⇒前回の記事はこちら
瀬戸岡古墳群を見た後は、秋留台地を南下します。
旧秋川市の中心部を歩きますが、この辺も掃除の仕事で散々来ています。
一時は、毎週この近くの現場に来ていたので、昼飯を食べた後はあきる野市の図書館に行って資料の収集をしていましたよ。
都道7号線を越えて路地に入ると、前方に墳丘が見えてきました。
大塚古墳です。
頂部を見ると多くの人びとが集まっており、何かの「祭祀」が行われているようです。
上にはお稲荷さんが祀られているのでその関係でしょうか。
おっ!
説明板がない!
悪意のある人に破壊されたのでしょうか?
墳頂にいる方々の用事が終わって降りてくるまでの間、麓をまわって散策します。
大塚古墳は円墳説のほか方墳説もありますが、現状みると方墳のように見えます。
ただそれは後世の改変かもしれませんね。
これだけの大型円墳もしくは大型方墳だとすると、古墳時代後期(6世紀)の築造と考えたくもなりますが、地元ではもともと「亀の形」をしていたと語り継がれています。
そういう伝承があったり「亀塚」のような名称があったりするとなると、通常は前方後円墳が考えられますが、前方後方墳説も捨てがたいです。
前方後円墳だとすると、多摩川流域最上流部の前方後円墳となり、現状の墳丘規模が33メートルですので、70mくらいの大型前方後円墳だった可能性もあります。
そうなると4世紀の古墳かも知れず、帆立貝式だったら5世紀となるかもしれません。
また、古墳時代前期にこの地にやってきた東海勢力が築いた前方後方墳と考えるのも面白いですね。
ただし、古墳ではなくて古代の烽火台とか江戸期の富士塚とか様々な説も出ておりとても興味深いです。
前方後円墳もしくは前方後方墳だったとすると、前方部は東側のこの辺りかな。
墳頂にいた方々が下に降りたので、入れ替わりで私たちが登ります。
上にはお一人残っていたので話しかけてみると、今日はこの神社の氏子が集まっての例祭日だったそうです。
お話によると、氏子さんたちはこの古墳のすぐ近くではなく、少し離れた睦橋通りの方にいて、昔はこの辺一帯は一面の野原だったそうです。
そういわれると周辺の住宅は新しいお家が多いですね。
そして、下の説明板ですが、あれは破壊されたわけではなく、書かれていた内容が古くなってしまったので市が新たな研究成果をもとに説明板を設置しようとしているのですが、それが進んでいないということです。
さらに面白い話として、大塚古墳の南には秋川が流れていて、その秋川の対岸の山には雨武主(あめむしゅ)神社が祀られています。
雨武主神社はその名前がとても気になっており、以前から行きたいと思っていたため今日は対岸からそれを拝む鳥居場へ行って見ようと思っているのですが、地元では雨武主神社は「天の神」で、ここ大塚古墳の神様は「地の神」といわれているそうです。
いやー、面白いですねえ。
私はヤマト王権が各地へ進出する前に祀られていた在地の神様について非常に興味があるのですが、それを考える一つの素材をいただくことができました。
他のメンバーもそれぞれ地元の方々と話をして収穫があったようです。
安斉さんは、亀の形だったという話が聞けたようです。
前方部があったと思われる東の方向を墳頂から見下ろします。
ただ、オーメンさんが聞いた話では、その後調べてみても前方部の形跡は見つかっていないということで、謎が深まりますね。
※帰宅後、航空写真を見てみたところ、前方部があったとしたら西側ではないかと思ったりもしましたが、東側は少し墳丘が伸びており(真ん丸になっていない)それが前方部の名残のようにも見え悩ましいです。
※現状でも古墳の周りの道は円を描いており、そうなると前方後円墳のように見え、現在の道路は周溝の名残に見えますが、昔の説明板には周溝の跡はみつかっていないと書いてありました。
