*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県奈良市山陵町85
現況
皇陵
史跡指定
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
前方後円墳集成編年:不詳
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:127m
段築:
葺石:
埴輪:
主体部
出土遺物
周濠
盾形
3.探訪レポート
2019年1月3日(木)
⇒前回の記事はこちら
関東の古墳マニアは、墳丘に登ることと後期の古墳であれば横穴式石室に入ることによって欲望を充足させるのですが、奈良に来るとそういった機会になかなか遭遇しないと思います。
超大型の天皇陵などは単なる山にしか思えず、面白くもなんともないと思っていましたが、何度もそういった超大型古墳を訪れるにつれ、次第にそれはそれで楽しいものだと思い始めています。
さきほどの垂仁天皇陵も美しい古墳でした。
その垂仁天皇陵に引き続き、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群を歩きます。
なお、橿原考古学研究所は佐紀古墳群と呼んでおり、今はそう呼ぶ方が多いようです。
地図を見ると、先ほど通過した尼ヶ辻駅から西大寺駅まで1駅電車に乗ると時間が短縮できそうなので、電車に乗ることにします。
本来であれば歩いていくのですが、膝が痛いと歩くのが大変なんですね。
まあ、怪我ですから治しますが、46歳にしては本当に情けない。
近鉄に乗って大和西大寺駅で下車。
お寺マニアであれば西大寺に行くと思いますが、もちろん私も興味があるものの、今日は優先順位的に古墳へ直行します。
秋篠川を渡ります。
前方の丘が近づいてきました。
あの丘の上の森の中に大型の前方後円墳が潜んでいるんですよ。
あーなるほど、ショッピングセンターと駐車場の間に川があるため、空中廊下があるんですね。
お、鳥居が見えましたよ。
まずはあそこへ行ってみましょう。
誰の陵でしょうか?
称徳天皇ですか!
称徳天皇は聖武天皇の娘で、つまりは女帝です。
しかも、最初は46代孝謙天皇として即位しますが、48代称徳天皇として重祚しているのです。
その間、奈良の都は激動の時代で、称徳の御代には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が起き、称徳天皇は道鏡との男女関係がいろいろと取り沙汰されています。
でも私的には道鏡は必要以上に悪口を言われているように感じるんですよね。
なお、称徳天皇の陵は宮内庁により高野陵(たかののみささぎ)と呼ばれていますが、一般的には佐紀高塚古墳と呼ばれる墳丘長127mの前方後円墳です。
こちらも陵墓のため詳細は不明ですが、奈良時代後半の天皇が前方後円墳に葬られた可能性はありませんね。
『続日本紀」によると、称徳天皇は神護景雲4年(770)8月4日に53歳で崩じ、8月17日に大和国添下(そうのしも)郡佐貴郷の高野山陵に葬られましたが、今尾氏によるとその場所は西大寺の西であり、それでも西大寺の東側のこの古墳を称徳陵としたのは、中世後期の西大寺の経営戦略によるものとしています、
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4.補足
5.参考資料
・『続日本紀(下) 全現代語訳』 宇治谷孟/著 1995年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」093 ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』 今尾文昭/著 2014年
・『天皇陵古墳を歩く』 今尾文昭/著 2018年