日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

唐古・鍵遺跡|奈良県田原本町 ~奈良県を代表する弥生時代全期間に及ぶ拠点集落~

2020-08-08 12:44:52 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県磯城郡田原本町大字唐古50-2



現況


唐古・鍵遺跡 史跡公園

史跡指定


国指定史跡
史跡指定:1999年1月27日

出土遺物が見られる場所


唐古・鍵考古ミュージアム(⇒探訪記事はこちら

 

2.諸元                             


存続時期


弥生時代全期間~古墳時代初頭まで集落が存在
その後は、古墳が築造された

集落タイプ


平地の環濠集落

 

3.探訪レポート                         


2017年11月23日(木)


 ⇒前回の記事はこちら

 7時までぐっすりと眠り、睡眠不足が少し解消できた気がします。

 起床後はホテルの朝ご飯。

 今回宿泊した奈良県大和郡山市の「ホテル大御門(おおみかど)」は、朝ご飯が付いていないことになっているのですが、「簡単なもので恐縮ですが」というテイストで朝ご飯が付いていたのです。

 嬉しいですよねー。

 お米自体が美味しいので生卵と昆布の佃煮、それにふりかけで充分です。

 ご馳走様でした!

 部屋に戻ると本日の行程の最終決定をします。

 昨日は最後に訪れた京都府木津川市で消化できなかったスポットがあるので、再度木津川へ向かってもいいかなとも思いましたが、木津川の未訪問スポットに関してはまた後日にします。

 今日はクラツーのツアーでご案内予定のスポットのうち、自分が未見のものを抑えることが優先です。

 そのため、まずは桜井市へ向かいます。

 大和郡山市から桜井市は車ならすぐですよ。

 初めに来たのは唐古・鍵遺跡です。

 唐古・鍵考古学ミュージアムには昨年(2016年)10月15日に訪れたのですが、そのときは、遺跡自体は今行っても面白くないということだったので、遺跡には行っていませんでした。

 初めて奈良の遺跡探訪をしたということもあって、唐古・鍵遺跡の価値を良く理解していなかったということもあります。

 ただし、今度のツアーでは遺跡にも行きますので、現状の把握のため今日は見てきますよ。

 現地に着くと、駐車場は見つかりませんでした。

 なので、邪魔にならない場所に車をそっと停めて探訪開始です。

 おや、何か大がかりな工事をしていますよ。



 おーっ、史跡整備!



 ※後日註:中央の建物は公園のガイダンス施設で、右手奥の建物は国道を挟んだ向こう側の道の駅「レスティ唐古・鍵」の建物です。

 素晴らしいですね。

 来年の6月にはオープンするのかなあ?

 工事は進んでいますが、以前からあったであろう説明板は残っています。



 奈良盆地に来ると多くの溜池を見るのですが、近世に造られたものが多いようです。

 唐古・鍵遺跡という名称は、唐古と鍵という字名から取っているのですが、双方に池があって、この横にある池は唐古池で、唐古池の周辺を史跡整備しているようです。

 環濠によってグルグル巻きにしていますね。





 昨年訪れた唐古・鍵考古学ミュージアムは来年(2018年)5月31日まで休館になっています。



 ここの遺跡の整備が終わって公開となるタイミングで再開するのでしょう。

 おや、なにやら地元の方らしいおじちゃんが自転車に乗ってやってきて、唐古池のこちら岸と向こう岸に渡してあるロープを引っ張ったりしていじっていますよ。

 「何をされているんですか?」と声をかけると、この溜池ではヘラブナを養殖していて、ロープにまとわりつく鵜を追い払っていると教えてくれました。

 他の池では金魚も養殖しているとのことでしたよ。

 金魚かあ?

