日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

弘法寺古墳・真間山古墳・弘法寺・市川城|千葉県市川市 ~東京湾からの景観を意識して構築された後期の前方後円墳~

2020-06-15 14:21:17 | 歴史探訪

1.基本情報                           


所在地


千葉県市川市真間4-9-1 弘法寺



現況



史跡指定



出土遺物が見られる場所



2.諸元                             


築城時期



廃城時期



目で見られる遺構


土塁

3.探訪レポート                         


市川の古代遺跡と松戸・鎌ヶ谷の小金牧跡探訪① 2020年5月30日(土)


 白状しますと、下総の国分寺跡にはまだ行ったことがありませんでした。

 私はこんな本の著述にも参加しています。

 

 全国の国分寺について書かれたカタログ的な本で、こういう本は意外とないのでお勧めなのですが、こういう本のライティングをしていることから全国の国分寺を制覇しているように勘違いされることもあります。

 しかし決してそんなことはなく、私が探訪した国分寺は全国の半分くらいです。

 そして千葉県市川市にある下総国分寺跡は例のごとく「近いのでいつでも行ける」と思っているうちに後回しになっていたわけです。

 そもそも私は市川市の隣の松戸市の出身なので、かなり油断していたということもあります。

 しかしようやく決して重くない腰を上げて、「さてと、今週末に行ってくるか!」となったときに、運悪くコロナ騒ぎが本格化してしまったのです。

 そんなこともあり、延び延びになってついに昨日(5月30日)に訪れることができました。

 下総国分寺だけでなく、国府台城跡は以前、城跡を集中的にめぐっていた時からの懸案ですし、法皇塚古墳などの周辺古墳もこれまた懸案になっていたので、それらを一気に解消してきました。

 かつ、直前になって生まれ故郷の松戸の歴史を調べていたら、昔住んでいた場所の近くに江戸時代の小金牧の遺構がかなり残っていることに衝撃を受けたため、それらも可能な限り見てきましたよ。

 結局、20㎞以上歩いてヘトヘトになりました・・・

 それでは始めますよ。

*     *     *


 5時20分に出陣。

 京王線で笹塚まで行き、そこから都営新宿線に乗り換え千葉県市川市の本八幡駅へやってきました。

 地下通路を通って京成八幡駅前の地上に出て、朝飯が食べたいので松屋とかないかな?と探します。

 でも見当たらないので、コンビニでおにぎりを購入。

 昔は「X68000」を持っていた高校の同級生がこの近くに住んでいてよく遊びに来ましたし、彼とはよく自転車で二人乗りして、ニッケコルトンプラザの中にあった楽器屋さんにも遊びに行っていました。

 社会人になってからは仕事でもしょっちゅう来ていましたよ。

 あと、ライヴハウスの「Route Fourteen」にも何度か行ったなあ。

 と、懐かしい街ですが、今日は歴史探訪なので先を急ぎましょう。

 京成八幡駅で京成電車を撮影。



 ここから3駅、上野方面に戻って、国府台駅で下車。

 乗ってきた電車を撮影。



 あれ、こっちも3000系でしたね。

 京成電車もずいぶんと垢抜けましたが、私はやっぱり30年前の電車に思い入れがあります。

 ホームのベンチに座り先ほど買ってきたおにぎりを食べます。

 駅の西側はすぐに江戸川に架かる鉄橋なんですね。

 反対側に電車が来ました。



 これも3000系だ。



 他のがみたいな。

 ホームの先端に立ち、私にとっては「母なる川」である江戸川を眺めます。

 北側には国府台から続く丘が見えますね。

 

