新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

最終回になりましたが、一部から良く読んで、はてしなき不毛の人間関係はその人の持って生まれた姓に深く関係するものです、貴方の姓を調べて実生活におおいに役立てて貰えれば幸いです。

2019-07-07 10:12:44 | 新日本意外史 古代から現代まで

最終回になりましたが、一部から良く読んで、はてしなき不毛の人間関係はその人の持って生まれた姓に深く関係するものです、貴方の姓を調べて実生活におおいに役立てて貰えれば幸いです。

 

 〝姓〟を無視した人間関係は失敗する                  

  ─あなたを左右する不思議をとらえる

 姓に秘められた意外な事実の謎
 もしもの仮定ですがあなたがこの方則を、無視すればどうなるでしょうか?たとえ今は何の問題もない人間関係であっても、また会社に勤めていたとしても、今のままで果たしてうだつが上がるでしょうか。また無事に勤められ、上役からほんとうに自分が認められる日があるでしょうか・・・・・自信が持てますか?と、お伺いしたいものです。
 人間関係とは要するに、うまが合うか合わないかといったことになるのです。  つまり逢った時の第一印象とか,その口のきき方や服装で、人は互いに判断をします。しかし、人間が人間を理解するとか判ろうというのは、ダイヤモンドの十六の面の一つから光の屈折を覗き見するのとは違います。もっと至難のことで、人は誰でも相手を、自分に都合良く観察するか、またはまるでその反対になります。

 ですから相手と、うまが合って巧くやってゆけるかどうかは、いくら話し合っても、それは、自分勝手な判断ということにしかなりません。  神さまのように優れた観察力でも持っていない限り、とても正しくは相手など判るものではありません。相手のいくつかの面の内の一つぐらいのものでしょう。
「人間とは互いに理解し合うものである」とモオパッサンもいっていますし、「人間どうしの相互関係は、その勘違いから成り立っているといえる」とカントもいっているくらいです。ですから、 「なぜ、あの人間とうまくいかないのか」「どうしてもあいつは気にくわない奴だ」「なぜ、あの上司は自分へばかり強くあたるのだろうか」と、原因もはっきりせず、ひそかに悩む人は多いでしょう。

 良い人間どうしなのに、さて仕事を始めると、どうも意見が食い違い、思わぬ欠損をまねいたり、トラブルを起こしてしまう結果になって、せっかくうまくゆきかけた仕事が駄目になってしまい,解散して互いに負債を背負いこんで,散々な失敗に終わってしまう実例をよくみかけます。もちろん、誰が悪いことをした訳でも、どの人間がいけないというのでもありません。  こういうのを「エキュパージが悪い」、つまりめぐり合わせが悪かった、即ち〝姓の不一致〟に問題があるとするのが、この項の人間関係の根本のとらえ方なのです。
 つまり、それぞれの努力によって複合日本民族相互の血が、千五、六百年も守り抜かれてきた尊さが、今になってわたしどもに生きた人間関係の知恵を与えてくれるのです。
姓列が合わなければ一心同体になれない
 こうしたことは就職したり転職する際にも、相手の会社の知名度よりもっと大切なことで、あなたの姓との関連を無視しては絶対にいけないということです。 たとえ,その会社が上場一部銘柄の一流であったとしても、社長や首脳部の姓のイニシャルのア、エ、オ姓列型に統一されているか、イ、ウの各姓列にうまく纏っているかといったことを、あなたの姓の上の発音と結び付け、比べてみて、まず最初に敵確に判断しないことには、せっかく就職して努力しても全然認めて貰えないことになります。それでは無駄働きということになってしまいます。  また、その会社の首脳部の姓列が統一されていない場合は、今は繁栄していても、前途は楽観できるものではありません。

 東京証券取引所には、「上場廃止して特設ポスト入りした会社」というのがあります。つまり不渡りを出して倒産してしまったかつての花形会社一覧表です。これは当時の会社年鑑によって、各個に調べてみると一目瞭然なことですが、潰れた会社なるものは、みなどこも、代表取締役がア、エ、オ姓列なら専務や常務がイ、ウ姓列といったように姓の対立関係を極端にみせています。これでは会社内部の派閥闘争に終始して、とても対外的に一致団結できるわけがなく他社との競争に破れて、ついに交換に廻った手形も落とせぬような結果になり潰れてしまうのです。こんな所へ入社したのでは、働く人間はたまったものではありません。転ばぬ先の杖で用心して避けるべきでしょう。

なにしろ,今でこそ、名刺を交換し合った途端に、それをみて「おのれッ、敵姓なるか」と抜く手も見せずに斬りかかると言ったようなことはありません。そんな事には今の人間は無知ですから、まったく係わり合いがないように表面ではさりげなく澄ましています。
 しかし、先に述べましたように、千五、六百年に渡って互いに殺戮し合い仇敵視合った歴史があるのですから、その民族の血を受け継ぐ、ア、エ、オ姓列とイ、ウ姓列がうまくやっていける訳がありません。昭和の初めまでは相互で絶対に血を混じえなかった歴史があるのですから、会社でも上層部の姓列が合っていなくては一心同体となることなどは不可能です。したがって、互いに会社のためより自分らどうしの利益や都合で勝手に党派をつくって対立し合い、社外に対する営業活動よりも、社内での足の引っぱり合いにあけくれているような事にもなるのです。
 つまり、かつては殺し合いをして血と血で抗争してきた異民族の末裔が、いくら現代になったとはいえ一つの会社の経営陣に参加して協力し合っての運営などできるものではないのです。いつかは正面衝突をするか蔭で暗躍し合って、やがてその企業体が崩壊するのは、これは前述したように目に見えたことなのです。  ですから、前もってここのところをよく調べてからでないとうっかり就職するものではありません。後で取り返しがつかなくなり、会社は解散、社宅から出されるようでは困ってしまいます。

