日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

瀬戸岡古墳群|東京都あきる野市 ~7世紀に相模湾に上陸した渡来人が北上した痕跡か~ 【歴史を歩こう協会 第3回歩く日 その2】

2019-04-15 18:33:01 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 「なか卯」での昼食だったため、食べた後に長居することができず、あまりゆっくり休憩することができませんでしたね。

 急がせてすみませんが、午後の探訪を開始しますよ。

 時刻は12時40分。

 オーメンさんと遠藤さん夫妻と合流し、瀬戸岡(せどおか)古墳群を目指します。

 私が以前こちらに見に来たときは、説明板の場所と石が積んである箇所は確認できました。

 まずはその場所へ行って見ましょう。

 ここは古墳「群」ですので、広範囲に古墳が散らばっており、こういう場所では説明板を探すのが難しいことがあります。

 以前来た時も車で細い路地をグルグル回ってようやく見つけた記憶があります。

 あ、ありました!



 東京都の黒い看板ですね。

 瀬戸岡古墳群は、北を平井川、南を秋川に挟まれた南北2㎞ちょっとの秋留台地(地元では秋留ッ原と呼びます)にあるのですが、面白いのはその立地で、秋留台地の北側の平井川方向の斜面に展開しているのです。



 もちろん台地の北側斜面に古墳を造るのは珍しくないですし、瀬戸岡古墳群の多くの古墳は平坦な台地面にあるのですが、どうせであれば日当たりのよい南側斜面の方が良いと思うのです。

 平井川の南側段丘上には瀬戸岡古墳群のほかにも原小宮古墳群があり、対岸にも草花古墳群が展開し、多摩川流域ではこの場所がほぼ最上流の古墳となります。

 少し斜面を降りてみましょう。

 のどかな風景が広がっています。



 そして所々、川原石が積まれているところがあり、古墳の残骸だと思われます。



 以前来たときはここまで見て帰ったのですが、今回はオーメンさんが下見をしてくれており、石室が露出している場所も突き止めていてくれています。

 なので、そこも行って見ましょう。

 大岳山と御岳山が綺麗に見えますね。



 南側の広い道路を渡り、住宅街の中をニョロニョロ歩いていくとありました!



 これが見たかったのです!



 瀬戸岡古墳群が築造されたのは7世紀代とされ、つまりは終末期の古墳ですね。

 約50基あったそうです。

 古墳の中には須恵器でできた奈良時代の骨蔵器がみつかったものもありますが、それは奈良時代に石室がお墓として再利用されたときのものと考えられています。



 このように横穴式石室のみが残っているわけですが、瀬戸岡古墳群では現在は墳丘を見られる古墳はありません。

 もともとは墳丘があったらしいのですが、どうやら土を盛って造った普通の墳丘ではなく、川原石を積み上げて造った積石塚であったと考えられています。

 それらの中で唯一石室を見ることができるのがこれなわけです。

 おそらく、古墳ビギナーの方はこれだけだとあまり面白くないかもしれませんが、マニアになるとこの貴重さがよく分かるのでこれを見て歓喜することでしょう。

 多摩地域ではほかにもこういう感じで石室だけが展示されている古墳があるのですが、瀬戸岡古墳群や昭島市の浄土古墳の大きな特徴は、地面よりも低い面に石室があることです。



 ※昭島市の浄土古墳

 通常、古墳(高塚古墳)というのは墳丘に覆われていますが、その土の中を覗いてみた場合、普通であれば石室の位置は地面よりも高い場所にあるのです。

 それが地下にあるというのはどういうことなのでしょうか。

 石室を地下に造るか地上に造るかというのは、かなり大きな文化の違いです。

 そして川原石の積石塚だとすると、あきらかに渡来人の墓だと私は思うのです。

 ただ、研究者の中にはこの地がたまたまそういった石が豊富に取れる場所なので、その環境のせいでこの地域独特な墓制が生まれたと言う方もおられるのですが、現在のところ私はその説には従えません。

 そうだとしたら、列島各地の同じような環境の場所には同じような古墳ができるはずですが、それが見当たらず、もしこれが現地独特の墓制だとすると、それはそれでヤマト民族でもなく渡来系でもなく「第3の民族」の墓となってしまうのではないでしょうか。

 なお、大塚初重さんはこのような状況を鑑みて、古墳と認めていないそうですが、そうすると「第3の民族」浮上でしょうか。

 渡来系の人びとの墓という線で見てみると、5世紀、群馬県高崎市の観音丘陵にいち早く渡来系の人びとが進んだ文化を携えてやってきて、当地の豪族の下で活躍したのですが、当地の剣崎長瀞西遺跡も丘陵の北側に位置しているのが気になります。

 この会では前回(3月3日)、埼玉県日高市を探訪していますが、高麗郡は渡来人によって造られた郡であり、その建郡の際にリーダーとなった高句麗の王族の高麗若光は、相模湾の大磯に上陸して、そこから北上しています。

 ⇒そのときの記事はこちら

 大磯から日高市へ行く道の途中にちょうどこの秋留台地が展開しており、高麗郡の建郡は716年なので瀬戸岡古墳群の築造時期はそれよりも前になりすが、相模湾に上陸したのち北上した渡来人の足跡の一つと見ることもできるのではないでしょうか。

 まだまとまった話はできませんが、あきる野市では渡来系の匂いがするので、今後も調べてみようと思います。

 ではつづいて、大塚古墳へ行ってみましょう。

 ⇒この続きはこちら



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