⇒前回の記事はこちら
戸隠神社の富士塚で滑って転んで怪我した右手の手のひらが痛いです。
雷電號を操縦するのに不便だ。
今日は運悪く、絆創膏がカバンに入っていないので、コンビニに寄って絆創膏を買うことにします。
そういえば、娘がまだバブーだったころ、何かちょっと痛いとすぐに絆創膏を貼り、そうすると気分が落ち着くようでしたが、絆創膏ってそういった呪術的な効果もありますよね。
私も呪術に頼ろう。
しかし、怪我した位置が良くなくて、うまく絆創膏が貼れない・・・
すぐに剥がれそうで気持ち悪いですが、稲荷台1号墳へは歩いて向かうことにします。
住宅街を歩いていくと、おっと、目の前に小さな墳丘が!
小さい円墳だなあ。
説明板があります。
なるほど、本来のサイズの3分の1で復元したのですね。
実物大が良かったと思う人も多いと思いますが、まったく消滅させるのではなく、こういった「記念広場」のような形でもきちんと分かるようにして残したのはありがたいことだと思います。
できる範囲でベストを尽くしたわけです。
鉄剣銘というと、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣が有名で、あちらは115文字なのでそれに比べたら文字情報の量はかなり少ないのですが、こちらは鉄剣のネーミングの元となっている「王賜」という文字があることがとくに重要です。
古墳が造られた時期は5世紀半ばですから、埼玉古墳群の稲荷山古墳よりも少し前になり、その時期に我が国に「王」が存在したことが東国の古墳で確認できた意義は大きいです。
もちろん、文献史学的には中国の漢書や魏志倭人伝にて「王」の存在は証明できているのですが、ヤマト王権の王と関東の豪族に何らかの関係性があったことが面白いのです。
何らかの関係性とは何か。
少ない文字数でもいろいろな解釈ができると思います。
そこが古代史の醍醐味ですね。
鉄剣には銀象嵌で、表面に「王賜□□敬□(最後の文字は安?)」、裏面に「此廷□□□□」と、合計12文字が記されていました。
稲荷台1号墳のスペックとしては、径28mの円墳で、古墳群としては12基の古墳があったことが分かっています。
ただし、稲荷台古墳群には大型の前方後円墳がないため、普通に考えたら稲荷台古墳群の被葬者たちは直接的にヤマト王権と結びついたようには思えないのですが、もしかすると従来の墳丘の大きさを基準に力関係を見る見方はちょっと視点を変えてみる必要があるかもしれません。
もし、稲荷台1号墳の被葬者がこの剣をヤマトの王から下賜されたのだとすると、この被葬者の勢力自体は小さく、近辺の大勢力(姉崎古墳群か)がまとめるメンバーの一人としてヤマトへ上番したものの、卓越した働きがあったためとくに恩賞としてもらった可能性もあるでしょう。
ただし、「王」をヤマトの王ではなく、地域の王と考える研究者もいます。
さて、これで市原市内で見る予定だった箇所にはすべて寄ることができたので、あとは国分尼寺跡展示館と尼寺の遺跡を見て市原市内の史跡めぐりは終わりの予定です。
時間はたっぷりあるので、余裕をもって尼寺の見学に行けますね。
⇒この続きはこちら(国分尼寺跡はとりあえず飛ばして姉崎古墳群へ)
戸隠神社の富士塚で滑って転んで怪我した右手の手のひらが痛いです。
雷電號を操縦するのに不便だ。
今日は運悪く、絆創膏がカバンに入っていないので、コンビニに寄って絆創膏を買うことにします。
そういえば、娘がまだバブーだったころ、何かちょっと痛いとすぐに絆創膏を貼り、そうすると気分が落ち着くようでしたが、絆創膏ってそういった呪術的な効果もありますよね。
私も呪術に頼ろう。
しかし、怪我した位置が良くなくて、うまく絆創膏が貼れない・・・
すぐに剥がれそうで気持ち悪いですが、稲荷台1号墳へは歩いて向かうことにします。
住宅街を歩いていくと、おっと、目の前に小さな墳丘が!
小さい円墳だなあ。
説明板があります。
なるほど、本来のサイズの3分の1で復元したのですね。
実物大が良かったと思う人も多いと思いますが、まったく消滅させるのではなく、こういった「記念広場」のような形でもきちんと分かるようにして残したのはありがたいことだと思います。
できる範囲でベストを尽くしたわけです。
鉄剣銘というと、埼玉古墳群の稲荷山古墳から出た金錯銘鉄剣が有名で、あちらは115文字なのでそれに比べたら文字情報の量はかなり少ないのですが、こちらは鉄剣のネーミングの元となっている「王賜」という文字があることがとくに重要です。
古墳が造られた時期は5世紀半ばですから、埼玉古墳群の稲荷山古墳よりも少し前になり、その時期に我が国に「王」が存在したことが東国の古墳で確認できた意義は大きいです。
もちろん、文献史学的には中国の漢書や魏志倭人伝にて「王」の存在は証明できているのですが、ヤマト王権の王と関東の豪族に何らかの関係性があったことが面白いのです。
何らかの関係性とは何か。
少ない文字数でもいろいろな解釈ができると思います。
そこが古代史の醍醐味ですね。
鉄剣には銀象嵌で、表面に「王賜□□敬□(最後の文字は安?)」、裏面に「此廷□□□□」と、合計12文字が記されていました。
稲荷台1号墳のスペックとしては、径28mの円墳で、古墳群としては12基の古墳があったことが分かっています。
ただし、稲荷台古墳群には大型の前方後円墳がないため、普通に考えたら稲荷台古墳群の被葬者たちは直接的にヤマト王権と結びついたようには思えないのですが、もしかすると従来の墳丘の大きさを基準に力関係を見る見方はちょっと視点を変えてみる必要があるかもしれません。
もし、稲荷台1号墳の被葬者がこの剣をヤマトの王から下賜されたのだとすると、この被葬者の勢力自体は小さく、近辺の大勢力(姉崎古墳群か)がまとめるメンバーの一人としてヤマトへ上番したものの、卓越した働きがあったためとくに恩賞としてもらった可能性もあるでしょう。
ただし、「王」をヤマトの王ではなく、地域の王と考える研究者もいます。
さて、これで市原市内で見る予定だった箇所にはすべて寄ることができたので、あとは国分尼寺跡展示館と尼寺の遺跡を見て市原市内の史跡めぐりは終わりの予定です。
時間はたっぷりあるので、余裕をもって尼寺の見学に行けますね。
⇒この続きはこちら(国分尼寺跡はとりあえず飛ばして姉崎古墳群へ)