※なお、以前設置してあった説明板はこれです。
先ほど見た瀬戸岡古墳群もそうだし、この大塚古墳もそうですが、あきる野市の古代史も面白いですねえ。
大塚古墳に関しては、あきる野市の正式な発表が待ち遠しいです。
ではつづいて、雨武主神社の鳥居場へ行って見ましょう。
南へ向かって歩いていくと、秋川の段丘縁まで来ました。
おー、いい眺めだー。
前方に少し目立った濃い色の森がありますが、あそこに雨武主神社が鎮座しています。
鳥居が見えました。
こちらですね。
先ほども言いましたが、雨武主神社という名前が非常に気になります。
この辺は雨間(あめま)という地名なのですが、秋川を挟んで両岸に雨間地名は残っています。
そのため、対岸は八王子市と思いきや、対岸の雨間地区はあきる野市なのです。
昭和46年(1971)4月1日に、八王子市高月町切欠を当時の西多摩郡秋多町へ編入し、秋多町雨間の一部を八王子市に編入したという事実もあり複雑です。
しかし、「あめま」だったり「あきる」だったり、はたまた「せどーか」だったり、なんか現代の日本語とは違う感じがしますね。
私は雨武主神社の「あめむしゅ」は「あめむ」の「しゅ(主)」という意味で、「あめむ」と「あめま」は語源が一緒ではないかと考えます。
この地は昔から「あめま」または「あめむ」と呼ばれており、この地の王を祀ったのが雨武主神社ではないかと思うのです。
さきほど大塚古墳の墳頂で氏子の方から聞いた話のなかで、天の神と地の神というのがありましたが、実は一瞬、私は違和感を覚えたのです。
というのも、天と地で言うのであれば、古墳の墳頂の神様が天の神(つまりヤマト王権が来てから祀られた神)で、山に祀られている雨武の神が地の神(元々の在地の神)ではないかと直感したからです。
ただこれは私の直感であり、地元の方の話の方が信用度が高いかもしれませんね。
さて、この場所には一見、立派な神社があるように見えます。
でも本殿は無いのです。
つまりは、遙拝所のような形なわけですね。
前方に雨武主神社の森が見えます。
この石碑の文字は解読できませんでした。
あちらに「雨武の神」がいらっしゃるわけです。
よくある話で、家から近いため「いつでも行ける」と思っていてなかなか行けていない場所です。
七曲りも見えますね。
展望台のようなものが見えますが、給水塔だそうです。
上流の眺望。
いやー、あきる野の古代史も面白いですね。
ここは川岸のせいかとても風が強いですが、まだ天候は持ちそうです。
引き続き歩いてみましょう。
(つづく)
実は当日もう一点おかしいなと思ったことがありました。
鳥居場が向いている方向が正確に雨武主神社を向いておらず、やや東に振れているからです。
帰宅してから地図を確認すると、鳥居場はむしろ、神奈川県大磯町の高来神社の本殿へ向かっていました。
もしかすると、鳥居場から雨武主神社を遙拝するというのはカモフラージュで、本当は大磯に祀られている渡来系の神を遙拝しているのではないでしょうか。
これはあくまでも推測です。
瀬戸岡古墳群を見た後は、秋留台地を南下します。
旧秋川市の中心部を歩きますが、この辺も掃除の仕事で散々来ています。
一時は、毎週この近くの現場に来ていたので、昼飯を食べた後はあきる野市の図書館に行って資料の収集をしていましたよ。
都道7号線を越えて路地に入ると、前方に墳丘が見えてきました。
大塚古墳です。
頂部を見ると多くの人びとが集まっており、何かの「祭祀」が行われているようです。
上にはお稲荷さんが祀られているのでその関係でしょうか。
おっ!
説明板がない!
悪意のある人に破壊されたのでしょうか?
