⇒前回の記事はこちら
念願の篠川御所跡の探訪を果たし、つづいて悲願である稲村御所跡へ向かいます。
念願と悲願の違いって何でしょうか?
あまり気にしていません。
要するに、どちらもずっと前から行きたかった場所なわけです。
稲村御所があった場所へ行くには、赤城寺という真言宗のお寺さんへ向かえば良いようです。
篠川御所跡を出て約20分ほどで赤城寺に到着。
車で普通に走って20分でしたが、直線距離では約8.6㎞です。
実際に両御所の距離を感じてみた結果、遠からず近からずでとても良い塩梅ですね。
地図で示すとこの通りです。
本堂。
何気にアーティスティックな額。
昔の貨幣を並べたのようにも見えます。
現在本堂が建つ場所からもう一段上に登れるようになっています。
石段を登ると、子安観音堂がありました。
え?
観音堂なのに鈴?
神仏混交好きに対して、粋な計らいです。
観音堂の周りには低い土塁が巡っています。
当時の物かどうか・・・
眺望。
稲村御所は、阿武隈川本流の沿岸ではなく、阿武隈川支流の釈迦堂川の左岸に位置し、独立丘の上にあります。
広大な耕地が展開していますね。
広いなあ。
耕地の外側には藪が広がっており、遺構の確認はできません。
篠川御所跡のページにも書きましたが、奥羽が鎌倉府に移管されたあと、鎌倉府は篠川御所と稲村御所を造営して、奥羽支配の拠点としました。
以前は、なんで拠点を2つも造っておきながら両者を近い場所にしたのか不思議でしたが、今では2つで1つの役割を持っていたのではないかと考えるようになりました。
両御所が設置されるより前の南北朝時代の話になりますが、貞和6年(1345)に幕府が奥州の責任者として設置した奥州管領は、畠山国氏と吉良貞家の2トップでした。
奥州管領はその後、4人になってしまうのですが、それは多すぎとしても、どうやら日本は伝統的にトップを2人置くのが好きなようです。
しかもその場合は、トップの2人には明確な役割分担がなされておらず、両者共、相手に対して「雰囲気を察しろよ」という態度で政権を運営します。
欧米では考えられないと思いますが、これが日本らしいところです。
そう考えると、両御所の距離感は、初めに言った通り「遠からず近からず」でちょうどよい感じなのです。
ところで、稲村御所跡へも事前に準備をせずに思い付きで来てしまったわけですが、こちらは「余湖くんのホームページ」から「余湖図」を拝借してきました。
これを見ると、北側にもう一つ郭があるようなので、その郭との連絡箇所へ行ってみましょう。
あー、なるほど、空堀がありますね。
でも凄い藪でさすがに堀底に降りるのは躊躇してしまいます。
そしてここが虎口ですね。
この通り。
虎口の部分を故意的かつ集中的に植物で覆っています。
「入るな!」オーラ全開。
これだけ徹底していると入れませんよ。
では戻りましょう。
東側の眺望。
観音堂のところまで戻って気づいたのですが、耕地にしていない一画があり、最初は地形上の制約があってそうなっているのかと思いましたが、どうもそういうわけではないようです。
なんでこの一角だけ藪のままなんでしょう。
何かがあるのかな?
いらぬ詮索はよして、観音堂の平場から降ります。
石仏が並んでいる。
昔、岩手県北上市の某館跡を訪れたとき、登り口の脇に鎮座していた石仏から異様な怖さを感じたことがあるのですが、こちらからはそういった感じは受けません。
しつこく眺望。
今日は最終的には白河市を見学してから宿を予約している宇都宮に移動しようと思いますが、せっかく須賀川市に来たので、須賀川市内の古墳を一つくらいは見ていきたいです。
古墳を探しつつ、南下しましょう。
⇒この続きはこちら
念願の篠川御所跡の探訪を果たし、つづいて悲願である稲村御所跡へ向かいます。
念願と悲願の違いって何でしょうか?
あまり気にしていません。
要するに、どちらもずっと前から行きたかった場所なわけです。
稲村御所があった場所へ行くには、赤城寺という真言宗のお寺さんへ向かえば良いようです。
篠川御所跡を出て約20分ほどで赤城寺に到着。
車で普通に走って20分でしたが、直線距離では約8.6㎞です。
実際に両御所の距離を感じてみた結果、遠からず近からずでとても良い塩梅ですね。
地図で示すとこの通りです。
本堂。
何気にアーティスティックな額。
昔の貨幣を並べたのようにも見えます。
現在本堂が建つ場所からもう一段上に登れるようになっています。
石段を登ると、子安観音堂がありました。
え?
観音堂なのに鈴?
神仏混交好きに対して、粋な計らいです。
観音堂の周りには低い土塁が巡っています。
当時の物かどうか・・・
眺望。
稲村御所は、阿武隈川本流の沿岸ではなく、阿武隈川支流の釈迦堂川の左岸に位置し、独立丘の上にあります。
広大な耕地が展開していますね。
広いなあ。
耕地の外側には藪が広がっており、遺構の確認はできません。
篠川御所跡のページにも書きましたが、奥羽が鎌倉府に移管されたあと、鎌倉府は篠川御所と稲村御所を造営して、奥羽支配の拠点としました。
以前は、なんで拠点を2つも造っておきながら両者を近い場所にしたのか不思議でしたが、今では2つで1つの役割を持っていたのではないかと考えるようになりました。
両御所が設置されるより前の南北朝時代の話になりますが、貞和6年(1345)に幕府が奥州の責任者として設置した奥州管領は、畠山国氏と吉良貞家の2トップでした。
奥州管領はその後、4人になってしまうのですが、それは多すぎとしても、どうやら日本は伝統的にトップを2人置くのが好きなようです。
しかもその場合は、トップの2人には明確な役割分担がなされておらず、両者共、相手に対して「雰囲気を察しろよ」という態度で政権を運営します。
欧米では考えられないと思いますが、これが日本らしいところです。
そう考えると、両御所の距離感は、初めに言った通り「遠からず近からず」でちょうどよい感じなのです。
ところで、稲村御所跡へも事前に準備をせずに思い付きで来てしまったわけですが、こちらは「余湖くんのホームページ」から「余湖図」を拝借してきました。
これを見ると、北側にもう一つ郭があるようなので、その郭との連絡箇所へ行ってみましょう。
あー、なるほど、空堀がありますね。
でも凄い藪でさすがに堀底に降りるのは躊躇してしまいます。
そしてここが虎口ですね。
この通り。
虎口の部分を故意的かつ集中的に植物で覆っています。
「入るな!」オーラ全開。
これだけ徹底していると入れませんよ。
では戻りましょう。
東側の眺望。
観音堂のところまで戻って気づいたのですが、耕地にしていない一画があり、最初は地形上の制約があってそうなっているのかと思いましたが、どうもそういうわけではないようです。
なんでこの一角だけ藪のままなんでしょう。
何かがあるのかな?
いらぬ詮索はよして、観音堂の平場から降ります。
石仏が並んでいる。
昔、岩手県北上市の某館跡を訪れたとき、登り口の脇に鎮座していた石仏から異様な怖さを感じたことがあるのですが、こちらからはそういった感じは受けません。
しつこく眺望。
今日は最終的には白河市を見学してから宿を予約している宇都宮に移動しようと思いますが、せっかく須賀川市に来たので、須賀川市内の古墳を一つくらいは見ていきたいです。
古墳を探しつつ、南下しましょう。
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