1.基本情報
所在地
千葉県市川市国府台2-8-8
現況
東京医科歯科大学構内にある
史跡指定
なし
出土遺物が見られる場所
市川市考古博物館
2.諸元
築造時期
6世紀後半
被葬者像
「4.考察」を参照
墳丘
形状:前方後円墳
墳丘長:65m
段築:不明
周溝:
主体部数:1基
埴輪:あり
葺石:
周溝
主体部
凝灰岩質砂岩(磯石)切石積みの横穴式石室
全長が7.6m、玄室は長さが4.4mで幅が1.6~1.8m、羨道の長さが3.2mで幅は1.2m
玄室は片袖式
出土遺物
埴輪、武具、馬具
3.探訪レポート
市川の古代遺跡と松戸・鎌ヶ谷の小金牧跡探訪③ 2020年5月30日
⇒前回の記事はこちら下総国府跡の現状を見て、再度松戸街道に出ました。
反対側の歩道に渡り北上します。
こちら側には和洋女子大のほか、大学付属や公立の中高がひしめき合っています。
一大教育ゾーンになっていますが、もしかしたら古代も国府の教育機関がこの辺に有ったのかもしれませんよ?
目指す法皇塚古墳は東京医科歯科大学の構内にあります。
あ、医科歯科大学発見。
今はいろいろな施設でセキュリティが厳しくなりましたが、大学の構内って相変わらずオープンですね。
それではお邪魔します。
構内図がありました。
ちゃんと古墳が書いてある!
これは絶対古墳を見に来た人のために設置した図ですよね。
行ってみましょう!
あれですね。
ところで、構内には人影がまったくありません。
今日は土曜日ですし、コロナの影響でここずっと学生さんも学校には来ないんですよね。
そういえば、大学生ではなくて小中学生の話になりますが、著名な進学校に通う子供たちはコロナ騒ぎで自宅にいても当然ながら自主的な学習に余念がないそうです。
その一方、先日外で食事をしていたら近くにいた若いママさんたちが話をしていて、「うちの子は本なんか読まないから読書感想文は本が原作になっている映画のDVDを見せて書かせるわ」と話していました。
そうしたらもう一人のママが「本と映画は内容が違うときがあるからその辺はネットで確認しないとバレちゃうわね」と応じていました。
私自身が学歴が無いので説得力がないですが、「学校での勉強がすべて」とはいわずとも、学校の課題に対して横着してはいけませんよ。
こういった学習に取り組む低い姿勢、というか「楽をして乗り越えていけばよい」というマインドでいると、社会に出た後、年齢を重ねるにつれて人生全体に重大な影響を及ぼしていくわけですから、お母さんたちがあれじゃなあと思いました。
あ、変な方向に話がズレました。
古代に戻ります。
法皇塚古墳には立派な説明板がありますよ。
詳しい説明が書かれています。
明治時代にこの辺が軍事施設化されたときも裾の部分以外には手を加えられなかったようで良かったですね。
復元すると墳丘長65mの前方後円墳となり、先ほど見た弘法寺古墳よりも大型です。
長軸は江戸川の河岸に合わせていますが、法皇塚古墳は段丘の縁の部分ではなく、現在の地図で見たところでは300m弱くらい内陸なので、江戸川に浮かべた船からは角度的に見えませんね。
まさか武蔵野台地側からは見えないと思うので、景観についてはもう少し考えてみる必要があります。
遺物は市川考古博物館に展示してあるそうで、コロナ前の計画では一緒に見学しに行く予定でしたが、今は休館中なので、再開したら見学に行きたいと思っています。
精密ではないですが、墳丘図もあります。
説明文には「中段」という言葉が見られるので3段築成だったのでしょうか。
だとすると後期古墳で3段は珍しいです。
では、実際の古墳を見てみましょう。
墳丘の裾には道があって周囲が探れるようです。
西側から回ってみましょう。
擁壁のような石がありますが、整備時のものでしょう。
横穴は南西部分に開口していましたが、今はその形跡は見れません。
墳丘に登りたいですが、裾を削ってしまったせいで結構な角度になっており取り付きやすそうな場所がありません。
前方部側に来ました。
今度は東側にまわってみますよ。
おや、こちら側は古墳に登りやすくなっている!
