明後日の土曜日から福島の古代史ツアーに行く予定なのですが・・・
台風が・・・
昨年は台風で2度ツアーが潰れました。
明後日からのツアーは泉崎村の泉崎横穴の公開日に合わせて日程を決めたのです。
今回ポシャってしまったらまた来年か・・・
ヘヴィーユーザーのお客様も多数参加予定で、皆さま楽しみにしてくださっていますし、私自身も楽しみですので中止になったら非常に残念です。
会社の方も経費だけ掛かって回収できないし、ツアーの仕事はこういうところが難点ですね。
でも地球の現象には勝てないので、如何ともなし難しです。
そんな絶望的な状況でも今日は14時間かけて当該ツアーのレジュメを作っていました。
レジュメづくりは終わったので、探訪記事を一本アップします。
⇒前回の記事はこちら
泉崎横穴の場所の確認ができたので、つづいて下総塚古墳を探しに行きますよ。
大体の場所は手元の資料で分かるので、ひとまずそっちの方へ行ってみます。
ん?
説明板らしきものがある。
駐車スペースもあるので寄ってみましょう。
大網本廟跡?
浄土真宗二世如信・・・
おおーっ!
完全に自分の知識外だ!
確かに親鸞はビッグネームなのでほとんどの人が知っていると思いますが、二世となると知らないですね。
親鸞の孫だったんですね。
それはそうと、結城朝広の名が出てきますね。
下総結城朝光の長男で、2代目を継いだ人物ですが、承久3年(1221)の承久の乱では北陸道の大将として活躍した武将です。
結城氏は南北朝時代には庶流の白河結城氏が惣領になり、白河結城宗広が南朝側として後醍醐天皇の下で・・・
おっと、南北朝時代を語ると長くなるので古代に戻ろう。
もう一つ説明板があります。
周辺遺跡の個別説明。
いっぱいあるね。
これらの遺跡は時間がある限りなるべく訪れてみようと思いますが、この説明板の主役はこちらです。
関和久官衙遺跡。
白河郡の郡衙跡ですね。
おっと、ここに「白河軍団」と出てきました。
軍団というと私の世代だと真っ先に思い出すのが「石原軍団」なわけですが、やたらに車が爆発したり拳銃を撃ちながらバイクに乗ったり、久しぶりに西部警察でも見たい気分を振り切って説明しますと、軍団というのは律令国家が定めた制度の一つです。
軍団は全国各地に置かれ、徴兵された人がそれに配属されるのですが、陸奥国の場合はエミシの地に近いということで、とくに重点的に軍団が置かれました。
時代によって定員が違ったりしますが、基本的には1000人で、陸奥の場合は最大で7つの軍団があったので、最盛期は陸奥国だけで常時7000名の兵力が動員できたということになります。
彼らは一応、訓練もするので素人よりかは戦闘力が高いと思いますが、どうなんでしょうか。
今現在も、白河軍団がどこに置かれたかははっきりと分かっていないようです。
話を郡衙の方に戻します。
遺跡は目で見られるものはないようですが、東門方向はこんな感じ。
もうちょい南方向。
説明板がある場所はこんな佇まい。
そもそもこの場所は大網本廟跡。
大網本廟跡についは説明できませんので、関和久官衙遺跡について述べますと、上の説明板に書いてあった通り、白河郡衙跡と考えられます。
今の市役所は場所によってある程度自由に配置を含めて建物をデザインできますが、律令時代は基本的なフォーマットが決まっており、大別して郡司が政務を執るための政庁域と、集めた税などを治めておく正倉域に分かれます。
政庁域は、正殿と脇殿2棟を「コ」の字配置にするのも基本なのですが、上の説明板を見ると、政庁域に関しては東門と南門、それに北側の柵列と溝が見つかっているようですね。
