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上野総社神社の参拝を終え、ツアーの予定には入れていないのですが、時間によっては探訪も可能だと思われる宮鍋神社の現状も見ておきたいと思います。
歩いて5分くらいの距離ですが、上野国衙から東山道へ向かう道である日高道を歩いて国庁部分まで行きたいので少し遠回りします。
遠くのあの森が宮鍋神社ですよ。
あ、猫ちん。
朝早くから寒くない?
日高道に侵入。
北方の国庁方面を見ます。
振り返ると東山道方面。
北へ向かって歩きますよ。
公民館ですね。
「殿小路」なんて、中世の蒼海城の名残でしょうかね?
上野国府跡は少しずつ発掘調査が進んでいますが、現状ではまだ史跡公園とかそういったものには程遠いです。
多分、路地を歩き回っても説明板などもないと思います。
だいたいこの辺が国庁の場所じゃないでしょうか。
では、宮鍋神社へ向かいます。
見えてきました。
小さい神社ですが、歴史の謎を秘めた神社です。
宮鍋神社には上野国府の政庁の推定復原図が掲げられています。
縁起などが記された説明板。
先ほど訪れた上野総社神社は永禄9年(1566)の兵火で焼けるまではこの地にあったと一般的には言われているのですが、この説明板ではその説を否定して、永禄9年の時点で総社は現在地にあったと言っています。
総社を移したのは長尾氏が入ってきた南北朝時代との説ですね。
祭神はフツヌシ、カナヤマヒコ、カナヤマヒメの3柱。
説明板では宮鍋は「みやのめ」が転訛したものではないとの説が書かれていてこれまた好感が持てます。
説明板では否定されているのですが参考までに別の説をお伝えします。
ここは、「みやなべ」と音しますが、武蔵国府跡(大國魂神社境内)には宮之咩神社があり、下野国庁の正殿跡にも宮野辺神社があり、みな発音のルーツは一緒だと考えられます。
※武蔵国の宮之咩神社
※下野国の宮野辺神社
祭神はそれぞれ異なるのですが、すべて国府跡にあるため、国府に関連する神社であることが想像できます。
ただし、歴史が律令時代まで遡る可能性はないようで、『府中市郷土の森博物館紀要 第15号』所収「国庁跡に建てられた社 -ミヤノメ神社小考-」(深澤靖幸/著)によると、国府が廃絶して武士の世の中になった後に国府の跡に建てられた神社ではないかということです。
古代はその国の国司が地域の権力者として君臨し、国司の中のトップである「守」は地方における天皇の代理です。
その権威は鎌倉時代になると各国の守護が引き継ぐことになりますが、該書では彼ら守護たちがその国の正統な主であることを主張する意味を込めて、総社とともにミヤノメ神社を祀ったとしています。
神社の歴史も分からないことが多いので、こうやっていろいろな説を聴くのも楽しいですね。
それでは総社神社へ戻ります。
(つづく)
上野総社神社の参拝を終え、ツアーの予定には入れていないのですが、時間によっては探訪も可能だと思われる宮鍋神社の現状も見ておきたいと思います。
歩いて5分くらいの距離ですが、上野国衙から東山道へ向かう道である日高道を歩いて国庁部分まで行きたいので少し遠回りします。
遠くのあの森が宮鍋神社ですよ。
あ、猫ちん。
朝早くから寒くない?
日高道に侵入。
北方の国庁方面を見ます。
振り返ると東山道方面。
北へ向かって歩きますよ。
公民館ですね。
「殿小路」なんて、中世の蒼海城の名残でしょうかね?
上野国府跡は少しずつ発掘調査が進んでいますが、現状ではまだ史跡公園とかそういったものには程遠いです。
多分、路地を歩き回っても説明板などもないと思います。
だいたいこの辺が国庁の場所じゃないでしょうか。
では、宮鍋神社へ向かいます。
見えてきました。
小さい神社ですが、歴史の謎を秘めた神社です。
宮鍋神社には上野国府の政庁の推定復原図が掲げられています。
縁起などが記された説明板。
先ほど訪れた上野総社神社は永禄9年(1566)の兵火で焼けるまではこの地にあったと一般的には言われているのですが、この説明板ではその説を否定して、永禄9年の時点で総社は現在地にあったと言っています。
総社を移したのは長尾氏が入ってきた南北朝時代との説ですね。
祭神はフツヌシ、カナヤマヒコ、カナヤマヒメの3柱。
説明板では宮鍋は「みやのめ」が転訛したものではないとの説が書かれていてこれまた好感が持てます。
説明板では否定されているのですが参考までに別の説をお伝えします。
ここは、「みやなべ」と音しますが、武蔵国府跡(大國魂神社境内)には宮之咩神社があり、下野国庁の正殿跡にも宮野辺神社があり、みな発音のルーツは一緒だと考えられます。
※武蔵国の宮之咩神社
※下野国の宮野辺神社
祭神はそれぞれ異なるのですが、すべて国府跡にあるため、国府に関連する神社であることが想像できます。
ただし、歴史が律令時代まで遡る可能性はないようで、『府中市郷土の森博物館紀要 第15号』所収「国庁跡に建てられた社 -ミヤノメ神社小考-」(深澤靖幸/著)によると、国府が廃絶して武士の世の中になった後に国府の跡に建てられた神社ではないかということです。
古代はその国の国司が地域の権力者として君臨し、国司の中のトップである「守」は地方における天皇の代理です。
その権威は鎌倉時代になると各国の守護が引き継ぐことになりますが、該書では彼ら守護たちがその国の正統な主であることを主張する意味を込めて、総社とともにミヤノメ神社を祀ったとしています。
神社の歴史も分からないことが多いので、こうやっていろいろな説を聴くのも楽しいですね。
それでは総社神社へ戻ります。
(つづく)