⇒前回の記事はこちら
まるで顔が濡れたアンパンマンのように衰弱してしまっても、美味いラーメンを食べれば元気100倍に戻るのは私だけではないと思います。
それでは、午後の探訪も楽しみましょう。
ここで本日の探訪ルートをもう一度確認しておきます。
ここに書いていないスポットも訪れつつ歩いてきましたが、午後の最初は相模国分寺跡からです。
おや、出来立ての看板がありますぞ。
こちらにも出来立ての説明板が。
日付を見ると2019年2月って書いてる!
本当に最近設置したものなんですね。
僧房というのは国分寺に持する僧侶たちの宿舎で、僧侶は国家によって選ばれた人々で僧寺には20名、尼寺には10名の定員が定められていました。
説明板に書いてある通り、一人の僧侶に与えられた区画の面積は、9m✕6.57mですので、59.13㎡となります。
もちろん、柱や壁があるのでこれよりも若干狭くなりますが、結構広いですね。
ここに長屋の要領で僧房が建っていたわけです。
というか、お坊さん一人の住まいが現在の3DKの間取りの高尾幕府とほとんど同じくらいの床面積じゃん!
もしかして我が家って狭いのかなあ?
大丈夫、こういうときは菅公さんのように梅を愛でましょう。
この説明板も同様に新しい。
相模国分寺の伽藍配置は上の図の通りで、七重塔と金堂が並ぶ法起寺式と呼ばれる形態ですが、面白いのは周りの回廊部分の東側が回廊になっておらず築地塀になっていたことです。
予算がなかったのでしょうか。
そして図中に「逆川」と書かれているのが人工河川です。
海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の前まで来たので、国分寺跡を見学する前にこちらを見学しましょう。
温故館に来ると、いつもボランティアの方から楽しい解説を聞くことができます。
その日によって詰めている方は違うのですが、今日の方も熱心に解説してくださいます。
私たちメンバーも好奇心が旺盛なので、どんどん質問しますし、解説する方は質問されると嬉しいんですよね。
本郷遺跡の方形周溝墓で見つかった土器棺(弥生後期)。
こちらは杉久保遺跡で見つかった勝坂式土器(縄文中期)。
何だかんだで気づくと40分くらいガイドの方を捕まえていました。
その方に国分寺跡のガイドをお願いすると、東国最古級の運河(人工水路)の跡を案内してくださるとのことです。
というわけで、お外に出ます。
現在の相模国分寺跡で基壇の上に礎石が乗った状態で整備されているのは、塔跡と金堂跡です。
塔跡の礎石でどれが本物でどれが後世の物か教えていただき、つづいて金堂跡を見て、運河跡へ向かいました。
ここの北方建物跡の説明も新しい。
植木で柱跡を示しています。
水路跡は先ほど見た新しい説明板にも地図上に示されていましたが、国分寺跡の北東部に行くと当時の水路跡が道路になって残っているそうです。
この正面方向へ向かって水路があったんですね。
水路跡の道へ少し入り、振り返ります。
ガイドの方について皆さん、水路跡を歩いていきます。
ガイドの方は、見学者に「ブラタモリで取り上げてもらえば」と言われることがあるそうで、確かに私たちを含めてこういうのが好きな人は多いでしょうね。
そうえいば、池上さんに聴きましたが、昨晩のブラタモリでは武蔵小杉を取り上げて、以前「東国を歩く会」で武蔵小杉を歩いた時と同じコースを歩き、紹介しているネタも同じようなものだったそうで「そっくり、というかそのままだった」ということでした。
