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飯香岡八幡宮からさらに南下し、阿須波(あすは)神社へ向かいます。
地図で確認すると、阿須波神社は台地の西縁にあり、台地の真ん中を走る大多喜街道からアプローチするより、台地の下からアプローチしたほうが到達しやすそうな気がします。
台地西側の崖下の道を周囲を警戒しながら低速で巡航し、この辺だろうと思われるところに雷電號を駐機。
あとは歩いて探しますよ。
多分、この上でしょう。
普通の民家の敷地のような道がありますが、KKDでそこへ突入すると赤い鳥居が目に飛び込んできました。
ここだ!
万葉遺跡とありますよ。
令和への改元で万葉集が脚光を浴びていますが、お恥ずかしいことに私はほとんど知りません。
説明によると、「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し 吾は斎はむ 帰り来までに」という歌(巻20-4350)があり、上総国の若麻続部諸人が防人として九州へ向けて出立するときの歌なのですが、ここに出てくる「阿須波の神」がこの阿須波神社ではないかと考えられています。
西側の眺望。
眼下には水田が広がっていますが、古代条里制の名残(市原条里遺跡)で、阿須波神社を降りた地点から海の方へ向けて古代の道路が通っていました。
また阿須波神社周辺は戦国時代の市原城跡であり、『日本城郭大系』によると、天文23年(1554)秋、北条氏康がこの地へ侵攻して久留里城の里見義弘を攻撃し、相前後して市原城も攻撃しました。
『関八州古戦録』によると、当地の武将の忍民部少輔は里見勢として久留里城の籠城戦で戦い、後の永禄7年(1564)の第二次国府台合戦にも里見勢として参加しています。
なお、市原城の城域については宅地化によって遺構がほとんど破壊されてしまったことによりはっきり分からないそうです。
さて、つづいて上総国府方面へ向かいますが、上総国の国府跡はまだ見つかっておらず、候補地もいくつかあります。
阿須波神社の南東には古甲(ふるこう)という地名があり、「甲」は「国府(こう)」に通じることからそのあたりも国府の候補地なのですが、古甲の辺りから阿須波神社を見るとちょうど西北(戌亥)の鬼門の位置に当たるのが気になるところです。
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飯香岡八幡宮からさらに南下し、阿須波(あすは)神社へ向かいます。
地図で確認すると、阿須波神社は台地の西縁にあり、台地の真ん中を走る大多喜街道からアプローチするより、台地の下からアプローチしたほうが到達しやすそうな気がします。
台地西側の崖下の道を周囲を警戒しながら低速で巡航し、この辺だろうと思われるところに雷電號を駐機。
あとは歩いて探しますよ。
多分、この上でしょう。
普通の民家の敷地のような道がありますが、KKDでそこへ突入すると赤い鳥居が目に飛び込んできました。
ここだ!
万葉遺跡とありますよ。
令和への改元で万葉集が脚光を浴びていますが、お恥ずかしいことに私はほとんど知りません。
説明によると、「庭中の 阿須波の神に 小柴刺し 吾は斎はむ 帰り来までに」という歌(巻20-4350)があり、上総国の若麻続部諸人が防人として九州へ向けて出立するときの歌なのですが、ここに出てくる「阿須波の神」がこの阿須波神社ではないかと考えられています。
西側の眺望。
眼下には水田が広がっていますが、古代条里制の名残(市原条里遺跡)で、阿須波神社を降りた地点から海の方へ向けて古代の道路が通っていました。
また阿須波神社周辺は戦国時代の市原城跡であり、『日本城郭大系』によると、天文23年(1554)秋、北条氏康がこの地へ侵攻して久留里城の里見義弘を攻撃し、相前後して市原城も攻撃しました。
『関八州古戦録』によると、当地の武将の忍民部少輔は里見勢として久留里城の籠城戦で戦い、後の永禄7年(1564)の第二次国府台合戦にも里見勢として参加しています。
なお、市原城の城域については宅地化によって遺構がほとんど破壊されてしまったことによりはっきり分からないそうです。
さて、つづいて上総国府方面へ向かいますが、上総国の国府跡はまだ見つかっておらず、候補地もいくつかあります。
阿須波神社の南東には古甲(ふるこう)という地名があり、「甲」は「国府(こう)」に通じることからそのあたりも国府の候補地なのですが、古甲の辺りから阿須波神社を見るとちょうど西北(戌亥)の鬼門の位置に当たるのが気になるところです。
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