高屋築山古墳は、宮内庁によって安閑天皇の陵および神前皇女の墓に治定されている古墳時代後期前半の前方後円墳です。
陵墓
発見容易
説明板あり
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
大阪府羽曳野市古市5丁目
現況
陵墓
史跡指定
出土遺物が見られる場所
東京国立博物館
2.諸元
築造時期
6世紀前半(説明板)
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:122m
後円部径:78m、高:13m、前方部幅:100m、高:12.5m
葺石:あり
埴輪:円筒、形象
(以上、説明板より)
主体部
不明
出土遺物
ササン朝ペルシア産と思われるガラス碗
周堀
あり
3.探訪レポート
2020年9月20日(日) 古市古墳群探訪 その1
この日の探訪箇所
高屋築山古墳(現・安閑天皇陵および神前皇女墓) → 白鳥陵古墳(現・日本武尊陵)
王寺駅南口の東横インを出発します。
当該ホテルはオープンしてまだそれほど日が経っていないため、「サンキュー・ゴメンネキャンペーン」をやっていて3,950円で泊まれました。
いつも思うんですが、「サンキュー」はいいとして、なんで「ゴメンネ」なんでしょうかね。
別に謝ることはないと思うのですが。
でも、「サンキューご苦労キャンペーン」だと偉そうな感じがします。
しかも、一泊395,960円になっちゃう。
そんな宿泊代の高い東横インは嫌だ!
空模様は薄曇りですなあ。
今日は古市古墳群をめぐりますので、まずはJR関西本線に乗って柏原駅まで行きます。
関西本線は大和川の両岸を行ったり来たりします。
いつかは奈良県と大阪府の間の古道を歩いてみたいですし、大和川の難所と言われる「亀の瀬」に行ってみたい。
もちろん現在の亀の瀬は古墳時代とは様相が違うと思いますが、古代の大和川の水運について気になっている人間としたらぜひとも現場を見てみたいのです。
柏原駅では近鉄道明寺線に乗り換えです。
乗ってきた関西本線。
関西ではまだまだ201系が活躍していますよ。
振り返ると二上山が見えます。
関西本線と道明寺線は同じホームなんですね。
道明寺線が入線してきました。
電車のシートに座ってから気づきましたが、乗る前にホームにある機械にSUICA(厳密には関西はSUICAではないですが)をタッチしないといけないんですね。
でももう電車が発車しそうだし、古市駅で精算してもらえばいいか。
柏原駅を出発し、柏原南口に停まり、大和川の江戸期の人工河川部分を渡り、道明寺駅に着いたらもう終点です。
道明寺線ってこれだけの区間なんですね。
ここで今度は近鉄南大阪線に乗り換えです。
私が乗りたいのとは逆方向のあべの橋行きが止まっています。
古市方面へ行く電車はまだ来ないので、ホームでちょっと撮影タイム。
あべの橋行きが出発して行きました。
二股に分かれていますね。
左があべの橋方面で右が先ほどやってきた柏原方面です。
柏原行きが出て行きました。
では、南大阪線に乗ります。
少し走るとすぐに右手に山が見えてきましたが、応神陵ですね。
左が麓に誉田八幡宮がある後円部で右が前方部です。
でかいですねえ。
しかも現状のように森ではなく、白い葺石と赤い埴輪で表装された巨大築造物をイメージすると魂が抜けそうになります。
※註:奇しくも上の写真に偶然写っているファミマは、百舌鳥・古市古墳群のツアーの際に協力していただいているファミマで、古市古墳群歩きはそこからスタートします。
柏原駅を出ると古市駅は1駅です。
おっと、車両の切り離し作業をしていますよ。
見過ごすわけにはいかぬなあ。
大丈夫たるもの、男の子より前に行ってはいけない!
離れた・・・
柏原駅でSUICAのタッチをしてこなかったので改札で精算を頼みます。
あれ、異様に時間がかかる・・・
なかなか駅員さんが戻ってこない。
たかだかSUICAの清算にどれだけの手間がかかるのだろうか?
これはもしかして、柏原駅でタッチしなかったことに対する報復か?
変なことを考えるのに十分なくらいの時間を待たされて、ようやく駅員さんが戻ってきました。
「ずいぶん時間かかりますね」と嫌味を言って改札を通ります。
すみません、悪いのは私の方です。
古市駅。
あ、でも最初の目的地である安閑天皇陵へ行くには逆側だった。
古市古墳群の説明板があります。
下の方に赤い点が見えますがそこが現在地で、本日のファースト古墳である安閑天皇陵は、そこから南側にあります。
でもこの説明板は古墳の名前が書いていないので、何者かによって破壊されかかった形跡のあるこちらの地図の方が良いかも知れません。
東口には、羽曳野市の観光案内所がありました。
立ち寄って、案内所の方から少しリサーチして出発です。
古市温泉。
お風呂にゆっくり浸かりたいなあ・・・
南へ向かって歩いていると墳丘の森が見えてきました。
安閑天皇陵はほぼ東西の軸ですから横腹を見ていることになります。
左側が後円部、右側が前方部です。
一旦丘陵を降りて、石川の支流を渡り、踏切を渡ると登り坂になりました。
安閑陵もご多分に漏れず丘の上にあります。
見えた―。
東側の後円部側ですね。
説明板発見!