異族姓列の上司に努力は無駄である

 また、経営陣は安心でき、それで入社したからといっても、さて配属された部や課に異族姓の男女が多かったらどうなるでしょう。  そんな同僚とは、うち解け合って、うっかり上役の悪口などもいえはしません。まるでサボテンをクッションにしているようなものです。すぐ告げ口されるのが判りきっているからです。もし、悪口などいわなくても、いったことにされることもあるのですから、これではとても長持ちはしないでしょう。
 ですから、まず同僚の中でも、自分と同じか、敵にはならぬ姓の者を選んで付き合わねばなりません。そして次には、係長、課長の姓をも調べるのが肝心です。  もし、これが異族姓列だったらいくら努力したって、籠の中のコマ鼠がクルクル休みなしに駆け回っているようなもので、冷笑されることはあっても決して賞められる気遣いはありませんから、それお前もって覚悟すべきでしょう。ですから、その会社でづっと働きたいなら、内部での配置転換でも機会があるたびに求めて、自分の姓と合う部課長の下で働けるようにしなければなりません。  このようにあなたが将来を考えるとき、学校時代から、〝同族の姓をもつ人間〟と、友達になっておくことが如何に大切かも判るでしょう。

 

つまり、就職するときも、給料のことよりもそこで安心して働けるかどうか、その首脳部の姓を調べて、同僚も 同族姓だけを選んで重点的に、付き合うようにすることが大切だと注意をしておきましょう。こうした配慮をせずに就職すれば会社内部の混乱から、他から乗っ取られるくらいならまだよいが、ひどくなると金繰りがつかなくなって潰れ、退職金もなしに放り出されてしまいます。  また、投資する際にも、会社経営陣のイニシャルを先に調べてみることが安全といえましょう。経営陣の姓列さえ先に徹底的に調査してから、そこの株を買って塩漬しておけば、これまず安心のできる 投資ということがいえるからです。
昭和四十年、日産自動車とプリンス自動車の合併劇を見ますと、まさに大企業の経営陣の結びつきにも、はっきりと姓の方則によって動かされているのが判ります。  当時の顔ぶれをみますと、日産自動車側は、社長のカの川又克二を筆頭に、日本興業銀行取締のナの中山泰平、同常務のカの梶浦英夫と、すべてア姓列です。  プリンス自動車側からは、社長のオの小川秀彦をはじめ、住友銀行頭取のホの堀田庄三、同専務のタの高橋吉隆と、オ姓列とア姓列で占められています。

 両者の取持ち役を果たしたのが、通産大臣のサの桜内義雄、通産次官のサの佐橋滋、重工業局長のカの川出千速と、みなア姓列です。  こうして、合併を成功へのレールに乗せることのできたのも、このようにア姓列人間とオ姓列人間の相性のよい結びつきに支えられていたことが歴然と判ります。

一生を大きく動かした同姓列

 さて、ここであなた自身の個々の人間関係を考えてみましょう。  あなたは、いつも何によって相手を信頼し、何によって相手から自分を守っていますか?そこにはどうしてもそれを計るものさしが必要になってきます。  それゆえこの姓のイニシャルによって、この方則をおおいに活用すべきなのです。なにしろ歴史的意味合いの裏付けがはっきりしているのですから、貴方に取ってものさしの役わりを十分果たし得るのです。  念のためのにここで、あなたの過去の付き合いや職場での人間関係をよびさまして思い出し、考えてみてください。きっと、自分と因縁のあった相手の姓との関連を、この方則に当てはめてみればすぐ判ります。 〝なるほど〟と、あなたにその周囲の人間関係の結びつきのナゾの意味合いが解けてくるでしょう。

財界人にあって活躍のめざましいフジテレビ、ニッポン放送社長、サンケイ新聞社長の鹿内信隆の今日までの足取りをみてみますと、早稲田大学卒業後、まず倉敷絹織(倉敷レイヨン)に入社しています。この時の入社のきっかけが、大変ラッキーで、倉敷絹織に専務でキの菊地寅七という人があり、毎年早稲田大学卒業の学生を一人採用していたことから、イキシの音によっての結びつきからか、彼は選ばれて無試験で入社することになったのです。   そして後に鹿内は、菊地の娘・英子を妻に迎えています。

その後鹿内は、二、三会社を経て産経新聞のミの故水野成夫に認められました。そして、産経グループ系の会社群を動かす重要ポストにあったが、今やその後継者となっておおいに手腕をふるっているのです。  この鹿内の転機にからんでいる人間関係を見ましても、菊池、水野とみなイ姓列という同姓列人間で占められていることに注目してほしいのです。姓の方則による強い結びつきがいかに人の一生に大きな影響を及ぼしているかが判ります。 