 ※後で知りましたが、この辺は観賞用の高級金魚の養殖で有名とのことです。

 遺跡には地表面で観察できる遺構は残っていないのですが、楼閣と呼ばれる櫓のようなものが立っています。





 実際この場所で遺構が見つかったわけではなく、もちろん弥生時代の建物の現物は残っていないのですが、説明板に書いてある通り、唐古・鍵遺跡から出土した土器にこういう楼閣の画が刻されており、それをもとに造りました。

 いずれ、発掘が進めばこういう建物の形跡が出てくる可能性がありますよ。

 なお、この楼閣は登ることができないのですが、登れれば遺跡を少し高いところから見られるので最高ですね。

 ※後日註:この頃から佐賀県の吉野ケ里遺跡を十数回案内していますが、吉野ヶ里遺跡には登れる櫓が数基あってとても好評です。

 小祠。



 つづいて、大神(おおみわ)神社へ詣でましょう。

 ⇒この続きはこちら

2017年12月16日(土)


 鋭意工事中の唐古・鍵遺跡をクラブツーリズムにて案内してきました。

 説明板の写真を数点掲載します。









 なお、唐古・鍵考古学ミュージアムが休館中のため、代替として列島最大の前方後方墳である西山古墳(墳丘長180m)を案内しました。

 墳丘に登れる古墳で、稲用お勧め古墳の一基です。

2018年5月19日(土)


 クラブツーリズムにて整備完了ホヤホヤの唐古・鍵遺跡を案内しました。

 公園の入口も素敵な感じに仕上がっています。



 公園に入ったらまずはガイダンス施設へ立ち寄りましょう。



 環濠のグルグル巻き度合いがハンパないです。

 大型建物跡の柱跡が実物大で展示してあります。



 これはこの場所で見つかったものではなく、第74次の調査のときに、国道を挟んだ西側で見つかったものをこの場所で復元しています。

 上の写真だと分かりませんが、この建物には棟持柱(むなもちばしら)があります。

 棟持柱というのは、建物の妻側両サイドに供えられた1本ずつの柱のことで、広瀬和雄先生はそれがある建物は神殿であると断定しています。

 ※唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている下のパネルにて柱の跡を確認してみてください(「展示品」という記載は無視してください)。



 この建物は弥生時代中期中頃より前に建てられており、建てられていた場所は微高地上になり、周囲には建物跡が見つからないため、特別な用途の建物であったことは明白です。

 私も広瀬先生の説を支持しますが、そうなると、広瀬先生が自著で述べている通り、仏教が入ってきて現在の神社のルーツができるよりもさらに前の神社の形態を表している可能性があり、とても興味深いです。



 そして、唐古・鍵遺跡ではもう一つ大型建物跡が検出されており、それは公園の方に表示されているのですが、そちらの建物に使われていた柱がこちらです。



 縄文時代の三内丸山遺跡では巨大なクリの木を使っていましたが、こちらはケヤキなんですね。



 ケヤキはいまでも街路樹に植えられたりしてよく見ますが、かなり大きく成長するそうです。

 では、外へ出てみましょう!
 
 環濠入口にある説明板。



 公園の全体図を見てみましょう。



 この図は普通に上が北です。

 数字が見えにくいかも知れませんが、図の左上の119番が道の駅の場所で、唐古池の左側にある建物がガイダンス施設、そのすぐ下の環濠に橋が架かっているように描かれている79番が現在地です。

 なお、数字は発掘の「次数」を表しており、さきほどガイダンス施設の中で柱跡を見た大型建物は第74次の調査の時に見つかっていますから、図中の74と書かれている場所(中央からやや左下)にあったことが分かります。

 環濠はこんなに綺麗に整備されちゃいましたが、往時はもちろんもっとナチュラルテイストなはずですよ。





 弥生時代は戦争の時代というイメージが強いため、こういった環濠は防御用と見做されるのが普通です。

 もちろんそういう意味もあるものの、唐古・鍵遺跡の場合(というか奈良盆地の場合)、大和川水系の河川が縦横無尽に走っており、説明板にも書かれている通り、洪水の被害もたびたびだったと考えられるため、その水の行く道を確保するためという意味もありますし、船を有効利用していたため、その交通路としての意味もありました。