後円部の濠はきれいじゃないなあ・・・
拝所の方へ回ってみます。
Do not enter.
急に昔のRPGのメッセージを思い出しました。
南側のストレートライン。
あのマンションの階段に登れば少し高いところから古墳が見られるだろうなあ・・・
でも、そういうことをしちゃいけませんよ。
国道170号線に出て少し北上し、前方部の拝所へ到着しました。
いつもの。
あーそうか、安閑天皇だけでなく、神前皇女(かんさきのひめみこ)の墓としても治定されているんですね。
神前皇女も継体天皇の子ですが、母は安閑の母とは違う坂田大胯王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘・広姫です(したがって、皇室典範では「陵」ではなく「墓」とされます)。
神前皇女に関しては、日本書紀を読んでもまったくその事跡が不明なのですが、安閑紀の一番最後に、「天皇を河内の古市高屋丘陵に葬った」とあり、それに続けて「皇后春日山田皇女と天皇の妹の神前皇女も合葬した」とあります。
ただし、宮内庁の治定では、上述の通りここを安閑の陵および神前皇女の墓とし、ここより少し南にある高屋八幡山古墳(復元墳丘長は85m)を春日山田皇女の陵としています。
これは日本書紀講座で話そうと思っているのですが、継体・安閑・宣化・欽明と続く時代は、まず天皇の生没年が不明瞭で、年代的に矛盾点が多すぎるのです。
※註:オンラインの日本書紀講座の「第11回 仏教の伝来と大型前方後円墳築造の終焉」で解説します(オンライン講座に関しては、こちらのページを参照ください)。
上述の通り、安閑紀では安閑の皇后春日山田皇女を合葬したとありますが、春日山田皇女は依然存命で、欽明紀には宣化天皇が崩じた後、欽明天皇が春日山田皇女に対して天皇の位について欲しいとお願いしているのです。
日本書紀を読む限りでは、6世紀前半になっても天皇の系図や各種事跡の実年代が不明瞭で、安閑・宣化朝と欽明朝が「二朝並立」したという説を偉い先生方までが信じているほどです。
私は二朝並立論は採用しませんが。
安閑紀に記された事跡の実年代は不明なわけですから、関東人としては気になる有名な「武蔵国造の乱」の実年代も不明になります。
ただし、大雑把に6世紀前半のこととして考えていいと思うので、そうなると、後の令制武蔵国の範囲で見たら最大勢力はやはり埼玉古墳群ですから、武蔵国造の乱の主役は埼玉古墳群の被葬者であったことは確実視していいと思います。
武蔵国造の乱についても上述のオンライン講座で話そうと思います。
それはそれとして、宮内庁は日本書紀の記述を一部採用して、安閑天皇とともにその異母妹の神前皇女を合葬しているとしており、これもまた面白いです。
宮内庁が日本書紀の記述を無視して、春日山田皇女の陵を別の古墳に治定しているのは、当時夫婦は違う墓に入ったという比較的最近分かった考古学的成果とも合致しており興味深いです。
拝所。
安閑天皇陵は墳丘長が122mで、後期古墳ですから前方部が広がってはいるものの、この角度で見てもすぐに墳丘のエッヂ部分が見えるほどですから、その大きさ(小ささ)のほどが分かります。
ただし、拝所は中軸線上ではなく、少し北側に寄っています。
では、この122mの高屋築山古墳は果たして安閑天皇の陵として相応しいのでしょうか。
白石太一郎さんの編年図をみても6世紀前半としていますし、時代に関しては合致します。
大きさに関しては、122mというのは同じ時期の関東地方に林立した大型古墳とほとんど同じ大きさで、果たして天皇の陵にするにはどうかな、という感じがします。
ただ、古墳時代後期になると古墳というものに対する価値観も変わってきていますから、大きければよいという前期・中期とは違う考えに基づいて築造されるようになってきていると考えることもできます。
では、この高屋築山古墳が安閑の陵ではないとしたら、他にそれに該当しそうな6世紀前半に築造された200mも300mある超大型古墳はあるのでしょうか?
それがないんですよね。
安閑の父である継体天皇の陵であることが間違いないとされている今城塚古墳ですら190mですから、やはり6世紀は前期や中期のような異様な大きさで競う時代ではなくなってきていると考えていいでしょう。
ただしその場合は、墳丘長330mもある五条野丸山古墳の大きさはちょっと異常ですから、それについてはまた別に考察します。
では、次は白鳥陵古墳へ行ってみましょう。
(つづく)
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『古墳からみた倭国の形成と展開』 白石太一郎/著 2013年