絶妙なチームワークを生んだ蔭の力
 また、学校や職場でグループ行動する際もよりよいチームワークを作りあげる上に、姓による相性関係が大きく左右しています。  激しい訓練やリーダーの好リード、試合での好判断以前に、チームの結びつきを決定的なものにしているのが、この方則による互いの姓の結合の問題なのです。ですから何といっても、まず各々の姓を自分と比べまっ先にこれを確かめなければなりません。  より強力な団結力を生み、目標に向かって成功を納める上に、欠くことのできないのがメンバーたちの姓の関係だからなのです。
かつて第十八回オリンピック東京大会で金メダルを獲得した大松博文監督の率いる日本女子バレーボールチームを振り返ってみましょう。  まず、主将はカの河西昌枝、正メンバーに、タの谷田絹子、ハの半田百合子、マの松本好子と六人中四人まで同一姓列内。  残るミの宮本恵美子とイの磯部サタはイ姓列、これも大松監督のア姓列からみると結びつきは悪くありません。  このように、絶妙なチームワークを要求されるバレーボールにあっても、相性のよい姓と姓列とによって強い結びつきを構成していることがよく判ります。  企業が大型化し今日ほど職場におけるチームワークも、刻々変わる情勢に対処するためには、〝姓の結びつき〟をこの際、よく考え直す必要があることを如実に物語っているといえましょう。
 ところで、人間関係を組織化し巨大化させていく場合にも、その中枢機関においては、なんといっても、ますますこの姓の方則が大きく作用していることはいうまでもありません。政治結社や宗教団体の活動の裏面では、姓の結びつきがその蔭の力となって、人間の結びつきを強化していることも見逃せない事実です。
新興宗教の中にあって、著しい発展を遂げてきた創価学会の歴史を、会長のイの池田大作(本名太作)の人間関係を中心に方則にそって調べてみますと、昭和二十二年、池田は初代会長のトの戸田城聖に会っています。当時の役員には、コの小泉隆、シの白木薫次、カの柏原ヤスなどがおり、イの池田現会長が、関東・東京深川の生まれであるところから、方則によって関西地方のアと同じに扱うところから、ア姓列ともなり、ア姓列とオ姓列の中ではよい人間関係を示しています。
 
(方則により白はシロと読んでもハクゆえア姓列に入る)  昭和三十一年、戸田城聖の死去にともない、小泉隆が代表役員代務者となり、一年後に代表役員に就任またハの原島宏治、ツの辻武寿が理事に、イの和泉覚が責任役員に加わります。   この頃は、まさに内部人事の混乱期で、他姓列の人間が入り組んでいます。  昭和三十五年、池田大作が責任役員となり、その他、ホの北条浩、モの森田一哉、リの竜年光も責任役員になります。  昭和三十六年には、代表役員の小泉隆が辞任し、翌日、池田大作が会長に就任します。   この時、池田の懐刀の、アの秋谷岸之助(当時城水)をはじめとして、三十八年には、新役員十名が決まり、愈々、創価学会への建設は進められていきます。(旧メンバーの原島宏治、辻武寿、小泉隆、和泉覚、柏原ヤス、北条浩、石田次男、森田一哉)  昭和三十九年、池田が代表役員を辞任、翌日、ハの原島が代って就任、やがて公明党が結成されます。
 初代委員長にハの原島が就任しますが、1ヶ月後に死亡。代って委員長に辻武寿、副委員長に和泉覚が選出されます。その後、二年半、公明党人事も一新され、池田側近のタの竹入義勝が委員長に、辻はタナ上げされ、和泉は幹部から外されます。書記長には、若手バリバリで池田の側近といわれるヤの矢野絢也が選ばれ、これで旧メンバーは一掃され池田体制は確立され、今日の繁栄が策かれていったのです。   この学会の初代からの流れをみますと、池田大作(関東出身ゆえア姓列とみなす)をはじめとして、ほとんどの幹部役員はア姓列とオ姓列でがっちり固められているのが一目瞭然です。上層部のこの結束こそ、今日の創価学会をあらしめたものといえ、その蔭には、姓による強い結びつきがあるのです。
「人間不信」が叫ばれ、誰を何を信用してよいか判らず、ますますもって今日の複雑な人間関係となっているのですが、よく調べてみますと、このように複合日本民族の血の流れの結びつきさえ明確に見ることさえできれば、そうした悩みは解決できるのです。ですから、この姓の方則を覚え日常生活にもこれをおおいに活用して、誤解などに頼ることなく、相手を理解して、自分の本当の友を、安心できる真の仲間を見つけるべきではないでしょうか・・・・。
 ≫この項の使い方≪
 さて、ここでこの項の使い方を説明しておきましょう。まず、あなたの姓のイニシャルに該当する項を開き、あなた自身のビジネス運、人間関係の秘訣を発見しキャッチして下さい。そこで次頁の図により、あなたの姓がどのイニシャルの姓列に属するかを見定めます。例えば、山本さんならば、山本のヤは、アカサタナハマヤのア姓列に属することになります。 次にあなたの同僚や上司、そして取引先の相手の姓のイニシャルを思いだし、図によって,例えば、あなたの上司が井上課長ならば、イキシチニのイ姓列となります。(しかし、井上課長が関東地方の出身者ならば方則によってアとなりア姓列に属します)七九頁の図によって、△=普通の相性関係であることが判り、さしたる問題もなく、仕事も人間関係もうまくいけるといえます。   さて、もう少し井上課長のビジネス関係での性格を知りたければ、ビジネスの項のイ姓(一〇九頁)を参照します。そうすればあなたのこれからの仕事上の注意点、つまり相手の泣き所などをも、すばやく読み取ることができるのです。このように本項は、ビジネス上の人事、付き合いや取引関係との相性などを適確に判断するための道標となるものです。様々な人間関係に隠されている姓に表われた血の結びつきの原則を読み取って頂き、それをおおいに活用してください。       ≫山の遭難は姓で判る≪
〝吹雪の山に・・・・最大の遭難〟―連休明けの朝刊には、必ずといっていいほど、山の犠牲者を報じる記事が載っています。  なにしろ山と見れば谷川岳であろうが何処であろうが登らぬことには気が済まないらしい。  だが、どうして日本人はそんなに山を見ると登りたがるのか?と昔は不思議でならなかったが、「日本原住民史」を書き始めたらその謎が解けてきたのです。  その昔、藤原氏の先祖が大陸から入ってきて、それまで日本列島にいた天の朝の残党や、騎馬民族の後裔を討伐したとき、「済んません・・・・命ばかりは」と、降参したのもいたが、中には、「ダンコ、ワレワレハ戦オウ」と、勇ましいのは山中へ入ってしまったのです。
 
