⇒前回の記事はこちら
では今度こそ玉作遺跡へ向かいます。
でもやっぱり到達できない・・・
仕方がない。
路駐して歩いて行くことにします。
この崖の上にあると思うのですが・・・
あったー。
ようやくたどり着きました。
説明板があるので読んでみましょう。
もうこれを読んだだけで古代史好きの人であればイッてしまうと思います。
4世紀後半から5世紀前半というと、古墳時代前期の終わりから中期の前半になり、公津原古墳群の造営が行われていた時期ですから、時期的に重なる古墳と玉作遺跡が隣接して見つかったというのは、これはもう古代史好きには堪らないわけです。
ちなみに、玉類としてはこういうものがありますよ。
これはクラツーでもよくご案内している奈良県桜井市の桜井市立埋蔵文化財センターで撮ったものです。
そして下の写真は、福岡県福津市のカメリアステージ(歴史資料館)で撮ったものです。
この場所にこういったものを作っていた工房があったと理解すればよいかなと思います。
もちろん、石材によっても色味が変わってきますが、イメージとしてはこれでいいかなと思います。
管玉は最終形は写真のように円筒状になってそれを繋いでネックレスにしたりするわけですが、管状に成形したり穴を開けたりする作業はとてつもなく根気がいる作業じゃないかと思います。
古代人、凄すぎる。
眺望。
初めてこの辺に来たときに「玉造」という地名を見たのでずっと気になっていたのですが、今日はこうして遺跡に来ることができてとても嬉しいです。
このように何もなくてもいいのだ!
いや、私には作品作りに打ち込む職人さんたちの姿が見える!
見えるったら見える!
でも、この標柱の文字は見えない!
そもそも、標柱なのかは分かりませんが。
では、車に戻りましょう。
あ、飛行機!
呪力ズーム!
成田空港が近いため飛行機が結構飛んでいます。
※この飛行機は後日友人から「エアバスA380」であるとのご教示をいただきました。旅客機では世界最大の飛行機ですね。
本当はもっと公津原古墳群の探訪をしてもいいですが、そろそろお昼になってしまうため、次なる目的地である佐倉市へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
では今度こそ玉作遺跡へ向かいます。
でもやっぱり到達できない・・・
仕方がない。
路駐して歩いて行くことにします。
この崖の上にあると思うのですが・・・
あったー。
ようやくたどり着きました。
説明板があるので読んでみましょう。
もうこれを読んだだけで古代史好きの人であればイッてしまうと思います。
4世紀後半から5世紀前半というと、古墳時代前期の終わりから中期の前半になり、公津原古墳群の造営が行われていた時期ですから、時期的に重なる古墳と玉作遺跡が隣接して見つかったというのは、これはもう古代史好きには堪らないわけです。
ちなみに、玉類としてはこういうものがありますよ。
これはクラツーでもよくご案内している奈良県桜井市の桜井市立埋蔵文化財センターで撮ったものです。
そして下の写真は、福岡県福津市のカメリアステージ(歴史資料館)で撮ったものです。
この場所にこういったものを作っていた工房があったと理解すればよいかなと思います。
もちろん、石材によっても色味が変わってきますが、イメージとしてはこれでいいかなと思います。
管玉は最終形は写真のように円筒状になってそれを繋いでネックレスにしたりするわけですが、管状に成形したり穴を開けたりする作業はとてつもなく根気がいる作業じゃないかと思います。
古代人、凄すぎる。
眺望。
初めてこの辺に来たときに「玉造」という地名を見たのでずっと気になっていたのですが、今日はこうして遺跡に来ることができてとても嬉しいです。
このように何もなくてもいいのだ!
いや、私には作品作りに打ち込む職人さんたちの姿が見える!
見えるったら見える!
でも、この標柱の文字は見えない!
そもそも、標柱なのかは分かりませんが。
では、車に戻りましょう。
あ、飛行機!
呪力ズーム!
成田空港が近いため飛行機が結構飛んでいます。
※この飛行機は後日友人から「エアバスA380」であるとのご教示をいただきました。旅客機では世界最大の飛行機ですね。
本当はもっと公津原古墳群の探訪をしてもいいですが、そろそろお昼になってしまうため、次なる目的地である佐倉市へ向かいましょう。
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