 東京方面。



 江戸川は中世の頃までは太日川と呼ばれ、遡っていくと上流は渡良瀬川だったんですよ。

 7時45分、探訪開始。



 国府台駅を出て北へ向かいます。

 最初に目指すのは弘法寺(ぐほうじ)。

 住宅街の隙間から国府台の高台が見えています。



 あの高台の上に弘法寺があるんだよなあ。

 お、この階段から登れそう。



 階段の次は上り坂です。



 坂を登り詰めると赤い門が現れました。



 「つまづいて ころんで 腹をたてる人 悟る人」

 良いことが起きたら誰かのお陰、悪いことが起きたら自分にも原因があると考えて生きていくといいですね。

 説明板というか、何か書かれているものがあります。



 古代まで由緒が遡れる弘法寺ですが、私のお目当ては境内にある古墳です。

 弘法寺古墳という後期の前方後円墳が境内のどこかにあるはずです。

 我が家のライブラリーには千葉県の古墳に関する資料が少ないこともあり、この周辺の古墳についての予備知識はほとんどありません。

 でも、歴史探訪をするときは予備知識が無い方がむしろ楽しめるんですよ。

 未知との遭遇はとても楽しい。

 さて、弘法寺古墳を探しましょう。



 弘法寺の由緒書きがありました。



 真間の手児奈(てこな)については、史料で云々ということは話せないので割愛しますが、この説明板に書かれている通り、この場所は少なくとも奈良時代には重要地点になっているわけですから、その当時に仏教の拠点があったと考えて間違っていません。

 さらに、手児奈(国造の娘)の話が残っていることから、奈良時代以前の国造の氏寺の存在まで想像をめぐらせてみると面白いです。

 なんかこの仁王門の脇の土盛りが怪しい。



 あとで確認してみましょう。

 仁王門。



 山号は真間山。



 国府台の隣の駅は市川真間駅と言います。

 子供の頃は「市川のママ」のことかと思っていたのですが、真間というのは地元の言葉で「崖」のことを言います。

 多摩地域だと「ハケ」と言いますね。

 でも面白いことに北総ローカルな言葉ではなく、群馬県には「大間々」という地名があり、渡良瀬川の流れによって形成された扇状地は「大間々扇状地」と呼ばれ、「ママ」というのは渡良瀬川~江戸川流域で使われた古語かもしれません。

 海の方向を眺めます。



 さきほど乗ってきた京成線の線路のラインが大雑把に言うと古代の海岸線ですから、このお寺が創建されたころには、このすぐ近くまで海が迫っていたわけです。

 それでは、怪しい土盛りを確認してみましょう。



 古墳のように見えるのですが、上に登ってみると東の方向へ向かって土塁状に延びています。



 前方後円墳の前方部かなと思いきや、さらに長く延びています。



 振り返ります。



 土盛りが終わったその先は地形が落ちていました。


 
 これは怪しい・・・



 でも、どうやらこれは弘法寺古墳ではありませんね。

 境内をもう少し歩いてみます。

 さきほどの赤い門の西側へ来ました。

 お、標柱発見!



 ありましたよ!



 6世紀後半から7世紀前半に築かれた、墳丘長43mの前方後円墳とあります。



 標柱があるのは後円部側です。

 墳丘の周りには柵があって中に入ることはできませんね。

 前方部側へ行ってみます。



 墳丘の反対側は崖となっており地形が落ちているようです。

 つまり、海からの景観を意識して築造されているのです。

 前方部墳頂には立派な木が。



 先ほどの標柱には、築造時期について6世紀後半から7世紀前半とあり、つまりは前方後円墳の築造時期としては最終時期に入ります。

 この古墳が造られた時期は国造の支配が行われていた時代ですが、『先代旧事本紀』の「国造本紀」にはこの地域の国造に該当するものは出てきません。

 ただし私は、「国造本紀」に記された国造がすべてではないと考えており、この弘法寺古墳やこれから訪れる予定の法皇塚古墳の存在から、この地域には大化前代に大きな勢力がいたことは確かです。