冗談で「番組制作者が俺のブログを見てパクったね」と話しましたが、もちろんそんなことは無く、あの界隈を歩くと誰が歩いても自動的に同じようなルートになって同じような話題になるということですね。
つまりは歴史マニアのツボは共通ということです。
さて、少し歩くと船着き場が見つかった場所に来ました。
見ての通り、現在でも少し高くなっていますよね。
この上では倉も見つかったそうです。
荷揚げしたものを保管しておく倉でしょう。
ここから水路跡を見ると道の両側が高くなっていて、これはまさしく河道の光景ですね。
みんな、大喜び。
ここが逆川跡と呼ばれる所以は、この地域の川は通常は北から南へ流れているのですが、自然河川から水を導入して造ったこの運河は、逆方向へ水が流れており、そのことから逆川と呼ばれるようになりました。
こちらの郷土かるたの文面は最近変えたそうです。
以前は「日本最古の」だったのですが、最近畿内でここよりも古い運河が見つかってしまったので、「相模最古の」に改訂したそうです。
「東国最古」でも良かったと思いますね。
ここに人工河川が開削されたのは大化改新の頃で、それから100年少しあとに国分寺を創建したときは、この運河を物資の運搬に活用したそうです。
大和とか河内・和泉に古い運河があるのは日本書紀の記述を見ても想定できますが、東国の場合は非常に貴重ですね。
遺構は見つかってはいないものの、日本書紀によると5世紀の頃に河内・和泉に人工河川を造ったとあり、そのときは渡来人の技術者が活躍しました。
こちらはどうなんでしょうねえ。
そして、まだ見つかっていない運河もあると思います。
もし、現在は自然の川だと思い込んでいる河川も、もし流れている箇所が高い場所だったり、不自然な景観である場合は、もしかすると古代の運河かもしれませんよ。
いやー、面白かったですねえ。
ガイドの方にお礼を言って、私たちは本日最後の探訪箇所である上浜田古墳群へ向かうことにしました。
帰宅してから「今昔マップ」で昔の地図を見てみました。
明治39年の測図を見ると、私たちが歩いた道が川筋として表記されています。
昭和になってからの地図を見ると、何の変哲もない普通の道として描かれていますが、昭和41年の測図だけはきちんと掘割状になっているのを現しています。
いいねえ。
⇒この続きはこちら
まるで顔が濡れたアンパンマンのように衰弱してしまっても、美味いラーメンを食べれば元気100倍に戻るのは私だけではないと思います。
それでは、午後の探訪も楽しみましょう。
ここで本日の探訪ルートをもう一度確認しておきます。
ここに書いていないスポットも訪れつつ歩いてきましたが、午後の最初は相模国分寺跡からです。
おや、出来立ての看板がありますぞ。
こちらにも出来立ての説明板が。
日付を見ると2019年2月って書いてる!
本当に最近設置したものなんですね。
僧房というのは国分寺に持する僧侶たちの宿舎で、僧侶は国家によって選ばれた人々で僧寺には20名、尼寺には10名の定員が定められていました。
説明板に書いてある通り、一人の僧侶に与えられた区画の面積は、9m✕6.57mですので、59.13㎡となります。
もちろん、柱や壁があるのでこれよりも若干狭くなりますが、結構広いですね。
ここに長屋の要領で僧房が建っていたわけです。
というか、お坊さん一人の住まいが現在の3DKの間取りの高尾幕府とほとんど同じくらいの床面積じゃん!
もしかして我が家って狭いのかなあ?
