日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

佐紀石塚山古墳(現・成務天皇陵)/佐紀御陵山古墳(現・日葉酢媛陵)|奈良県奈良市 ~密着して築造された2基の超大型前方後円墳~

2020-08-01 15:14:13 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県奈良市山陵町




現況


皇陵

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


前方後円墳集成編年:佐紀御陵山古墳=3期、佐紀石塚山古墳=4期

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:佐紀御陵山古墳=207m、佐紀石塚山古墳=218m
段築:
葺石:
埴輪:

主体部



出土遺物



周濠




 

3.探訪レポート                         


2019年1月3日(木)


 ⇒前回の記事はこちら

 暫しの休憩を経て探訪再開です。

 おっと、ここでも近鉄が!



 今日は結構近鉄と遭遇するので鉄道好きには嬉しい。

 つづいて、佐紀石塚山古墳(現・成務天皇陵)と佐紀御陵山古墳(現・日葉酢媛<ヒバスヒメ>陵)が尾根の上に無理くり隣接して造られている面白ゾーンを目指します。

 お、細い水濠と墳丘が現れました。



 佐紀石塚山の後円部ですね。

 天皇陵なので当然侵入できません。



 しかし、大王の古墳にしては随分と細い周濠ですね。



 ジャンプして墳丘に行けそう。

 後円部の形に添って遊歩道が整備されています。



 今見ている佐紀石塚山を築造するときは、すでにこれから現れる佐紀陵山古墳があったのですが、どうしてもその横に造りたかったらしく、かなり無理くり築造しました。

 各地の古墳を見ていると、築造者はどうしてもこの場所に造りたかったんだなあと思われる、立地に無理のある古墳に巡り合うことがあるのですが、古代の人びとが拘ったものとはいったい何だったんでしょうね?

 なんか、前方後円墳のようなものがある。



 前方後円墳に見えますが、『シリーズ「遺跡を学ぶ」093 ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』の図を見ると、2基の方墳のようで、陪塚とされています。

 左手前方に佐紀陵山古墳が現れましたよ。



 この遊歩道は、ようするに両古墳からすると周堤にあたるわけですね。



 周堤を2基の古墳で共有している様子は、弥生時代の方形周溝墓を思い出させます。



 しかし、この2基は本当にピッタリくっついて造られていますね。

 佐紀御陵山の後円部の周濠。



 佐紀石塚山古墳の墳丘。



 段築が分かります。



 佐紀御陵山の周濠が少し広くなりました。



 佐紀御陵山の墳丘。



 しかし、ヤマトではこんな丘の上にも水濠を造るんですね。

 佐紀御陵山には、造り出しのようなものが見えますよ。





 両古墳の後円部側から侵入して、前方部側へ歩いているわけですが、前方部側の濠の幅は広いです。

 歩いてきた遊歩道を振り返ります。





 水が凍っていますね。





 では、佐紀石塚山古墳の拝所へ行ってみましょう。



 佐紀石塚山古墳は、宮内庁により狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)として成務天皇陵に治定されている、墳丘長218メートルの前方後円墳です。





 標柱。



 拝所へ至る道から西側の丘の麓を見下ろしてみましょう。



 まあ、見下ろすというのは大げさですが、拝所と西側の秋篠川とでは200mほどの比高差がありますよ。



 なお、左手の森には、先ほど訪れた佐紀高塚古墳(現・称徳天皇陵)の墳丘が隠れています。

 大雑把に言って、石塚山や陵山の軸線は南北方向なのですが、高塚は東西方向で、今尾氏は、この位置関係を、行燈山古墳に対するアンド山古墳や南アンド山古墳、渋谷向山古墳に対する上の山古墳と同様な意味があるのではないかと推測していますが、もちろんそういう事実は分かっても、古代人が何を考えていたのかは分かりませんね。

 つづいて佐紀御陵山古墳の拝所へ行きましょう。

 佐紀御陵山の前方部の周濠。



 こちらは宮内庁により狹木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)として日葉酢媛陵に治定されている墳丘長207メートルの前方後円墳です。







 ところで、佐紀陵山古墳は大正5年(1916)にプロの古墳盗掘集団によって暴かれてしまい、それを復旧する際の工事で、超大型の蓋(きぬがさ)形埴輪が見つかり、そのレプリカが橿原考古学研究所附属博物館に展示してあります。


※橿原考古学研究所附属博物館にて2016年10月16日に撮影

 この蓋形埴輪は、笠部の直径が2m以上もあり、佐紀御陵山の後円部墳頂に立てられていたようです。

 ※後日註:同博物館は2020年8月1日現在、長期の休館状態となっており、私は奈良に行くたびにいろいろな人に再開時期を訊ねるのですが、はっきりとした情報は得られていません。素晴らしい博物館なので再開が楽しみです。



 なお、成務天皇陵と日葉酢媛陵が並んで築造されているため二人は夫婦かと思われるかもしれませんが、日葉酢媛は11代垂仁天皇の皇后ですから、第13代成務天皇のお祖母ちゃんになります。

 ちなみに、長屋王邸跡のページでもお話ししましたが、垂仁天皇には元々狭穂姫という皇后がいたのですが、狭穂姫は兄の狭穂彦が謀反を起こしたときに兄に殉じてしまいます。

 狭穂姫は死の間際、自分の代わりに丹波出身の日葉酢媛姉妹を妻として迎えて可愛がってあげてくださいと遺言し、日葉酢媛は垂仁の皇后となりました。

 佐紀陵山古墳が日葉酢媛の陵というのは時期的にもまた皇后の陵としての規模的にも妥当だと考えます。

 さて、ここまで佐紀古墳群の4つの大型ないし超大型古墳を見てきました。

 まあ、見てきたといっても外見上はただの山なわけでから、本当に外から見ただけなのですが、それらをここで一旦整理しようと思います。

 ではもう一度配置図。


※稲用章作成(⑦ウワナベ古墳の墳丘長は255mに訂正します)

 佐紀古墳群は大きく西側の群と東側の群に分けることができますが、ここまで見たのは西側の群です。

 ・佐紀高塚古墳(称徳天皇陵) 127m
 ・五社神古墳(神功皇后陵) 276m
 ・佐紀石塚山古墳(成務天皇陵) 218m
 ・佐紀御陵山古墳(日葉酢媛陵) 207m

 少し距離が離れていますが、これらに宝来山古墳(現・垂仁天皇陵・240m)を含めて、白石太一郎さんの説で200m以上の古墳の築城の順番を示すと以下の通りになります(『古墳から見た倭国の形成と展開』)。

 1.佐紀御陵山古墳(現・日葉酢媛陵) 207m
 2.宝来山古墳(現・垂仁天皇陵) 240m
 3.佐紀石塚山古墳(現・成務天皇陵) 218m
 4.五社神古墳(現・神功皇后陵) 276m

 上の4つの古墳が4世紀半ばから末までの約半世紀にわたって次々と築造されました。

 これからさらに佐紀古墳群の東群を歩きますので、それらを見た後、最終的なまとめをしようかと思います。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・『古墳からみた倭国の形成と展開』 白石太一郎/著 2013年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」093 ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』 今尾文昭/著 2014年
・『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭/著 2018年


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