⇒前回の記事はこちら
雷電號での最後の歴史めぐり。
下総方面で以前から行ってみたいと思っている古墳がもう2か所あります。
そのうちの1つが佐倉市にある飯郷作(いごうさく)遺跡です。
成田から佐倉へ移動しましょう。
成田や佐倉の周辺は、22歳から丸2年間やったコンビニの棚卸のアルバイトでしょっちゅう来ていた地域です。
ですから、京成の駅名などを見るととても懐かしい。
自分の運転でこの辺を走るのは初めてですが、多分昔仕事で行ったコンビニの前なんかも通過しているんじゃないかと思います。
でも、あれから四半世紀経っていますから、当時とは街の様子も随分と変わったことでしょう。
当時、新進気鋭だった「星より明るいスリーエフ」もいまではほとんどがローソンになってしまいましたしね。
時間があれば歴史民俗博物館にも寄りたいですが、今日は時間もないし、入館料を払うだけの資金もありません。
さて、飯郷作遺跡は佐倉西高校の敷地内にあります。
ですので、目指すは佐倉西高校。
今日は休日ですが、近接すると正門が開いていました。
そのため、中に入れさせていただき、許可をいただくために職員の方を探します。
正門に入ってすぐの校内案内図にも遺跡が書かれている!
受付の方へ行ってみますが、扉は鍵が掛かっています。
中をのぞいても人の姿は見えず、明かりもついていません。
わざと変な動きをして遠目にも発見しやすいようにしてみますが、誰にも見つけてもらえません。
寂しいなあ・・・
しかたがないので、このまま遺跡を見学させていただきます。
誰かに発見されたら改めて許可をいただくことにしよう。
お、出てきた。
前方後方形をしていますね。
他にもポコポコといくつか墳丘がありますよ。
全体図はさきほどの図の通りです。
奥の一番目立つのが前方後方墳で、手前のは方墳でしょう。
少しアングルを変えます。
『千葉県文化財センター 研究紀要21 房総地方における前期古墳の展開』によると、奥のが前方後方墳である2号墳、その手前の比較的墳丘の高さがある2基の墳丘は方墳で、左側が3号墳で右側が4号墳、さらにその手前には低い墳丘を持つ方形周溝墓が5基見られるようになっています。
いやー、いいねえ。
しかし未だ、誰にも声を掛けてもらえません。
あまりにも異様なオーラを発しているため、声をかけることができないのでしょうか。
このまま許可をいただかないままに見学するのは心苦しいですし、『房総の古墳を歩く[改訂版]』によると、学校側の都合が良ければ、校舎の上の階の廊下から遺跡群を見させていただけるようなのです。
残念だ。
飯郷作遺跡はやはり高台の上にあります。
東側の眺望。
説明板もありますよ。
普通に歩いてきた場合は最初にこの説明板の前に来るようになっているようですが、私は裏から来ちゃったんですね。
なお、説明板には先ほど見た方形周溝墓5基を方墳と書いてありますが、方形周溝墓でしょう。
先ほど見た2号墳の墳丘長は約30mで古墳群最大です。
ただし、主体部は不明です。
もう少し小さな墳丘長25mの1号墳(前方後方墳)は、今は破壊されてありませんが、主体部は木棺直葬であったことが分かっています。
これらの築造時期は、説明板には3世紀後葉とありますが、比田井克仁氏はニュアンス的にもう少し古く、3世紀の第3四半期としています(『関東における古墳出現期の変革』)。
つまり、邪馬台国の卑弥呼が亡くなった直後ですね。
このように飯郷作遺跡の古墳群は東国の古墳時代の幕開けを探る上で大変重要な遺跡で、千葉県内で見ると、市原市の神門古墳群も同様に重要な遺跡となります。
なお、神門古墳群の5号墳は、形状は前方後方形ではなく、当時の東国としては少数派にあたる前方後円形ですが、築造時期は飯郷作より古く、比田井氏は3世紀の第2四半期としています。
・・・結局、見学を終えてしまった。
今後飯郷作遺跡を訪れる方は、私の場合はこんな感じで不法侵入者のような振る舞いになってしまいましたが、原則としては職員の方にきちんと断ってから見学するようにしてくださいね。
さて、佐倉市内にももっと遺跡はありますが、つづいて柏市へ向かいますよ。
⇒この続きはこちら
雷電號での最後の歴史めぐり。
下総方面で以前から行ってみたいと思っている古墳がもう2か所あります。
そのうちの1つが佐倉市にある飯郷作(いごうさく)遺跡です。
成田から佐倉へ移動しましょう。
成田や佐倉の周辺は、22歳から丸2年間やったコンビニの棚卸のアルバイトでしょっちゅう来ていた地域です。
ですから、京成の駅名などを見るととても懐かしい。
自分の運転でこの辺を走るのは初めてですが、多分昔仕事で行ったコンビニの前なんかも通過しているんじゃないかと思います。
でも、あれから四半世紀経っていますから、当時とは街の様子も随分と変わったことでしょう。
当時、新進気鋭だった「星より明るいスリーエフ」もいまではほとんどがローソンになってしまいましたしね。
時間があれば歴史民俗博物館にも寄りたいですが、今日は時間もないし、入館料を払うだけの資金もありません。
さて、飯郷作遺跡は佐倉西高校の敷地内にあります。
ですので、目指すは佐倉西高校。
今日は休日ですが、近接すると正門が開いていました。
そのため、中に入れさせていただき、許可をいただくために職員の方を探します。
正門に入ってすぐの校内案内図にも遺跡が書かれている!
