⇒前回の記事はこちら
今日は朝から市川市に出張ってきて、古墳や城跡や国分寺跡などを見て歩いています。
明戸古墳の石棺を見過ごしてしまったり、細かいところを見ると完ぺきではないのですが、一応、当初自分に課していたノルマはクリアしました。
ここからはもう少し興味の範囲を広げて、せっかく市川市に来ていますから有名な貝塚を見てみたいと思います。
私の生まれ育った松戸市もここ市川市も貝塚が多いということは、もちろん子供の頃か知っていました。
でも、そもそもそういったものには全く興味がなく成長し、そして故郷を離れてしまったため、こちらの貝塚に関する知識はほとんどないのです。
ですから、逆に楽しみ。
いつものごとく、スマホではなくて自作したオリジナルの紙の地図を見ながら見知らぬ場所を歩きます。
国分寺のある丘から東側の谷に降りました。
「道の駅いちかわ入口」交差点です。
新しそうな大きな道路が走っていますね。
「市川IC」の緑の看板が見えますが、東京外環ですね。
交差点を渡ると国分川が流れていました。
上流方向(北側)を見ます。
※帰宅後、地図を確認したら国分川の水源地帯は昔住んでいた松戸市五香六実の家から比較的近所で驚きました(ということは舟を使えば当時の我が家から国分寺は近いです^^)。
しばらく歩いて行くと今度は曽谷貝塚がある丘への登り坂になります。
デイリーヤマザキがある交差点を左折し、住宅街を歩いて行くと、眼前に広大な広場が現れました。
なんだ、この広さは!
ちょっと驚きです。
どうやらこの広場が曽谷貝塚のようです。
想像を裏切る広大さに半ば呆れつつ広場に足を踏み入れ、足元を見ると、さっそく貝殻が。
貝殻があるということは・・・
はい、縄文土器発見!
いっぱい落ちていますねえ。
遠くの方では子供たちが野球をして遊んでいます。
長閑で平和な光景を横目に広場を歩き、遠くの方に見えている説明板らしきものを目指します。
曽谷貝塚は馬蹄型ですから、湾曲した貝の堆積跡があるはずですよ。
あった。
広大な広場のどこにでも貝殻や土器が落ちているわけではなく、こういう場所が有ったら、落ちくぼんだ斜面の辺りを見てみるといいです。
あった、あったねえ。
これはこの場所が海だったということではなく、このすぐ近くに海岸があって、この貝塚は当時の人たちのゴミ捨て場なわけです。
ただし、ゴミ捨て場といっても汚いものではなく、縄文人は物を捨てるという行為にさえ、非常に神聖な気持ちを抱いていたといわれています。
つまりは感謝の気持ちです。
貝塚だけでなく、縄文遺跡のゴミ捨て場を発掘すると縄文人のライフスタイルにより一層迫ることができるので、考古学者は「宝の山」と言っていますよ。
なお、市川や松戸の地形を見ると縄文海進のあとに水が引いた場所が「溺れ谷」となって残っている場所を多く見ることができ、枝状になっているそういった地形の近くに貝塚がたくさんあります。
では、説明板を見に行きましょう。
ちょっと滅亡しかかっていますが、判読はできますね。
曽谷貝塚は「貝塚」という遺跡名になっていますが、純粋に貝塚だけがあったわけではなく、集落と貝塚が合体している遺跡です。
その時期は、最初に人が住んだのは縄文時代前期で、最盛期がこれら貝塚ができた縄文時代後期です。
さきほど見た湾曲している部分の土が高まっている場所は捨てた貝によってできた高まりで、それを図示したのがこれですね。
説明板にも書いてありますが、貝塚の広さとしては国内最大級で、日本代表として世界の強豪と十分戦えるトップレヴェルの貝塚なのです。
世界の強豪ってなんだ?
国指定史跡の石柱。
いやー曽谷貝塚、気持ちの良い場所だ!