さて、天の朝というのは、「女ならでは夜も明けぬ・・・・・」といった人種ゆえ、ゲリラを率いて山中へ入っても、頑として女上位を守りました。そして自分は女王然として、その取り巻きの少数の男だけを別扱いし、他の者は奴隷として黙々と働かせたのです。もちろんシャーマニズムの呪力によってそのゲリラ集団を統率し、あくまで藤原体制に対抗したのですが、この連中の風俗を里人は山の中に巣喰っている蜂にたとえたのです。そこで彼らが山から山へ合図するノロシを「蜂火」とか、山から攻め降りてくるのを「蜂起」というのも語源はそこからです。  さて、あまりにも女王蜂が威張りすぎ、たえず死の恐怖にさらされた男共は、藤原氏のスパイになって仲間を裏切ったり、そっとふもとへ逃げのびたのです。が、さて藤原氏というのは彼ら山者とは違い、関白亭主と呼ばれるような男天下だったのです。そこで、かつては革命のために山中アジトに籠った原住民の連中も、「男天下のほうが暮らしよいぞ」と落ちついてしまった。
 
 しかし、女王蜂のような女のことを思い出すと、みんな生きた心地はしないので、それぞれ、「富士山には、 コノハナサクヤ姫ノミコト」とか「加賀白山には、キクリ姫ノミコト」を祀ったのです。つまり今でもオッカナイ女房のことを「ヤマの神」とか「カミさん」というのもこのためです。しかし、江戸時代で山者の歴史は終わったが帰巣本能はなにも生まれた個所へ入りたがるばかりでなく、かつて先祖の住んでいた所へも行きたがるもので、今でも多い日本原住系の末裔たるや、「山とは、わが故郷」とばかり、てんで用心や警戒もせず、いと心やすく軽装で登ってゆき遭難するのです。これも、本書の姓の方則をみても判りますが、山で死ぬのは天の朝系のアカサタナ姓列か、騎馬民族系のオコソトノ姓列のものに限られています。  果して、あなたは山に登って無事に帰ってこられる姓でしょうか?! 3 あなたはどの〝姓〟となら合うか
 
 ―固く結びつく結婚、もろく壊れる結婚
                                 
 〝愛しているから〟なんてナンセンス
 戦前の女性は結婚生活に我慢して、よく子供を育てあげたのに、最近の若い女性は辛抱しきれず挙式一年以内に三割くらいは別れてしまうようです。  ところが、現在、初婚に失敗した女性の再婚率は、二十五才位では12パーセントでも、それが三十才をこすと僅かに0.07パーセントにすぎなくなるのでは、すっかり考えさせられてしまいます。
 と、なるとまるで昔の女性は良かったが、今の娘は我侭で横着でどうしようもないから、そのせいだという説もでてくるのであります。が、本質的には、母の子宮から出てきた娘が、その生母とそんなに違うものではないはずです。
 これは、母の頃は、まあまあ辛抱できる状態のもとへ嫁げたのに、娘の方は、まるっきり無理な境遇へ誤って入り込んでしまいなんとも自制できなくなったのではないでしょうか・・・・。  これは如何なる理由かというと、昔は、最初に相手方の家系、血脈を調べて縁づいてゆけたのに、現在ではもう調べようもなくなったからに他ならないでしょう。
 つまり場当たり式に〝当人次第〟とか〝愛していれば〟といったような結びつき方をするせいで、ぜんぜん前もっての安定さを欠いているからといえます。
異民族との通婚はなが続きしない
 京都の八瀬大原(大原女の里)という地帯は、日本原住系の風習そのままで、女性が、「カカさま」と呼ばれて、各家の主人なのであります。また、大原だけでなく、桂女の里もそうですし、長野、群馬県においても 各地に女性尊重といいうる、今も女上位の土地が、連綿として各集団ごとに受けつがれていて、絶対に非女上位のようなからは婿取りもしなければ、嫁にもやらぬという掟が千五百年も続いてきているのです。
 つまり、自分らと同じような風俗習慣の土地の者とだけ交際、通婚し、今もその伝統を伝えていて、 「上州名物、からっ風にかかあ天下」などといわれるのでしょう。  このように日本では結婚の場合、昔から相互の血の純粋というものをとても大切に考え、自分らの種族以外とは通婚してはならない、という頑固なまで厳しい掟を持ち続けてきていました。
 また例えば、有名な「佐渡情話」の中で、 「惚れちゃいけない他国の人に、末はカラスの泣き別れ」と、親が娘のお光を戒めるといった話しさえあります。
 他国の人というのは、つまり他所者のことで異民族であることを原則において考えると、同じ土地で、先祖を同じくしている人間同士が結合するのなら、まあ、円満にいくけれども、異民族同士が結びついたのでは、いくら努力に努力を重ね、辛抱してもとてもうまくいかないということの教えなのです。
 
