⇒前回の記事はこちら
香取市から今度は成田市へ向かいます。
成田には公津原(こうづがはら)古墳群という大規模な古墳群があって、そのなかの長方形をした超珍しい形状の船塚古墳や、印波国造の墓と伝わる麻賀多神社にある39号墳はクラツーでも2度ばかりご案内したことがあります。
しかし私自身、それ以外の古墳は詳しく見ていないため、元々香取の次は佐倉へ向かう予定だったので、ついでチョロッと寄ってみたいと思います。
脳内をナヴィに支配されながらやってきたのは、天王塚古墳です。
お、標柱がある。
あれ、何も書いていませんね。
林の中には墳丘が見えますよ。
周溝の跡。
では、墳頂へ。
神様が祀られています。
浅間神社ですね。
祭神はコノハナサクヤヒメ。
浅間神社が祀られているのは後円部です。
しかし、先日の台風の影響がすごかったようで、墳丘の林は結構荒れています。
前方部側へ行ってみましょう。
こちらには八坂神社が祀られています。
なるごど、八坂神社だからスサノオで、スサノオだから天王塚ということですね。
八坂神社の登り口が反対側にありました。
公津原古墳群の存在は当然ながら昔から知られていたのですが、この地に成田ニュータウンを造ることが決まったため、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて64基の古墳が発掘調査されました。
これを端緒として、その後も地道に発掘調査が進められ、現在のところ120基以上の古墳が確認されています。
ただし、範囲が広いため、それを3つの支群に分けています。
この天王塚や船塚があるエリアは天王・船塚古墳群と呼ばれ、3つの支群の真中に位置し、天王塚を始めとして前方後円墳が3基、長方形墳の船塚古墳、それに方墳が9基と円墳が33基で構成されています。
なお、南側の瓢塚(ひさごづか)古墳群は、前方後円墳1基、方墳19基、円墳30基で、北側の八代台(やつしろだい)古墳群は、前方後円墳3基、方墳6基、円墳25基です。
これらのうち、38基が史跡指定されており、それらは今後破壊されることはないでしょう。
木がなぎ倒されている・・・
前方部側から降りてみます。
お、ここにも例の形状の案内板が立っていますよ。
龍角寺古墳群やここ公津原古墳群の古墳にはこういう簡単ですが、あるとありがたい案内表示があって、看板の形状がその古墳の形状を表しているのです。
つまり、例えば天王塚の場合は、案内板を見ただけで「前方後円墳だ!」と、分かるわけですね。
少し離れて古墳を眺めてみましょう。
天王塚は墳丘全体が樹木に覆われていて、あまり形状がよく分からないかもしれませんが、さきほどの案内板に書かれている通り、墳丘長63mの前方後円墳です。
公津原古墳群の前方後円墳のなかでは最も大きいですが、発掘調査はされていないようです。
ちなみに、大きさで言ったら85mの船塚古墳が一番ですよ。
※船塚古墳
船塚は少し前までは終末期の前方後方墳という意味の分からない説明がなされていたのですが、実際に行ってみると分かる通り、とても前方後方墳には見えず、最近の調査で珍しい長方形墳ということに落ち着きました。
一応、好きなアングルで撮ってみる。
八坂神社の参道側(前方部側)は小ぢんまりとした綺麗な公園になっていますね。
公津原は新興住宅街ですが、こうやって街の中に古墳が自然に調和しているところが素敵です。
住んでみたい街だなあ。
では、外側を歩いて後円部側に戻ります。
鞍部を真横から見ます。
周溝の名残り。
西側の方はきれいに整備されて周溝跡の外側あたりは周堤状になっていますが、往時がこういうふうになっていたのかは分かりません。
ついでに古墳の隣にある吾妻神社へ行ってみましょう。
社殿。
由緒書きもありますよ。
ヤマトタケル伝承ですね。
公津原古墳群についての説明もあります。
ところで、近くには八代玉作遺跡という、その名の通り管玉などの工房跡があるようなので、行ってみたいと思います。
⇒この続きはこちら
