⇒前回の記事はこちら
下総国分尼寺跡はゴージャスさはありませんでしたが、なんか気持ちの良い遺跡でした。
住宅街を歩き、今度は僧寺跡を目指します。
おや、またもや広場が現れましたよ。
ここが僧寺跡だ!
こちらにも立派な石碑があります。
・・・ん?
なんだ、横書きか!
こういう製作者は意図していないだろう「フック」って楽しいものです。
でもここは敷地は確保してありますが、さきほどの尼寺のような表示はありませんね。
東の端っこまで来ました。
敷地の外側には畑があります。
この畑の向こう側は地形が落ちているようです。
埋もれているけど、礎石かなあ?
東側からの全体像。
うーん、何もないですねえ。
道路を挟んだ別の場所も敷地が確保されています。
史跡指定された後は公有地化していきますが、さきほどの石碑に書いてある通り、この場所は地元の方が提供してくださったわけです。
将来の整備に向けてまずは用地確保が大事です。
それと、地権者の方から理解を得るというのも大切ですね。
しかし、下総国分寺跡はこれだけじゃないですよね?
大抵の場合は、古代の国分寺の法灯を継ぐ寺があって、下総にもありますからそちらへ行ってみましょう。
なお、こういうと怒られるかもしれませんが、史実として古代から続いている「現・国分寺」はなかなか無いですよ。
でもこういうのは心の問題ですから、重要なのは現代に生きる人たちの「マインド」です。
現代の国分寺に到着しました。
お、万葉ティックな門がありますね!
敷地の制限で門の前が駐車場になっているようですが、こういうのは仕方がないことです。
説明板があります。
いや、いいですね、この南大門。
近代の再建であっても、こうやって往時の雰囲気で建てるのは個人的に好きです。
しかもちゃんとフルネーム!
国指定史跡の石柱も立派です。
市川市の小さな説明板もあります。
では南門をくぐって境内にお邪魔します。
本堂。
「国分山」の扁額。
なお、先ほどまでいた場所の住所は国府台でしたが、尼寺跡と僧寺跡があるこちらは国分(こくぶ)です。
やはり国分という住所も全国にありますが、古代の国分寺にちなんだ地名ですね。
本堂の裏は檀家さんたちのお墓のようです。
見るべきものはないかな。
引き返そう。
おや、こんな図があったとは。
基壇跡が分かるの?
礎石の位置も細かく書かれていますね。
墓地の方は見るべきものはないと思いましたが、基壇が図示されているので何かあるかもしれません。
もう一度行ってみましょう。
まずは塔跡から。
おー、ちゃんと立派な石碑があった。
でも、基壇だと分かるような段差はありませんね。
これは礎石かなあ?
先ほど見た図には塔跡のところに礎石マークはついていなかったので違うかもしれませんね。
塔心礎があればバッチリでしたが贅沢は言いません。
つづいて講堂跡へ。
ここはバリバリ礎石がありますね。
こちらにも立派な石碑。
おや、この礎石には何か並べられていますよ。
あらま、瓦片じゃない。
国分寺創建時の1300年近く前に焼かれたものでしょう。
遺跡を歩くときは「下を向いて歩こう」ですよ。
周りを見ると結構瓦片が落ちている。
明瞭な布目があるのがいいですね。
講堂の基壇跡も高低差はないのですが、隣のフェンスの向こう側の敷地を見ると基壇跡を示しているような区切りがあります。
いや、下総国分寺跡、面白かった!
なお、現代の国分山国分寺は、真言宗豊山派に属し、本尊は薬師如来です。
古代の国分寺が没落し、中世などの後世になって再興するときは本尊を薬師如来とすることが多いんですよね。
つづいて、先ほど通りがかって気になった隣にあるお寺にも参じてみましょう。
玉王山寶珠院。
こちらも本尊が薬師如来なのです。
薬師如来は病気を治してくれるからとくに好き。
うわ、なんだこれ!
薬師如来は薬壺は持っていますが、ヤカンは持っていませんよ。
でもヤカンって感じ書くと「薬缶」です。
薬を飲むときはお湯が必要ですし、これも薬師如来に関連があるものなのでしょうか。
私的にはこの薬缶の質感は2式単座戦闘機「鍾馗」を想起させられます。
本尊は鍾馗様ではありませんが、なぜでしょう。
扁額。
朝一で訪れた弘法寺から里見公園のエリアも面白かったですが、こちら側の国分寺エリアも面白いですね。
普通に街歩きのコースができますよ。
さて、この後はさらに時代を遡り、縄文時代へ行きましょう。
市川市の縄文時代と言ったら・・・
そうです!
貝塚へGo!