東門はそこそこ格式の高い八脚門です。
正倉域では溝が見つかっているようです。
でも郡衙跡は礎石でも残っていればまだ良いのですが、大概はここみたいにヴィジュアル的に弱いのです。
ですから、私みたいに郡衙が好きな「郡衙er」と呼ばれる人たち(?)は、想像力であっちの世界に行くわけです。
あ、いま「あっち」と言いましたが、「こっち」もそうですが、一説には「ち」というのは日本の古語で「道」のことだそうです。
「道」は「ち」に丁寧な「御」をつけて「みち」と呼んだのが始まりかもしれません。
ところで、上の説明板にもありましたが、借宿廃寺跡と関和久官衙遺跡とを合わせて「国指定史跡 白河郡衙遺跡群」と呼びます。
ついでなので借宿廃寺のことをお話ししますと、司東真雄先生は『東北の古代探訪 みちのくの文化源流考』の中で、奥州最古の寺院ではないかと考察しています。
『日本書紀』を読むと、持統3年(689)正月3日、陸奥国優耆曇郡(みちのくのくにのうきたまのこおり=置賜郡)の城養の蝦夷脂利古(しりこ)の子麻呂と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許されたという記事が出てきて、7世紀後半には米沢盆地に寺院が造られたことが想像できます。
エミシへの仏像授与の記事はその後も連続して出てきて、天皇は同月9日には越(新潟県か)の蝦夷の僧道信に、同年7月1日には陸奥国の蝦夷の僧自得に仏像等を授けています。
司東真雄氏は、単に仏像や仏具をあげて、ハイおしまい!ということは考えられないとして、寺院を建立したはずだと考え、上記の僧自得が借宿廃寺を建立したのではないかと推定しているのです。
借宿廃寺跡からは7世紀末の塼仏(せんぶつ)と複弁六連文鐙瓦が出土しており、複弁六連文鐙瓦は、那須郡衙跡出土のものと似ていることから、那須郡衙の造営と同じ時期に白河に仏教文化が入ってきたと推定しています。
※那須郡衙跡(2017年5月20日探訪)
該書は1980年に出版された本なので、この辺りの研究がその後どうなっているのかは分かりませんが、面白い推測ですね。
ちなみに、その塼仏ですが、昨日福島県立博物館でレプリカを拝みましたよ。
※この日は結局、借宿廃寺跡を探訪することはできませんでした
※後日、9月23日に泉崎資料館を探訪し、関和久官衙遺跡と借宿廃寺跡の展示を見ました
そういえば、下総塚古墳を見に来たんだっけ。
でも志を変更して、谷地久保古墳を先に見に行きます。
⇒この続きはこちら
台風が・・・
昨年は台風で2度ツアーが潰れました。
明後日からのツアーは泉崎村の泉崎横穴の公開日に合わせて日程を決めたのです。
今回ポシャってしまったらまた来年か・・・
ヘヴィーユーザーのお客様も多数参加予定で、皆さま楽しみにしてくださっていますし、私自身も楽しみですので中止になったら非常に残念です。
会社の方も経費だけ掛かって回収できないし、ツアーの仕事はこういうところが難点ですね。
でも地球の現象には勝てないので、如何ともなし難しです。
そんな絶望的な状況でも今日は14時間かけて当該ツアーのレジュメを作っていました。
レジュメづくりは終わったので、探訪記事を一本アップします。
* * *
⇒前回の記事はこちら
泉崎横穴の場所の確認ができたので、つづいて下総塚古墳を探しに行きますよ。
大体の場所は手元の資料で分かるので、ひとまずそっちの方へ行ってみます。
ん?
説明板らしきものがある。
駐車スペースもあるので寄ってみましょう。
大網本廟跡?
浄土真宗二世如信・・・
おおーっ!
完全に自分の知識外だ!
