日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

郡本八幡神社(郡本遺跡/市原郡衙推定地)|千葉県市原市 【梅雨の晴れ間に上総古代史探訪 ⑩】

2019-06-19 10:25:48 | 歴史探訪
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 上総国府があったと考えられる場所の近辺をさぐりつつ、続いては市原郡の郡衙推定地である郡本(こおりもと)八幡神社を訪ねます。

 郡山という地名もそうですが、「郡(こおり)」と付いているところは役場関連の施設があった可能性が高いです。

 お、シルヴァーメタリックのカッコいい鳥居だ。





 境内に入ると右手に古墳のようなものがありました。



 何だろうなあ?

 幅と高さの比率は古墳として見ても良いですが、妙に整い過ぎた方墳に見えます。

 拝殿。





 今はまだ7時半ですが、下草の刈り払いに来た方がいらっしゃったので先ほどの古墳のようなものの正体を訊ねてみます。

 おっと残念、古墳ではないんですね。

 あれは出羽三山の供養塚で、市原中学校のグラウンドの土を盛って造った物だそうで、その方の記憶では70年くらい前かなあ、ということでした。

 正確な年代はきちんと調べないとなりませんが、昭和前半でしょうかね。



 先ほどの飯香岡八幡宮でも出羽三山を祀っていましたね。

 神社を出て雷電號へ戻ります。

 道路脇には石仏があります。



 日露戦争の記念碑。



 「明治丗七八年」と刻されていますが、先日、「歴史を歩こう協会」で埼玉県志木市を歩いたときに同様な表記の石碑があり「随分アバウトだなあ」という声が聞かれたのですが、明治37年から38年にかけての戦争だったためこういう表記をするのです。



 さて、ここは市原郡衙の推定地ですが、地表面でそれとわかるものはありません。



 だいたいこの辺りにあったと推定されているわけです。



 1999年までに4次の調査が行われていますが、郡衙跡と決定づけられる遺構や遺物は出ていないようですが、墨書土器などの出土から郡衙跡である可能性は高いです。

 なお、上総国には当初(7世紀末)、市原・海上(うなかみ)・畔蒜・望陀・周淮・埴生・長柄・山辺・武射・天羽・夷灊・平群・安房・朝夷・長狭の15の郡がありました。

 ここから南西方向に4㎞ほど行くと海上郡衙の推定地があります。

 養老2年(718)には、平群・安房・朝夷・長狭の4郡を割いて安房国を分立させましたが、天平13年(742)に一旦安房国は消滅(上総国に併合)され、再び天平宝字元年(757)に安房国が造られました。

 今日はやけに八幡様にお会いしますが、次は違う系統の神様と尋ねてみましょう。

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