墳頂にいる方々の用事が終わって降りてくるまでの間、麓をまわって散策します。
大塚古墳は円墳説のほか方墳説もありますが、現状みると方墳のように見えます。
ただそれは後世の改変かもしれませんね。
これだけの大型円墳もしくは大型方墳だとすると、古墳時代後期(6世紀)の築造と考えたくもなりますが、地元ではもともと「亀の形」をしていたと語り継がれています。
そういう伝承があったり「亀塚」のような名称があったりするとなると、通常は前方後円墳が考えられますが、前方後方墳説も捨てがたいです。
前方後円墳だとすると、多摩川流域最上流部の前方後円墳となり、現状の墳丘規模が33メートルですので、70mくらいの大型前方後円墳だった可能性もあります。
そうなると4世紀の古墳かも知れず、帆立貝式だったら5世紀となるかもしれません。
また、古墳時代前期にこの地にやってきた東海勢力が築いた前方後方墳と考えるのも面白いですね。
ただし、古墳ではなくて古代の烽火台とか江戸期の富士塚とか様々な説も出ておりとても興味深いです。
前方後円墳もしくは前方後方墳だったとすると、前方部は東側のこの辺りかな。
墳頂にいた方々が下に降りたので、入れ替わりで私たちが登ります。
上にはお一人残っていたので話しかけてみると、今日はこの神社の氏子が集まっての例祭日だったそうです。
お話によると、氏子さんたちはこの古墳のすぐ近くではなく、少し離れた睦橋通りの方にいて、昔はこの辺一帯は一面の野原だったそうです。
そういわれると周辺の住宅は新しいお家が多いですね。
そして、下の説明板ですが、あれは破壊されたわけではなく、書かれていた内容が古くなってしまったので市が新たな研究成果をもとに説明板を設置しようとしているのですが、それが進んでいないということです。
さらに面白い話として、大塚古墳の南には秋川が流れていて、その秋川の対岸の山には雨武主(あめむしゅ)神社が祀られています。
雨武主神社はその名前がとても気になっており、以前から行きたいと思っていたため今日は対岸からそれを拝む鳥居場へ行って見ようと思っているのですが、地元では雨武主神社は「天の神」で、ここ大塚古墳の神様は「地の神」といわれているそうです。
いやー、面白いですねえ。
私はヤマト王権が各地へ進出する前に祀られていた在地の神様について非常に興味があるのですが、それを考える一つの素材をいただくことができました。
他のメンバーもそれぞれ地元の方々と話をして収穫があったようです。
安斉さんは、亀の形だったという話が聞けたようです。
前方部があったと思われる東の方向を墳頂から見下ろします。
ただ、オーメンさんが聞いた話では、その後調べてみても前方部の形跡は見つかっていないということで、謎が深まりますね。
※帰宅後、航空写真を見てみたところ、前方部があったとしたら西側ではないかと思ったりもしましたが、東側は少し墳丘が伸びており(真ん丸になっていない)それが前方部の名残のようにも見え悩ましいです。
※現状でも古墳の周りの道は円を描いており、そうなると前方後円墳のように見え、現在の道路は周溝の名残に見えますが、昔の説明板には周溝の跡はみつかっていないと書いてありました。
※なお、以前設置してあった説明板はこれです。
先ほど見た瀬戸岡古墳群もそうだし、この大塚古墳もそうですが、あきる野市の古代史も面白いですねえ。
大塚古墳に関しては、あきる野市の正式な発表が待ち遠しいです。
ではつづいて、雨武主神社の鳥居場へ行って見ましょう。
南へ向かって歩いていくと、秋川の段丘縁まで来ました。
おー、いい眺めだー。
前方に少し目立った濃い色の森がありますが、あそこに雨武主神社が鎮座しています。
鳥居が見えました。
こちらですね。
先ほども言いましたが、雨武主神社という名前が非常に気になります。
この辺は雨間(あめま)という地名なのですが、秋川を挟んで両岸に雨間地名は残っています。
そのため、対岸は八王子市と思いきや、対岸の雨間地区はあきる野市なのです。
昭和46年(1971)4月1日に、八王子市高月町切欠を当時の西多摩郡秋多町へ編入し、秋多町雨間の一部を八王子市に編入したという事実もあり複雑です。
しかし、「あめま」だったり「あきる」だったり、はたまた「せどーか」だったり、なんか現代の日本語とは違う感じがしますね。
私は雨武主神社の「あめむしゅ」は「あめむ」の「しゅ(主)」という意味で、「あめむ」と「あめま」は語源が一緒ではないかと考えます。
