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私が本気で歴史をやり始めたのは今から20年ほど前の20世紀末でしたが、最初は岩手・青森の戦国時代から始めました。
その後、自分が生まれ育った関東地方の戦国時代もきちんと調べ始め、鎌倉公方の関係で福島県南部に展開した篠川御所と稲村御所があった場所にはずっと行きたいと思っていたのですが、体調の悪い時期が長く経済的にも厳しい状況が続いているため、なかなか探訪することができませんでした。
ところが、今回は那須へ行く用事ができたのです。
那須まで行くのであれば、雷電號を巡航させれば郡山は目と鼻の先です。
よし、ついでに両御所を探訪してしまおう!
ということで、郡山駅前を出発し、同市内安積町笹川を目指します。
ただし、この探訪自体が出発の前日に思いついたため、ほとんど準備ができず、とりあえず行ってみようというスタンスです。
篠川御所跡には神社があるということなので、そこを目指していこうと思いますが、急遽用意した地図を見ると神社のすぐ近くまで車では接近できないようです。
とりあえず、この辺に車を置いて歩いて行ってみるとするか。
雷電號は普通のコンパクトカーですが、結構私はオフロードに突撃することがあります。
でもこの水たまりに飛び込むのはイヤだな。
歩いてきて正解だった。
ここから北へ向かっていくと篠川御所跡があるはずです。
小さな川を渡ります。
阿武隈川はすぐそこを流れていますね。
阿武隈川!
あぶくまー!
私はこの「あぶくま」という音が異様に好きで、先ほどは郡山駅前にあった阿武隈建設の看板に反応してしまいましたが、古代史においては阿武隈川は非常に重要な河川です。
7世紀初頭までに国造が置かれたのは阿武隈川下流域の南岸が北限なのです。
つまり、阿武隈川を越えて北へ行くと、国家の支配領域の外になってしまうわけです。
阿武隈川には異域へのロマンが潜んでいるのだ。
お、高台の上に神社の社殿が見える。
確かに一段高くなっていますね。
社殿は土塁の上にあるようです。
あ、新幹線!
土塁の北側の堀状の地形。
もう少し北へ行ってみましょう。
北側には遺構らしきものはありません。
しかし、こんなに川に近いところに御所を造ったというのも随分とチャレンジャーですね。
各地の城跡を見ていると、こういった立地の場合はたいてい城跡が川に削られてしまっています。
ここもそうなんでしょうか?
土塁の西側へ回り南下します。
東館稲荷神社の鳥居前に来ました。
説明を書いてくれたのはありがたいですが、これは最も読みにくいタイプだ!
足利尊氏が開いた室町幕府は京都にありましたが、京都から東国を治めるのが難しいことは東国出身の尊氏自身が誰よりも理解していたようで、幕府は関東地方を管轄する鎌倉府を設置しました。
不思議なのは、関東は鎌倉府に任せても、奥羽は幕府の管轄にしたことですが、やはり奥羽は資源が豊富なので、幕府も欲を捨てきれなかったのかもしれません。
でもこれも困難なことが分かってきて、元中8年(1391)には奥羽を鎌倉府へ移管します。
そして応永6年(1399)になると、鎌倉府の奥州での出先機関として篠川御所と稲村御所が設置されたわけです。
篠川御所には第2代鎌倉公方・氏満の次男・満直が入部し、稲村御所には満直の弟・満貞が入部しました。
応永6年時点では兄弟の兄である満兼が第3代鎌倉公方になっています。
拝殿。
拝殿奥へ向かって土塁が続いています。
いやー、念願の篠川御所跡に来ることができて妙な感動に包まれています。
「篠川御所様ーっ!」
・・・土塁から降ります。
神社の南側の住居横にも土塁状の高まりがあります。
ここのお宅の車が停めてあるということは、県道からこの場所まで入って来れるということなわけですが、この場所へは私有地っぽいので入ってきづらいです。
アブクマ!
あー、アブクマーッ!
