*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県奈良市山陵町
現況
皇陵
史跡指定
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
前方後円墳集成編年:3期(ただし、近年では築造年代はもっと下ると考えられている)
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:275m
段築:
葺石:
埴輪:
主体部
出土遺物
周濠
3.探訪レポート
2019年1月3日(木)
⇒前回の記事はこちら
佐紀高塚古墳を出て、東側の丘を見ながら北へ向かって歩きます。
踏切を渡ると、鳥居がありました。
五社神(ごさし)古墳の南側にある八幡神社ですね。
この八幡神社がある丘も前方後円墳のような感じがするのですが違うそうです。
でも怪しいなあ・・・
造りかけてやめたんじゃないの?
少し歩くと道路端に陵墓の掲示が現れました。
五社神古墳にはここから登って行くんですね。
丘を登って行きます。
眺望はあまり効いていませんが、南西方向かな?
はーい、拝所がありました。
一般的には五社神(ごさし)古墳と呼ばれているこの古墳は、宮内庁によって狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)に治定されており、墳丘長275メートルを誇る佐紀古墳群でもっとも大きな前方後円墳です。
神功皇后は第14代仲哀天皇の皇后で、日本書紀によれば夫の死後、朝鮮半島の国ぐにをやっつけたスーパーウーマンとして有名ですね。
もちろん、朝鮮半島の国ぐにをやっつけたというのは、何かの史実の反映とみる研究者もいますが、それそのものは史実ではありませんよ
それどころか、その実在性も疑われています。
さらに、夫の仲哀や側近の武内宿禰(たけしうちのすくね)も実在が怪しく、仲哀の父である日本武尊(やまとたけるのみこと)もまた同様です。
私は、奈良盆地の南部を本拠とした初期ヤマト王権は、12代目の景行天皇の子供あたりでいったん途絶えて、九州からやってきた応神天皇が婿入りの形式でヤマト王権を継いだと考えています。
そのつなぎの部分に登場するのが、13代成務、14代仲哀、そして神功皇后であり、彼らによって日本書紀の基本コンセプトである万世一系を造っているのではないかと考えています。
ただし、彼らが完全に架空かどうかは分からず、モデルとなった人物がいて、その人物が佐紀古墳群に葬られているのではないでしょうか。
実は江戸時代の頃は神宮皇后の陵は五社神古墳ではなく、佐紀陵山古墳だと言われていたのですが、幕末になって五社神古墳に変えられました。
それはともかく、この佐紀丘陵上に神功皇后や後で訪れますが垂仁や仁徳の皇后の陵の伝承があることから、私は佐紀古墳群は代々の天皇の妻を輩出する勢力の墓域ではなかったかと思うのです。
つまりは、この古墳群出身の女性たちの力によって初期ヤマト王権の家系と応神以降の家系がうまく繋がったのではないかと考えているのです。
天皇家は女系によって万世一系が保たれていると私は考えています。
現況は木々に覆われているため、まったく形状が分かりませんがこの森の中に超大型前方後円墳が隠れているんですね。
ところで、これは私の言い回しなのですが、前方後円墳の規模を表現するときは以下のような決まりを設けています。
・大型 ・・・ 100m台
・超大型 ・・・ 200m台
・巨大 ・・・ 300m台
・超巨大 ・・・ 400m台
以上は大体の目安なんですが、超巨大は誉田御廟山古墳(現・応神天皇陵)と大仙陵古墳(現・仁徳天皇陵)しかありませんが、大仙陵は最近の計測によって、500mを超えていることが分かりましたね。
さて、時刻は10時半です。
朝ホテルを出立して、ここまで3時間、休憩を取らなかったので少し座って読書でもしましょう。
風がないせいか寒く感じることもなく、とても気持ちがいいです。
あ、そういえば鞄にはミカンが一つ入っている。
さっきの田道間守の公園で食べれば良かったんですが、ベンチが湿っていたので休憩できず食べられませんでした。
ここで頂こう。
ミカン、美味い。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・『古墳からみた倭国の形成と展開』 白石太一郎/著 2013年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」093 ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』 今尾文昭/著 2014年
・『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭/著 2018年