最近は早朝に家を出ることが多いですが、今日はゆっくりと6時前に出発。
いつものごとく狭山の駅家で朝休憩。
今日はまずは「仕事」をしますよ。
今度のツアーの下見です。
初めは上野国の総社へ向かいます。
上野国の総社は前橋市にあります。
8時ピッタリに到着。
駐車場から境内に入ると、社殿の裏手でした。
あれ、本殿ってこんなきれいな色してたっけな?
拝殿へ回ります。
上野国総社!
参道。
境内の全体図。
御神木が立派ですねえ。
説明板がありますよ。
本殿と拝殿について。
上野総社神社の歴史も書かれていますが、上野国というのは7世紀後半に全国に置かれた「国」という行政区画の一つで、今でいう都道府県のようなものです。
列島内に60以上あった国の政治を行う国司と呼ばれる人たちは中央から派遣されてくるのですが、国司の重要な仕事の一つが国内の神社を祀ることです。
数多くの神社をめぐるわけですが、相当な労力がかかってしまうため、それらの神社の神様を一箇所に集めて勧請したのが総社と呼ばれる神社で、平安時代には全国的に一般化していたようです。
説明板によると、上野の場合は549社あったんですね。
御神木はケヤキですね。
境内神社。
これは何でしょう。
そうだった!
ここは蒼海(おうみ)城の跡だった!
蒼海城は長尾景行が永享元年(1429)に築造したと伝わります。
南北朝時代に関東管領山内上杉憲顕に仕えて活躍した長尾景忠の子孫のなかに上野国に土着して勢力を張った者がいました。
その中のひとりが景行で、ここを本拠地として総社長尾家と呼ばれるようになります。
最初に景行が蒼海城を築城した時の縄張りは、各有力者の環濠屋敷を集合させたような原初的な形態であってあまり設計が良くなかったようで、せっかく築城したのにもかかわらず景行の子の忠房は石倉城を築城して移ってしまいます。
ただ、利根川に臨む崖の上に作られた石倉城が崩落してしまったあとは、ここに戻りました。
なお、私が好きな戦国武将のなかに渋川市周辺を本拠とした白井長尾家の長尾景春がいます。
室町時代、山内家の家宰職(山内家内での権力を握る)は白井と総社が交互に担当していたのですが、本来の順番だと白井長尾景信の次は総社の景春だったところを、同じ白井の忠景(景信の弟)が継いでしまったのです。
もちろん、これ以外にも原因はあるでしょうが、景春がいわゆる「長尾景春の乱」を起こしたのはこの件が大きな原因です。
あ、上の蒼海城平面図の北側に「風呂沼」と書かれていますね。
風呂という名前から、地元では風呂に浸かるための水として使ったなどを言われているようですが、漢字よりかは発音が大事です。
この「ふろ」というのは「ふる」に通じ、ヤマトの物部氏の「布留」と関連している可能性が高いです。
奈良県天理市の布留遺跡から出土した「布留式土器」は古墳時代が好きな方にはお馴染みの土器ですが、各時代の遺構のなかでも古墳時代の豪族居館跡も見つかっており、『上毛野の古代農業景観』(関口功一/著)では、布留の豪族居館の水場での祭祀遺構は、高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡と共通する点があり(該地にも「御風呂」地名が残る)、この「風呂沼」でも同様な祭祀が行われていたのではないかと推測しています。
高崎市の金井沢碑の碑文(この後訪れます)にも物部氏が出てきますが、高崎や前橋地域に物部氏がどの程度関与していたのか気になりますね。
お寺の文化財。
左側の神名帳がご神体なのです。
今年の干支はイノシシですね。
ウリ坊が可愛い。
神楽殿。
説明する内容はだいたいイメージできました。
車へ戻りますよ。
積み方がかなり独創的ですが・・・
ついでに宮鍋神社まで行ってきます。
⇒この続きはこちら
いつものごとく狭山の駅家で朝休憩。
今日はまずは「仕事」をしますよ。
今度のツアーの下見です。
初めは上野国の総社へ向かいます。
上野国の総社は前橋市にあります。
8時ピッタリに到着。
駐車場から境内に入ると、社殿の裏手でした。
あれ、本殿ってこんなきれいな色してたっけな?
拝殿へ回ります。
上野国総社!
参道。
境内の全体図。
御神木が立派ですねえ。
説明板がありますよ。
本殿と拝殿について。
上野総社神社の歴史も書かれていますが、上野国というのは7世紀後半に全国に置かれた「国」という行政区画の一つで、今でいう都道府県のようなものです。
列島内に60以上あった国の政治を行う国司と呼ばれる人たちは中央から派遣されてくるのですが、国司の重要な仕事の一つが国内の神社を祀ることです。
数多くの神社をめぐるわけですが、相当な労力がかかってしまうため、それらの神社の神様を一箇所に集めて勧請したのが総社と呼ばれる神社で、平安時代には全国的に一般化していたようです。
説明板によると、上野の場合は549社あったんですね。
御神木はケヤキですね。
境内神社。
これは何でしょう。
そうだった!
ここは蒼海(おうみ)城の跡だった!
蒼海城は長尾景行が永享元年(1429)に築造したと伝わります。
南北朝時代に関東管領山内上杉憲顕に仕えて活躍した長尾景忠の子孫のなかに上野国に土着して勢力を張った者がいました。
その中のひとりが景行で、ここを本拠地として総社長尾家と呼ばれるようになります。
最初に景行が蒼海城を築城した時の縄張りは、各有力者の環濠屋敷を集合させたような原初的な形態であってあまり設計が良くなかったようで、せっかく築城したのにもかかわらず景行の子の忠房は石倉城を築城して移ってしまいます。
ただ、利根川に臨む崖の上に作られた石倉城が崩落してしまったあとは、ここに戻りました。
なお、私が好きな戦国武将のなかに渋川市周辺を本拠とした白井長尾家の長尾景春がいます。
室町時代、山内家の家宰職(山内家内での権力を握る)は白井と総社が交互に担当していたのですが、本来の順番だと白井長尾景信の次は総社の景春だったところを、同じ白井の忠景(景信の弟)が継いでしまったのです。
もちろん、これ以外にも原因はあるでしょうが、景春がいわゆる「長尾景春の乱」を起こしたのはこの件が大きな原因です。
あ、上の蒼海城平面図の北側に「風呂沼」と書かれていますね。
風呂という名前から、地元では風呂に浸かるための水として使ったなどを言われているようですが、漢字よりかは発音が大事です。
この「ふろ」というのは「ふる」に通じ、ヤマトの物部氏の「布留」と関連している可能性が高いです。
奈良県天理市の布留遺跡から出土した「布留式土器」は古墳時代が好きな方にはお馴染みの土器ですが、各時代の遺構のなかでも古墳時代の豪族居館跡も見つかっており、『上毛野の古代農業景観』(関口功一/著)では、布留の豪族居館の水場での祭祀遺構は、高崎市の三ツ寺Ⅰ遺跡と共通する点があり(該地にも「御風呂」地名が残る)、この「風呂沼」でも同様な祭祀が行われていたのではないかと推測しています。
高崎市の金井沢碑の碑文(この後訪れます)にも物部氏が出てきますが、高崎や前橋地域に物部氏がどの程度関与していたのか気になりますね。
お寺の文化財。
左側の神名帳がご神体なのです。
今年の干支はイノシシですね。
ウリ坊が可愛い。
神楽殿。
説明する内容はだいたいイメージできました。
車へ戻りますよ。
積み方がかなり独創的ですが・・・
ついでに宮鍋神社まで行ってきます。
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