⇒1日目の備前・備中編はこちら
⇒2日目の安芸・備後編はこちら
湯迫(ゆざこ)温泉旅館で目覚めました。
部屋からの風景はご覧の通り。
山深い場所なのだ。
朝ご飯をいただきに下の座敷へ行きます。
こういう「ザ・旅館の朝ごはん」みたいな朝飯は普段は食べないので嬉しい。
甘露煮もある!
私は川魚の甘露煮が大好きなのです。
そして、梅干しがまた美味・・・
梅干し1個が美味しいと、それだけで支払額がペイできた気分になります。
お櫃のご飯をすべて食べつくし、出発!
私の宿泊プランは最も安いもので、富裕な方向けにもっと良いお部屋やお料理があるようです。
他の部屋のことは分かりませんが、料理に関しては最もリーズナブルなプランでも満足でしたので、上のランクだとどんなものが食べられるんだろうと気になります。
それと、ここのお湯はお肌がスベスベになりますよ。
私はそれほど多くの温泉に浸かった経験があるわけではないですが、私の中ではここのお湯のスベスベ度が一番です。
自分で自分の顔を触って気持ち良い・・・
今度来るときは妻を連れてこよう。
※後日註:そう思って帰宅した翌月、妻はいなくなってしまいました。
それでは、本日最初に向かう場所をカーナヴィにセットします。
稲用へ行きます。
稲用が稲用へ行くのです。
それでは、稲用へ向けて巡航開始!
今日は良い天気ですよ!
日本海もきれいだ。
しばらく走り、駐車場があったので少し海でも眺めてみようと思います。
遠くの方には出雲の日御碕の半島が見えています。
日本海はきれいだなー!
こうやって旅に来た時しか海は見られないので、今日は天候もバッチリで良かった!
こちら側から来ましたよ。
それでは再び出発。
うわっ!
おそらく、日本最強の交番じゃないでしょうか。
五十猛駐在所!
イソタケルはスサノオの息子です。
イソタケルが交番にいたら悪いことをしでかす人などいないでしょうね。
旅館を出て30分ほどで目的地の「大田市長久町稲用(おおだしながひさちょういなもち)」にある稲用城跡に到着しました。
稲用城は山城で、一応ここが登山口のようですが・・・
どこに登り口があるんだろう?
え?
ここですか?
確かによじ登ろうと思えばよじ登れそうですが、登山口の体をなしていませんね。
私は山城歩きも好きなので、たいていの場所は行けると思っていますが、ちょっとここは止めておきます。
怪我でもしたら大変だ。
親切に「稲用城山遺跡」の石碑が建っています。
写真に撮りづらいんですが、高級タイプの石碑ですね。
石碑にはこう刻されています。
「鎌倉時代、伊東祐盛公この城山を居城として、稻用郷三百町歩を所領、姓氏を稻用と改め数代八十有余年の間統治す。後日向国に移るも代代稻用を姓とし、今にその子孫は日南市にあり。江戸時代に至り、一時浜田藩の出城として、松平氏の一族が居城したとも伝えらる。山頂の城址は往時の面影をとどめぬが、貴重な郷土の遺跡として、その史実を後世に伝えんとここに碑を建つ。
なお、山上にありし稻用氏の守護神若宮八幡宮は稻用八幡宮境内に遷座祭祀す。
昭和五十九年十月吉日 稲用住民一同」
稲用住民の皆さん、こうやって歴史を残してくださって本当にありがとうございます!