この地は昔から「あめま」または「あめむ」と呼ばれており、この地の王を祀ったのが雨武主神社ではないかと思うのです。
さきほど大塚古墳の墳頂で氏子の方から聞いた話のなかで、天の神と地の神というのがありましたが、実は一瞬、私は違和感を覚えたのです。
というのも、天と地で言うのであれば、古墳の墳頂の神様が天の神(つまりヤマト王権が来てから祀られた神)で、山に祀られている雨武の神が地の神(元々の在地の神)ではないかと直感したからです。
ただこれは私の直感であり、地元の方の話の方が信用度が高いかもしれませんね。
さて、この場所には一見、立派な神社があるように見えます。
でも本殿は無いのです。
つまりは、遙拝所のような形なわけですね。
前方に雨武主神社の森が見えます。
この石碑の文字は解読できませんでした。
あちらに「雨武の神」がいらっしゃるわけです。
よくある話で、家から近いため「いつでも行ける」と思っていてなかなか行けていない場所です。
七曲りも見えますね。
展望台のようなものが見えますが、給水塔だそうです。
上流の眺望。
いやー、あきる野の古代史も面白いですね。
ここは川岸のせいかとても風が強いですが、まだ天候は持ちそうです。
引き続き歩いてみましょう。
(つづく)
* * *
実は当日もう一点おかしいなと思ったことがありました。
鳥居場が向いている方向が正確に雨武主神社を向いておらず、やや東に振れているからです。
帰宅してから地図を確認すると、鳥居場はむしろ、神奈川県大磯町の高来神社の本殿へ向かっていました。
もしかすると、鳥居場から雨武主神社を遙拝するというのはカモフラージュで、本当は大磯に祀られている渡来系の神を遙拝しているのではないでしょうか。
これはあくまでも推測です。
で高来神社って?思って調べたら高麗神社なのですね!ありがたいです。私は旧石器からの民と接点を持っていると思ってますので渡来ではないと思ってますよ。なんせ結論そう簡単にでない問題ですし、またその方々に違うって言われないと納得出来ない問題ですもんね。で真実とは色んな意見が出た方がそもそも正しい方向に進むんですよね。忖度とか人の顔色見ていたら日本では流される。外国なら自分で思った事いっていけないって親が子供に言っても他の親が怒ってくれますよ。
あきる野ってうちはサマーランドの株の優待でよく言ってたんですよ、山田うどんもその関係で知りました。案山子さんの神はなんで知ってるみたいですよ。父に関係するスクナヒコナを知っていた唯一の神です。って事はひょっとしたら旧石器からだから?なんて思ってます。サマーランドの対岸には地図上では旧石器みたいな名前の遺跡の文字もありました。縁があるかもなので調べてみます。アキルって音自体がもう蝦夷っぽいですよね。関東も追いやられてるのかな?とも。
地図拝見しましたよ、大塚遺跡。雨の神社も全く知らなかったんですけど武内宿禰の武付きますね。ちょい苦手です。お水関係の昔から関わる一族とはちょい違うんです。それが少し出てきた感じなので今後鳥居の方向も含めて何か見えてくるかもしれませんね。
そうそれなら私も大磯の方が接点あると思います。
でこの前古墳行ってきたら帆立かも?なんてあり造り出しもある円墳でした。でその関係も検索していたら稲用さんの工事中の記事に辿り着きましたよ。
もちろん東京なんですけど、本当凄い物実はあるんではないかな?と。
それから中将姫も関東に住んでないかな?って今思ってます。石垣島にもすごい遺跡ありますし、関東では私の知りたい500年代よりも古いの結構ありますよね。
過去の情報がいっぱい知りたいです。地元の方の情報が一番ですね。けど日本って小っちゃい割に凄いのにそれが注目されてないって本当もったいないですよね。
住むのもその場所をうまく居心地よくする事に注目していけるといいですよね。
亀の形、今ではなかなかわかりづらいですが、40年ぐらいまえは、かなりはっきりと頭?四つ足?らしいのがありました。
貴重なコメントありがとうございます。
亀の形だったという証言は、何気ない事のようですが非常に重要なのです。
古墳時代前期(3~4世紀)の前方後円墳や前方後方墳は前方部が著しく低いため、「亀塚」というような名前が付くことが多いのです。
もし雨間大塚が前期の前方後円墳あるいは前方後方墳だった場合、多摩川流域の古代史を塗り替えるくらいの面白い展開になりますよ。
おそらく、あきる野市の担当の方々もそのへんを慎重に見極めて新しい説明板を作る予定ではないのでしょうか。