 もちろん現代にあっても、先にも述べましてように、群馬県方面のような日本原住系のメッカのごとき土地の女の人が、九州の高千穂山のそびえる熊本県とか、鹿児島県の男性と結婚した場合を考えてみれば、それはよく判り得るのです。昔は、だいたい居住地が限定されて、それが分布していましたからして、〝何処そこのもの〟ときけば、その出身地で民族別も判りました。
 なにしろ、「お見合い」ともなれば〝同族〟に決まっていましたから、問題にもならなかったのですが、今日では戦後の集団就職や、都市集中化に伴って、もはや昔のように、
「誰々さんは、どこどこの出身ゆえ何々系だ」といった見分けができなくなりました。その結果見かけだけで判断したり、知人の紹介だとか友人の友人などといった範囲の中で、もっと極端な場合は喫茶店で声をかけられたくらいで結婚がなされています。
 これでは熱しやすきは冷めやすいの例をもち出すまでもありません。そうそうに終局がくるのも当たり前といえましょう。  また、昔は、ぜんぜん会ったことも見たこともない男女がいわゆる仲人だけの取りきめで、婚礼の式を挙げ、 そして翌日になるまで双方とも互いの顔を知らなかった・・・・といったようなナンセンスな結びつきであってもそれでけっこううまくいってきました。  そして、「おまえ百まで、わしゃ九十九まで、共に白髪の生えるまで」などといわれたものですが、今日では双方ができるだけデートをし、ときには婚前旅行までして、肉体的にも確かめ合った結果、それで結婚するのに、極端な場合は、三ヶ月か半年位で離婚してしまう例が少なくないのは、いったいどうしてでしょうか。
 昔は知らずに一緒になったのが長続きして、今はよく知り合って、双方、納得づくでした婚姻が、どうしてもうまくゆかないというのは何故だろうか、という謎なのです。  つまり幸せな結婚をするのにはどうしたらよいか?ということになるのです。  なにせかつては当人同士のことよりも、その体内に流れている血の流れ、といったものに重点が置かれ、 大きな意味での同族同一民族に限って結婚はされてきたものです。
あなたは女尊系か男尊系か
 先にも述べましたように、この日本では全く正反対の二つの民族(女尊男卑型と男尊女卑型)が今もちゃんと同居しているのです。  それなのに戦前までは掟として守られてきた同族間の結婚が、今日ではウヤムヤになってしまい、まったくの相いれない二つの血をまるで無視して、勝手に一緒になったりしていますから、それで離婚のラッシュが起きているのではないでしょうか。 つまり、「女なしでは夜も明けぬ国」だった古代日本の原住民系は、いわゆる女尊民族。  それに対して大陸から侵攻してきた進駐民族は、これは一夫多妻制の男尊民族。
 判りやすくいえば、日本人の血は大別しますと、「女性上位」というのかきわめて女性のほうが権力をもちたがる女尊男卑の原住系と、継体王朝の大陸的な女人軽視部族に別れているのです。(現在でも香港では 「一夫九妻」と称して、一人前の男とは、つまり成功者というのは、九人の妻を侍らすのが理想とされているのをみてもよく判るものといえます)  つまり、一夫多妻主義の浮気っぽい男尊女卑型と、その反対の日本原住系の逆な型との二つが、まことにおかしな話ですが、表面は同じような見せかけで混合しあって日本に住んでいるのが現実の今の社会です そして各民族のもつ長い間受け継がれてきた、特有の
気風によって、同族で組合されていけば、まあ円満にゆけるものが、もし違っていたら何ともならなくなるのが実状です。〝木に竹をつぐ〟という言葉もあります。 しかし結婚というものは、まったく別個の人間が一緒に暮らしてゆかねばならないのですから、木と竹どころではないかもしれません。
 例えば原住系の姓と舶来系の姓とは、いかに初めは愛しあってもすぐに別れてしまうものかといったことは 一八一頁をひろげて、身近な離婚した人たちの例をもとに分析してみたら一目瞭然に判るでしょう。  つまり外見を気にして表面は仲良さそうにしていても、男尊人種の亭主関白系と女尊人種のカカア天下系が同居して平穏無事にいき
っこありません。反面、男尊系の女性と、女尊系の男性が一緒になったところでこれまたうまく生活などできるものではないということは断言できます。  ですから、なんといっても、本家と分家とか親類どうしといった間柄が、結婚するとうまくいっているのも、いわゆる似たもの夫婦といった組合わせの関係ともいえましょう。東京や大阪でけっこんするより、地方の出身者は国許で相手を見つける方が、円満にゆくといわれるのもこのせいなのでしょう。つまり、もっとも良き結婚とは郷里を同じくするか、そうでなければ双方の姓の第一音が、同姓列であるか否かということに、これはかかってくるのです。
◆たとえば俳優の伊丹十三の場合は、最初は東和映画の川喜多氏のお嬢さんと結婚しましたが、イとカではうまくゆかず別れ、本姓がイの伊丹と合うイの伊藤を本姓とする女優の宮本信子さんと再婚し、今度はまことに円満そのものであるというのも、これも生きた実例でしょう。 ◆「桜桃忌」で知られる故太宰治は本姓がツの津島なのに、結婚した相手が同姓列でなく、そこでオのつく 太田さんと結ばれたが、やはりツとオではしっくりゆかなかったのでしょう。やがてヤのつく山崎富栄さんにひきずられて玉川上水へ一緒に飛びこんだのは、これは姓列を無視したお気の毒な例といえましょう。 ◆美人女医殺人事件として騒がれた新橋第一ホテルで亡くなった三十八才の女医さんの場合でも、四十才の夫との仲は子供も二人あって、はたが羨むような仲だったと郷里では噂されています。ですからどうしても、三月に一回は上京してダンスホールへなど入り浸っていたのかと、不思議がられていますが、夫婦の姓列が不一致なのを比較してみれば、この悲劇の真相も一目瞭然です。