石碑に出てきた伊東祐盛という人は、頼朝の下で働いた鎌倉御家人伊東祐時の次男で、石見国守護代に任じられ、伊豆の伊東からこちらへ赴任してきました。
伊東氏は工藤氏の支流ですが、工藤氏は藤原不比等の長男武智麻呂の末裔です。
つまり、稲用家は大きなくくりでは、南家武智麻呂流なわけです。
鎌倉時代は各国に守護が置かれたのですが、守護自体は現地に行かず、守護代が代官のような形で地方に行きました。
ですから、守護代というのは実質的には今でいうところの県知事です。
祐盛がこちらに来てからの歴史については私は調べることができていません。
石碑が言う通り、この地では滅亡してしまったため、現地にも史料や記録はほとんど残っていないのではないでしょうか。
石碑には八十有余年統治したとありましたが、おそらく南北朝時代の騒乱で城を追われて、本家筋である伊東家が勢力を張っていた日向国に一族で逃げたのだと思います。
では、城の内部に潜入するのはあきらめて、遠くから眺めてみましょう。
いかにも山城といった風情ですね。
もう少し遠くへ。
東側の平野から見ます。
稲用城は独立丘の上に築かれており、一見防御力が高そうに見えますが、いざというときに逃げることが難しいタイプの城です。
少し左(南側)に目を移します。
稲用城の東側に広がる支配地域の田んぼ。
普通であれば、こういう山城に鎌倉時代の武士が住むことはありません。
おそらく、居館は別の場所にあったのでしょう。
そしてこの山城は南北朝時代に築かれたものではないでしょうか。
南北朝時代であれば山城は普通に築かれます。
あ、白い鳥!
ここから見える特徴的な山というと、やはり三瓶山(さんべさん)ですね。
三瓶山の中で最も高い男三瓶山の標高は1126mです。
鳥取県の大山と並んで山陰地方を代表する山の一つですね。
ところで、日向に移ってからの中世の稲用氏の歴史については良くわかりません。
私は他人の家の歴史ばっかり調べていて、自分の家の歴史を調べることが疎かになっているのです。
いずれはきちんと調べたいなあ。
日向の伊東家に転がり込んだ後の歴史については、伊東家の家臣として稲用と称する戦国武将がチョロッと出てきますが、はっきりしたことは言えません。
江戸期になると、古文書に稲用とか稲持という人がたまに出てくるのが確認できるので、それなりに繁殖していたことが伺えますが、石高はそれほど高くありません。
昔、祖母から聞いたところでは、「稲用家は伊東家の家老だった」ということでしたが、これはよくある「我が家は家老伝説」の可能性もあります。
どういうわけか、自分の家の先祖が大名の「家老」だったという話はあちこちでよく聞きます。
そして、それは史実としては怪しいというのがよくあるパターンです。
ただ、稲用家は家老職に就いたことはなかったかもしれませんが(もしくはあったとしても私が史料で見つけられていないだけかもしれませんが)、藩主の親戚ですので、「藩主御一家」という特別なカテゴリに入れられていたことは事実のようです。
戦前の戸籍にはその人の社会的属性が書かれた欄があり、「士族」と書かれているのを私も確認していますので、古文書の記載を併せて考えると、江戸期には地味ながらも飫肥藩の藩士として命脈を保っていたことは確かです。
※先祖が勤めていた飫肥城は、大人になってからは2010年11月8日に探訪しています。
つづいて、せっかく来たので集落にある浄土寺へ寄ってみます。
ナヴィに脳内を支配されてやってきました。
浄土真宗本願寺派のお寺です。
山号は貴船山。
本堂。
何の予備地知識もなく来たので、浄土寺の来歴については分かりません。
浄土寺の前からは稲用城跡も見えますね。
浄土寺横の市道。
しかし、今まで生きてきて、従兄弟の家族以外で稲用という人に会ったことは皆無ですし、ましてや地名なんかはここにしかないと思うので、こうやって町中に「稲用」という文字があると、気持ち悪いと言ったら失礼ですが、不思議な感覚に陥ります。
最後に、現代の支配者のいる大田市役所の佇まいを確認しに行きましょう。
ここだ。
石見銀山は世界遺産になったら反対に観光客が減って苦戦しています。
ちなみに、ここは「おおだし」と「た」を濁って発音し、群馬県にある太田市は、「大」じゃなくて「太」と表して「おおたし」で、東京にあるのは「大田区」で「おおたく」ですよ。
というわけで、先祖について調べ始めたころからずっと来てみたかったご先祖様の土地に来ることができました。
これも、たまたまクラツーの仕事で出雲のツアーをやらせていただくことが決まり、その下見としてついでに来ることができたわけですから、会社やお客様にはとても感謝しております。
それでは、つづいて出雲大社へ向かいますよ。
⇒この続きはこちら
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* * *
湯迫(ゆざこ)温泉旅館で目覚めました。
部屋からの風景はご覧の通り。
山深い場所なのだ。
朝ご飯をいただきに下の座敷へ行きます。
こういう「ザ・旅館の朝ごはん」みたいな朝飯は普段は食べないので嬉しい。
甘露煮もある!
