜂が、巣を叩かれた時のように一斉にブンブンと飛び出す有様で、この「烽火」を「ノロシ」ともよぶ。
サンカ用語の「焔待ち」のホマチと同じである。と言う事は、白の者が赤のハチを旗印にするのゆえ、はっきり言えば俗に近江源氏とされるのはトケコミサンカなのである。

だから北条政子の源氏潰しに梶原、和田、三浦と次々やられても、免れた訳けでもある。尼子氏の家臣だった、
山中鹿之助らサンカ十勇士が=ツキサシ(突撃)して上月城たてこもり相互扶助しつ戦って玉砕したのもうなづける。
 さて建国統一のため、裏日本騎馬民族系を追払ってしまった後、今度は温暖な表日本が狙われた。
 そこで静岡、愛知、三重の黒潮で漂着して住みついた者らは、三河の額田郡のオオキミが近江の野洲川での決戦で敗れた後は、堰を切った奔流みたいな官兵の掠奪暴行をうけ、
牧童が牛の群れを追いこむように、雪深かい裏日本へと縄うたれ、鞭で叩かれつつ集団移住をさせられた。
八紘一宇の「旭日旗」の由来
 もちろん官兵の目を逃がれ山へ匿れた者もいるし、降雪同mといった山中へ秘かに逃げこんだ者もいる。海の民が気候のよい住み慣れた太平洋沿岸から、
山国や凍てつく北国へ追いこまれては悲惨だった。この怨念の吹き溜りが身にしみたことだろう。
現代でも、海のない山間部に住む民でも、魚好きが多く、魚にひかれるのが日本人の特異性と言われるが、なんの事はない、それには深い意味がある。
日本が建国された七世紀から、順次に海の民が山へ追われ、匿れ住んでいた先祖からの血の流れで求めたのである。
本当は「理休」なのに「千ノ利休」とも誤られる茶湯者も、生家は足利時代からの塩魚屋だったのが本当で、
 「せめて正月ぐらいは大きな魚を……」といった山の民の願望が、世界に類のない「アラビキ」とか「新巻鮭」となって宅急便として運ばれるし、
乾鰯とか煮干し、イリコが日本製ポタージュの味噌汁のダシに使われる。
前にものべたが今では「八紘一宇」と難しい字を当てて惑わされるが、昔は、「八光」だったのは同違いなく確かである。
神武さまが高千穂峯へ天孫降臨したとの仮説歴史の、更に昔にさかのぼる神話歴史で、天照大神さまは神武さまの御先祖さまなりと、雲のまた上の雲の存在のごとくされてしまっている。
だが、実際は建国統一時の七世紀の御方さまなのである。
 だからこそ、「八紘」が、太陽が世界を照らす光として「旭日旗」となったのである。かつて帝国海軍として「水ずく屍」となって日本を守るために潔よくみな散っていった。
それは、八の民が祖先から住みついた国土を守る為であった。
 運動会に張りめぐらす幕でも紅白とはいえ、交互は同じでも天地に赤は一反ずつ余分についている。その意味は、豊葦原を大切にする、白の騎馬民族より、
赤の八の黒潮渡来民族の方が先に住み着いて、この日本列島を開拓し、米を植え付けミズホ(瑞穂)の国にしたからなのである。
「親の光りは七光り」というが、それより上の「八光り」が、この日本を作ったのである。
今も海上自衛隊の軍艦旗が、八光の倍の十六光なのは、こうした日本海洋渡来民族の深い意味があるのである。
韓国や中国が旭日旗に文句をつけても、日本人は大いに誇りをもって堂々と掲げるべきである。
 北海道のアイヌ達は昔、内地からくる舟乗り連中を、彼らが七福神信仰ゆえ、「べんてん衆」と呼んだ。
新泉社刊行モンプチのアイヌ民謡集の本にも、何箇所にもでてくる呼称なのである。
 江戸時代に北海道の松前へ渡っていって、昆布や鮭や獣皮を集めていたのは、函館に銅像が立っている高田屋嘉兵衛だが、
それより以前は、越前加賀の銭屋五兵衛の五百石船である。となるとサンカは「セブ」をはる山の民だけに限るような見解は直すべきである。
海洋サンカは荒波を集団で乗り切って働いていたのである。
そして、日本国旗の「日の丸」についても、これには前述したように、日本民族の二大区分をなす、海洋民族と騎馬系民族の連携という意味がある。
次回に「日の丸と君が代の由来」を掲載予定です。