⇒この続きはこちら
下総国分尼寺跡はゴージャスさはありませんでしたが、なんか気持ちの良い遺跡でした。
住宅街を歩き、今度は僧寺跡を目指します。
おや、またもや広場が現れましたよ。
ここが僧寺跡だ!
こちらにも立派な石碑があります。
・・・ん?
なんだ、横書きか!
こういう製作者は意図していないだろう「フック」って楽しいものです。
でもここは敷地は確保してありますが、さきほどの尼寺のような表示はありませんね。
東の端っこまで来ました。
敷地の外側には畑があります。
この畑の向こう側は地形が落ちているようです。
埋もれているけど、礎石かなあ?
東側からの全体像。
うーん、何もないですねえ。
道路を挟んだ別の場所も敷地が確保されています。
史跡指定された後は公有地化していきますが、さきほどの石碑に書いてある通り、この場所は地元の方が提供してくださったわけです。
将来の整備に向けてまずは用地確保が大事です。
それと、地権者の方から理解を得るというのも大切ですね。
しかし、下総国分寺跡はこれだけじゃないですよね?
大抵の場合は、古代の国分寺の法灯を継ぐ寺があって、下総にもありますからそちらへ行ってみましょう。
なお、こういうと怒られるかもしれませんが、史実として古代から続いている「現・国分寺」はなかなか無いですよ。
でもこういうのは心の問題ですから、重要なのは現代に生きる人たちの「マインド」です。
現代の国分寺に到着しました。
お、万葉ティックな門がありますね!
敷地の制限で門の前が駐車場になっているようですが、こういうのは仕方がないことです。
説明板があります。
いや、いいですね、この南大門。
近代の再建であっても、こうやって往時の雰囲気で建てるのは個人的に好きです。
しかもちゃんとフルネーム!
国指定史跡の石柱も立派です。
市川市の小さな説明板もあります。
では南門をくぐって境内にお邪魔します。
本堂。
「国分山」の扁額。
なお、先ほどまでいた場所の住所は国府台でしたが、尼寺跡と僧寺跡があるこちらは国分(こくぶ)です。
やはり国分という住所も全国にありますが、古代の国分寺にちなんだ地名ですね。
本堂の裏は檀家さんたちのお墓のようです。
見るべきものはないかな。
引き返そう。
おや、こんな図があったとは。
基壇跡が分かるの?
礎石の位置も細かく書かれていますね。
墓地の方は見るべきものはないと思いましたが、基壇が図示されているので何かあるかもしれません。
もう一度行ってみましょう。
まずは塔跡から。
おー、ちゃんと立派な石碑があった。
でも、基壇だと分かるような段差はありませんね。
これは礎石かなあ?
先ほど見た図には塔跡のところに礎石マークはついていなかったので違うかもしれませんね。
塔心礎があればバッチリでしたが贅沢は言いません。
つづいて講堂跡へ。
ここはバリバリ礎石がありますね。
こちらにも立派な石碑。
おや、この礎石には何か並べられていますよ。
あらま、瓦片じゃない。
国分寺創建時の1300年近く前に焼かれたものでしょう。
遺跡を歩くときは「下を向いて歩こう」ですよ。
周りを見ると結構瓦片が落ちている。
明瞭な布目があるのがいいですね。
講堂の基壇跡も高低差はないのですが、隣のフェンスの向こう側の敷地を見ると基壇跡を示しているような区切りがあります。
いや、下総国分寺跡、面白かった!
なお、現代の国分山国分寺は、真言宗豊山派に属し、本尊は薬師如来です。
古代の国分寺が没落し、中世などの後世になって再興するときは本尊を薬師如来とすることが多いんですよね。
つづいて、先ほど通りがかって気になった隣にあるお寺にも参じてみましょう。
玉王山寶珠院。
こちらも本尊が薬師如来なのです。
薬師如来は病気を治してくれるからとくに好き。
うわ、なんだこれ!
薬師如来は薬壺は持っていますが、ヤカンは持っていませんよ。
でもヤカンって感じ書くと「薬缶」です。
薬を飲むときはお湯が必要ですし、これも薬師如来に関連があるものなのでしょうか。
私的にはこの薬缶の質感は2式単座戦闘機「鍾馗」を想起させられます。
本尊は鍾馗様ではありませんが、なぜでしょう。
扁額。
朝一で訪れた弘法寺から里見公園のエリアも面白かったですが、こちら側の国分寺エリアも面白いですね。
普通に街歩きのコースができますよ。
さて、この後はさらに時代を遡り、縄文時代へ行きましょう。
市川市の縄文時代と言ったら・・・
そうです!
貝塚へGo!
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