私は川魚の甘露煮が大好きなのです。
そして、梅干しがまた美味・・・
梅干し1個が美味しいと、それだけで支払額がペイできた気分になります。
お櫃のご飯をすべて食べつくし、出発!
私の宿泊プランは最も安いもので、富裕な方向けにもっと良いお部屋やお料理があるようです。
他の部屋のことは分かりませんが、料理に関しては最もリーズナブルなプランでも満足でしたので、上のランクだとどんなものが食べられるんだろうと気になります。
それと、ここのお湯はお肌がスベスベになりますよ。
私はそれほど多くの温泉に浸かった経験があるわけではないですが、私の中ではここのお湯のスベスベ度が一番です。
自分で自分の顔を触って気持ち良い・・・
今度来るときは妻を連れてこよう。
※後日註:そう思って帰宅した翌月、妻はいなくなってしまいました。
それでは、本日最初に向かう場所をカーナヴィにセットします。
稲用へ行きます。
稲用が稲用へ行くのです。
それでは、稲用へ向けて巡航開始!
今日は良い天気ですよ!
日本海もきれいだ。
しばらく走り、駐車場があったので少し海でも眺めてみようと思います。
遠くの方には出雲の日御碕の半島が見えています。
日本海はきれいだなー!
こうやって旅に来た時しか海は見られないので、今日は天候もバッチリで良かった!
こちら側から来ましたよ。
それでは再び出発。
うわっ!
おそらく、日本最強の交番じゃないでしょうか。
五十猛駐在所!
イソタケルはスサノオの息子です。
イソタケルが交番にいたら悪いことをしでかす人などいないでしょうね。
旅館を出て30分ほどで目的地の「大田市長久町稲用(おおだしながひさちょういなもち)」にある稲用城跡に到着しました。
稲用城は山城で、一応ここが登山口のようですが・・・
どこに登り口があるんだろう?
え?
ここですか?
確かによじ登ろうと思えばよじ登れそうですが、登山口の体をなしていませんね。
私は山城歩きも好きなので、たいていの場所は行けると思っていますが、ちょっとここは止めておきます。
怪我でもしたら大変だ。
親切に「稲用城山遺跡」の石碑が建っています。
写真に撮りづらいんですが、高級タイプの石碑ですね。
石碑にはこう刻されています。
「鎌倉時代、伊東祐盛公この城山を居城として、稻用郷三百町歩を所領、姓氏を稻用と改め数代八十有余年の間統治す。後日向国に移るも代代稻用を姓とし、今にその子孫は日南市にあり。江戸時代に至り、一時浜田藩の出城として、松平氏の一族が居城したとも伝えらる。山頂の城址は往時の面影をとどめぬが、貴重な郷土の遺跡として、その史実を後世に伝えんとここに碑を建つ。
なお、山上にありし稻用氏の守護神若宮八幡宮は稻用八幡宮境内に遷座祭祀す。
昭和五十九年十月吉日 稲用住民一同」
稲用住民の皆さん、こうやって歴史を残してくださって本当にありがとうございます!