せっかくなのでちょっくら・・・
鞍部から前方部を見ます。
後円部。
前方部墳頂。
この石は葺石っぽいですが、説明板には葺石についての記述はありませんでしたね。
かつては神社が祀られていたようなので、その遺物かも知れません。
前方部から後円部方向を見ます。
今度は後円部から前方部を見ます。
後円部にあるこの木は立派ですよ。
では墳丘から降りましょう。
法皇塚古墳、良かった。
国府台の古墳については私自身がまだ知識が薄いので、もう少し情報を収集してから考察しようと思います。
では引き続き、国府台を歩いて里見公園へ行ってみましょう。
⇒この続きはこちら
歴史を歩こう協会 第7回歩く日⑤ 2020年6月14日(日)
⇒前回の記事はこちら
松戸街道を北上し、東京医科歯科大学へやってきました。
あ、今日は人影がある!
と言っても、遠いところに一人おり、私たちには関心が無いようどこかへ消えてしまいました。
それでは、古墳を見させていただきます。
先ほど見た弘法寺古墳も前方後円墳でしたが、法皇塚古墳はさらに大きく墳丘長は65mあり、しかも墳丘に登ることができます。
まずは説明板を見ていただきますが、出土遺物はこのあと訪れる予定の市川市考古博物館で見られますよ。
つづいて墳丘に登って観察してもらったら、次なる目的地である里見公園へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
4.考察
法皇塚古墳の構造と被葬者像(2020年6月15日)
法皇塚古墳が築造されたのは6世紀とされ、周辺の弘法寺古墳や明戸古墳などとの前後関係が気になりますが、関東南部では6世紀になるとそれまで大きな勢力が無かったり、無住に近かった場所に突如として大型古墳が築造されるケースが発生します。
千葉県内では横芝光町の芝山古墳群(殿塚・姫塚古墳)が有名ですし、隣の埼玉県では埼玉古墳群が著名です。
法皇塚古墳などを築いた国府台の勢力は、下総台地から西の東京低地に進出し、東京都葛飾区の柴又八幡神社古墳を構築します。
『東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』(高田大輔/著)によると、柴又八幡神社古墳では、埼玉県鴻巣市の生出塚(おいねづか)埴輪窯で生産された埴輪を使用していますが、法皇塚古墳でも同様で、法皇塚の場合は人物埴輪や家形埴輪は生出塚埴輪窯跡で製造された埴輪で、円筒埴輪は下総型埴輪とされます。
下総型埴輪というのはその名の通り後の令制下総国の範囲で見つかる埴輪ですが、造りがあまり凝っておらず、例えば人物埴輪の場合は一般的に手が短く、かつ指が表現されておらずヘラのようになっていたり、また脚も表現せずに円筒状になっているものも多いです。
そして、それらを焼いた窯もはっきりしておらず、それに比べると生出塚埴輪窯で焼かれた埴輪には精巧なものがあります。
ですから、埴輪を調達する際も限られた予算でするわけですから、重要なものとそうでないものできちんとコストを計算していたことが分かります。
なお、生出塚埴輪窯跡は現在普通の公園となっており行っても見るべきものはありませんが、鴻巣市の「クレアこうのす」内にある「歴史民俗資料コーナー」は、小さいスペースですが素晴らしい埴輪が並んでいますのでぜひ行ってみてください。
それと、千葉県には九十九里A/B型埴輪と呼ばれるものもあり、もしかすると「ユダヤ人埴輪」というとピンと来る人もいるかもしれませんが、下総型に比べると立派です。
そういった千葉県の埴輪を見比べるには、横芝光町の殿塚・姫塚古墳近くにある芝山町立芝山古墳・はにわ博物館がおすすめです(ややこしいですが、殿塚と姫塚は横芝光町にあり、芝山古墳・はにわ博物館は芝山町にあります)。
ところで、『市川市出土の埴輪』によると、昭和44年に法皇塚を発掘した際に採取できた埴輪片は558点で、そのなかである程度復元できたものは家形埴輪と男子人物埴輪頭部だけです。