 ちなみに、唐古・鍵遺跡からその南東方向にある纏向遺跡周辺にかけての地形を見てみると、現在の川の流路と古代の川の流路はかなり違います。

 現在の地図を見ていただくと分かるのですが、各河川はおおよそ南北方向の流路となっており、曲がるときも結構カクカクした感じで曲がっていますよね。

 川マニアの方はすぐに気づくと思いますが、これは明らかに不自然です。

 これは古代に条里制が敷かれたときに条里に合わせて河川を改修したことによります。

 ※あんまり見やすくないですが、Googleマップを貼り付けたので確認してみてください。



 つまり、この周辺の地形は自然の物ではなく、かなりダイナミックな人工地形で、現在の地形と弥生・古墳時代の地形はかなり違うという前提で見てください。

 なお、唐古・鍵遺跡の環濠には土塁が付属していませんが、こういった低地にある環濠集落では見受けられる光景です。

 福岡県朝倉市の平塚川添遺跡(邪馬台国候補地の一つ)も同じような雰囲気ですよ。

 公園内を見渡します。



 二上山のサヌカイトは有名ですね。



 石器の材料としては、関東人だと黒曜石がもっとも親しみやすいと思いますが、畿内ではサヌカイトです。

 個人的な好みでは見た目は黒曜石の方がカッコいいと思うのですが、研究者から聴いたところでは、サヌカイトの方が肉を切った後の脂の処理が簡単とのことです。

 手入れが楽なのは、道具としては大きなアドバンテージになりますね。

 二上山の方向。



 あら、ちょっと角度が悪くて二上山が分かりづらい・・・

 中世の遺構の説明もあっていいですね。









 入口からも見えていましたが、ひと際目立つ柱の復元がありますよ。



 さきほど、ガイダンス施設にはここで発掘された柱が展示してありましたが、この建物跡は、ここで表示されている通りの場所にありました。



 これは第93次調査で見つかった建物跡で、説明板には2200年前の建物とありますが、弥生時代中期中頃の建物です。

 現在見つかっている同時代の建物跡のなかでは国内最大級となります。

 中期中頃というと、北部九州では伊都国や奴国の原型となる「国」がそろそろ誕生するかどうかという時期になりますが、その時代の奈良盆地にも国の萌芽が見られると考えてもいいでしょう。

 唐古・鍵遺跡は弥生時代のはじめから古墳時代初頭までの長い時代存続していることもあり、見つかる建物の柱の跡が異常な数で、それを調べてどの時代のどれくらいの大きさの建物かを確定して行く作業は考えただけで気が遠くなります。

 実際はその気の遠くなるような作業を現場の方々や研究者の方々がこなしているわけですが、この大型建物の周囲にはプランが確定できない柱跡がまだ何本も見つかっているため、このエリアには大型建物が林立していた可能性があります。

 そしてその用途は、説明板にある通り倉庫の可能性がありますが、倉庫といっても唐古・鍵遺跡の国あるいは王にとって非常に大事なものを集めて格納しておく特別な倉庫であった可能性が高いです。

 あ、楼閣もお化粧直ししている!



 屋根の軒先にクルっとした飾りがついていますが、お客様とあれの素材は何だったんだろうという話になり、重量などを考えると植物を使って装飾したんじゃないかという意見に落ち着きました(ご存じの方がいらっしゃったら教えてください)。





 楼閣の近くから道の駅方向を見ます。



 唐古池は300年前に造られました。



 この「宝石箱」は唐古・鍵考古学ミュージアムに展示してありましたね。



 この褐鉄鉱(かってっこう)容器は、上述の93次の建物跡の東側を区画する溝の北東延長約25mの位置で出土し、中に収められたヒスイは、実際に宝石と言えるようなものですから、この褐鉄鉱容器がここにあった大型建物に収められていたものと仮定すると、大型建物が特別な倉庫だったと考える理由の一つになります。

 さて、新たに整備された唐古・鍵遺跡に初めてきましたが、想像していたよりも内容が充実しており、当初予定していた時間では足りないと感じました。

 ここはもっとじっくり案内したいなあ。

 なお、唐古・鍵考古学ミュージアムはまだ休館中のため、今回も列島最大の前方後方墳である西山古墳に代替させていただきます。

2018年9月22日(土)


 クラブツーリズムにて案内してきました。

 奈良に行くたびに鉄道写真を撮っているのですが、今回はそれらをご紹介します。

 たまたま高尾駅に停まっていた成田エクスプレス。



 新幹線。





 新幹線の車窓から。



 名鉄乗りたい!