石碑に出てきた伊東祐盛という人は、頼朝の下で働いた鎌倉御家人伊東祐時の次男で、石見国守護代に任じられ、伊豆の伊東からこちらへ赴任してきました。
伊東氏は工藤氏の支流ですが、工藤氏は藤原不比等の長男武智麻呂の末裔です。
つまり、稲用家は大きなくくりでは、南家武智麻呂流なわけです。
鎌倉時代は各国に守護が置かれたのですが、守護自体は現地に行かず、守護代が代官のような形で地方に行きました。
ですから、守護代というのは実質的には今でいうところの県知事です。
祐盛がこちらに来てからの歴史については私は調べることができていません。
石碑が言う通り、この地では滅亡してしまったため、現地にも史料や記録はほとんど残っていないのではないでしょうか。
石碑には八十有余年統治したとありましたが、おそらく南北朝時代の騒乱で城を追われて、本家筋である伊東家が勢力を張っていた日向国に一族で逃げたのだと思います。
では、城の内部に潜入するのはあきらめて、遠くから眺めてみましょう。
いかにも山城といった風情ですね。
もう少し遠くへ。
東側の平野から見ます。
稲用城は独立丘の上に築かれており、一見防御力が高そうに見えますが、いざというときに逃げることが難しいタイプの城です。
少し左(南側)に目を移します。
稲用城の東側に広がる支配地域の田んぼ。
普通であれば、こういう山城に鎌倉時代の武士が住むことはありません。
おそらく、居館は別の場所にあったのでしょう。
そしてこの山城は南北朝時代に築かれたものではないでしょうか。
南北朝時代であれば山城は普通に築かれます。
あ、白い鳥!
ここから見える特徴的な山というと、やはり三瓶山(さんべさん)ですね。
三瓶山の中で最も高い男三瓶山の標高は1126mです。
鳥取県の大山と並んで山陰地方を代表する山の一つですね。
ところで、日向に移ってからの中世の稲用氏の歴史については良くわかりません。
私は他人の家の歴史ばっかり調べていて、自分の家の歴史を調べることが疎かになっているのです。
いずれはきちんと調べたいなあ。
日向の伊東家に転がり込んだ後の歴史については、伊東家の家臣として稲用と称する戦国武将がチョロッと出てきますが、はっきりしたことは言えません。
江戸期になると、古文書に稲用とか稲持という人がたまに出てくるのが確認できるので、それなりに繁殖していたことが伺えますが、石高はそれほど高くありません。
昔、祖母から聞いたところでは、「稲用家は伊東家の家老だった」ということでしたが、これはよくある「我が家は家老伝説」の可能性もあります。
どういうわけか、自分の家の先祖が大名の「家老」だったという話はあちこちでよく聞きます。
そして、それは史実としては怪しいというのがよくあるパターンです。
ただ、稲用家は家老職に就いたことはなかったかもしれませんが(もしくはあったとしても私が史料で見つけられていないだけかもしれませんが)、藩主の親戚ですので、「藩主御一家」という特別なカテゴリに入れられていたことは事実のようです。
戦前の戸籍にはその人の社会的属性が書かれた欄があり、「士族」と書かれているのを私も確認していますので、古文書の記載を併せて考えると、江戸期には地味ながらも飫肥藩の藩士として命脈を保っていたことは確かです。
※先祖が勤めていた飫肥城は、大人になってからは2010年11月8日に探訪しています。
つづいて、せっかく来たので集落にある浄土寺へ寄ってみます。
ナヴィに脳内を支配されてやってきました。
浄土真宗本願寺派のお寺です。
山号は貴船山。
本堂。
何の予備地知識もなく来たので、浄土寺の来歴については分かりません。
浄土寺の前からは稲用城跡も見えますね。
浄土寺横の市道。
しかし、今まで生きてきて、従兄弟の家族以外で稲用という人に会ったことは皆無ですし、ましてや地名なんかはここにしかないと思うので、こうやって町中に「稲用」という文字があると、気持ち悪いと言ったら失礼ですが、不思議な感覚に陥ります。
最後に、現代の支配者のいる大田市役所の佇まいを確認しに行きましょう。
ここだ。
石見銀山は世界遺産になったら反対に観光客が減って苦戦しています。