 結婚なるものがうまくゆくかどうかは、お互いの努力も必要でありましょうが、もっと宿命的なものがそこにはあるのです。  つまり、姓というものはそれだけの意味合いがあるものなのですから、結婚する場合はただ見てくれのルックスの良し悪しとか、プロポーションが素敵で話が面白いからとか、収入が他に比して良いなどといったような鑑別方法にとらわれてはいけません。 「愛だ、愛だ」と、「愛があるから」とか、「愛が生まれそうだから」といったような漠然としたものでもないのです自分の体内の血と相手の血の流れとが、うまく解け合っていけるかどうかを、どうしても初めから考えなければうまくゆくはずなどないのです。
    ≫この項の使い方≪
 そこで、まず左図の〝男・女 尊卑分類表〟を参照し、あなたの姓の属する民族の気風、風習を明確につかんでおかねばなりません。(例えば、あなたが佐藤さんならば、ア姓列の項を見ますと女尊男卑型の伝統をもった流れを受け継いでいるとなります) 〝男・女 尊卑分類表〟によって各姓列の概略を述べましたが、では、次にはもう少し詳しく結婚の相性としてどの姓と、また姓列とうまくゆくかという、〝結婚の原則〟を解説しておきます。 ①同音姓の結びつきならまず間違いない。(つまり、ア姓の人はア姓、カ姓の人はカ姓の相手といったようにイニシャルが同じ者同士の結婚が一番望ましいといえます) ②同音姓でなかったら、せめて同姓列から選ぶこと。(つまり、アイウエオの各横列に姓をもつ者同士、アカサタナ・・・・・、イキシチニ・・・・・といった同一の尊卑型内から選ぶということ) ③それでも適当な相手がいなければ、一八一頁の〝姓列による結婚相性一覧表〟を参照しながら選ぶこと  (つまり、最低限としてまったく相反する姓列<×印>を避けて選ぶということ。例えば、ア姓列入る女性なら表を縦に見ていき、×印のあるウ姓列だけは避ける。また男性の場合は横に見ていきますと、イ姓列(但しイとヒは注意)とウ姓列が×になっていますから、それ以外の姓列から選ぶというように見るわけです) ④イ姓とヒ姓に関しては、男・女尊卑分類表のところで述べましたように例外に入りますから、注意すること。  (つまり、イ姓列の中に含まれるイとヒ姓をもつ人は<イとヒ>と書かれた部分で調べなくてはなりません)  これで、尊卑別と結婚の原則という中心になる二本の柱を理解していただけたと思います。  しかし、この一覧表はあくまでも原則であって、多くの種々の個性をもつ人間をこの中に一からげにして押し込めてしまうわけにはゆきません。  そこで、各横列ごとにイニシャル別にその男女の性格と結婚について次から展開されますから、自分の姓だけでなく思いあたる知人すべての姓をくって調べてみて下さい。  あなたは「なるほど」と思いあたったり、「そうなのか」と新しい発見をしたり「まさか」といった意外な気持をおもちになることもあるでしょう。この方則は前述しましたとおり、血の流れとして必ず受け継がれてきているものなのですから、たとえ意外な感じをもったとしても、それはあなた自身気がつかなかった裏の面として必ず的をえているはずです。
   ≫有名人になれる姓≪
 日本におけるタレント(有名人)の発祥は足利時代の差別思想から始まっています。 〝〟というのが、その元祖のようなものでありましたから、やはりそうした血の流れている人はタレントとして世に名が出ますが、そうでない部族の人はいくら努力してもダメなようです。つまり、自分には才能があるとか、他よりルックスやプロポーションがよいからといって、芸能界を志しても、その血の流れは先祖伝来でもって生まれた素質以前のものがあって、特別な姓をもつ人の他は誰もがタレントになれるわけではなのですこれは、現代のタレント中有名な千人の本姓を整理してみても、はっきりこの姓の方則に当てはまることが実証できます。   もちろん「」という言葉が出てくる以上、前進座の河原崎長一郎とか、本姓加藤の美空ひばり、作曲家の神津善行、漫画家の加藤芳郎などのようにアルファベットのKのつく人は、申し分のないタレント性の持ち主といえるところですが、それ以外にも、M、N、O、S、T、W、Y、の姓をもつ者のみタレント性は限定されています。
 と、書きますと「・・・・・まさか」と思われるかもしれませんが、Kの他でも、Mをそのイニシャルにもつ人には、例えば、歌手の森山良子、映画監督の増村保造、俳優の石坂浩二こと武藤兵吉、イラストレーターの真鍋博、女優の山岡久乃こと森塚久乃、それからOをイニシャルにもつ人たち、女優の岡田茉莉子こと岡田鞠子 俳優の中村錦之助こと小川錦一、歌舞伎の尾上松緑、歌手の坂本九こと大島久、映画監督の大島渚といった並べ方をすれば一目で判ります。   Sの代表に入るのは、映画監督の篠田正浩、評論家の坂本二郎、オペラの砂原美智子、女優の杉本春子、作曲家の佐藤允彦、売れっ子写真家の篠山紀信。  Tとなりますと、歌舞伎の尾上菊之助こと寺島秀幸、俳優の高島忠夫、滝沢修、女優の高峰秀子、写真家の立木義浩、映画監督の谷口千吉といったぐあいです。  そしてWは、随筆家の渡辺紳一郎、女優の鰐淵晴子、医者で作家の渡辺淳一。  Yは、女優の山田五十鈴、作家の山口瞳、映画評論家の淀川長治、作曲家の山本直純、歌手の由紀さおりこと安田章子といったぐあいにもって生まれた姓が、「K、M、N、O、S、T、W、Y]ならば、これは確実にタレント性を発揮でき、それが「A、F、H、I]などの人になりますと、まあ素質がすぐれているならば、条件つきで、という処なのが現在活躍しているタレント・有名人についての比較研究の結果なのです。こうしてみると、これら以外の発音姓の方は才能はあっても余り見込みはありませんから、今の内に見合わせるべきでしょう。
 