大丈夫、こういうときは菅公さんのように梅を愛でましょう。
この説明板も同様に新しい。
相模国分寺の伽藍配置は上の図の通りで、七重塔と金堂が並ぶ法起寺式と呼ばれる形態ですが、面白いのは周りの回廊部分の東側が回廊になっておらず築地塀になっていたことです。
予算がなかったのでしょうか。
そして図中に「逆川」と書かれているのが人工河川です。
海老名市立郷土資料館(海老名市温故館)の前まで来たので、国分寺跡を見学する前にこちらを見学しましょう。
温故館に来ると、いつもボランティアの方から楽しい解説を聞くことができます。
その日によって詰めている方は違うのですが、今日の方も熱心に解説してくださいます。
私たちメンバーも好奇心が旺盛なので、どんどん質問しますし、解説する方は質問されると嬉しいんですよね。
本郷遺跡の方形周溝墓で見つかった土器棺(弥生後期)。
こちらは杉久保遺跡で見つかった勝坂式土器(縄文中期)。
何だかんだで気づくと40分くらいガイドの方を捕まえていました。
その方に国分寺跡のガイドをお願いすると、東国最古級の運河(人工水路)の跡を案内してくださるとのことです。
というわけで、お外に出ます。
現在の相模国分寺跡で基壇の上に礎石が乗った状態で整備されているのは、塔跡と金堂跡です。
塔跡の礎石でどれが本物でどれが後世の物か教えていただき、つづいて金堂跡を見て、運河跡へ向かいました。
ここの北方建物跡の説明も新しい。
植木で柱跡を示しています。
水路跡は先ほど見た新しい説明板にも地図上に示されていましたが、国分寺跡の北東部に行くと当時の水路跡が道路になって残っているそうです。
この正面方向へ向かって水路があったんですね。
水路跡の道へ少し入り、振り返ります。
ガイドの方について皆さん、水路跡を歩いていきます。
ガイドの方は、見学者に「ブラタモリで取り上げてもらえば」と言われることがあるそうで、確かに私たちを含めてこういうのが好きな人は多いでしょうね。
そうえいば、池上さんに聴きましたが、昨晩のブラタモリでは武蔵小杉を取り上げて、以前「東国を歩く会」で武蔵小杉を歩いた時と同じコースを歩き、紹介しているネタも同じようなものだったそうで「そっくり、というかそのままだった」ということでした。
冗談で「番組制作者が俺のブログを見てパクったね」と話しましたが、もちろんそんなことは無く、あの界隈を歩くと誰が歩いても自動的に同じようなルートになって同じような話題になるということですね。
つまりは歴史マニアのツボは共通ということです。
さて、少し歩くと船着き場が見つかった場所に来ました。
見ての通り、現在でも少し高くなっていますよね。
この上では倉も見つかったそうです。
荷揚げしたものを保管しておく倉でしょう。
ここから水路跡を見ると道の両側が高くなっていて、これはまさしく河道の光景ですね。
みんな、大喜び。
ここが逆川跡と呼ばれる所以は、この地域の川は通常は北から南へ流れているのですが、自然河川から水を導入して造ったこの運河は、逆方向へ水が流れており、そのことから逆川と呼ばれるようになりました。
こちらの郷土かるたの文面は最近変えたそうです。
以前は「日本最古の」だったのですが、最近畿内でここよりも古い運河が見つかってしまったので、「相模最古の」に改訂したそうです。
「東国最古」でも良かったと思いますね。
ここに人工河川が開削されたのは大化改新の頃で、それから100年少しあとに国分寺を創建したときは、この運河を物資の運搬に活用したそうです。
大和とか河内・和泉に古い運河があるのは日本書紀の記述を見ても想定できますが、東国の場合は非常に貴重ですね。
遺構は見つかってはいないものの、日本書紀によると5世紀の頃に河内・和泉に人工河川を造ったとあり、そのときは渡来人の技術者が活躍しました。
こちらはどうなんでしょうねえ。
そして、まだ見つかっていない運河もあると思います。
もし、現在は自然の川だと思い込んでいる河川も、もし流れている箇所が高い場所だったり、不自然な景観である場合は、もしかすると古代の運河かもしれませんよ。
いやー、面白かったですねえ。
ガイドの方にお礼を言って、私たちは本日最後の探訪箇所である上浜田古墳群へ向かうことにしました。
* * *
帰宅してから「今昔マップ」で昔の地図を見てみました。
明治39年の測図を見ると、私たちが歩いた道が川筋として表記されています。
昭和になってからの地図を見ると、何の変哲もない普通の道として描かれていますが、昭和41年の測図だけはきちんと掘割状になっているのを現しています。
いいねえ。
⇒この続きはこちら