それではつづいて、稲村御所跡へ行って見ることにしましょう。
なお、近辺の地形はこのようになっていますよ。
⇒この続きはこちら
私が本気で歴史をやり始めたのは今から20年ほど前の20世紀末でしたが、最初は岩手・青森の戦国時代から始めました。
その後、自分が生まれ育った関東地方の戦国時代もきちんと調べ始め、鎌倉公方の関係で福島県南部に展開した篠川御所と稲村御所があった場所にはずっと行きたいと思っていたのですが、体調の悪い時期が長く経済的にも厳しい状況が続いているため、なかなか探訪することができませんでした。
ところが、今回は那須へ行く用事ができたのです。
那須まで行くのであれば、雷電號を巡航させれば郡山は目と鼻の先です。
よし、ついでに両御所を探訪してしまおう!
ということで、郡山駅前を出発し、同市内安積町笹川を目指します。
ただし、この探訪自体が出発の前日に思いついたため、ほとんど準備ができず、とりあえず行ってみようというスタンスです。
篠川御所跡には神社があるということなので、そこを目指していこうと思いますが、急遽用意した地図を見ると神社のすぐ近くまで車では接近できないようです。
とりあえず、この辺に車を置いて歩いて行ってみるとするか。
雷電號は普通のコンパクトカーですが、結構私はオフロードに突撃することがあります。
でもこの水たまりに飛び込むのはイヤだな。
歩いてきて正解だった。
ここから北へ向かっていくと篠川御所跡があるはずです。
小さな川を渡ります。
阿武隈川はすぐそこを流れていますね。
阿武隈川!
あぶくまー!
私はこの「あぶくま」という音が異様に好きで、先ほどは郡山駅前にあった阿武隈建設の看板に反応してしまいましたが、古代史においては阿武隈川は非常に重要な河川です。
7世紀初頭までに国造が置かれたのは阿武隈川下流域の南岸が北限なのです。
つまり、阿武隈川を越えて北へ行くと、国家の支配領域の外になってしまうわけです。
阿武隈川には異域へのロマンが潜んでいるのだ。
お、高台の上に神社の社殿が見える。
確かに一段高くなっていますね。
社殿は土塁の上にあるようです。
あ、新幹線!
土塁の北側の堀状の地形。
もう少し北へ行ってみましょう。
北側には遺構らしきものはありません。
しかし、こんなに川に近いところに御所を造ったというのも随分とチャレンジャーですね。
各地の城跡を見ていると、こういった立地の場合はたいてい城跡が川に削られてしまっています。
ここもそうなんでしょうか?
土塁の西側へ回り南下します。
東館稲荷神社の鳥居前に来ました。
説明を書いてくれたのはありがたいですが、これは最も読みにくいタイプだ!
足利尊氏が開いた室町幕府は京都にありましたが、京都から東国を治めるのが難しいことは東国出身の尊氏自身が誰よりも理解していたようで、幕府は関東地方を管轄する鎌倉府を設置しました。
不思議なのは、関東は鎌倉府に任せても、奥羽は幕府の管轄にしたことですが、やはり奥羽は資源が豊富なので、幕府も欲を捨てきれなかったのかもしれません。
でもこれも困難なことが分かってきて、元中8年(1391)には奥羽を鎌倉府へ移管します。
そして応永6年(1399)になると、鎌倉府の奥州での出先機関として篠川御所と稲村御所が設置されたわけです。
篠川御所には第2代鎌倉公方・氏満の次男・満直が入部し、稲村御所には満直の弟・満貞が入部しました。
応永6年時点では兄弟の兄である満兼が第3代鎌倉公方になっています。
拝殿。
拝殿奥へ向かって土塁が続いています。
いやー、念願の篠川御所跡に来ることができて妙な感動に包まれています。
「篠川御所様ーっ!」
・・・土塁から降ります。
神社の南側の住居横にも土塁状の高まりがあります。
ここのお宅の車が停めてあるということは、県道からこの場所まで入って来れるということなわけですが、この場所へは私有地っぽいので入ってきづらいです。
アブクマ!
あー、アブクマーッ!
それではつづいて、稲村御所跡へ行って見ることにしましょう。
なお、近辺の地形はこのようになっていますよ。
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