⇒前回の記事はこちらです
中田遺跡では良い意味で想像を裏切られ、ルンルン気分で川口川の左岸を上流へ向けて歩きます。
ふと思ったのですが、さきほどの中田遺跡って川口川にモロに接していましたが、川の傍の危ない場所に縄文から平安まで集落が造られ続けたのは何故でしょうかねえ。
そもそも論として、古代の川口川の流路についてきちんと調べた方がいいでしょう。
ともかく、現代の川口川沿いを歩き、前方に中央フリーウェイが見えてきました。
八王子市出身のユーミンはそう歌っておりました。
中央フリーウェイをくぐり、川口川を右岸に渡り、秋川街道へ向かいます。
ここから先は川口川流域というより、北浅川流域と考えた方がいいでしょう。
ところで、次の目的地は鹿島古墳ですが、鹿島古墳は鹿島神社の境内にあったそうです。
あった、という表現からわかる通り、湮滅してしまい今は無いそうです。
無いと分かっているのに見に行く・・・
男には負けると分かっている戦いであっても戦わなければならないときがあるのです。
中田遺跡を出て20分少し歩くと、住宅街の中に鳥居がチラッと見えました。
鹿島神社に到着。
まずは神様にご挨拶ですね。
カッコいい扁額。
と思ったら、「日露戦没紀念」と書いてあり、下に書かれている兵隊さんたちは地元から出征していった方々でしょうか。
本殿は覆屋の中です。
というわけで、無いとは分かっていても面影くらいはないかなあと思い探します。
Webを見てみると、ここに来たマニアの皆さんも同じようなことをしているんですよね。
皆さん、ここかなあ、とか思いながら探っています。
ともかく神社の境内にあったわけですが、『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)によると、規模は不明、主体部は玄室と羨道に分かれる全長5.3m、最大幅1.5mの河原石積みの横穴式石室で、玄室は片袖となっており胴張りが認められます。
『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)に記された石室規模は、玄室が3.3m×1.24mで、羨道部分が1.7m×0.76mとなり、こちらの方が正確でしょうか。
『新市史』では、築造時期は7世紀中頃としています。
本来であれば出土した遺物を元に年代を決めるのですが、鹿島古墳の場合は遺物の出土がまったくないため、船田古墳の石室との類似性からそう判断しています。
ところで、鹿島古墳の石室の天井石はまったく見つかっていなくて、北大谷古墳も同じなのです。
天井石はかなり大きいので、鹿島古墳や北大谷古墳に数枚あった大きな天井石が1つもみつからないというのはいったいどういうことでしょうか?
江戸時代や明治時代に好事家によって持ち去られてしまったのでしょうか。
いや、天井は天井石で塞ぐという常識を疑ってみる必要があるかもしれませんよ。
ではつづいて、この近くにある鹿島北古墳を見に行きましょう。
⇒この続きはこちら
中田遺跡では良い意味で想像を裏切られ、ルンルン気分で川口川の左岸を上流へ向けて歩きます。
ふと思ったのですが、さきほどの中田遺跡って川口川にモロに接していましたが、川の傍の危ない場所に縄文から平安まで集落が造られ続けたのは何故でしょうかねえ。
そもそも論として、古代の川口川の流路についてきちんと調べた方がいいでしょう。
ともかく、現代の川口川沿いを歩き、前方に中央フリーウェイが見えてきました。
八王子市出身のユーミンはそう歌っておりました。
中央フリーウェイをくぐり、川口川を右岸に渡り、秋川街道へ向かいます。
ここから先は川口川流域というより、北浅川流域と考えた方がいいでしょう。
ところで、次の目的地は鹿島古墳ですが、鹿島古墳は鹿島神社の境内にあったそうです。
あった、という表現からわかる通り、湮滅してしまい今は無いそうです。
無いと分かっているのに見に行く・・・
男には負けると分かっている戦いであっても戦わなければならないときがあるのです。
中田遺跡を出て20分少し歩くと、住宅街の中に鳥居がチラッと見えました。
鹿島神社に到着。
まずは神様にご挨拶ですね。
カッコいい扁額。
と思ったら、「日露戦没紀念」と書いてあり、下に書かれている兵隊さんたちは地元から出征していった方々でしょうか。
本殿は覆屋の中です。
というわけで、無いとは分かっていても面影くらいはないかなあと思い探します。
Webを見てみると、ここに来たマニアの皆さんも同じようなことをしているんですよね。
皆さん、ここかなあ、とか思いながら探っています。
ともかく神社の境内にあったわけですが、『多摩の古墳』(八王子市郷土資料館/編)によると、規模は不明、主体部は玄室と羨道に分かれる全長5.3m、最大幅1.5mの河原石積みの横穴式石室で、玄室は片袖となっており胴張りが認められます。
『新八王子市史 資料編1 原始・古代』(八王子市市史編集委員会/編)に記された石室規模は、玄室が3.3m×1.24mで、羨道部分が1.7m×0.76mとなり、こちらの方が正確でしょうか。
『新市史』では、築造時期は7世紀中頃としています。
本来であれば出土した遺物を元に年代を決めるのですが、鹿島古墳の場合は遺物の出土がまったくないため、船田古墳の石室との類似性からそう判断しています。
ところで、鹿島古墳の石室の天井石はまったく見つかっていなくて、北大谷古墳も同じなのです。
天井石はかなり大きいので、鹿島古墳や北大谷古墳に数枚あった大きな天井石が1つもみつからないというのはいったいどういうことでしょうか?
江戸時代や明治時代に好事家によって持ち去られてしまったのでしょうか。
いや、天井は天井石で塞ぐという常識を疑ってみる必要があるかもしれませんよ。
ではつづいて、この近くにある鹿島北古墳を見に行きましょう。
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