 むすびに―あなたの先祖を遡る
 
ニンジンスキーとかイフレワスチカといえばロシア系。フィリップ、ポナルドならフランス系。ゲルベテイやハイリッヒならドイツ系。といったように複合民族でなりたっているアメリカでも、その姓の発音別で出身地別を表しています。
 中国でも、孫、呉、陳の姓は南方系とか、李、孟、毛なら中部。朱、何、衛は北方系といった分け方をして居て、香港へ行ったことのある方なら、九竜半島には、王家、白家といった同姓だけの集団が、一つの城壁の中でかたまって住まっているのを、ガイドに案内されて見物されてきているでしょう。
 近くの朝鮮半島でも、やはり金とか玉といったような姓別で、ごとが形成されている地方のあることは知っていられるでしょう。  つまり言葉の訛は郷里の手形と日本ではいいますが、日本以外は世界中どこへ行っても、その姓によって
出身地や民族がすぐ聞き分けられ、分類出きるようになっています。  ところが日本人の姓の種類は他国に比べますと多く、フランスの12倍、イギリスの23倍、イタリアの37倍と雑多にあるのですが、それ
が、唯たんに物珍しさだけに変わった姓をピックアップしての、「珍名」さんぐらいの扱いに止まって、興味本位だけにしか取り上げられていません。姓の発生についての考究がまったくなされていないのです。
 もちろん太田亮の<姓氏字典>の類があることはありますが、<尊卑分脈>からの借りものですから、あまり信用できるものではありません。何故かといえば、漢字を日本列島へ持ちこんできた弁髪の人たちが、
「自分らを尊とし、それまでの日本原住民を卑とし」勝手に作り上げたものですから、とても、まともには何ともいえないものです。  そして、それは日本人の姓は、「源、平、藤、橘」の四つに、さかのぼれば吸収されるものだというのを、たてまえにしているのです。しかし、これとても正確には、何も判ってなくて書いているゆえ困ってしまいます。
「源」これは「元」を意味して、のちにヂンギスカンをうんだ部族で、紀元前に、沿海州から北鮮経由で日本列島へ入ってきた騎馬民族。のち新羅や高句麗からも移民してきて、これが日本では武家となって、のちに源氏とよばれるようになりました。
 つまり八幡太郎義家が東征する際に追ってきて、別れを惜しんだのが、 「新羅三郎」といった名だったように、これははっきりしています。つまり彼ら源氏が白旗をたてたり白衣をまとっていたのも、沿海州や北鮮の人が、今も白衣をまとっていることからして納得できるというものでしょう。源氏の氏神さまだった三島明神や、氷川神社はみな高麗
神社や白髭神社と同じ朝鮮からの神さまであったのも有名です。  ブタペスト博物館へ行きますと二階のフロアの壁面に、「元軍来冠のときの国難」の大きな油絵が掲げられていますが、フビライカンの尖兵が携えている楯には、はっきりと笹龍胆のマークが入っています。
 笹といえば日本特有のもののように思われ勝ちですが、大陸の北東には多い植物でして、パンダの常食ももともとはこの笹の葉であります。上野の動物園にきたパンダが凄い人気なのも、ただ可愛いというだけでなく 遠い先祖の郷愁といったものが、視えぬ糸によってつながっている源氏系の人が、今も日本人には多いからでありましょう。
「平」は音でも訓でも、それはヘイとかタイラ、ヒラとよむべきなのに、ペイと発音するのは何故かといえば、 (源が元国)であるように、これは、ペイルシアつまり今では「イラン」とよばれているペルシアをさして居るからでしょう。
 先日イランでは建国二千五百年の式典があって、吾が国からは三笠宮さまが御臨席なさったので、テレビの<皇室アルバム>の番組で放映されたこともあります。ですから記憶されている方も多いでしょうが、 「中世紀の騎兵行進のパレード」は、みな三十センチ巾の細長い深紅の旗を、各自が一本ずつ背に立てていて、
「オーレ、オレ」のかけ声で分列行進していたのは、まるっきり平の清盛の頃を思い出させるものがありましたそして安芸の厳島神社の宝物殿にあるところの、 「平家の公達の御佩刀」と同型のものが、ヨルダンの空港売店では、三日月型のトルコのヤガタンと同じように土産品として売られていますし、やはり社宝の平家の皮太鼓とそっくりのものが、ラクダの首につけられアラブ人が、それをポンコポンコ叩いている風景もみられます。  オーレとか、オレという掛け声は、かつてはアラブ系のムーア-人の植民地だったスペインでは、闘牛場での掛け声に使われていますが、日本では清盛入道が自分のことをいっていたとかで、「俺」という文字が当てられてひろくわたしどもも今は用いています。  しかし本当の意味は、回教つまりフイフイ教のアラーの神をたたえる言葉なのです。