驚愕!!「コピペ」が横行する裁判所 判例ソフトに頼る裁判官 年間7500万円の予算

2020-04-15 16:08:06 | 新日本意外史 古代から現代まで


驚愕!!「コピペ」が横行する裁判所
判例ソフトに頼る裁判官 年間7500万円の予算

前回に引き続き「裁判官も人である」の内容の紹介です。
(92ページ、93ページからの引用です)

「コピペ判決」が横行する
 もともと正解指向が強く、順調に受験競争に勝ち抜いてきた「優等生」たちは、時間とエネルギーをかけて判決を書いても、最高裁によって偏向していると受け取られると、怪我をしかねない。
それより過去の判例を機械的に受け人れ、それに則って判決を起案しておけば無難なうえ、裁判所での名誉ある地位を得やすいことを知っている。
 最高裁事務総局に勤務経験のある元裁判官は、ため息交じりにこう語った。
 「若手、中堅を問わず少ながらぬ裁判官は、裁判を重大と感じる度合いが薄れていて、判決の理論構成も水準が落ちている。もっと時間をかけ、
深みのあるものに仕上げてもらいたいと思うことがしばしばです」
 
本来、判決文は、裁判官が「記録をよく読み、よく考え、証拠に照らして的確な判断を下さなければ書けない」ものだ。
それを「普通の事務」のように処理することを可能にしてしるのが判例検索ソフトである。
 最高裁は、「判例秘書」や「知財高裁用 判例秘書」など各種ソフトを年間約7500万円かげて購入している(2016年度予算額)。
このうち、「判例秘書」は、ほとんどの裁判官が活用していて、自身の抱えている訴訟と類似する過去の事件でどのような判例があるかを検索しては、判決起案の参考にしている。
 「参照するだけならまだしも、なかには似た事案の判例を見つけると、やっとこれで判決が書けると顔をほころばせ、そのままコピペしている裁判官もいる」
 こう語るのは、首都圏の大規模裁判所に勤務するベテラン裁判官だ。
 「そういう嘆かわしい実態を最高裁も分かっているはずです。なのに、『判例秘書』の運営会社から、情報提供の要請があれば便宜をぽかり、かなり迅速に対応している。
もはや、『判例秘書』は裁判官にとって無くてはならない『起案バイブル』なので、その手当ては怠れないということなのでしょう」
 『判例秘書』の運営会社「(株)エルーアイーシ?」のホームページには、「コンテンツ提供団体」として「最高裁判所図書館」が記載されているほどだ。
 しかし事件にはそれぞれ個別の事情があり、関係者の思いや関与の度合いもまちまちだ。いったい、どのように「コピペ」すれば、判決か書けるのか。
 「『コピペ裁判官』の特徴は、訴訟で争われている事実関係はどうでもよく、執行猶予にするか実刑にするか、原告の請求を認めるか認めないかにしか関心がない。
だから、論理の組み立ては、過去の判例をそのまま借用し、結論部分に有罪か、執行猶予加を書けばいいだけです」
(元裁判官)
これもまた驚きを通り越し、呆れて怒りがわいてくる。こんな連中に国民は生活、希望、運命の全てを託しているである。
先日もテレビで婦女暴行罪で無理やりパクリ、自白の強要で犯人に仕立てた事件を放映していた。(ここでは便宜上被告を仮名で「山田さんとする」)
警察は犯人をあげて面目を保ちたいから無理やりパクった(警察署長が自分の管内で連続犯罪を解決できなければ、上から叱責され出世に響く)。
そして警察の筋書き通り、強引に自白させたので無理筋が多く、調書は可笑しなところ満載。