受付の方へ行ってみますが、扉は鍵が掛かっています。
中をのぞいても人の姿は見えず、明かりもついていません。
わざと変な動きをして遠目にも発見しやすいようにしてみますが、誰にも見つけてもらえません。
寂しいなあ・・・
しかたがないので、このまま遺跡を見学させていただきます。
誰かに発見されたら改めて許可をいただくことにしよう。
お、出てきた。
前方後方形をしていますね。
他にもポコポコといくつか墳丘がありますよ。
全体図はさきほどの図の通りです。
奥の一番目立つのが前方後方墳で、手前のは方墳でしょう。
少しアングルを変えます。
『千葉県文化財センター 研究紀要21 房総地方における前期古墳の展開』によると、奥のが前方後方墳である2号墳、その手前の比較的墳丘の高さがある2基の墳丘は方墳で、左側が3号墳で右側が4号墳、さらにその手前には低い墳丘を持つ方形周溝墓が5基見られるようになっています。
いやー、いいねえ。
しかし未だ、誰にも声を掛けてもらえません。
あまりにも異様なオーラを発しているため、声をかけることができないのでしょうか。
このまま許可をいただかないままに見学するのは心苦しいですし、『房総の古墳を歩く[改訂版]』によると、学校側の都合が良ければ、校舎の上の階の廊下から遺跡群を見させていただけるようなのです。
残念だ。
飯郷作遺跡はやはり高台の上にあります。
東側の眺望。
説明板もありますよ。
普通に歩いてきた場合は最初にこの説明板の前に来るようになっているようですが、私は裏から来ちゃったんですね。
なお、説明板には先ほど見た方形周溝墓5基を方墳と書いてありますが、方形周溝墓でしょう。
先ほど見た2号墳の墳丘長は約30mで古墳群最大です。
ただし、主体部は不明です。
もう少し小さな墳丘長25mの1号墳(前方後方墳)は、今は破壊されてありませんが、主体部は木棺直葬であったことが分かっています。
これらの築造時期は、説明板には3世紀後葉とありますが、比田井克仁氏はニュアンス的にもう少し古く、3世紀の第3四半期としています(『関東における古墳出現期の変革』)。
つまり、邪馬台国の卑弥呼が亡くなった直後ですね。
このように飯郷作遺跡の古墳群は東国の古墳時代の幕開けを探る上で大変重要な遺跡で、千葉県内で見ると、市原市の神門古墳群も同様に重要な遺跡となります。
なお、神門古墳群の5号墳は、形状は前方後方形ではなく、当時の東国としては少数派にあたる前方後円形ですが、築造時期は飯郷作より古く、比田井氏は3世紀の第2四半期としています。
・・・結局、見学を終えてしまった。
今後飯郷作遺跡を訪れる方は、私の場合はこんな感じで不法侵入者のような振る舞いになってしまいましたが、原則としては職員の方にきちんと断ってから見学するようにしてくださいね。
さて、佐倉市内にももっと遺跡はありますが、つづいて柏市へ向かいますよ。
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