ところで今日は探訪箇所からわざと堀之内貝塚を外しています。
というのは、堀之内貝塚は市川考古博物館が再開したら一緒に行こうと思っているからです。
というわけで、堀之内貝塚ではありませんが、つづいて市川市内の貝塚をもう一箇所見てみますよ。
⇒この続きはこちら
今日は朝から市川市に出張ってきて、古墳や城跡や国分寺跡などを見て歩いています。
明戸古墳の石棺を見過ごしてしまったり、細かいところを見ると完ぺきではないのですが、一応、当初自分に課していたノルマはクリアしました。
ここからはもう少し興味の範囲を広げて、せっかく市川市に来ていますから有名な貝塚を見てみたいと思います。
私の生まれ育った松戸市もここ市川市も貝塚が多いということは、もちろん子供の頃か知っていました。
でも、そもそもそういったものには全く興味がなく成長し、そして故郷を離れてしまったため、こちらの貝塚に関する知識はほとんどないのです。
ですから、逆に楽しみ。
いつものごとく、スマホではなくて自作したオリジナルの紙の地図を見ながら見知らぬ場所を歩きます。
国分寺のある丘から東側の谷に降りました。
「道の駅いちかわ入口」交差点です。
新しそうな大きな道路が走っていますね。
「市川IC」の緑の看板が見えますが、東京外環ですね。
交差点を渡ると国分川が流れていました。
上流方向(北側)を見ます。
※帰宅後、地図を確認したら国分川の水源地帯は昔住んでいた松戸市五香六実の家から比較的近所で驚きました(ということは舟を使えば当時の我が家から国分寺は近いです^^)。
しばらく歩いて行くと今度は曽谷貝塚がある丘への登り坂になります。
デイリーヤマザキがある交差点を左折し、住宅街を歩いて行くと、眼前に広大な広場が現れました。
なんだ、この広さは!
ちょっと驚きです。
どうやらこの広場が曽谷貝塚のようです。
想像を裏切る広大さに半ば呆れつつ広場に足を踏み入れ、足元を見ると、さっそく貝殻が。
貝殻があるということは・・・
はい、縄文土器発見!
いっぱい落ちていますねえ。
遠くの方では子供たちが野球をして遊んでいます。
長閑で平和な光景を横目に広場を歩き、遠くの方に見えている説明板らしきものを目指します。
曽谷貝塚は馬蹄型ですから、湾曲した貝の堆積跡があるはずですよ。
あった。
広大な広場のどこにでも貝殻や土器が落ちているわけではなく、こういう場所が有ったら、落ちくぼんだ斜面の辺りを見てみるといいです。
あった、あったねえ。
これはこの場所が海だったということではなく、このすぐ近くに海岸があって、この貝塚は当時の人たちのゴミ捨て場なわけです。
ただし、ゴミ捨て場といっても汚いものではなく、縄文人は物を捨てるという行為にさえ、非常に神聖な気持ちを抱いていたといわれています。
つまりは感謝の気持ちです。
貝塚だけでなく、縄文遺跡のゴミ捨て場を発掘すると縄文人のライフスタイルにより一層迫ることができるので、考古学者は「宝の山」と言っていますよ。
なお、市川や松戸の地形を見ると縄文海進のあとに水が引いた場所が「溺れ谷」となって残っている場所を多く見ることができ、枝状になっているそういった地形の近くに貝塚がたくさんあります。
では、説明板を見に行きましょう。
ちょっと滅亡しかかっていますが、判読はできますね。
曽谷貝塚は「貝塚」という遺跡名になっていますが、純粋に貝塚だけがあったわけではなく、集落と貝塚が合体している遺跡です。
その時期は、最初に人が住んだのは縄文時代前期で、最盛期がこれら貝塚ができた縄文時代後期です。
さきほど見た湾曲している部分の土が高まっている場所は捨てた貝によってできた高まりで、それを図示したのがこれですね。
説明板にも書いてありますが、貝塚の広さとしては国内最大級で、日本代表として世界の強豪と十分戦えるトップレヴェルの貝塚なのです。
世界の強豪ってなんだ?
国指定史跡の石柱。
いやー曽谷貝塚、気持ちの良い場所だ!
ところで今日は探訪箇所からわざと堀之内貝塚を外しています。
というのは、堀之内貝塚は市川考古博物館が再開したら一緒に行こうと思っているからです。
というわけで、堀之内貝塚ではありませんが、つづいて市川市内の貝塚をもう一箇所見てみますよ。
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