しかし、検事はこんな杜撰な警察調書をろくに検証もせずそのまま起訴した(検事の職務放棄に等しい)。
国選弁護士も全くやる気のない酷い奴で、山田さんが無罪だと主張しているのに、被害者の女に、山田さんに無断で、慰謝料を払って、ただひたすら減刑狙いで頼りにならない。
裁判官と来た日には、流れ作業で「ホイッ、一丁上がり」とばかり、懲役三年の実刑を下す。
その後、真犯人が捕まり、(十件以上もの婦女暴行を繰り返していた極悪人)山田さんは無罪となる。
しかし、警察も検察もしぶしぶ形通りの謝罪で、誰も責任を取らない。この後、この事件は全国的に有名になったため、山田さんは120人もの弁護団が付き「国家賠償法」に則りで1億円の請求をする。
同時に過酷な取り調べをした県警の警部補、地検の検事、裁判官を訴えるが、賠償金は五分の一の2000万円しか出ない。
警部補、検事、裁判官は全くの御咎めなしで、彼らは「めでたし、めでたし」で終わる。
山田さんは人生も人格も破壊され、現在は傷心の身を地方都市で逼塞している。
これが日本司法の実態なのである。全く、どいつもこいつも血も涙もない豪奢淫蕩の暮らしを貪る、悪質極まりない人間どもである。ここには血も涙はおろか正義も、真実も無い。
罪なき庶民が縋り付く最後の希望の裁判所の実態がこれであるなら極論だが「裁判官不要」でAIにさせるしかない。
私は常々「21世紀は、士の付く職業は不要」と言っている。それは看護師、調理師など、腕と特殊技術をもった職業は別だが、
会計士、税理士、弁理士、司法書士、行政書士などである。はっきり言ってこれらの職業のノウハウは1メガバイトのCDにすべ収まってしまう。
庶民は何かの事案が発生した際、その内容をAIに問えば、数秒でその方法と答えが出てきて、書類に印刷され一件落着となる。
彼らは現行制度に安住して、庶民から高額な料金を盗っているが、この制度はいずれ導入され、彼らは職を失う羽目になるだろう。
さて、以下が私の提案である。
 そのヒントは躍進が止まらない中国にあった。中でも成長著しい深センは、1980年に30万人だった人口が、1400万人へと一気に激増。世界的企業がいくつも誕生している。
国内では地方格差という問題も起きているが、急成長のスピードは止まる気配はない。
そしていま中国では新しい産業が登場し、急成長している。一例は、個人向けモバイル決済サービスをはじめとするフィンテックだ。
 スマホやタブレットPCによるモバイル決済サービスの利用者は、eコマース最大手アリババ傘下の金融会社アント・フィナンシャルの「アリペイ(支付宝)」が約5億人、
テンセントの「ウィーチャットペイ(微信支付)」が約9億人に達している。
 利用者は重複しているが、それを勘案しても中国人の大半は両方、もしくはいずれかのモバイル決済サービスを使っているわけだ。その結果、
決済だけでなく貯金や資産運用などの金融サービスも両社が手中に収め、従来の銀行がほとんど“無用の長物”と化してしまった。
 たとえば、アント・フィナンシャルが運用している4%を超える高金利のMMF(マネー・マネジメント・ファンド)「余額宝」の管理資産規模は、
『ウォール・ストリート・ジャーナル』によると、わずか4年で23兆3000億円に膨れ上がり、世界一になったという。その額は、2位のJPモルガン・アセット・マネジメントが運用するMMFの2倍以上だ。
 さらにアント・フィナンシャルは、小規模企業や個人事業主への融資を一瞬で行っている。「3・1・0」というシステムで、スマホのアプリから融資を申し込むと即座にコンピューターが可否を判断し、
数分以内に送金される。
 融資申請の記入に必要な時間が「3」分、可否を判断する時間が「1」秒、そして審査に携わる人間は「0」人。
つまり、融資対象の取引状況や経営状況などの情報を蓄積したビッグデータに基づいて信用度を評価し、AIによる審査だけで判断を下しているのだ。
融資申請で未だに何枚もの書類にサインして実印を捺さねばならない上、審査に何日もかかる日本の銀行とは月とスッポンである。
日本の銀行はいまだに「担保至上主義」だから、銀行の実力が試される「与信能力」が世界一遅れている。
この中国銀行の制度は大変参考になる。
日本の裁判官はCDからコピペしているぐらいだから、より高度化したAIシステムを作って「判例至上主義」でやればよい。
彼らは、わからないときは、先輩裁判長のと言うとおりにするという教育を受け、判例があれば何も考えずにそれに従っておけという。
さらに検察官の主張に従っておけば間違いないという教育が公然と行われている。
だらだらと長引く現行の制度より、この方法のほうが、何年も裁判を繰り返す裁判より、被告の苦しみと疲弊は大幅に軽減され、冤罪率も激減できる。
大体、一審で無罪が二審で有罪、最高裁でやっと「無罪確定」などという歪んだ裁判は馬鹿げている。
勿論このデータには「間違った判例」の入力は絶対避ける。キーワードは「正義」「真実」「公正」「人間的判断」「高度な洞察力」「証拠の証明力」「独善」「傲慢」「憲法理念」
「論理的組み立て」などで、これ以外の如何なる評価もAIが形式的な合法主義、形式的公式主義、として排除する。
日弁連の「再審支援第一号」となった「徳島ラジオ商事件」などは、捜査機関ではなく裁判所によって作り出された冤罪だという。
検察によって誘導され、重要証拠を排斥し、そしてその検察に裁判所が協力したのだから、被告はたまったものではなく、全く救われない。
これが「裁判官弁明せず」と傲慢にふんぞり返っているこの連中を許すことはできない怒れる私の提案である。