 さらに境内を散策してみましょう。













 ところで、最初に見た怪しい土盛りが気になります。

 関東だけでなく畿内やその他の地域で古墳が戦国時代に山城や砦に再利用されたケースは多く、また小さな円墳を土塁に取り込んで櫓台にするケースも多いです。

 そういうことから、私は今では戦国期の遺構を見るときには古代の古墳を再利用した物かどうか考えるようにしています。

 上述した通り、私はこの地域の古墳についての資料はあまり読んでいないので間違っているかもしれませんが、「怪しい土盛り」も古墳ではないでしょうか。

 しかも前方後円墳。

 戦国期にはこの近辺では2度の国府台合戦があり、古代からの要地でもあるので、戦国期に古墳を再利用して防御施設を作ったとしても不思議ではありません。

 というように、想像をめぐらせながら歩くのが歴史歩きの醍醐味ですね。

 仲間と歩くときは皆で「あーだこーだ」言いながら歩くのも楽しいですし、一人の時はしばしの沈思黙考を楽しむの良いです。

 それではつづいて、国府台を北上し、下総国府跡を見てみたいと思います。

 ※註:この場所には2週間後再訪し、その際に新たに分かったこともあるため、再訪時の探訪記録や「4.考察」を参照して下さい。

 ⇒この続きはこちら

歴史を歩こう協会 第7回歩く日② 2020年6月14日(日)


 ⇒前回の記事はこちら

 手児奈霊神堂に参拝し、国府台に登りますよ。



 この石段は一段の高さがあるので良い運動になりますね。

 まずは前回来た時に古墳を利用して造ったんじゃないかと思った仁王門脇の土塁を見ます。

 やっぱり前方後円墳に見えるんだよなあ・・・

 ※註:この日の夕方、市川市考古博物館の方にお聴きしたところ、周溝跡が検出されなかったということで古墳の可能性は極めて低くなりました。

 今回は前回見落としたものや、探訪の後に気づいたものをチェックして行きますよ。

 弘法寺の境内には真間山(ままさん)古墳という円墳があるということで、探してみましょう。

 「あれじゃないですか?」という金子さんの声に反応して遠くを見てみると、思っていたよりしっかりとした墳丘が見えました。



 これですね。



 でも実は真間山古墳は調査がされておらず、円墳かどうかは分からないのです。

 国府台砲兵の碑。



 そしてこちらは城の土塁跡と考えられているものです。



 そんなに土塁然としているわけではないですが、土塁に見えますね。



 真間山古墳を反対側か見ます。



 前回も見ましたが、弘法寺古墳をお二人に紹介。







 では、つづいて国府神社へ行ってみようと思います。

 千野原さんが市川城の城域と台地との堀切の跡ではないかと推測している道を歩きます。



 堀切に思えなくもないなあと、3人で話ながら坂を下っていきます。

 さて、古墳や城跡などいろいろ出てきましたが、それらについては「4.考察」にまとめておきましょう。

 ⇒この続きはこちら

4.考察                             


弘法寺境内の古墳(2020年6月15日)


 弘法寺境内を歩くと古墳なのか土塁なのか良く分からないものがたくさん目につきます。

 現在のところ、古墳としてはっきりしているのは前方後円墳である弘法寺古墳だけで、真間山古墳は直径が20mほどありますが、円墳かどうかははっきりせず、また私が古墳じゃないかと思った仁王門脇の土塁は、既述した通り周溝跡が検出されていないことから古墳の可能性は極めて低いです。

 これらの古墳を含め国府台の台地上に展開している古墳群は、国府台古墳群と呼ばれています。

 『市川市の古墳』によると、弘法寺古墳は1970年に測量調査が行われた以外は調査らしい調査はされておらず、同書では現在考えられている6世紀後半の築造ではなくもっと早い可能性を示唆しています。

 弘法寺の境内ではありませんが、お寺の西側に隣接している旧木内別邸では、『市川市の古墳』によると、円墳5基の周溝が検出されています。

 古墳は墳丘が削平されても周溝によってその存在が明るみになることがあるのです。

 これらの円墳の築造時期は後期から終末期と考えられ、もしかしたらこれらの古墳群は弘法寺の境内にまで展開しており、この場所には終末期の群集墳があったのは確実でしょう。