 名古屋駅で近鉄に乗り換えるときに。













 ちなみに、私は決して「撮り鉄」ではありませんよ。

 上のようなヘボい写真でそう称したらマニアの方に叱られてしまいます。

 単なる鉄道好きに過ぎません。

 そして唐古・鍵遺跡。





 なお、今回から唐古・鍵遺跡考古ミュージアムの見学ができるようになったため、西山古墳の見学はなくなりましたが、古墳好きの方からは西山古墳はとても評判が良かったですよ。

2019年3月9日(土)


 クラブツーリズムにてご案内してきました。

 「唐古・鍵遺跡 史跡公園」は結構広いため、時間の都合で毎回全体を案内することはできていません。

 この「時間の都合」というのは嫌な言葉だと思いますが、ツアーとしてやる場合は、探訪箇所と制限時間のバランスを考えるのが難しいんですよね。

 個人的な思いとしては、考古学ミュージアムも遺跡も両方とも2倍の時間が欲しいのですが、うーん、難しい・・・

 今回は青銅器工房の近くまで来ることができました。



 唐古・鍵遺跡の価値を高めている要素の一つが青銅器の工房が見つかったことです。

 だいぶ前から鋳型が見つかっており、鋳型が見つかること自体も凄いことです。

 青銅器づくりというのは大変高度な技術ですから、唐古・鍵遺跡にはそういったエンジニアが住んでいたということになり、そういった技術力を背景に、弥生時代後期には奈良盆地南半分のほとんどを唐古・鍵遺跡の「王」が支配していた可能性があります。

 とか言うと、葛城地方の人たちに「俺たちを忘れるな!」と叱られそうですが、唐古・鍵遺跡の「王」がヤマト王権、そして天皇家に繋がるかもしれませんよ?

 とても興味深い問題でロマンがありますね。

 それと、説明板に「専門工人」という言葉がありますが、私は縄文時代中期にはすでに分業制ができていて、弥生時代に至っては今でいう「職業」のようなものがハッキリしていたと考えています。

 弥生時代といえば「米作り」を最初に思い浮かべる人は多いと思いますが、農民だらけだと人びとの生活が成り立ちませんので、狩猟民もいれば漁民もいるし、様々な職人や技術者もいるし、物を流通させる人びともいるし、それらの上位に君臨する支配者層もいればその下で働く公務員や兵士のような人びともいたわけで、多種多様な人びとがそれぞれの得意分野で活躍していたのが弥生時代だと考えます。

 そう考えると、現代とそれほど変わりませんね。

2019年5月18日(土)


 クラブツーリズムにて案内してきましたが、探訪記事は割愛させていただきます。

2019年9月14日(土)


 クラブツーリズムにて案内してきましたが、探訪記事は割愛させていただきます。

2019年11月30日(土)


 クラブツーリズムにて案内してきました。

 今回の宿泊場所は、近鉄・大和八木駅近くの「カンデオホテルズ奈良橿原」だったのですが、このホテル凄く良いです!





 ⇒「カンデオホテルズ奈良橿原」の公式サイトはこちら

 新しいホテルなので内装が綺麗なのは当然だとして、お風呂からの景観が素晴らしく、男風呂は東方向の眺望が開けているため、ヤマト王権発祥の地および藤原宮方面が一望でき、歴史マニアには堪らないのです。

 素っ裸で天皇の宮殿方向を見下ろしていました(不敬罪で捕まりそう)。

 宿泊代は、素泊まりならシーズンにもよりますが、普通のビジネスホテルとそれほど変わりません。

 ちょっと値がはりますが、もし余裕があったら朝食をアドオンすることをお勧めします。

 料理も美味しいし、朝食会場からの眺望も素晴らいですよ。

 それと、大和八木駅近くで私がよく行くお店がこちらの「大和名代うどん つくし八木店」です。



 ホテルと反対側(北側)の近鉄デパートへ向かうガード下(アーケード街)にあります。

 学割もあるため若いお客さんで賑わっているのですが、個人的にはここのカレーうどんは最高なのだ。



 ビールなどのお酒とセットの「お通しセット」もありますよ。



 大和八木で時間があるときは必ず食べてきます。

 なお、大和八木駅の改札に入って向かって左側にあるパン屋(売店)のサンドウィッチもお勧めしますよ。

 夕方になるとタイムセールをしてお得度が増します。

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『前方後円墳国家』 広瀬和雄/著 2003年(中公文庫にて2017年再刊)
・『弥生の王都 唐古・鍵』 田原本町教育委員会/編 2013


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