戦国の異色大名 山岡道阿弥(景友)

2020-04-08 17:09:06 | 新日本意外史 古代から現代まで

戦国の異色大名 山岡道阿弥(景友)

この一族は山岡景佐、山岡景隆、山岡景友、山岡景猶、山岡景以、山岡景之、と多く、信長から秀吉に仕え、最後は徳川家康に仕え、
幕府の役職である甲賀組の元締めとなっている。
山岡の、この名前が道阿弥というが「あみ」がついているということが大切で、この「あみ」から考えてみたい。

まず、戦国時代の前政権は足利幕府である。この足利幕府というのは、大陸の明国の影響を強く受けていたことを理解しなければならない。
この「明代理政権ともいうべき足利時代」に、反体制の日本原住民たちは、反仏教徒とされていた。
この時代も大陸系の人間は「良」とし、素直に仏教を信じず、抵抗する原住民を「賤」として差別していた。
そして彼らを同朋衆、「同朋(同胞)なみ」のセミの準人間に昇格させる条件として頭を丸め僧休にさせ、ナンマイダを百万遍唱えて仏に仕える条件つきで室町幕府が許可したものだが、
謀反をされてはと用心して茶湯、活花、謡曲などの非武装職に限っていた。
山岡道阿弥家のごとく足利時代に近江半国の守護代となったのは極めて異例で、その一族が京御所を監視する、信長の安土街道見張り役の、
瀬田の城主ともなって室町幕府の危惧し用心した通りに結果は命取りの存在となった。
しかし山岡一族はとてもただのアミ系ではなくて、尋常一様ではない処の普通の素状ではない事になる。
 今でこそ弾圧逃れに一心無私と称しても戦国時代の「下剋上」の世では、それまでの圧迫をはね返して、サンカ部族の天下取りが企てられていたとみねば、山岡道阿弥の謎はとけない。
(注) サンカとは、日本純粋原住民で、大陸や半島人の混血を嫌い、独自の文化を持ち、時の政権の追及を逃れて暮らしていた。
   彼らは、文字を持たず、同族同士の結婚で純潔を保った。彼らの頭目は「おおもとさま」といい、その下に地方の頭として「あやたちさま」が居た。
サンカのテーゼは、原始共産主義ともいうべき「統治されず、統治せず、相互扶助」だった。
そして、野山、河畔で「ゆさばり(地面にテントのような布制の住居)」で家族単位で暮らしていた。
もちろん、村や町にひっそりと暮らしていた者も多く、これらを「とけこみ」という。
彼らは生活の為様々な仕事はしたが、主に竹製の蓑(精米に使う、もみ取り用の大きなザル)を作り、百姓に売って銭に代えていた。
戦国期になると、大陸系に虐げられ、差別されていたサンカ族が主に関西以東で隆起し、時の守護大名を追い払い、国取りを成し遂げた。
有名なサンカ大名には加賀の前田家や上杉景虎や伊豆の北条らがいる。

 
そもそも近江の国は野洲川に、神話では天の王朝だが、実際は建国統一の六世紀七世紀まで、現在愛知県の三河額田群のオオキミが今では八ッとよばれる黒潮渡来部族を伴って、
中ツ国いまの、中国地方より攻めてくる鉄剣部族と、帆立貝殻を石で砠いだ貝剣で防ぎ戦っていた遺跡がある。
 後に、ここの八田別所の信秀が尾張へ出て織田家に仕え、織田姓を賜姓されて名のり、伜の信長がやがで、この近江のビワ湖畔に安土城を建てるのは後の話だが、神話で隠しこんでしまっている、ややこしい国である。