「藤」は、いうまでもありませんが唐です。  西暦七世紀の初頭に随国を滅ぼして東北へ進出し、朝鮮半島を席巻し白村江の戦いで完全に釜山まで制圧し、やがて日本へ入ってきた彼らが、 「降参します、帰化させて下さい。どうせ吾々は亡国の民ですから」と、まっ先に帰順して先導役をかってでたそれまで日本列島在住のクダラ人を使って、 「王道楽士」は建国し、桃源境をもじって造営したのが、藤原京なのは前にも述べました。そして彼らは自分らも、それから藤原氏と名乗って勢力をひろげたのです。  当時の彼らは、弁髪といって女の子のお下げのようなロングヘアーを垂らしていましたから、クダラについで入ってきた新権力者たちに対して、日本の原住民はやむなく、 「長いものには、まかれるしかない」とする独特の日本精神をここに産んでしまったようです。ですから、かつてマッカーサーが日本へ進駐してきたとき、
「あれだけ勇敢に抵抗してきた日本人ゆえ、きっとレジスタンスは烈しいであろう」と、予期して警戒してきたのに、ついに一回の反乱もなく反ってびっくりしたといいますが、いったん破れて負け犬になったら、それっきりになってしまう世界にも珍しい日本精神を育成してくれたのが、昔の紙幣の肖像になっている藤原鎌足たちだったのです。
「六踏三略」とよぶ兵書を携え日本へ進駐してきた彼らが、クダラ人を傭兵に日本原住民の大討伐をしたのは七世紀から八世紀にかけてであったといわれます。
 つまり、かつての日本軍部が兵隊に対して、「生きて捕虜の恥ずかしめをうけるな―捕えられたら自決してしまえ」と<戦時訓>で徹底的に教育したのが、今では残酷であったと避難されています。しかし日本兵というのは、その御先祖さまが、討伐されたとき、徹底的にやられたとみえて、「戦え」と命令されている間は、戦後二十七年たっても頑張っている立派な人もいる反面、一端、向うに捕えられてしまう
と、すぐ今度はそちらの云いなりになって何でも、べらべらしゃべったり、敵の案内役さえまじめにかってでて、命ぜられれば逆に攻めてくるのも居たのです。それゆえ、やむを得ず、 「お前らは将棋の兵ではないのである。敵に捕えられた途端に、向うの持ち駒にされて使われたのでは困るだから捕虜にされ掛かったら潔く死んでしまえ」となったのだといいます。  思えば藤原氏というのは、今に到るも日本人にアレルギー的後遺症を厳しく残させているのですから、恐ろしいものだったようです。
「橘」は、タチバナとよませ、これを楠木正成に結びつけていますが、正しくは十世紀から十一世紀にかけて日本海まで勢力をのばしてきた「契丹」のことであります。  契丹文化とよばれたくらい高度に文化の発達していた人たちで、 「真名書き」とよばれる漢字に対して、今日の「平仮名」をもちこんできたのも彼らだといいます。そして当時の日本は藤原道長の全盛時
代でしたが、契丹人は多くの才媛を御所の中へも送りこんだと伝わっています  さて古来からの日本人の姓への考え方といいますか、分類法によって四種に分けて、それをひとつずつ裏付けをとってみますと、それだけでも西南アジアから中国、そして満州、朝鮮と四方が海に囲まれているだけに、いろんな部族が日本列島へ入ってきて、これが雑居
のままでひとつになっていることが判ります。ですから他国とは陸続きのヨーロッパや、中国大陸と朝鮮のように、 「先祖を同じくする者らが、一つの姓で一つの聚落に形成される」といったことは、日本では不可能だったのかもしれません。しかし幸か不幸か明治になるまでは、徳川体制の方針で、
「大名の国替えをする必要上、土地は私有を認めぬが、人間はその限りでない」とされていましたので、限定居住制度がしかれていました。(百姓が勝手に農地を放って逃げると、捕まって見せしめのために打ち首にされたのも、住居地の気儘な変更は許されなかったからです)  それゆえ明治五年の壬申戸籍作成の際も、かつての限定居住地をその姓としましたから、一世紀後の今日になっても、いわゆる苗字の上の発音さえ聞けば、どうにか、その人の血の流れがつかめるのです。
  さて、その姓の発音によって民族別を確かめ、「あれはゲルマン系だからうるさいぞ」とか、「イタリア系ゆえ女に手が早いから用心しなさい」といったような識別の仕方は、世界中どこの国へいってもあるものゆえ、日本でも、この方則を、おおいに活用して貰えば、なにもビジネスや結婚に限ることなく、きっと他方面にいろいろと有益なことが多いと思うのです。 


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