確かに親鸞はビッグネームなのでほとんどの人が知っていると思いますが、二世となると知らないですね。
親鸞の孫だったんですね。
それはそうと、結城朝広の名が出てきますね。
下総結城朝光の長男で、2代目を継いだ人物ですが、承久3年(1221)の承久の乱では北陸道の大将として活躍した武将です。
結城氏は南北朝時代には庶流の白河結城氏が惣領になり、白河結城宗広が南朝側として後醍醐天皇の下で・・・
おっと、南北朝時代を語ると長くなるので古代に戻ろう。
もう一つ説明板があります。
周辺遺跡の個別説明。
いっぱいあるね。
これらの遺跡は時間がある限りなるべく訪れてみようと思いますが、この説明板の主役はこちらです。
関和久官衙遺跡。
白河郡の郡衙跡ですね。
おっと、ここに「白河軍団」と出てきました。
軍団というと私の世代だと真っ先に思い出すのが「石原軍団」なわけですが、やたらに車が爆発したり拳銃を撃ちながらバイクに乗ったり、久しぶりに西部警察でも見たい気分を振り切って説明しますと、軍団というのは律令国家が定めた制度の一つです。
軍団は全国各地に置かれ、徴兵された人がそれに配属されるのですが、陸奥国の場合はエミシの地に近いということで、とくに重点的に軍団が置かれました。
時代によって定員が違ったりしますが、基本的には1000人で、陸奥の場合は最大で7つの軍団があったので、最盛期は陸奥国だけで常時7000名の兵力が動員できたということになります。
彼らは一応、訓練もするので素人よりかは戦闘力が高いと思いますが、どうなんでしょうか。
今現在も、白河軍団がどこに置かれたかははっきりと分かっていないようです。
話を郡衙の方に戻します。
遺跡は目で見られるものはないようですが、東門方向はこんな感じ。
もうちょい南方向。
説明板がある場所はこんな佇まい。
そもそもこの場所は大網本廟跡。
大網本廟跡についは説明できませんので、関和久官衙遺跡について述べますと、上の説明板に書いてあった通り、白河郡衙跡と考えられます。
今の市役所は場所によってある程度自由に配置を含めて建物をデザインできますが、律令時代は基本的なフォーマットが決まっており、大別して郡司が政務を執るための政庁域と、集めた税などを治めておく正倉域に分かれます。
政庁域は、正殿と脇殿2棟を「コ」の字配置にするのも基本なのですが、上の説明板を見ると、政庁域に関しては東門と南門、それに北側の柵列と溝が見つかっているようですね。
東門はそこそこ格式の高い八脚門です。
正倉域では溝が見つかっているようです。
でも郡衙跡は礎石でも残っていればまだ良いのですが、大概はここみたいにヴィジュアル的に弱いのです。
ですから、私みたいに郡衙が好きな「郡衙er」と呼ばれる人たち(?)は、想像力であっちの世界に行くわけです。
あ、いま「あっち」と言いましたが、「こっち」もそうですが、一説には「ち」というのは日本の古語で「道」のことだそうです。
「道」は「ち」に丁寧な「御」をつけて「みち」と呼んだのが始まりかもしれません。
ところで、上の説明板にもありましたが、借宿廃寺跡と関和久官衙遺跡とを合わせて「国指定史跡 白河郡衙遺跡群」と呼びます。
ついでなので借宿廃寺のことをお話ししますと、司東真雄先生は『東北の古代探訪 みちのくの文化源流考』の中で、奥州最古の寺院ではないかと考察しています。
『日本書紀』を読むと、持統3年(689)正月3日、陸奥国優耆曇郡(みちのくのくにのうきたまのこおり=置賜郡)の城養の蝦夷脂利古(しりこ)の子麻呂と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許されたという記事が出てきて、7世紀後半には米沢盆地に寺院が造られたことが想像できます。
エミシへの仏像授与の記事はその後も連続して出てきて、天皇は同月9日には越(新潟県か)の蝦夷の僧道信に、同年7月1日には陸奥国の蝦夷の僧自得に仏像等を授けています。
司東真雄氏は、単に仏像や仏具をあげて、ハイおしまい!ということは考えられないとして、寺院を建立したはずだと考え、上記の僧自得が借宿廃寺を建立したのではないかと推定しているのです。
借宿廃寺跡からは7世紀末の塼仏(せんぶつ)と複弁六連文鐙瓦が出土しており、複弁六連文鐙瓦は、那須郡衙跡出土のものと似ていることから、那須郡衙の造営と同じ時期に白河に仏教文化が入ってきたと推定しています。
※那須郡衙跡(2017年5月20日探訪)
該書は1980年に出版された本なので、この辺りの研究がその後どうなっているのかは分かりませんが、面白い推測ですね。
ちなみに、その塼仏ですが、昨日福島県立博物館でレプリカを拝みましたよ。
※この日は結局、借宿廃寺跡を探訪することはできませんでした
※後日、9月23日に泉崎資料館を探訪し、関和久官衙遺跡と借宿廃寺跡の展示を見ました
そういえば、下総塚古墳を見に来たんだっけ。
でも志を変更して、谷地久保古墳を先に見に行きます。
⇒この続きはこちら
同心円じゃなく渦、いい感じです。福島は大事ですよ、あるんですから。