家形埴輪は市川市考古博物館に展示してあります(以下、この項の写真はすべて同館で撮影)。
円筒埴輪は原則としてその大きさは墳丘の大きさに比例しますし、突帯の数にも墳丘の大きさに合わせたランクがあったのですが、6世紀後半になると、そういった決まりもルーズになってきました。
今風に例えて言えば、お金を出せば、墳丘の規模に見合わないグレードの高い円筒埴輪を埴輪窯から購入できるようになったのかもしれません。
法皇塚古墳の石室は、『市川市の古墳』によると、全長が7.6m、玄室は長さが4.4mで幅が1.6~1.8m、羨道の長さが3.2mで幅は1.2mで、石室の石材は凝灰岩質砂岩を切石積みしていたようです。
石室の開口部はくびれ部分に近いのかと思ったらそうでもありませんでした。
こちらの模型のグレーの部分が石室です。
凝灰岩質砂岩は、一般的には房州石と呼ばれており、鋸山から海岸部分に転落してきた石で、貝により穴がたくさん空いていますが、近年では三浦半島側でも同様な石が取れることが分かっており、実際のところは房州石だからといって千葉県産といえるかは微妙なようです。
石室の平面形は類例の少ない片袖式で、『江戸川の社会史』所収「石室石材が語る古墳時代の交流」(松尾昌彦)によると、群馬県には2例、埼玉県には8例、千葉県には3例しかありません。
法皇塚の石室の幅が奥行きに比べて狭いのは、柔らかい凝灰岩質砂岩を使用した場合に崩落を防ぐために仕方なくそういう設計になった可能性が高いです。
なお、市川市考古博物館の方の話によると、凝灰岩質砂岩は脆くて質が悪く、石の専門家はそれを「磯石」と称し、「房州石」といった場合はもっと質の良い石のことを指すそうです。
こういった事実を総合して石室を考察すると、石室の大きさに関しては多摩地域の30mに満たない円墳並のグレードで、65mもある前方後円墳にしては残念な感じがします。
石室を作る際にはやはり良い石が近くで取れないといけませんから、そういう点ではこの地域は不利なわけで、設計した人はまさか1400年以上あとの人間にケチを付けられるとは思っていなかったでしょう。
その代わり、副葬品はなかなかのもので、市川市考古博物館で見ることができます。
この写真の左側にある長方形の板状のものが挂甲のパーツ(小札)ですが、挂甲は法皇塚の被葬者が生きていた時代では最先端のヨロイで、『江戸川の社会史』所収「石室石材が語る古墳時代の交流」(松尾昌彦)によると葛飾地域では唯一の出土であり、千葉県全体を見ても十数基の古墳からしか出ておらず、令制の郡程度の広がりのなかに1つか2つということですので、法皇塚の被葬者は間違いなく6世紀におけるカツシカの王です。
カツシカの王はこのような武装をしていたと想像されます。
冑は、衝角付冑が出ています。
生出塚埴輪窯産の埴輪は千葉県富津市の内裏塚古墳群にも輸出されており、鋸山の房州石(磯石)は、埼玉古墳群の将軍山古墳でも使用されており、そういった物を運ぶ流通網が6世紀にはできていたわけですが、法皇塚古墳の被葬者はその支配地域からして、こういった物流にも関わっていたはずです。
この時代、中央政権の動きを見ると継体大王が新たな政権を発足させ、その後は蘇我氏が台頭してくる時代です。
蘇我氏は積極的に東国政策を推し進めていたと私は考えており、蘇我氏の政策の一環でこの国府台の地域にも新たな勢力が勃興したのではないでしょうか。
5.参考資料
・現地説明板
・『市川市の古墳』 市川市考古博物館/編 2004年
・『江戸川の社会史』 松戸市立博物館/編 2005年
・『東京の古墳を考える』 坂詰秀一/監修 2006年
・『東日本最大級の埴輪工房 生出塚埴輪窯』 高田大輔/著 2010年
・『シリーズ「遺跡を学ぶ」143 東京下町の前方後円墳 柴又八幡神社古墳』 谷口榮/著 2020年