
戸場口山古墳はすでに墳丘は消滅しており、詳しいことはほとんど分かりませんが、終末期に築造された54mの古墳であることは間違いなく、二重の周堀の存在を考えても7世紀に至っても埼玉古墳群の勢力が大きな力を持っていたことの証左となる古墳です。




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*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
埼玉県行田市埼玉4834(埼玉県立さきたま史跡の博物館)
現況
民家ほか
史跡指定
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
決め手に欠けるが7世紀前半から中葉か
墳丘
形状:方墳
一辺:42m
墳高:不詳
段築:不詳
葺石:なし(埼玉古墳群では丸墓山古墳以外では葺石は見つかっていない)
埴輪:なし
主体部
不明だが、横穴式石室の可能性が極めて高く、土取りの際に凝灰質砂岩の出土があったとされる
出土遺物
須恵器甕が一つのみ
周堀
二重
3.探訪レポート
2021年2月6日(土)2021年ファースト古墳めぐり⑦
この日の探訪箇所
栢山天王山塚古墳 → 塩古墳群 → 宮塚古墳 → 瓦塚古墳 → 奥の山古墳 → 中の山古墳 → 戸場口山古墳 → 鉄砲山古墳 → 浅間塚古墳 → 二子山古墳 → 将軍山古墳 → 稲荷山古墳 → 白山愛宕山古墳 → 神明山古墳 → 白山古墳 → 丸墓山古墳 → 愛宕塚古墳
⇒前回の記事はこちら
戸場口山古墳はすでに墳丘はないそうなので、今まで一度も訪れたことがありませんでした。
でも、古墳跡だとしても現地を見ておくことは必要だなと思っており、ようやく今日初めて現地へ行きます。
公園が設置した説明板の地図によっては、戸場口山古墳もきちんとプロットしてあるものもありますから、説明板でも立っていればいいなと淡い期待を抱いて向かいます。
中の山古墳の墳丘南側面に沿って造られた道を歩きますが、この場所はもともと中の山の周堀の中です。
お、あの森がそうですね。

たまに古墳跡と言っても僅かに墳丘が残っている場合があるのですが、ここからではそれらしきものは目視できません。
やはり、記録に残っているように大正7年以降に複数回の土取りによって墳丘が消滅したというのは事実なのでしょう。
とりあえず、周囲を歩いてみることにします。
東側の路地を歩き、南側の普通に車が通れる道まで来ましたが、説明板とかはないですね。
西側からの眺め。

はい、何もなかったです!
でも、何もないことが確認できて良かったです。
中の山古墳前方部まで戻ってきました。
埼玉古墳群の周辺を見てみると、6世紀後半には現在言われている史跡の埼玉古墳群内の古墳が小型化して、周囲に100m級の若王子古墳、小見真観寺古墳、高山真名板古墳、そして本日の最初に訪れた栢山天王山塚古墳が築造されることから、「埼玉古墳群の勢力が衰えた」という言説をたまに聴きます。
これはこれで研究者の考え方の現れですから私は否定しませんが、この考えのもとになっているのは、埼玉古墳群と上述の若王子古墳以下の4墳が別勢力であるという考えです。
それとは別にそれらの古墳は埼玉古墳群を中心とした一つの勢力であったとする考え方もあり、私はこちら派で、埼玉古墳群の勢力が6世紀後半にさらに巨大化して、少し離れた場所に首長墓や一族の墓を築造するまでに発展したと考え、それが日本書紀の安閑紀に記された「武蔵国造の乱」の時代背景だと考えています。
武蔵国造の乱として記されている内容は、安閑元年に決めつける必要はなく、日本書紀を読めば分かりますが、継体から安閑、宣化、欽明に至る時代は、朝鮮半島での出来事を除けば実年代を決定することは難しいです。
ですから、おそらく上毛野氏の史書のなかに記録されていたであろう、武蔵国造の乱の元ネタの事件が発生した時期は、6世紀半ばから後半までの広い範囲で見ればよいと考えています。
この時代設定は、国造制の東日本への普及時期を考えると妥当ではないでしょうか。
なぜこの話をするのかというと、埼玉古墳群の勢力は6世紀後半になっても、また終末期に至っても決して凋落していなかったということを言いたいからです。
この戸場口山古墳の墳丘規模は42mで、しかも二重の周堀を備えており、外堀の一片の長さは80mにおよぶと推定されていることから、同時代の7世紀前半の関東地方の諸勢力と比べて決して劣ってはおらず、やはり无邪志国内ではナンバーワンの地位にいることは間違いないです。
惜しむらくは既述した通り、戸場口山古墳が大正7年以降に複数回にわたって土取りがされて完全に破壊されてしまったことです。
そのため、今となっては主体部を含め戸場口山がどんな古墳だったのかほとんど分からず、築造時期に関しても遺物は須恵器甕一点のみでしかも時代を特定できないものであるため、関東地方の他地域の動静などを勘案して、7世紀の前半から中葉にかけてとしか言えず、もっと細かな時代比定はできません。
方墳という形状からして、7世紀前半の蘇我馬子から蝦夷・入鹿にかけての政権下では、かなり重要視されていたことが分かります。
埼玉の王の力が凋落するのは、蘇我政権が倒れた後、つまり大化改新以降で、その時期に「埼玉潰し」が行われたと考えています。
それでは、「埼玉古墳群」に戻って、続きを見てみましょう。
⇒この続きはこちら
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『埼玉の古墳 北埼玉・南埼玉・北葛飾』 塩野博/著 2004年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」016 埼玉古墳群』 高橋一夫/著 2005年
・『史跡埼玉古墳群 総括報告書Ⅰ』 埼玉県教育委員会/編 2018年