ちなみに、ここは「おおだし」と「た」を濁って発音し、群馬県にある太田市は、「大」じゃなくて「太」と表して「おおたし」で、東京にあるのは「大田区」で「おおたく」ですよ。
というわけで、先祖について調べ始めたころからずっと来てみたかったご先祖様の土地に来ることができました。
これも、たまたまクラツーの仕事で出雲のツアーをやらせていただくことが決まり、その下見としてついでに来ることができたわけですから、会社やお客様にはとても感謝しております。
それでは、つづいて出雲大社へ向かいますよ。
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で徳一さんも仲麻呂の子供ってまたすごい。両方供養出来る方ですもん。自分の関係の者だけに贔屓もしないとも思えるし、供養が出来るのはそういないですよね。
良かったです、贔屓し過ぎもしないで単純に目の前に起こった事実で自分はどんなスタンスでお付き合いするのか考えていきますね。
そうなんですね。
私も藤原藤太の過ちの事実を知りたくて将門さんに甘えさせて頂いてます。
事実は実際生きていた人いないんでどうか分かりませんけど、それは自分しか感じられないはずなので体当たりしてます。
藤原四兄弟も相性色々ありそうなんですけど、稲用さんのご縁もあり南家をいい解釈していきたいですね。
南家と藤太系が絡むと面白くなりますよね。で関係者には北家も関わるからまたややこしくなりそうです。
ただわだかまりって多分人間だけだと思うんでその間違った解釈でのわだかまりって無駄ですもん。事実か正しそうなわだかまりなら単純に慰霊したりかわすしか子孫は出来ないと思うので全てを受け入れて自分の体で試してみようと思ってます。
で一番怖いのがベストパートナーで先入観やお互いの呪いみたいな念によって出会えないならそれって世界的にみても効率悪いですよね、人間の進化としても。
対自然の中では色々な環境や経験を経験した人たちがタッグを組むしか生きていくためにはそれしかないと思います。
いい未来のために、考古学や出土品等で歴史の中の人間の嫌なところは放っておいても実際に自分がこの世で生きる為の知識や知恵は得ておけたらいいなあと思っています。
長屋王のちょっと前あたりが気になるのもありますが、それはもっとあとにゆっくりするとして、仲麻呂さんに注目してみます。
歴史の中では神も含めて冤罪多いように感じるんですよね、晴らせたら先祖供養になりますよね。
また私の方は逆にやらかしている可能性もありますのでそう思ったら子孫からお説教しちゃおうと思ってます。それが本当の愛情ですし、また自分の子孫もそんなとばっちりで苦しむ必要ないように子孫への貢献にもなるといいなあと思います。
そういったこともあり、不比等は偉大なご先祖さまで、仲麻呂には叔父さんのように親しみを感じています。
仲麻呂の冤罪を晴らしたい!
くだらないことですが、今でも伊東さんという人に会うと不思議と頭が上がらない(笑)
おまけにオオダのは稲用の文字いっぱいですね!私も濁点がある方が好みみたいです、時代とかにもよるのか?ちょっとそれも個人的に調べてます。
で東京なので太田道灌の関係の所ばかりですよ、最近。この前も好きな姫いるんで久々に行ったらそこにもいたなんて由緒書き貰うまで気付きませんでした。自分の縁なのか関係者の縁なのか明確にはならないんですけど絡む。ゆっくり楽しみます。
三瓶山も行きたいし、日ノ御埼で夕日みたんでまた行きたいしこの前この記事読んでおけば良かったと後悔ですよ。そう今鷺も色々と出てくるんですけど、酉の市もあったり。日本武尊が空運なら天の鳥船が海運?で鷺は?と。あとミミヅクも。鳥になって行きたいですよ。
そうそう五十猛ってのも本当いたら怖がりそうですけど、本当は意外と穏やかだったりして?私のお宮参りの祭神さんかも?なので探ってます。スサノウは怖そうなので勝手に思い込んでいないか?検証中です。木を植えたというのは信じてますけどね。風が強い場所には木も必要ですよね。海岸沿いの植生も気になってます。
ドイツでも今思うと鉱山結構行ったりしたんで銀山にも行きたいと思ってます。