 今のところこれらの古墳は後期(6世紀)以降のものですが、古墳マニアとしては中期以前に遡る古墳があるかどうか興味があります。

 『市川市の古墳』では、松戸市の南西端にある栗山古墳群も国府台古墳群と一体のものと考えており、国府台古墳群の中でも栗山古墳群は早い方だとしていますが、それでも中期には遡らないようです。

 それ以外では、明戸古墳がとても気になります。

 明戸古墳の考察は、明戸古墳のページでしたいと思います。

弘法寺境内は市川城跡か(2020年6月15日)


 最初の探訪(2020年5月30日)から帰ってきた後、『東葛の中世城郭』(千野原靖方/著)を読んでいたら、弘法寺の境内は市川城の跡の可能性が高いと書かれていました。

 私は当該地域の城跡を文献で調べていた時期がありますが、もう十数年前ですから、すっかり忘れていました。

 迂闊でしたね。

 該書によると、市川城は史料上では確認できますが、それが実際にどこにあったかその場所については確定はできず、史料による考察や上述した仁王門の横の土塁状の遺構の存在などから弘法寺の境内が最有力ということです。

 弘法寺境内が本当に市川城跡かどうかは分かりませんが、文献上の市川城について述べると、享徳3年12月27日(新暦では1455年1月15日)に勃発した「享徳の乱」による鎌倉公方と関東管領との戦いは千葉氏にも飛び火し、千葉家第18代胤宣は、古河公方成氏に通じた大叔父馬加康胤や重臣の原胤房らによって殺害されてしまいます。

 これによって千葉宗家の嫡系は滅亡してしまったのですが、胤宣の従兄弟である実胤と自胤は辛うじて難を逃れて再起を図ったのが市川城なのです。

 14      15      16      17     
 満胤 ―+― 兼胤 ―+― 胤直 ―+― 胤将
     |      |      |
     |      |      |  18
     |      |      +― 胤宣
     |      |
     |      +― 賢胤 ―+― 実胤
     |             |
     |             |
     |             +― 自胤
     |  19
     |  馬加     20
     +― 康胤 ―+― 胤持
            |
            |  21
            +― 輔胤 ――― 孝胤
   

 ところが、康正2年(1456)、市川城は成氏が派遣した南図書助や簗田出羽守らの攻撃によって落城し、兄弟は国境を越え武蔵へ逃れ太田道灌を頼ることになります。

 なお、自胤はこれより約20年後に道灌の支援を受け、千葉宗家奪還を目論みこの地へ進出してきますが、それについては、国府台城のページに記してあります。

 ⇒国府台城のページはこちら

 それでは、弘法寺境内の様子を観察してみましょう。

 千野原さんは、台地と城域を切った形跡として、「3.探訪レポート」でも紹介している堀切状の道を上げていますが、単純にその堀切と現在の松戸街道と合流する地点(つまり台地の西側)から台地の東側までの直線距離を見てみると500m強あり、もし現在の弘法寺の境内のみを城域として考えると、南北の幅は一番広いところでも150mくらいしかなく、横長の城域となります。

 横長なのは良いとしても、北側の長辺は普通に台地と地続きですから、防御力が弱すぎてこれは城としてあり得ません。

 ですから、弘法寺の北側に隣接する千葉商科大学の構内も城域だったと考えるのが自然です。

 ただしそうすると、今度は城域が広すぎるように思え、千葉兄弟が落ち延びてきて急ごしらえで果たして築城できるのかという疑問や、少ない手勢だと広い城域は反対に守るのに不利になるという点があり不審です。

 結論としては、日蓮宗寺院である弘法寺それ自体が市川の津や市を監視あるいは防御するための城塞だったと考え、千葉兄弟がもし弘法寺を頼って逃れてきたとするのなら、その痕跡を史料で探してみることが必要だと考えます。

5.参考資料                           


・『市川市の古墳』 市川市考古博物館/編 2004年
・『東葛の中世城郭』 千野原靖方/著 2004年


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