香取市から今度は成田市へ向かいます。
成田には公津原(こうづがはら)古墳群という大規模な古墳群があって、そのなかの長方形をした超珍しい形状の船塚古墳や、印波国造の墓と伝わる麻賀多神社にある39号墳はクラツーでも2度ばかりご案内したことがあります。
しかし私自身、それ以外の古墳は詳しく見ていないため、元々香取の次は佐倉へ向かう予定だったので、ついでチョロッと寄ってみたいと思います。
脳内をナヴィに支配されながらやってきたのは、天王塚古墳です。
お、標柱がある。
あれ、何も書いていませんね。
林の中には墳丘が見えますよ。
周溝の跡。
では、墳頂へ。
神様が祀られています。
浅間神社ですね。
祭神はコノハナサクヤヒメ。
浅間神社が祀られているのは後円部です。
しかし、先日の台風の影響がすごかったようで、墳丘の林は結構荒れています。
前方部側へ行ってみましょう。
こちらには八坂神社が祀られています。
なるごど、八坂神社だからスサノオで、スサノオだから天王塚ということですね。
八坂神社の登り口が反対側にありました。
公津原古墳群の存在は当然ながら昔から知られていたのですが、この地に成田ニュータウンを造ることが決まったため、昭和44年(1969)10月から昭和46年(1971)8月にかけて64基の古墳が発掘調査されました。
これを端緒として、その後も地道に発掘調査が進められ、現在のところ120基以上の古墳が確認されています。
ただし、範囲が広いため、それを3つの支群に分けています。
この天王塚や船塚があるエリアは天王・船塚古墳群と呼ばれ、3つの支群の真中に位置し、天王塚を始めとして前方後円墳が3基、長方形墳の船塚古墳、それに方墳が9基と円墳が33基で構成されています。
なお、南側の瓢塚(ひさごづか)古墳群は、前方後円墳1基、方墳19基、円墳30基で、北側の八代台(やつしろだい)古墳群は、前方後円墳3基、方墳6基、円墳25基です。
これらのうち、38基が史跡指定されており、それらは今後破壊されることはないでしょう。
木がなぎ倒されている・・・
前方部側から降りてみます。
お、ここにも例の形状の案内板が立っていますよ。
龍角寺古墳群やここ公津原古墳群の古墳にはこういう簡単ですが、あるとありがたい案内表示があって、看板の形状がその古墳の形状を表しているのです。
つまり、例えば天王塚の場合は、案内板を見ただけで「前方後円墳だ!」と、分かるわけですね。
少し離れて古墳を眺めてみましょう。
天王塚は墳丘全体が樹木に覆われていて、あまり形状がよく分からないかもしれませんが、さきほどの案内板に書かれている通り、墳丘長63mの前方後円墳です。
公津原古墳群の前方後円墳のなかでは最も大きいですが、発掘調査はされていないようです。
ちなみに、大きさで言ったら85mの船塚古墳が一番ですよ。
※船塚古墳
船塚は少し前までは終末期の前方後方墳という意味の分からない説明がなされていたのですが、実際に行ってみると分かる通り、とても前方後方墳には見えず、最近の調査で珍しい長方形墳ということに落ち着きました。
一応、好きなアングルで撮ってみる。
八坂神社の参道側(前方部側)は小ぢんまりとした綺麗な公園になっていますね。
公津原は新興住宅街ですが、こうやって街の中に古墳が自然に調和しているところが素敵です。
住んでみたい街だなあ。
では、外側を歩いて後円部側に戻ります。
鞍部を真横から見ます。
周溝の名残り。
西側の方はきれいに整備されて周溝跡の外側あたりは周堤状になっていますが、往時がこういうふうになっていたのかは分かりません。
ついでに古墳の隣にある吾妻神社へ行ってみましょう。
社殿。
由緒書きもありますよ。
ヤマトタケル伝承ですね。
公津原古墳群についての説明もあります。
ところで、近くには八代玉作遺跡という、その名の通り管玉などの工房跡があるようなので、行ってみたいと思います。
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