 故菊池山哉が労作「蝦夷と天の王朝」を残しているが、彼も日本書紀と古事記伝を頭ごなしに信じてしまい、カミがかりの大昔の神話とし、片っ端から何々のカミと封じこめてしまっている。
けれど七世紀の建国統一の祭に、原住民は邪魔になるゆえ消すため「神話の世界」へ封じこめたものと理解して読んでゆけば、隠されているベールがとれてきて、
引用文献も西暦九世紀の勧学院派の著述と判る。
 さて近江のあと半田の守護職六角承禎は、講談では「カメ割り柴田勝家」にかかって道化役にされているが、「日本の特殊」の本によれば、
とんでもない話で、この六角氏とは、足利体制の政治警察の長官で、
「売僧千人ヲ手足ノゴトク各地四方へ散ラセテ、ソノ情報ヲ集メシム」とでているように、仏教側の足利体制の半国でも守護職ゆえ、諜者をみな僧侶の恰好にさせ、雲水に仕立てたり、菰
で身を包む乞食のコモ僧に化けさせては、諸国の情勢を探らせて足利将軍家に報告していた。
 近江一国を半々に分けて、六角と山岡を守護職につけていたのは、明国代理政権足利ゆえ、「夷をもって夷を制する」の中華方式だった……ということが判る。
ということは、千名の諜報団を動かし徳川初期の柳生但馬守のような働きをなしていた六角承禎に匹敵するだけの、実力の持主と山岡道阿弥はなる。
が、近江瀬田城主山岡景之の四男として始めは、三井寺の光浄院の門跡をついでいたのだが、足利15代将軍義昭が備後の人見山へ逃げるとき秘かに呼びよせて、彼を還俗させて、
 「山城半田の守護職に任命する。よって近江半国守護職の父景之と共に、必らず力を合せて京を取り返してくれよ」と、縋りつかんばかり頼んだという。
そこで彼は「山岡八郎右衛門景友」と名のって、信長は認めなかったが山城半国を自分の所領としてしまい信長へ宣戦布告した。
 しかし足利義昭の旧臣だった明智光秀が、討伐軍とし攻めてきたので矢合わせだけでこの時は和平した。
 信長に降参したが、彼の働きとしては、安土築城の大工頭岡部又左に手伝ったくらいで目だつ事はしなかった。しかし、
秀吉の代になると『お咄衆』の政治顧問役を二万石で勤めた。
処が秀吉が死に、家康が伏見城に入るや否や、その家来でも与騎でもないのに、道阿弥は伏見城の裏に、万が一にも攻撃された際に家康が逃げ込めるように、
大曲輪を独力で造営した。これには近江膳所城主の次兄山岡景佐も協力した。
なにしろ祖父山岡景就の代から「甲賀24家」は山岡家随身だったから、いわゆる甲賀者が、手足となって働いていたから勢力があったとされているが、
クコの殼を撒いて敵を脅かすのは戦場での働きだけだが、普段は情報集めやスパイ働きもしたのだろう。だがサンカ食糧たるや、
 「ヒエ、アワ、トチ、ソバ、ムギ、クリ、マメ、イモ」が主食であったことから考えれば、垣根に使うぐらいのクコの分量では、とても殼を俵につめて運べる程ではない。
彼らは食料としていたからこそ、殼が山程あったのではあるまいか。となると丹波綾部に「サンカ」の地名が、戦前まであったスミトモとも呼ばれたオオトモのアヤタチさまの居付き地帯とも繋ってくる。
 上州の新田が、トケコミで世良田、徳川の地名を現代まで残しているゆえ、大御所家康の出身にも結びついてくる。
(鹿島昇説では、家康はサンカ葵族、秀吉は木の陰族。)
つまり道阿弥も、世良田の家康と同じ慶長サンカだったと判断できる。
 騎馬民族の民族色は白の源氏は、北条政子やその一族に担がれたただけで散々に利用されて棄て殺しにされている。
一方、海洋渡来民族の赤の平氏は、熊野浦から集団上陸して天下をとり、福原に港をつくり、平安時代が続いた。平の 平忠盛、 平清盛、 平時忠、 平重盛 などは有名だが、
その他何万人といたはずの者たちの名は伝わっておらず、全てひっくるめて「平家一門」だけしか姓も伝わらぬ西南系兵団の力を使ったのはよいが、
彼らがもちこんできたマラリヤにかかって清盛は感染死する。しかし
義経を使って源氏を一掃させた北条政子は、紀元前三世紀から日本へ住みつき「天の王朝」と神話にされ七世紀には封じこめの古平氏を復興させての北条時代を築いた。
契丹系の梅鉢サンカは、天慶の乱とされる敗戦から663年目にようやくにして、家康と秀忠の二代きりで消えはするものの、
初めて天下をとり日本全国を平定させた。家康四天王とか家康神将十六人衆というのも、家康を盛り立てて戦ったが、これら全てもサンカなのである。
(注)有名な太田道灌の「ミノ一つだに無きぞ悲しき」の歌から見える、サンカの実態は、以前にUPしてある。
 「太田道灌と江戸城、箕のひとつだに、出せばよろしく」を参照していただきたい。